学校教育とSDGs

2020年11月22日

小学生の異変(その4)

これからの学校教育が目指すべきこと

「ダイヤモンド・ランキング・・小学生の異変の原因は?」で回答者の6割以上が、社会や家庭におけるストレスの増大を最大の要因と捉えています。佐藤学氏がポスト・コロナのあるべき社会を、資源と資産を共有し合うsharingの社会、人々が相互に助け合い支え合うcaringの社会と捉えていることを紹介しましたが、そのような社会が実現されれば今よりもはるかにストレスの少ないものとなることは間違いありません。家庭においても、そして子どもたちにとってもストレスは大きく軽減されるでしょう。このような社会の実現を目指すことは、「誰一人取り残さない」ことを宣言したSDGs(持続可能な開発目標)の理念に通じるものです。そしてその実現を可能にするカギとして佐藤学氏は「未来に向かって学び続けるlearningの社会」構想しています。筆者の曲解かもしれませんが、「未来に向かって学び続けるlearningの社会」の実現がsharing社会やcaring社会というSDGsの理念に通じる「共創」の社会を実現するうえで不可欠であり、その実現を確実かつスピードアップさせるものと佐藤学氏は捉えていると理解しています。

国民国家型の教育システムが主軸であった1970年代以前の学校教育1.0の時代には競争と試験を柱とする学校教育が行われましたが、その根底にあったのは国家間の競争でした。しかし、戦後の荒廃から立ち直り、日本が先進国家の仲間入りした1975年ごろ以降は、国家主義に代わって産業社会と市民社会が台頭し、双方が青少年の資質・能力の向上を求め、学校もそれを目指すという学校教育2.0の段階に移行しました。しかもそのころから新自由主義が資本主義国家全体を覆うようになり、社会にとっても家庭にとっても、そして児童生徒にとっても「競争」を基調とするトレスの多い時代になっていきます。情報化の進展によって、大量の情報に囲まれた状況もストレスの増加に拍車をかけたように感じています。「小学生の異変」にこのストレスの増大が関与していないとは考えにくいことです。

それではこれからの学校教育がどのような方向に進めばよいのでしょうか。この問いに対する私なりの答えが、『学校教育3.0』(三恵社、2018年)で述べたように持続可能な社会の構築を目指す学校教育3.0を指すべきであるということになります。より具体的に言うと、「誰一人取り残さない」ことを宣言したSDGsの理念と原則を学校教育の主軸に据えることです。

「SDGsの学び」の具体的なイメージ

「SDGsの学び」について、筆者は『学校3.0×SDGs』の第1章に以下のように書きました。

SDGsの学び」とは「2030アジェンダ」に記された野心的な理念を含むSDGs全体を学習対象の中核に据えた学びのことである。

〇学習目標

SDGsの学び」の目標は、持続可能な世界、持続可能な社会の創り手の育成という面で、新学習指導要領において新たに明記された「持続可能な社会の創り手」を育むとした教育目標と同じである。しかし、将来の創り手を育成するレベルにとどまらず、進行中の学びそのものが17の目標の達成に何らかの貢献をすることも目標となる。つまり、将来の貢献の準備のための学びという段階にとどまらず、具体的な活動に参画して実際に貢献することをも視野に入れた学びと言える。(以下、略)

〇学習内容

学習内容は、SDGs17の目標と169のターゲットだけでなく、「2030アジェンダ」に記された理念などのすべてが含まれる。さらに言えば、SDGsの目標やターゲットには盛り込まれていなくても、持続可能な社会にとって重要な事柄は、学習の対象に加わる。例えば、「難民」「ゲノム編集」「ビッグデータの独占」「放射性廃棄物」「核兵器」などは、人類社会を不安定にさせたり、将来世代にとって負の遺産となったりする事柄であるが、国連加盟国の様々な利害関係が絡むため、SDGsでは触れられていない。しかし、「SDGsの学び」の学習内容に追加されるべきであろう。つまり、持続可能な世界、持続可能な社会に関わるすべての事柄が対象となる。

重要な点は、SDGsがこれから目指すべき世界を包括的にとらえたものであるので、従来の学校教育における学習と異なり、教科ごとに分かれた学習ではなく、取り上げるテーマに関連する学習内容を総合的、統合的に学ぶことになる。(以下、略)

〇学習方法

教育方法においても、従来の知識を注入する方法は影を潜め、SDGsの目標を達成するために求められる課題の解決が中心となる。そのため、学習者主体の学びとなるのは言うまでもなく、学習者同士が協力し合うことが不可欠となる。各グループが取り組む課題も多様なものになるので、指導者があらかじめ道筋を示すことは困難となり、卓越した一人の指導者よりも、共に課題の解決に取り組むメンター的な高学年の助言者や地域のサポーターなどの存在が重要な役割を果たすようになる。

学習の評価

グループでの取り組みが中心となるので、学習の評価においても、個人間の競争を前提とした、学習成果に基づく評価ではなく、課題解決に向けてどのように取り組みを行ったか、課題解決のために協力者をどのように巻き込んだか、そして、活動を通して具体的にどのような貢献がなされたかが重視されることになる。ただし、評価すること自身の相対的な意味は、今日の教科中心の学校教育と比べると大幅に縮小し、むしろ、次の課題への取り組みに向けた、ふりかえり、省察がより重視されるようになる。

このように、「SDGsの学び」は、従来の学校教育の主流であった教科中心の学びとは一線を画す新しい学びである。

上記のように目標、内容、方法、評価という「学び」そのものに焦点を当てた記述をしたのですが、学校教育の制度や枠組みといった側面も重要と考えています。

近代公教育制度における「分断」による効率化とその見直し

SDGsの17の目標が盛り込まれた「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の前文の最終段落には「持続可能な開発目標の相互関連性及び統合された性質は、この新たなアジェンダの目的が実現されることを確保する上で極めて重要である。」と書かれています。そのことから、SDGsの17の目標を表現するには、以下のように正17角形の各頂点にそれぞれの目標を置き、それらを互いに結んだ以下の図が最もふさわしいと思い、『学校3.0×SDGs』の中で提示しました。

SDGsの17目標の相互関連を正17角形の対角線で表現

この「相互関連」と「統合」は、学校教育を見直すうえではとても重要です。なぜならば、「相互関連」や「統合」の反意語である「分断」が学校教育をめぐるストレスに深く関わってきたと考えるからです。

学校教育制度ではあまりに当たり前になっていたので、何ら疑問を感じなかった「分断」が今、文科省が先陣を切って変えようとしています。かつては学校と地域社会の間には高い壁があって「分断」されているのが当たり前でした。しかし、新しい学習指導要領のキャッチコピーは「社会に開かれた教育課程」ですし、学校運営協議会を軸とする「地域とともにある学校」の推進や、地域と学校がパートナーとして連携協力して「地域学校協働活動」を進めることで「学校を核とした地域づくり」の推進が図られるようになっています。学校と地域の「分断」は、文科省主導で解消されようとしています。

新学習指導要領ではカリキュラム・マネジメントという名称のもとで、すべての教育課程において「教科等横断的な学び」を進めることが求められています。これは見方を変えると教科に分断されていた学習内容を統合しようという動きです。今日の社会が直面している様々な課題を解決するには、あらゆる分野を統合した視点が不可欠ということから、教科ごとに分断されていた学びを、これも文科省が率先して解消しようとしています。

実は「小学生の異変」(その1)で紹介した文科省の合田哲雄氏のシンポジウムにおける発言の中に、「これまで以上に学年や教科といった垣根が相対的に低くなる」という言葉がありました。教科の垣根が低くなるという点については、上述のカリキュラム・マネジメントにも現れていますが、学年の垣根が低くなるとはどのようなことでしょうか。6歳の4月に入学して、1年が経過するたびに学年が上がっていくのがあまりにも「当たり前」だったのですが、どれほどの必然性があるのかと問われると、返答に窮しかねません。春夏秋冬が一巡した1年前を振り返ると、子どもの成長を確かに確認できます。地球の公転周期である1年を基準に学年を区切る根拠としては、発達段階の違いがあり、同じような発達段階の子どもたちをひとまとめにして指導する方が効率が良い、ということでしょうか。知識を詰め込むことが中心である学校教育では、学年ごとに分断する方が好ましかったかもしれません。しかし、様々な立場の様々な個性を持った人々が協力して課題を解決していく、あるいは何かを作り上げていく上では、学年ごとの分断はむしろマイナスといえます。低年齢の子どもが少し年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちから学ぶ機会を奪っているともいえます。

小学校、中学校、高等学校、大学という学校段階を分けることも「分断」の一種です。教員免許を取得した人だけが学校の中で子どもたちを指導するというのも「分断」といえます。これからは、学校以外の様々な組織が子どもたちを「アクティブラーナー」にしていく姿は、(その2)に転載した文科省のタスクフォースによる「Society5.0に向けた学校ver.3.0 」にはっきりと描かれています。

文科省「Society5.0 に向けた学校verr.3.0」の一部

「SDGsの学び」で分断とストレスの削減を

上記のように、分断によって効率を追求してきた日本の学校教育の在り方を、実は文科省が率先してその解消の方向に舵を切り替え始めています。これからの学校が地域においてどのような役割を果たす必要があるのか、とか、生態的・社会的な持続可能性が課題となっているこれからの社会に生きる子どもたちはどのような力を身につける必要があるのか、といった議論の結果として、「効率を追求する分断」から「共創を生み出す統合」への転換がはじまったと言ってもよいでしょう。このような学校教育の制度や枠組みの方向転換は、「SDGsの学び」を実施する上では好都合で、「SDGsの学び」が広がっていく素地が準備されつつあると受け止めています。

制度や枠組みの方向転換によって「SDGsの学び」が広がる可能性は高まっています。そして「SDGsの学び」を受けて育った人々が社会に次々と送り出されていけば、「小学生の異変」の原因として最重要と見なされた「社会や家庭内のストレス」も軽減されていくものと期待しています。

しかし、全体の趨勢を変えるという点では、もっともっと変わらなければならない部分もありそうです。今回、コロナ休校が終了し、学校が再開された途端に、「2か月分の遅れを取り戻せ」と「お教え込みが復活した」という嘆きが各方面から聞こえてきました。文科省レベルでは、「効率を追求する分断」から「共創を生み出す統合」への転換を進めているにも関わらず、教育委員会レベルや各学校レベルでは、まだまだ分断をベースとした古い学校教育観から抜け出せてない層が大きな力を有していると感じています。大学入試制度を頂点とする入試選抜制度が残る限り、「競争から共創」への転換は容易ではないことも率直に認めざるをえません。しかし、大学の在り方もこれから10年ぐらいのうちに大きく変化し、18歳人口の減少もあって、競争的な大学入試は徐々に少なくなっていくと予想しています。(そのように変えていく構想を膨らませて、目下、賛同者を増やしているとことです。)

SDGsの認知度が社会全体で急速に高まっています。ポスト・コロナ社会の在り方として佐藤学氏が構想している「Share社会」「Care社会」、そして真の「Learning社会」が一体となって進行すれば、社会や家庭内の分断が統合に向かい、ストレスも着実に緩和されていくでしょう。

様々な予防原則の適用も含め、あらゆる方策を講じて、現在進行している「小学生の異変」をストップさせなければ、将来の持続可能な社会は怪しげなものになりかねません。私たちのNPO法人八ヶ岳SDGsスクールとしても、よりよい方向に進むようにいろいろな試みをしたいと思っています。(完)

2020年11月22日

小学生の異変(その3)

予防原則の適用を!

黒田洋一郎氏らは、前述の論文の末尾を以下の文章で締めくくっています。

シナプス・レベルの病理診断ができない現時点で、科学的に確定した厳密で完全な検証は困難だが、環境化学物質の毒性・危険性を示すデータは既に蓄積しており、ことに将来を担う子どもの健康に関わることなので、予防原則を適用して毒性化学物質の曝露を減らす具体策が緊急に必要と考える。

予防原則とは、環境保全や化学物質の安全性などに関し、環境や人への影響及び被害の因果関係を科学的に証明されていない場合においても、予防のための政策的決定を行う考え方である。この考え方は、1992年に「国連環境開発会議(地球サミット)」で採択された「環境と開発に関するリオ宣言」の第15原則としても採用されています。

http://www.ne.jp/asahi/chemicals/precautionary/kouen/sld004.htm

ネオニコチノイド系農薬については、EUがEUが2013年から規制を開始し、2018年には屋内での使用を禁止するようになるなど、世界各国でこの予防原則に基づく規制が始まっています。「小学生の異変」(その2)に転載した2008年時点での単位面積当たりの農薬使用量のグラフで日本とともに突出していた韓国でも、2014年にEUに準じた使用禁止措置が取られています。しかし、日本では、逆に数種類のネオニコチノイド系農薬に対する残留基準値を緩和するなどと予防原則に逆行する対応を進めています。ネオニコチノイド系農薬に限らず、多くの農薬や食品添加物に対する日本の規制が弱く、しかも海外で使用禁止となっていったものを大量に輸入しているのが現実の姿です。「国産の食品は安全」というのは過去の神話でしかなくなっているといえるかもしれません。

http://www.nouminren.ne.jp/newspaper.php?fname=dat/201908/2019081201.htm

なぜ予防原則に反する危険な農薬が放置されたり、逆に規制緩和が行われたりしているのでしょうか。実際に米や野菜を育ててみると、無残な虫食いを何とか減らせないものか、害虫を駆除して収穫を増やしたいということから農薬使用の誘惑に駆られます。農業の担い手が減少し、高齢化が進む中で、農薬の助けなしには農業生産を維持できない、という思いも強まっているはずです。だからこそ、危険な農薬や食品添加物に対する規制を国がしっかりと進めてもらう必要があります。しかし、そうなっていないのは、農薬や食品添加物を生産する国内外の化学薬品会社からの圧力や、それらの流通業者からの要望などが政治に強く反映されているからと考えられます。そうであるならば、子どもたちの健康や正常な発育に人一倍関心を寄せている私たち教育関係者は、危険性が指摘されている農薬や食品添加物に対して、予防原則の徹底を国や関係機関にしっかりと求めていくべきなのではないでしょうか。

ICTの発展の負の側面

以前にこのコーナーで中教審初等中等教育分科会が提示した「「令和の日本型学校教育」の構築に向けて」(中間まとめ)を取り上げましたが、そこではもっぱら「知育」「徳育」「体育」のすべてを学校が担うという日本型学校教育は理想かもしれないが、その実現には課題が多いことを述べました。しかし、答申案で最も強調されているのはICT教育の強化です。今回のコロナ禍で、日本の学校における遠隔授業体制やICT機器の普及が近隣諸国に比べて大きく立ち遅れていたことを自覚させられたことから、どうしてもそこに議論が集中した結果かとも思われます。しかし、2018年6月に文科省のタスクフォースが公表した「Society5.0に向けた人材育成」の表題にも、またそこでこれからの学校教育の在り方として示された「個別最適化」でも、AIを学校教育に取り込む方向性が顕著に表れていますので、今回の答申案におけるICT教育の強化は既定の路線と考えるべきでしょう。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/002/siryo/__icsFiles/afieldfile/2018/06/20/1406021_17.pdf

しかし、ICTの負の部分といえるインターネット依存やスマホ依存、SNSを使った陰湿ないじめについての言及は「中間まとめ」にはまったくありません。内閣府は平成30年の11月から12月に「平成30年度 青少年のインターネット利用環境実態調査」を実施しています。そこでは「低年齢層の子供のインターネットの利用状況」も調査されており、2歳児、3歳児の45%ほどがスマホやタブレットでインターネットを利用している実態を明らかにしています。もちろん親との共有が大部分ですが、幼少時からのインターネット依存の種がしっかりと撒かれている事実を文科省は把握しているのです。しかし、「中間まとめ」には、インターネット依存についての記述はありません。

ネット依存とスマホ依存

ここでインターネット依存とスマホ依存の違いを少し述べておきます。インターネット依存の90%はインターネットを通じたゲームへの熱中といわれており、「ゲーム障害」は、2019年に世界保健機構(WHO)が国際疾病分類に追加しています。つまり「れっきとした「病気」と認定されるようになっているということです、「小学生の異変」(その1)で岡田尊司氏の『脳内汚染』を取り上げ、ゲームへの依存がギャンブル依存と同様に、脳に対して麻薬のような影響を与える可能性が指摘されていることを紹介しました。その後の研究の進展で、「ゲーム障害」は、人間の知性や論理性を司る前頭前野の働きを弱める働きをしていることも明らかになっています。

一方、スマホ依存は、動画閲覧やスマホゲームが長時間に及ぶというもの含まれますが、特に、SNSやメールでの友達とのコミュニケーションに関わるものが中心となっています。メッセージが届くとすぐに返信しなければという強迫観念にかられて四六時中スマホを手放せなかったり、スマホが手元にないと不安になったりイライラしたり、というものです。

『ネット依存・ゲーム依存がよくわかる本』樋口 進 (監修)、2018年、講談社の一部一部

前掲の「小中高生のスマホ利用時間」のグラフからも小学生の使用時間の長時間化は明らかです。もちろん中学生、高校生に比べれば使用時間は短いといえますが、脳の発達過程から低年齢ほど影響が大きいことは各方面で指摘されています。前述の予防原則という観点からも、様々な弊害が指摘されているインターネットやスマホの使用の長時間化を防ぐ手立てが求められているといってよいでしょう。しかし、このことに対しては、一日の使用時間を決めるなど、家庭内での対応に期待せざるを得ないのが現状でしょう。

とはいえ、平日の相当時間を過ごす学校としても、インターネットやスマホの普及による弊害を考慮した教育活動がもとめられているといえます。それは、外遊びの時間をたっぷりとったり、本物との出会いや体験を豊富にしたりすることです。文科省が「令和の日本型学校教育」で重視しているICT教育推進に素直に従って、ICT機器との接触時間を増やすことではありません。

言うまでもなくこれからの時代はAIが大活躍する時代です。ICT機器の基本的な操作やマナーを修得しておくことは必須という時代になっています。学校がICT機器を整備して今回のコロナ禍のような緊急事態に備えたり、ICTの基礎基本の指導は必要です。また、探究的な学びのためにタブレットを活用することは適切なことです。しかし、学校外でのインターネットやスマホ使用の長時間化を考慮すると、児童のICT機器との接触時間を極力減らし、安易な利用に流されないようにすることが大事であろうと思います。(続く)

2020年11月16日

小学生の異変(その2)

社会や家庭のストレス増大と子どもたちのストレス

「ダイヤモンド・ランキング・・小学生の異変の原因は?」で回答者の6割以上がBの「社会や家庭内のストレスの増大が、子どもたちのストレス増加をもたらしている」を最も重要と回答しました。非正規雇用比率の上昇、シングルマザーの増加や相対貧困率の上昇など、じわじわと生き辛さが押し寄せてきていることは、否定しがたい事実です。そのような社会や家庭のストレスが子どもたちの心身に影響を与えていることは間違いありません。

元同僚の佐藤学氏から、11月14日に開催された学習院大学教育学科教育学研究会の講演で用いたパワーポイントが送られてきました。その最後の結論の一つとして「ポスト・コロナの社会は、資源と資産を共有し合う社会、人々が相互に助け合い支え合う社会、未来に向かって学び続ける社会、すなわち sharing, caring and learning community である。この社会に向けて、一人も独りにしない教育で子どもたちを守り育てる必要がある。」と書かれていました。今日の社会が「資源と資産を共有し合う社会」でも「人々が相互に助け合い支え合う社会」でもないからこそ、ポスト・コロナの社会はそういう社会にしなければならない、という強い思いが込められていると感じました。

「所有」から「共有」への転換は、徐々にですが、すでに気配が出てきています。若者の自動車所有意欲の低下とカー・シェアリングの急増などが顕著になってきています。人口減少・過疎化・高齢化で耕作放棄地が増え、日本の経済観念の基本をなしてきた田畑の所有に対するこだわりも低下してきています。しかし、現実の社会を見た場合、ポスト・コロナ社会になっても、「人々が相互に助け合い支え合う」ことと同様に、「資源と資産を共有し合う」ことが社会の基調となるのはまだ相当先のことと思わざるをえません。早急な対応が求められている「小学生の異変」に有効かつ即効的な効果を発揮することは期待できそうにありません。

では、「共有(sharing)」と「支え合い(caring)」を基調とする社会の到来を早めることはできないのでしょうか。佐藤学氏が提示した3つ目の「未来に向かって学び続ける社会(=learning community)」こそが、地道ではありますがそのスピードを速め、しかも転換への確度を高める可能性を秘めていると思っていいます。このことについては、最後の「これからの学校教育が目指すべきこと」で述べることにします。

農薬や添加物の影響

Cの「子どもたちの暴力行為等を学校がきっちりと教育員会に報告するようになった」からを重要な原因と捉えた方は少数で、「小学生の異常」はそのレベルの問題ではない、という認識が参加者のほぼ共通の認識といえるものでした。

同様に、Dの「食品添加物等の有害物質の体内蓄積が、敏感な子どもたちに影響し始めた」も、多くの参加者は重要の原因とは捉えていないようでした。しかし、ごく一部の参加者はこのDを最重要と考えており、実は、遺伝子の変異に関心を寄せている筆者も、このDは相当重要な要因と捉えています。この数年間で顕著になってきた「小学生の異常」は、ほかの様々な要因と複合的に作用した結果であろうと考えていますが、有害な化学物質が体内に取り込まれることで、大きな問題が引き起こされている可能性は高いとみています。

まず、次のグラフを見ていただきたいと思います。


https://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/h30hakusho/zenbun/h1_03_01_01.html

このグラフは、「通級による特別支援の指導を受けている児童生徒数の推移」を示しています。発達障害の3つのカテゴリ―(ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如・多動症)、LD(学習障害)だけに注目すると、過去10年で3倍以上に増えています。発達障害についての認定が進んだ結果という部分も否定できません。しかし、10年以上小学校の教員として児童の変化を見てきた方であれば、発達障害児の増加はほぼ共通の認識になっているはずです。そして、発達障害児の増加は文科省が「問題行動・不登校等」として常に取り上げている「暴力行為」「いじめ」「不登校」の小学生の急増と驚くほど類似した傾向を示しています。もちろん、絶対数では「暴力行為」「いじめ」「不登校」の合計と「発達障害」とされる児童数には大きな差があります。しかし、軽度の発達障害がカウントされてないことを考慮すれば、「暴力行為」「いじめ」「不登校」の増加を引き起こしている重要な要因の一つが発達障害の増加であると推定できますし、発達障害が遺伝よりも有害化学物質による可能性が高いことを示す研究は相当数に上っています。教育界にはまだ十分に浸透していないようですが、目をそらすことのできない問題です。

有害化学物質、特にネオニコチノイド系農薬と神経発達障害

2013年の第22回日本臨床環境医学会集会では特別企画として国際シンポジウム「有機リン・ネオニコチノイド系農薬のヒトへの影響―特に子どもの発達障害と急性・亜急性中毒被害の現状―」が開催され、そのシンポジウムを受け、木村‐黒田純子、黒田洋一郎の両名が『臨床環境医学』(第23巻第1号)に「自閉症・ADHD など発達障害の原因としての環境化学物質― 遺伝と環境の相互作用と農薬などの曝露による脳神経系、免疫系の撹乱―」と題する論文を寄稿しています。以下はその論文に記載された「要約」です。

日米韓における自閉症、ADHD など発達障害児の急増は、遺伝要因でなく環境要因が主な原因であることが確定的となってきた。自閉症関連遺伝子は最近までに数百も見つかり、これらの変異の組み合わせにより、個人毎に異なる「発症しやすさ」を決める遺伝子背景を構成している。増加の環境要因は多様だが,発達障害の増加に先行する農薬など環境化学物質汚染が疑われる。農薬やPCB など環境化学物質の発達障害との因果関係を示す論文や、疫学報告も数多く蓄積している。胎児期、小児期における多種類の環境化学物質の曝露は、脳発達に重要な神経情報伝達系、ホルモン系、免疫系の撹乱や新規(de novo)のDNA突然変異を介して、特定の神経回路(シナプス)が形成異常を起こし発達障害を発症すると考えられる。日本人全員が各種環境化学物質に常時多重複合曝露している最新データもあり、放射能汚染も合わせ、感受性の高い子どもへの影響が懸念される。

その論文に掲載された注目に値する図・グラフを以下に転載します。

この図はヒトの脳のシナプスが胎児期と乳児期に著しく発達するが、その時期に環境科学物質が母体や母乳から侵入することを概念的に示しています。

この図は、自閉症や広汎性発達障害(アスペルガー症候群を含む自閉症スペクトラム)の有病率の高い日本と韓国で単位面積当たりの農薬使用量がずば抜けて高いことを示しています。

同論文で特に筆者が注目したのは以下の文章でした。

米国社会アーミッシュという特殊なオランダ系民族集団の健康度で、彼らは移民当時の生活スタイルを堅持して、近代文明を拒否している。驚くべきことに、彼らの自閉症の発症率は、平均の米国人の十分の一くらい、ここ数十年で年数人しか発症せず、自閉症児は著しく少ないままだ。環境要因のうち、近代文明に浸っている一般米国人が曝露し、アーミッシュの人たちが曝露していないものが、自閉症の原因となっていると思われる。

同論文以降も、特にネオニコチノイド農薬が発達障害を引き起こしている可能性を示唆する研究は多数に上っています。例えば、PLOS ONEという英文学術誌の2019年7月号に掲載されたGo Ichikawaらの論文“LC-ESI/MS/MS analysis of neonicotinoids in urine of very low birth weight infants at birth”は、生後間もない新生児の用からネオニコチノイド系農薬の代謝物を検出しており、ネオニコチノイド系農薬が母親から胎児に胎盤を通過して移行したものとして注目されています。

ネオニコチノイド系農薬の生産増加と不登校児童生徒数の増加

日本では1988年に開発、1992年に農薬登録され、最初はミツバチの大量失踪や赤とんぼの減少の原因として注目されたネオニコチノイド系農薬ですが、ヒトへの影響が顕著でないと判断されたこともあって、その後は下のグラフのように1990年代から2000年代半ばにかけて増産され、現在は高止まりという状態です。

http://organic-newsclip.info/nouyaku/neonico-data.html

「小学生の異変」(その1)の冒頭で紹介した3つのグラフのうち、不登校児童生徒数のグラフは平成10年(1998年)以降しか描かれていませんが、文科省の調査結果には平成3年(1991年)から記載されています。そこでは不登校児童生徒数が平成6年(1994年)ごろから増加しはじめ、平成13年(2001年)にかけて第一次の不登校急増期を経験しています。2000年代になると不登校児童生徒を減らすべく様々な取り組みがなされましたが、その後15年間ほどの高止まり期を経て、現在第二次の不登校急増期に入っています。

https://www.mext.go.jp/content/20201015-mext_jidou02-100002753_01.pdf

第二次の不登校急増の原因追及はこれからの課題でしょうが、第一次の不登校急増については、ネオニコチノイド系農薬の生産増と類似した傾向が見られます。

なお、加工食品への依存度の高まった食事によって、摂取するミネラルが不足していることが発達障害の原因であるとの指摘もあります。ただ、この点については、筆者自身も勉強不足ですので、現時点では一時保留とさせていただきます。(続く)

2020年11月15日

小学生の異変(その1)

増え続ける小学生の問題行動・不登校等

「令和元年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」が2020年11月13日に文科省から公表されました。10月下旬には報道資料が教育委員会やマスコミに流されてテレビや新聞で報道されましたが、学術会議の学術会議の任命拒否問題、アメリカ大統領選挙、そしてコロナの第3波が大きく取り上げられる中で、あまり大きく取り上げられなかったように感じています。しかし、以下の3つのグラフを見れば、特に小学生について状況がいよいよ深刻になっていることは一目瞭然でしょう。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201022/k10012676031000.html

「小学生の異変」に対する文科省の受け止め方

このような「小学生の異変」について、文科省では、2013年度(平成25年度)ごろから異変が顕在化したと捉えています。2019年8月の日本教育学会大会のシンポジウム「持続可能な社会と教育」に登壇した合田哲雄氏(当時:文科省初等中等教育局財務課長)は、このことに関連して次のように述べています。

今、子供たちや学校を取り巻く社会的な環境の激変が我々の予想を超えた規模とスピードで進行しています。子供たちの語彙や読解力のばらつきが生じたり、小学生の暴力行為が2013年以降急増したりしている現実があります。(中略)小学校高学年の子供たちの心身の発達や指導内容の高度化で、一人の学級担任がすべてを受け持つことが難しくなっているのではないか、あるいは、少子化・過疎化による少人数学校は子供たちが切磋琢磨して協働する環境として適切か、という声も生じています。

また、中教審初等中等教育分科会が10月に示した「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」(中間まとめ)でも、以下のように重大な問題であることは認識しています。

様々な生徒指導上の課題も生じている。平成 30(2018)年度の小・中・高等学校におけるいじめの認知件数や重大事態の発生件数,暴力行為の発生件数,不登校児童生徒数はいずれも増加傾向にあり,過去最多となっている。加えて,平成 30(2018)年の小・中・高等学校における児童生徒の自殺者数も減少するに至っていない。いじめの認知件数の増加は,いじめを初期段階のものも含めて積極的に認知し,その解消に向けた取組のスタートラインに立っているとも評価できるが,特に,いじめの重大事態の発生件数や児童生徒の自殺者数の増加は,憂慮すべき状況である。また,児童相談所における児童虐待相談対応件数についても増加傾向にある。(p.8)

しかし、特別支援学校(学級)在籍者の増加、外国籍児童生徒数の増加、子供の相対的貧困率の上昇などと並列して、「子供の多様化」と矮小化して捉えており、その他の教職員の長時間労働による疲弊などの問題を指摘しながらも、以前にこの欄で紹介したように、「このためには「我が国の学校教育の在り方を根本から見直さなければならないのか」 という疑問が生まれ得るが,そうではない。(p.13)」と断言しています。

また、具体的な対応について列記した各論においても、

〇不登校児童生徒,障害のある児童生徒,日本語指導が必要な児童生徒について,学 校間,保護者,関係機関と児童生徒の状況を共有し,支援しやすい環境を構築するた め,統合型校務支援システムの活用や帳票の共通化などを通じ,個別の支援計画等の 作成及び電子化を進めることが必要である。(p.61)

と、述べるにとどまり、有効な対応を打ち出せていない状況です。

「最終講義」でのダイヤモンド・ランキング

筆者は2020年1月下旬の「最終講義」でこの問題を取り上げ、1年前のグラフをパワーポイントで示したあと、以下のような「ダイヤモンド・ランキング・・小学生の異変の原因は?」というワークシートに原因の順序付けをするアクティビティを実施しました。

このアクティビティでは、この個人作業の後に、周りの人たちと互いにワークシートを見せ合いながら、意見の交換してもらいました。最終講義の間に挟んだアクティビティだったので、意見交換の時間は5~6分ほどしか取れませんでしたが、教育に関わる参加者が多かったこともあって、真剣に意見を交わしていました。

返却してもらった106人分のワークシートを集計すると、Bを一番上に持ってきた人が64人、Aを一番上に持ってきた人が23人でした。それとは別に、上記のワークシートの下に「そのほかの理由」という空欄も設けておきましたが、驚きだったのは、そこに記入した方が8割以上を占め、空欄の枠の外にまで記述した方が多数に上ったことです。自由記述では多くの方が少子化や核家族を挙げていましたが、ほかにも例えば以下のような、「なるほど」と思わせる意見が多数寄せられ、「小学生の異変」に対する関心の深さが伺われました。

・祖父母の過保護、あるいは幅広い年代と触れ合う機会がない。

・「さん付け」の強要など、教員と子供が社会的に距離感を置くようになった。

・子どもの学校教育システムへの異議申し立て

・「今だけ、金だけ、時間だけ」「自己責任論」による大人社会の歪みの反映

・片親家庭、貧困家庭の増加、地域で支える仕組みがない

・親の愛情がフルタイムで注がれている時間が減ったこと

・子どもたちにも保護者にも、学校・教員に対して「消費者」のマインドで臨む場面が多くなっている

・責任を取らない大人の、とくに「リーダーたち」の姿勢も

・子ども期に関わる人の数が、人類史上最も少なくなっている

・集団生活に適応させる訓練を家庭(大人)がしていない。子供より大人の考え方、行動に問題があるのでは?

・同一年齢、同質の集団による一斉授業に大きな原因があるように思います

・SNSの普及により、他人を攻撃することに感覚が慣れてしまっている

ゲーム機器やスマホの普及と外遊び時間の減少

A(ゲーム機器やスマホの普及で外遊びの時間が減った)については、上記のように最重要と考えた参加者は2割強でしたが、欄外の書き込みからA以外を最重要としながらも、Aも大いに関係していると感じておられる方も多数でした。「最終講義」では、アクティビティ終了後に以下の3枚のスライドを示して、Aも少なからず関与している可能性が高いことを話しました。

ゲーム機器に長時間接することの危険性については、2005年に精神科医として医療少年院に勤務していた岡田尊司氏が『脳内汚染』(文藝春秋)の中で、仮想と現実を混同させ、中毒性があり、脳の発達を妨げるという警告を発しています。ゲーム機器やスマホが子どもたちの世界にどんどんと進出することで、「ホンモノ」と出会う機会が減少していることも大いに気がかりです。子どもを静かな「いい子」にさせるために、タブレットで動画を見せ続けている親も見かけます。「ホンモノ」と出会う機会をしっかりと設けることも、学校に期待されているのかもしれません。(続く)

2020年11月3日

「地域連携プラットフォーム」と未来の高等教育

Platform≒Plateau(台地)≒Plate(皿、板)

「ホームの端を歩かないでください」というアナウンスや、「酔っぱらってホームから転落!」というニュースを聞きながら、「プラットフォーム」はすでに死語になったのかと感じたのは20年以上も前のことです。小学生の頃、といってももう60年以上前のことですが、駅で列車に乗る場所は「ホーム」ではなく「プラットフォーム」と言っていました。

その「プラットフォーム」という言い方を数年前にどこかのNPOが使っていて、「??」と反応した記憶はありますが、改めてその意味を確認しようとは思いませんでした。しかし、2018年11月に「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン」答申が発表され、そこで、「地域連携プラットフォーム(仮称)」構想が打ち出されたことで、プラットフォームという言葉が甦っていることを思い知りました。

もっともそれはコンピュータ音痴(あるいはデジタル拒否症候群)の私の特殊事情であって、コンピュータの世界では、ずいぶん前から「アプリケーションが作動する土台となる環境」のことをプラットフォームと言っており、死語にはなってなかったようです。

ここで「プラットフォーム」のことを取り上げるのは、これからの高等教育の基本的な姿の一つが間違いなくプラットフォームという概念と不可分のものとなると予測されるからです。

駅のプラットフォームは中国語では「平台pingtai」と言っています(「月台」とも言います)。「平ら」であるということは、その上に立つ人や組織はランク分けされず平等であるということです。それでいて「台」ですから周りより一段高くて広い場所でもあります。

「地域連携プラットフォーム」と「ガイドライン」

「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン」(答申)では、「関係する産業界、地方公共団体などと連携し、必要とされる教育研究分野、求人の状況、教員や学生の相互交流などについて、恒常的に意思疎通を図る」場を「地域連携プラットフォーム(仮称)」とし、これからの地域の高等教育機関にとっては、「学外の教員や実務家など多様な人的資源を活用し、多様な年齢層の多様なニーズを持つ学生を受け入れていくために必要」な体制と捉えています。「プラットフォーム」の原義を生かして言い換えると、「地域連携プラットフォーム」とは産官学が対等の立場で連携協力し、地域の活性化に取り組むための「場」ないし「体制」といえるかと思います。同答申には「地域連携プラットフォーム(仮称)」が十数回も登場しており、「地域連携プラットフォーム(仮称)」において議論すべき事項等について、国による「ガイドライン」を策定する」とも書かれています。

上記の答申段階では「策定する」と書かれていた「ガイドライン」は、2020年8月に<案>「地域連携プラットフォーム構築に関するガイドライン ~地域に貢献し、地域に支持される高等教育へ~」が示されて、パブリックコメントの応募がありました。

この<案>には従来のコンソーシアムやネットワークでは連携の範囲が限定的であったり効果が不十分であったことの指摘に続いて、p.5には「地域連携プラットフォーム」が必要とされる根拠などが、以下のように書かれています。

・・・地域課題の解決に向けた連携協力の抜本的な強化を図るとともに、地域の大学等の活性化やグランドデザインの策定、高等教育機会の確保や地域人材の確保、大学等を含めた地域社会の維持発展を図るための仕組みが「プラットフォーム」です。

プラットフォームの構築により、大学等が、地域において欠くことのできない重要な存在であるという位置づけを確立することが期待されます。そして、地域において欠かすことのできない存在だからこそ、地方公共団体や産業界等が、地域課題の解決に向けてのみ大学等と連携するのではなく、大学等の教育研究活動そのものを支える存在になるといったことも期待されます。

最後の一文などから、入学者減で存続の危機に直面している地方大学の延命策と見なす向きもあります。しかし、高等教育機関を軸とするプラットフォームは、これからの地域の活性化にとって不可欠な存在となることが書かれています。

文科省は、2020年9月に発足させた「地方創生に資する魅力ある地方大学の実現に向けた検討会議」の第1回検討会議に「魅力ある地方大学の実現に向けて」という資料を提出していますが、そこには上記ガイドラインの概略紹介ともいえる2枚のシートが付されていますので転載します。

「魅力ある地方大学の実現に向けて」の一部

上のシートでは、「地方自治体×大学等×産業界」が地域人材育成の基本形であることが示されており、それを実現するための方策が「地域連携プラットフォーム」と「ガイドライン」であることが下のシートの左側で示しています。

「SDGs未来都市」とプラットフォーム

ところで、「プラットフォーム」という言葉は、「SDGs未来都市」のプレゼン資料にも頻繁に登場しています。「SDGs未来都市」で重視されている様々な団体や組織の連携協力を図り、事業を円滑に進める土台としてプラットフォームの構築を掲げたものは、2020年度に選定された33自治体の約4割に及んでいます。その代表的なものを転載します。また、「プラットフォーム」という名称は使っていなくても、SDGs推進協議会や官民連携推進会議といったプラットフォームに相当する組織の構築を謳っている自治体を加えると7割には達しています。

相模原市のプレゼンより

「地域連携プラットフォーム」に高等教育機関は不可欠

上記の「SDGs未来都市」におけるプラットフォームの多くは、そこに高等教育機関が関与したものとなっていますが、中には川崎市のように、高等教育機関の関与が明確でないものもあります。一方、文科省高等教育局が示した「地域連携プラットフォーム構築に関するガイドライン ~地域に貢献し、地域に支持される高等教育へ~」は、地方の大学の関与を前提としたプラットフォームです。

それでは、地方創生を目的として様々な組織・団体の連携・協力するための体制として構築されるプラットフォームに高等教育機関は必要でしょうか?それとも、無くても構わないものでしょうか?

川崎市のようにすでに先端企業がひしめき合っている自治体はともかく、地域の活性化が切実な地方都市では、プラットフォームの中に高等教育機関が加わるのは必要不可欠であると考えています。もし、そのような高等教育機関が近隣にも存在してないのであれば、小規模なものでもよいので設立すべきであると思っています。その理由は、上に転載した「魅力ある地方大学の実現に向けて」の「地方大学の目指す方向性」にある文章を少し変えてみれば明らかです。

・地域のニーズに応えるという観点からも充実し、知の拠点として地域ならではの人材を育成・定着させ、地域経済・社会を支える基盤となること(⇒地方の大学)が必要

・地域特性・ニーズを踏まえた人材育成やイノベーションの創出・社会実装に取り組む地方大学の(存在とその)機能強化、活性化が重要

・地方公共団体、地域の産業界等と密に連携し、文理の枠にとらわれないSTEAM人材の育成や地元企業へのインターンシップ・リカレント教育の拡充(には地方に大学が不可欠)

・Society5.0社会の実現にとって不可欠な数理・データサイエンス・AI教育の推進やオンライン教育の活用により、地域において新たな産業や雇用を創出し、地方創生の中核となることを目指す(地域に密着した大学が必要)

要するに、地方創生や地域の活性化には、高等教育機関が不可欠ということです。

地方大学の危機を克服し、新たな高等教育機関を設立するために

しかし、現実には下の表にあるように、地方の中小規模大学の半分近くがすでに帰属収支差額比率がマイナス、つまり赤字状態で存続が危ぶまれている状態です。今後、18歳人口の減少により、閉校を余儀なくされていくことは目に見えています。

私立大学の帰属収支差額比率
(出典:日本私立学校振興・共済事業団「今日の私学財政(H27年度版)」

では、一体どうすればよいのでしょうか。その答えの一つが前述の「地方公共団体や産業界等が、大学等の教育研究活動そのものを支える存在になる」ということです。しかし、そもそも赤字になる理由の根本には、文科省の一元的な管理の下で、硬直的で時代遅れの大学設置基準や、質保証という名目の規制強化があります。もっともっと低学費でも収支のバランスが取れる高等教育機関をつくることは可能です。

いずれにせよ、地域の活性化に求められている大学は、現在の大学とは大きく異なった姿をしています。高校卒業生が入学して学ぶだけでなく、地域に関わるすべての人が受講でき、フィールドワークに参加し、プロジェクトにも参画できるような大学です。そこに関わる教職員者のイメージもまったく今の大学とは違ったものです。

この「学校教育とSDGs」のコーナーでも、「小規模分散型低学費大学設置の必要性」というコラムを書きましたが、まだ、ほんの一端しか書いていません。どうすれば低学費大学を作れるのか、その時の大学はどのような姿をしているのかについて、改めて書きたいと思います。

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