学校教育とSDGs

2022年7月18日

『専門職としての教師の資本』

『教育展望』2022年5月号の書評

教育調査研究所から『教育展望』の「展望らいぶらりい」欄へ『専門職としての教師の資本

―21世紀を革新する教師・学校・教育政策のグランドデザイン』(アンディ・ハーグリーブス、マイケル・フラン著、木村優、篠原岳司、秋田喜代美監訳、金子書房、2022年1月)に対する書評の依頼があり、以下の書評をまとめました。しかし、同書についてはもっと詳しく紹介しておいた方がよいと思い、少し補足しておきたいと思います。

本書は、著名な教育社会学者2名の共著Professional Capitalの完訳である。原著の刊行は2012年であるが、約十年を経て今年日本語訳が刊行されたことは、絶妙なタイミングであったとさえ感じている。

タイトルに付された「資本」は、ビジネス資本が1970年代以降、教育の世界に猛威を振るい、大きな弊害をもたらしていることに対して、今こそ、充実した教育を通して社会を豊かにする専門職としての教師に投資すべきである、という思いが込められている。

重視されている専門職としての資本は、人的資本、社会関係資本、意思決定資本の三つ。人的資本は、教師個人の知識・スキル等の力量、社会関係資本は教師としての同僚性やネットワークなどである。三番目に意思決定資本をあげているのが本書のユニークな点で、明白なエビデンスが存在せずマニュアルが通用しない中で「自由裁量の判断を実行する能力」である。

これら三つの専門職としての資本について、いずれも集団として獲得することが有効であることと、歳月をかけた経験の蓄積が不可欠であることを、豊富かつ説得力のある事例を通して著者は強調している。

しかし、後者の歳月をかけた経験の蓄積と、今まさに日本で進められようとしている教育改革が目指す教育関与者の拡大との間には、丁寧に埋めるべき溝がある。

この三月に内閣府の教育・人材育成ワーキンググループから「Society5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」が提示された。そこでは、子供たちを取り巻く環境の変化や児童生徒の多様性の拡大に対して、学校外の「よそ者」との協働体制が構想されている。教職の専門職としての資本のない人々が学校教育に深く関与することとなるが、教員の過剰労働や新たな教育課題の増加を考えれば、必然の方向といえよう。

学外協力者は不慣れな学校文化に大いに戸惑うと予測されるし、学校側では学校教育に理解の乏しい学外者に対するアレルギーが生じるであろう。そこで、学外者が教職や教師、学校文化を深く理解でき、また学校側も自らを省察するのに最適な本書が両者の溝を埋めてくれると期待している。絶妙のタイミングと感じたゆえんである。

ビジネス資本への対抗としての専門職への投資

ダン・ローティがSCHOOL TEACHER : A Sociological Study を刊行した1975年から、このハーグリーブスらによる『専門職としての教師の資本』が刊行された2012年までの間、アメリカ合衆国の教師は、新自由主義的な教育改革の猛威でさらされまし。レーガン政権の下で進められた新自由主義政策の一環として、アメリカでは「新自由主義的教育改革」が進められ、公教育に対してビジネス資本が次々と参入したり、達成目標に到達しない学校や教師に厳しい説明責任(アカウンタビリティ)を求めたりするようになりました。

本書の原題はProfessional Capitalです。Capital=資本は、投資されることで価値が増える資産です。新自由主義政策の下で教育の世界に続々と参入したビジネス資本への対抗概念として、「教育をよくするためは(教師という)専門職にこそ、投資すべき」という思いが込められた書名です。ただし、直訳の『専門職の資本』ではどんなジャンルの本かわからないということから、監訳者がハーグリーブスと協議して『専門職としての教師の資本』とすることにした経緯が、「監訳者あとがき」に書かれています。逆にいうと、Andy Hargreaves, Michael Fullanという著者名を見ただけで教育の分野の書籍と理解されるほど、二人の著者はアメリカでは名の知られた教育学者ということです。

では、その「専門職としての教師の資本」とは具体的には何なのか。第1章「資本というアイデア」でハーグリーブスらが挙げている専門職としての資本は、書評にも書いたように、人的資本、社会関係資本、意思決定資本の三つです。

その資本に対して誰が投資すべきかについて、序文では、「政治のリーダーたちは、教師の専門職の資本への期待、激励、後押し、そして投資を行う必要がある。ただし専門職の資本は真っ先に、個人的にも協働的にも教師たち自身によって獲得され、広げられ、再投資される必要がある。」(p.11)と書いています。

そして、専門職としての教師の資本を豊かにすることの意義について、第1章の締めくくりでは、新自由主義的教育改革を念頭に置いて、「専門職の資本の開発は、教職を苦しませるもの、責め立てるもの、そして全体として社会を苦しませるものに対する、いわゆる新たな「ソーシャル・キュア」の探究である。」(p.42)としています。

アメリカと高パフォーマンスの国々の違い

ハーグリーブスらは、第2章の「教職への相反する二つの考え方」で、PISAのような国際的な学力比較調査で好成績を示すの国々(高パフォーマンスの国々)が、教職にとってより良い労働条件を整えることに投資しているのに対し、アメリカは教育への投資を減らして私立学校に依存したり、安直な教員養成を行ったり、成果に対して特別な報酬を支払うメリットペイを導入したりして、短期的な利益追求に走っている、と指摘し、専門職の資本への投資する必要があることを主張しています。

しかし、本書の大きな価値は、著者らが、そのためには、何を変革せねばならないかを知る必要があるので、教職について多くの人が抱いているステレオタイプを乗り越えて、教職の本質を徹底的に掘り下げてみる必要がある、と考えて、様々な視点からの考察によって教職と教師の本質を浮き彫りにしている点です。その結果として本書は、学校関係者以外の者が教職や教師、学校文化を深く理解する上でも、また学校関係者自身も自らを省察するのに最適な書籍となっています。

本書では、第2章以降、高パフォーマンスの国々とアメリカの対比がしばしば登場します。しかも、高パフォーマンス国の代表としてフィンランドへの言及が多くなされています。2003年にハーグリーブスの単著として刊行された『知識社会の学校と教師』では、もっぱら自身が滞在し、調査を行ったカナダのオンタリオ州の事例が中心でした。最初のPISA調査の結果が示され、フィンランドの好成績が明らかになったのは2001年です。『知識社会の学校と教師』の刊行以降、フィンランドの教育に対する様々な情報を得る中で、アメリカとの対比がより鮮明になってきたことが、本書に反映されています。

アメリカでは、共和党ブッシュ(子) 政権時代の2002年1月に立法化された「どの子も置き去りにしない法(No Child Left Behind Act of 2002:NCLB)」による、全国一律の到達基準の設定と基準未達に対する制裁措置を軸とする教育政策が打ち出されました。その後オバマ政権になって、その方向転換が期待されましたが、2009年7月に「頂点への競争(Race to the Top:RTTT)」という「競争と結果」を重視する教育政策が実施され、しかもNCLB法が継続されている、という時点で本書は執筆されています。そのような「競争と結果」重視の教育行政が進められ、しかも情報化の進展を好機と捉えたビジネス資本が教育産業への進出を進める中で、教師と学校が疲弊していくことへの対抗として、「専門職の資本」への投資こそ重要であることを、高パフォーマンスの国々の教育政策との対比を軸に主張したのが本書です。

PISA調査は、高パフォーマンスの国々とアメリカ、イギリスを対比させるという点で、ハーグリーブスは随所で利用していますが、PISA調査はリテラシー(読解力)と数学・科学に限定されたものである。その影響で、多くの国々がリテラシーと数学中心のカリキュラムを設定し、そこにビジネス資本が目をつけて「数値データやテスト結果といった狭小なエビデンス」を利用して教育産業として勢力を拡大していくことにも、ハーグリーブスは強く警鐘を鳴らしています。

教職へのステレオタイプ視による歪み

第3章の「教職のステレオタイプ」で、ハーグリーブスらは、私たちの教師に対する記憶と感覚が現在の教職に対する人々の見方や期待に大きく影響しており、選択された記憶によるステレオタイプの多くは、部分的には正しく、部分的には虚構であり、様々な視点から「作られたもの」であることを多くの事例で示しています。そして、ステレオタイプによる虚構が不適切な教職批判を招いている例として以下のようなものを挙げています。

・ケアを大切にする教師は子どもたちを過保護にして、子どもたちの挑戦にブレーキをかけやすい。(p.85 )

・教える中で自分自身を表現したり、情熱に突き動かされて教えたりするのでは、効果的な成果は必ずしも保障されない。(p.86 )

ハーグリーブスらは、従来のステレオタイプ的な見方を取り上げて、そう単純なものではないが、ステレオタイプ的な教師や教職像は、学校現場に度々足を踏み入れた研究者でも抱きがちであることも指摘しています。例示されたステレオタイプ的な見方の記述からも、著者らが、いかに教師と教職の過去と現状を熟知しているかが伝わってきます。ハーグリーブスらは、単に外から観察するだけでなく、プロジェクトを組んで教師へのインタビュー調査を重ね、また、多くの研究者と意見を交わして、今の教師の実態と、教師として教えることがどんなに大変なことであるかを十分に理解したうえで、解決の道筋をその後の章で展開しています。

エビデンスの限界と協働による新たな創造

1990年代以降、エビデンスに基づく教育実践運動が盛んになっています。しかし、測定可能なエビデンスは、しばしば意図的な選択や政治的な意図で歪曲されて学校や教師になげかけられがちです。第4章の「潜在能力とかかわりに投資する」の前半は、このようなエビデンスに対してハーグリーブスらは、限界を見極めて警戒すべきで、教師はエビデンスに過度に頼ることなく、経験を省察的に活用することでよりよい方法を獲得すべきことを勧めています。

この「よりよい方法」に関連して、ハーグリーブスらはここでもフィンランドを例に挙げて「協働での創造」の重要性を指摘しています。その骨子をまとめると以下のようになります。

「フィンランドでは、カリキュラムと教授法を教師が協働で創造していくことは専門職組織の責任と認識されている。効果的な授業実践は、見られ、観察され、経験され、解釈され、探究され、試行されることで初めて実現される。今、求められているのは、専門職の知を絶えず組織として打ち立てていける教師である。そこで必要になるのは、現時点で最良の教育実践と近未来を形作る新しい教育実践をともに用いる教師たちのコミュニティという専門職の資本である。(中略)フィンランドの教師たちが教室で過ごす時間は、他の先進諸国の教師たちよりも短い。フィンランドの教師たちは自らの実践を省察し、探究する時間を豊かに持っているが、アメリカでは正反対である。」

また、社会の急速な変化によって教育自身も大きく変化しつつある中、従来エビデンスにもとづく適切な判断とされていたものも、前提条件が変わることで有効でなくなっていることをハーグリーブスらは、ジョン・ハッティが準備段階、開始時、学習段階、フィードバック段階、終了時という一連の教えと学びを可視化してメタ分析をすることの重要性を指摘したことに一定の評価を示しつつも、以下のように述べています。

「ハッティが教育実践や学校教育の標準時間として採用した授業の単位は、1世紀以上古いものであった。授業という単位は、教師がその場で教える時間だけではない。また、現在、そして近い未来には、教師が教える時間は授業という単位の中で、ますます少なくなることであろう。それは、例えば自然の実地調査、ドラマ制作、午後に行われる総合的な社会研究プロジェクト、協同的なグループワークにおける子どもたち主体の学びへの没頭、地元にある河川汚染の科学的調査、学習障害を抱えた子どもたちを支えるテクノロジーの学び等である。(p.131)」

この記述からも、ハーグリーブスらは、未来の学校における学びが大きく変わることをしっかりと視野に入れていることを読み取ることができます。

教職の継続と同僚の支援

第4章の後半では、教職という仕事の継続にとって同僚との良好な関わり、すなわち社会関係資本がきわめて重要であることに力点が置かれています。

クリストファー・デイらが、「教師の質を改善するための様々な方略を3年目から5年目の若く熱意のある教師たちに対して行い経過を見たとしても費やしたお金や時間の投資に見合う最高のリターンを得ることは望めない」(p.142)としながらも、「教職への意欲を維持し続けた教師のうち、その63%は同僚の存在が決定的に大事だと感じていた。特に、小学校の教師たちはチームワーク、うまくいかなかったときに話せる人の存在、みんな同じ方向に向かおうとしているという感覚といったものに、高い価値を置いていた。」(p.142-143)とする報告や、マイケル・ヒューバーマンが、教職への意欲や情熱についてキャリア・ステージごとに分析した研究を紹介し、ハーグリーブスらは、「第4章のまとめ」の冒頭で以下のように書いています。

「もしも、あなたがプロとして教えることを望むならば、教職に長く留まる必要がある。ただし、永遠に留まりつづける必要はない。求められるのは、あなた自身の中で燃える情熱の火を探し当て、知識やスキルを研ぎ澄ますことである。また、もしもプロとして教えたいと願うならば、勇敢な一匹狼を目指すことは避けて、逆にオープンの助けを―リーダーから、同僚から、そしてあなたの専門性それ自体から―求める必要もある。(p.170 -171)」

専門職としての資本を高めるための要点

以下では、第5章「専門家の資本」と第6章「専門職の文化とコミュニティ」の中から、これは外せないと思ったパラグラフのみを転載します。

「国際学力テストの成績でトップクラスの国々のように、教職はどこでも専門職である必要があり、また専門職として改善し続ける必要がある。そのように私たちは信じている。教師の仕事である教えるという実践は、他の職業に就く前にちょっと試してみるような類の単純な行為ではなく、また、よりよい仕事が何もない時に頼るしかない行為でもない。効果的な教えとはよく準備され、繰り返し実践されなければならない。しかし、教えるという実践の熟達の高みへと完全に至るまでには、複数年の歳月が必要となるのも事実である。」(p.184)

「人的資本と社会関係資本だけでは不十分である。まだ何か見落としている資本がある。それは私たちが意思決定資本と呼ぶものである。専門職の本質は自由裁量の判断を実行する能力である。もしもあなたが被雇用者に対して難しい質問をしたとき、彼が「主任と相談するので、ちょっと待ってくれ」と答えたならば、その人は自由裁量をまったく実行できない専門職ではないと思うだろう。もしも教師がいつもマニュアルばかり参照していたら、あるいは授業が計画どおりにただ、一直線に進むなら、そのような教師もまた専門職でないと思うだろう。なぜならそのような教師はどのように判断していいのか分からないか、あるいは判断することを許されていないとみなされるためである。」(p.208)

「個人主義とは、単なる態度や見せかけても、ましてや教師たちが抱える心理的な苦悩でもない。時間、建物、フィードバックシステムなど、教師の仕事上の文脈や状況に根ざしたものである。しかし、これらの状況、あるいは伝統は、21世紀の初頭に著しい変化を経験してきた。ピア・コーチング、メンタリング、専門職の学び合うコミュニティ、データ・チームは、教師たちをより協働へと導くようになり、新たな可能性を教師たち自身に、教職そのものに、そして教師の専門職性に開拓した。教師たちが協働すれば専門職の資本を育むための機会もはっきりと増えていく。」(p.244)

「協働の文化と社会関係資本について学んだことは何であったか。傑出していたのは二つの基本的な教訓である。第一に、協働の文化を構築する多くの作業がインフォーマルであることだ。つまりは信頼と関係性を育むことが肝心で、それには時間を要する。しかし、もし協働に向けた努力が自発性や偶然性に完全に任されるなら、たいていは消え去り、誰にも理解をもたらすことはないだろう。第二に、同僚間の共同作業に見られる力強い協働は、会議、チーム、構造、規定等の計画的調整から利益を得られるかもしれないが、もしもこれらの調整が急がされたり、押しつけられたり、強制されたりしたならば、あるいは人間関係をより良くするために働きかけを欠いたままに用いられたならば。それらはまたもや効果を生み出さないだろう。」(p.269)

最後のパラグラフにある「調整が急がされたり、押しつけられたり、強制されたりしたならば」について補足しておきます。このような作為的な上からの協働や同僚性に対しては、「画策された同僚性」と表現されており、本書の重要なキー・フレーズです。

なお、第7章「変化を生み出すために歩みを進める」では、変化を起こすためにアクション・ガイドラインが、教師へ、学校と学区のリーダーへ、州や国、国際組織のリーダーへ、と3つに分けて書かれている。若干マニュアル本的な記述となっていますが、著者が様々な立場から教職や教師を俯瞰できる証ともいえます。

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