学校教育とSDGs

2022年5月9日

ダン・ローティの『スクールティーチャー』

これから数回、教員や教員養成ついての著作等を紹介します。今、日本の教員養成制度が抜本的大改革が求められていると感じ始めているからです。

教師についての社会人類学的研究

ダン・ローティが1975年に著したSCHOOL TEACHER : A Sociological Studyの日本語訳が、2021年11月に『スクールティーチャー 教職の社会学的考察』として学文社から刊行されました。アメリカ合衆国の約50年前の教員を対象にした社会人類学的手法を用いた研究ですが、そこに描き出された教員の姿の相当部分は、今日の日本の教員の姿そのものと言っても過言ではありません。

本書は、冒頭で監訳者の佐藤学が11ページにわたる行き届いた解説をしています。「著者と学風」に続いて解説の第2節で「教師研究としての意義―ウォーラーとの比較」を書いていますので、ここでも、まず佐藤学の解説を手掛かりに、ローティからさらに40年以上遡った、ウォーラーの捉えたアメリカの教員の姿を少し見ておきます。

ウィラード・W・ウォーラー(1899–1945)は、1932年に、The Sociology of Teaching(教職の社会学、1957年の日訳は『学校集団』(明治図書))を刊行しています。同書を、教師研究の草分けとなった古典的名著とする佐藤学は、「ウォーラーの研究の主たる関心は、教師の偽善、欺瞞、卑屈、権力性、権威性などの「非人間性(impersonality)」が、学校という制度のなかでどのように形成されるのかにあった。」「何よりも同書が、教師には特有のものの見方や考え方や行動の仕方があるという教師文化の存在を明示したことは、ウォーラーの最大の功績であった。」述べています。

ウォーラーは短い生涯でしたが、軍事アカデミーで自らが6年間携わった教師についての著作以外に、「離婚と法廷」「戦争と退役軍人」に関する著作があります。ローティが修士論文で医師の研究、博士論文で弁護士の研究を行っているのと同様に、他の職業についての研究や経験を踏まえて、教職や教師を外から(ないしは斜めから)捉えています。

ウォーラーは、学校の基本的な性質についてほとんどの政策立案者が理解しておらず、教師が内外の圧力に対して脆弱性を強く感じていることが、偽善、欺瞞、威圧的態度といった教師の非人間性を生み出しているということを、多くの事例をあげて説明しています。The Sociology of Teachingの最後の節で、「学校の改革は教師から始めなければならず、教師の個人的なリハビリテーションを含まないプログラムでは、教師の古い秩序に対する受動的な抵抗を克服することはできない。」(p.458)、「教師のトレーニングの中心的な要点は、学校という社会の現実の性質に対して深い洞察を試みることであるべきである。」(p.459)と述べています。

観察の徒弟制

ウォーラーが、自身の経験と様々な見聞を集約して社会学的に考察して教師の特質を描き出したのに対し、ローティは自身が行った質問紙を用いたインタビュー調査と全米教育協会による大規模調査データにもとづいて、教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」の形成要因を探究しています。ローティの重要な分析概念となっている「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造」「精神的報酬」「風土病的不確実性」について以下で順に説明を加えていきます。

 「観察の徒弟制」とは、教師は、職業としての教職というものを、自らが学校での授業を長年経験する過程で観察し、あたかも「徒弟制度」のように、教職についての文化や価値、規範などを身に付けているという意味です。その結果、教師はその参入過程で、他の専門職のような専門的な職業教育を軽視していると指摘しています。ローティの指摘する「観察の徒弟制」が教職の伝統的で直感的なアプローチの基礎を築くことについて、佐藤学は「教職を志望する学生は、大学に入る前から教職について「わかったつもり」になっており、他の専門職(医師や弁護士)のように専門家教育を受ける必要を感じていないし、教師になって以降は自分が教わった授業を再生産することになる。」(p.iv)とわかりやすく説明しています。

 ローティは、「観察の徒弟制」がもたらす不利益について、「ある職業が専門職として認識される理由の一つは、そのメンバーが極めて重要な公的事項についての奥義的(arcane)知識を共同で保有していると信じられているからである。」「教師たちの個人主義が自分の立場を強調したがらないことの基底にあると私は見ている。」と述べ、「成果(パフォーマンス)に関する考えが個人主義的であるがゆえに、教師たちは集団の達成レベルを向上させる戦略を発展させることが困難であると感じている。教師たちは専門文化の潜在力を向上させる方法を知らない。集団として要求に応答する能力がないことが、教職の地位を脅かしているのである。」(p.124 )と結論づけています。

卵のパッケージ構造

2番目の「卵のパッケージ構造」については、本文では、「細胞構造」と表現され、しかも様々な項目に分散して書かれています。卵のパッケージにしても細胞にしても、一まとまりの形状をしていながら、それぞれが分断されている学校の教室の姿、あるいはそのことに由来する各教員の孤立した姿を象徴した表現といえます。本書の第1章の「歴史的概観」に描かれた「卵のパッケージ構造」の成立過程には「なるほど」と納得させられます。

アメリカの場合、広大で人口の少ない土地に開拓地が分散していたため、それぞれの教師たちも互いに分散・隔絶された単細胞状態でした。しかし、都市の規模が大きくなるにつれて、学校のパターンが変化し、「それまで分離していた細胞は1つの屋根の下に結合され、生徒は年齢に応じて別々の教室に割り当てられた。」と述べています。重要な点は、一つの屋根のもとで複数の教員が集まることになって相互依存性が高まったわけではない点です。「なぜなら、個々の教師は、特定のグループに全教科を一年にわたって教えるか、のちに高学年で展開するように、単一教科を同じ集団に所定の期間教えるかのいずれかだったからである。」とローティは書いています。1950年代後半から、チーム・ティーチングや学校内部の壁の除去などの主張が現れて変化が生じていますが、教師間の分離と職務の相互依存の低さが長年続いています。そのもう一つの要因として、若い女性に依存しながらも既婚女性の雇用を認めない教育委員会の方針もあって、教職が離職率の高い職業で、「平均在任期間が短い場合、緊密に連携した分業体制を構築することはむつかしい」と指摘しています。

この学校の細胞構造が学校と教師に様々な不合理・不具合を引き起こしていることを、ローティは以下のような例で示しています。

・初任教師は同僚から物理的に離れて多くの時間を過ごす。初任者は校長やその他の教職員から指導的な関心を向けられるが、そうした最善の支援を提供できる学校システムにおいてさえ、1ヶ月に合計2,3時間以上に達することはまれである。(p.115)

・学校は細胞化された構造であるため、教師は閉ざされたドアを背にして、生徒以外の誰にも見られず、(おそらく)自分の成果を誰からも称賛されないことが容易に想像できる。(p.184)

・教師は互いの仕事をみることがほとんどなく、同僚からの監視から免れることを好むのである。(p.330)

精神的報酬

この「精神的報酬」は、本書の充実した「索引」を信用すると、29ものページに登場する本書における最頻出フレーズです。他の専門職に比べて決して高くない給与、長く勤めても低下するばかりの昇給比率といった経済的な報酬、あるいは名声や他者に対する権力という点でも満たされることの少ない教職に、多くの人が参入し、留まっている理由の追究が、社会学者としてのローティには大きな関心であったことが伺われます。このことは、以下のインタビュー項目の39番目にも、はっきりと表れています。

39 今日では教師が抱える問題を耳にすることが多いのですが、アメリカ合衆国では150万人が教職で働いています。公立学校の教職の何が人々を引きつけているから、教職にとどまるのだと思いますか?

 大雑把にまとめると、教師の文化では、上記のような外発的報酬の獲得を重視していない、ということになります。ローティは「教師の報酬構造は、精神的報酬を重視している。教室の文化が奉仕を重んじることを思い出せば、教師の労働生活における精神的報酬の重要性を強調するデータがあったとしても驚くことはない。」(p.156)と述べています。

ローティが、教師の得る報酬をどのように分類していたかは、以下に転載した質問紙インタビュー調査で用いた質問項目(巻末p.352-353に付録として掲載)を確認するとわかりやすいと思います。

外発的報酬に関する質問項目

T8 学校教師を「特権階級」と呼ぶことはまずありませんが、教師はお金を稼ぎ、ある程度は他者から尊敬され、何らかの影響を及ぼす立場にあります。あなたに最も満足をもたらすのは、これら3つのうちのどれですか?

 専門職として稼ぐ給料

 他者からの尊敬

 何らかの影響を及ぼす機会

 いずれも満足をもたらさない

精神的報酬に関する質問項目

T9 教師は自分の仕事で多様なことを楽しむことができます。あなたにとって最も重要な満足の源泉は、次のうちのどれですか?

授業の勉強をし、読書をし、計画する機会

規律と教室経営の習得ために与えられる機会

生徒(集団)の「心に届き」、生徒が学んだことが分かるとき

子供たち(少年たち)と交流して関係を築くための機会

付帯的報酬に関する質問項目

T10 教職について最も好きなのは、次のうちのどれですか?

収入と地位の総体的な安定性

旅行や家族活動などが認められる時間(特に夏季)

多くの競争相手や他者との競争なしに生計を立てるための機私のような人間にとっての特別な適切さ

いずれも満足とはならない。 

ローティは、実際に収集したデータの集計結果として「とくに教職から得られる満足を尋ねる質問に対する回答では、職務に関連する成果への言及が圧倒的に多かった。たとえば、ある質問項目では、125件が精神的報酬としてコード化されたのに対し、11件が付帯的報酬、9件が外発的報酬であった。」「質問に対する回答で最も強調されたのは、満足が生徒に関する望ましい結果に付随して生じることであった。」(p.156)ことを明らかにしています。

本書には、この精神的報酬に触れたインタビューへの回答事例が多く掲載されていますが、以下に一つだけ転載します。

卒業生が学校にやってきて話をしても、彼らは何の得もしてないし、握手することもないのですが、自分に大きな影響を与えてくれたことを話して、感謝の気持ちを伝えたいと思っているのです。これはいかなる教師生活のなかで何物にも代えがたい瞬間だと思います(以下略)。(p.182 )

風土病的不確実性

一方で、教師の仕事に対する評価の困難さなどが、教師の安心感ややりがいの喪失につながると、精神的報酬を脅かすことになります。教師の仕事に対する評価における不確実性の度合いの高さなどが、ローティが取り上げた4番目の特質「風土病的不確実性」です。この「風土病的」という用語の説明は本文中には見当たりませんが、佐藤学は「職業病的」という意味であると解説しています。

 第6章の「風土病的不確実性」の最初の方で、ローティは、他の職業の場合との比較で、以下のように教職の不確実性を多方面から例示しています。

「有形の分野における職人は、作業モデル、青写真、計画、詳細仕様を活用する。教師は、この種の物質的な標準(スタンダード)を何も保持していない。」

「職人は、特定の製品のどの部分に責任を負うかを把握しており、その段階にあるステップを統制するのが通例である。(中略)しかし、通常、教師は子どもに影響を及ぼす意義深い大人の一人にすぎない。教師の影響力の評価は、自己と他者との関係しあう影響力についての困難な判断を必要とする。」

「弁護士は訴訟に勝つか負けるか、技術者の橋は所定の重量に耐えるか否かである。しかし教職の行為は、同時に採用される多様な基準(クライテリア)の観点から評価される。クラスを魅了する教師が、内容の正確さを批難される場合がある。特定の子どもを叱責することは、残りの生徒たちを静かにさせるだろうが、その被疑者から不平等の申し立てを招くこともある。」(以上すべてp.199 )

 ローティは、以上のような模範にする具体的なモデルの不在、不明確な一連の影響力、多元的で論争的な基準、に加え、教師の成果を評価するための適切な時間やタイミングが曖昧であること、対象である子どもたちは教えられた後の成熟過程で変化し続けること、等の不確定性を上げています。

 そしてさらに、教師は教える対象を選択する権利を持ってないことや、教師の役割義務が「規則遵守を確保するだけでなく、「学習する仕事」への関心や努力を高めるような絆を築くことが期待されている」こと、教師は教室での一般的なルールを確立し、それらのルールからの逸脱を罰するが、「一人の子供に対して行われる行為は、他の子どもたちにも見えてしまうため、生徒たちは不公平だと思う扱いを受けるとすぐに反発する」ことなど、教職の不確実性の要因にも言及しています。

 この「不確実性」が教師の不安感や繊細な感情などを生み出していることを、ローティは豊富な事例を交えて丁寧に説明していますが、佐藤学は「教師たちは「不確実性」によって絶えず不安に陥り。教育学の専門的知識に不信感を抱き、自らの経験を絶対化し、教育の理念においても理論においても知識においても集団的合意を形成せず、それぞれが悩みながら孤立している。」(p.vi)と、見事に要点を手短にまとめた解説をしています。

 また、佐藤学は、本書のインパクトとして、ローティがこの「不確実性」を「専門家として克服しなければならないと提起したことが、その後の教職の専門性の開発研究を促し、1980年代半ば以降の教師教育改革を準備したとしています。この点については、そこから導かれる「同僚性」にも関わることで、是非、本書の佐藤学の解説を直接設参照してほしいと思います。

教育改革と教師の「個人主義・現状主義・保守主義」

ローティは、主に「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造」「精神的報酬」「風土病的不確実性」の4つの分析概念に基づいて、教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」が形成され、保持され続ける所以を本書で解明していますが、その研究の意図は、最終章の「変革についての総合的な思案」で明らかになります。

 ローティは「近年、何百万ドルもの費用が教育開発に費やされてきたにもかかわらず、学校の実情についての報告が質量ともに著しく不十分なのは逆説的である。学校への大規模な介入が意図せざる帰結をもたらすのは明らかである。(p.301)」と学校や教職や教師の実態についての研究が不足していることを訴えています。

 そのうえで、3つのシナリオを提示して、教師のエートスとなっている「個人主義」「現状主義」「保守主義」を克服しなければ、教師や教職の置かれる状況は一層悪くなることを予言しています。3つのシナリオのうち、2番目、3番目は約50年前の、しかも、アメリカ合衆国の実態を出発点としたシナリオという性格が多分にあるので、ここでは1番目のシナリオの要点を紹介します。ただし、2番目、3番目のシナリオは、進行しつつあった新自由主義的な改革に公立学校の教育現場が適切に対応できずに、悪化し続ける事態を招いているので、何をしなければならなかったのかを理解する意味では重要です。

 「伝統の侵食」というタイトルのついたシナリオ1は、教員文化の変化に焦点を当てたものです。今後、教育上の選択肢が急増する結果として、教師の保守主義に対する疑念の眼差しが高まり、教師たちが順応しなければならなくなるというシナリオです。教師たちは提示されたすべての選択肢を受け入れなければならないわけではないが、頑固な執着が功を奏することはないからです。 高度に構造化された事業プログラムが開発され、効果が高いと宣伝された場合、教師はそうした変革にどのように立ち向かうのか、そうしたプログラムに反撃するために、教師はどのように知的資源を持たなければならないのか、という問いに対して、納得いく回答を見いだすためには、協同するとともに、教師は自前の専門家を必要とすることになる、というシナリオです。

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