学校教育とSDGs

2023年7月24日

主体的なカリキュラム作成という力量

諏訪哲郎

カリキュラム作成に関するフィンランドと日本の違い

2021年10月の「SDGsと学校教育」コーナーで、Pasi Sahlberg(パシ・サールベリ)が2021年1月に刊行したFinnish Lessons 3.0 (「フィンランドの教訓」)の抜粋翻訳をアップしました。その第3章では、フィンランドで教師という職業が医師や弁護士に匹敵する高い評価を受けている理由が縷々述べられています。一言でいうと、教師が高い専門性をもち、それを主体的に発揮しうる職業と見なされているから、ということです。その端的な例が、カリキュラム開発と学校運営計画の作成において教師と校長が中心的な役割を果たしているという点でしょう。フィンランドの教師は、学校内で主体的なカリキュラム作成を託されており、教員養成の過程でそれを遂行できるだけの力量が育まれているようです。日本の小学校教員の大半が学部卒であるのに対し、フィンランドの教師の大半は修士修了です。

翻って、日本の教師の場合はどうでしょうか。長時間労働や保護者からのバッシング等でブラック化が指摘されており、教員採用試験の受験者数は年々減少しています。決して社会的に高い評価を得ているとは言えそうにありません。教師という職業に携わっていることについての本人の満足度はどうでしょうか。日々の子どもたちとの交流に、そして授業を通して子どもたちの成長を確認できて満足しているという教員も多いことでしょう。その一方で、6月15日のこの欄にアップした「若手教員の教職に対する意欲と使命感」で紹介したように、小学校の若手教員の間では、時間の経過とともに教職に対する意欲や使命感が低下しています。主体的に対応できているというよりも、日々やるべきことを何とかギリギリこなしているという若手教員も少なくないようです。自らが担当する授業について、主体的にカリキュラム作成をしている教師の比率は極めて低いと思われます。授業以外の様々な用務に時間を取られ、教材研究の時間確保さえままならないのが実態でしょう。「主体的・対話的で深い学び」が謳われながらも、教科書の内容を、場合によっては指導書に頼りながら教えるという、半世紀以前の授業スタイルが今もなお相当部分を占めているのではないでしょうか。

学校・教師の自律性の低さと主体的なカリキュラム作成能力

佐藤学氏は教育調査研究所主催の第5回ラウンドテーブルディスカッションで、OECDの調査結果に基づいて、日本の学校の自律性の低さを下図で示しました。(『教育展望』2023年7、8月合併号、p.24)

日本の学校の自律性の低さ(佐藤学氏の提示図)

上図の濃い色のグラフが「学校の自律性」で、カリキュラムを決定できるか、人事裁量権があるか、予算を独自に組めるかなどの総合的な評価です。日本はOECD諸国の中でも学校の自律性がかなり低い位置にあることを確認できます。実は、過去四半世紀余りの間に、日本では各学校の権限や裁量の拡大が謳われ、その方向に進んできたはずです。しかし、依然として国際的に見て学校の自律性はあまり高まっていないようですし、過去6年間、ある小学校の学校運営協議会の会長を務めてきましたが、その間、コロナウイルスの問題もありましたが、学校の自律性の拡大を感じさせられることはほとんどありませんでした。

その一方で、校長の権限や裁量の拡大は、確実に高まってきたと感じています。学校としての自律性が高まらず、校長の権限や裁量が高まったとすると、結局は一般の教職員の権限や裁量が縮小した可能性が考えられます。このことは、これからの時代に求められる教員の主体的なカリキュラム作成という力量と密接にかかわっているはずです。基本的には信頼されて任されなければ、必要な力量は育まれないからです。

『教育展望』2023年1、2月合併号は、「これからの時代に求められるカリキュラムの在り方」をテーマとした第5回ラウンドテーブルディスカッションを特集しています。しかし、最後の討論では、安彦忠彦、石井英真両先生から、今後は各先生の裁量のもとでカリキュラムが作られるべきであるが、現在の日本の教師については力量に不安が大きいという流れで終わっていました。

前回も提示した下図の直方体の一番上に掲げた「主体的なカリキュラム作成」という力量がこれからの教師には求められるのですが、在職後の研修時間も世界最短レベルですし、修士課程修了者の比率も上がっていません。「小学校若手教員の教職への意欲や使命感」でも紹介したように、出身大学の「一般的な入学の難しさ」で「あまり難しくない/難しくない」の割合が、30代に比べて20代で大幅に増加しています。過去15年の間に初等教員養成に参入した私立大学の多くが、受験者全員合格となっていることと無関係ではありえません。

これからの教師の力量形成モデル(案)(諏訪作成)

しかし、教員のレベルでの「主体的なカリキュラム作成」という力量形成を考えた場合、本当に必要なことは、それぞれの教員が力量を発揮できる環境を整えること重要なのではないでしょうか。これまでの脈絡でいうと、教員の権限や裁量を拡大し、もっと信頼して任せるべきなのではないでしょうか。それとともに、これまでの学習指導要領の在り方の見直しと、上意下達的に現場を拘束する研修等の見直しも必要なのではないかと感じています。

佐藤学氏が主張する教師の力量形成についての正論

前回紹介した第6回ラウンドテーブルディスカッションで、佐藤学氏は日本の教員養成の課題を具体的に説明した後、自身のかねてからの主張であり、まさに正論である「教師教育の高度化と専門職化」を実現するために何をすべきかを論じています。氏の論点を要約したり整理したりすると、本当に主張したかったことが伝わらないので、『教育展望』2023年7,8月合併号から以下に引用させていただきます。

日本が推進すべきこと

そのために何をするかということですが、一つは、2012年の中教審答申で提示された標準免許の修士標準化です。参議院まで行ったんですけども、教師を国家公務員する必要があります。第1次試験は国家試験にするという提案です。二つ目に、専門職化を推進するための新しい人材確保法を制定し、現在の教師の待遇を2割程度高めないと、これは実現できません。三つ目に、教員養成。現在は正規カリキュラムではなく、オプションになっています。こんなのは日本だけです。専門家養成にふさわしい正規カリキュラムでの教員養成をやるべきです。四つ目に教員給料特別法の廃止です。ただで超過勤務させるようなことはすぐに廃止すべきです。

まとめてみますと、質と平等の同時追求の面で、教育未来法でも制定して予算措置を組まないことには、凋落の袋小路から脱出できません。これはぜひとも文科省を含めて動いていただきたいと思います。あとは、日本の学校現場で遅れている21世紀型の教室や授業や学びへのイノベーションを推進すべきこと、専門家共同体としての学校づくりを推進すること、それから市町村教育委員会を主体とする「地域教育イノベーション構想」というのを策定すべきだと思います。(p.25-26)

佐藤学氏の教師の力量形成についての主張は、小手先の対応で何とかなるものではなく、教師教育を本道に戻さねば教師の尊厳を回復し、日本の教育を再度世界に誇れるものに戻すことはできないということで、まさに正論です。 しかし、教師の資格を修士以上とし、国家試験を課したうえで国家公務員とすること、そして、教職課程というオプションで行ってきた大学での教員養成を、正規カリキュラムでの教員養成にすることは、一挙に実現できることではありません。まして今の教員不足が叫ばれている中での「修士標準化」は現実的には無理があります。教員免許取得者の大半が、正規のカリキュラムでないオプションの課程で取得している現状を一挙に変えることも不可能です。お金で何とか解決できそうな、待遇を2割ほどアップさせる新しい人材確保法の制定も、財源不足が叫ばれている今日、望み薄です。1949年の教育職員免許法制定から74年間マイナーチェンジしか行わなかったことで、さまざまな利権ががっちりと根を張り巡らしている中で、佐藤学氏の正論を実現することは絶望的なレベルの困難な作業と判断せざるを得ません。では、何もせずに手をこまねいていてよいのでしょうか。ますます事態が悪化してしまうことは目に見えています。何とかできそうなところから早速手を付けるべきですし、最後で述べるように、社会の変化が急激で、しかも様々な難題が押し寄せている今日、中途半端な「改善」ではない、抜本的な改革へ向かうことが求められています。

日本の立ち遅れの実態に対する体感での認識

まずは、日本の教員養成制度が70年以上にわたって停滞した結果、世界の趨勢から大きく立ち遅れている実態を、学校教育の当事者が単なる知識としてだけでなく身体感覚として受け止め、それを周りに拡散することから始める必要があるでしょう。

7月1日のNPO法人八ヶ岳SDGsスクールの講演会の翌日、多田孝志氏、佐藤学氏を囲む少人数の勉強会を実施しましたが、その場で話題にあがった、教員の定期的な異動が日本独特であることや、大学の正規カリキュラムに付加されたオプションして教員免許を取得できる日本の教員養成制度が世界でも稀有な例であることを、数十年の経験を持つベテラン教員が、「初めて知った」と驚いて受け止めていました。日本の教員養成の在り方として佐藤学氏の描く姿を正論として受け止めて、そこに向けて本気で取り組もうという人を増やすには、このようなことを単に知識として知るだけでは不十分です。

上図の右の吹き出しに書き込んだように、「海外研修の拡大」が有効と考えています。「主体的なカリキュラム作成」が当たり前となっている国の学校に入って、長期間の参与観察を行うという海外研修を拡大させることで、ようやく事態が動き始めるのではないでしょうか。海外の先生方が主体的にカリキュラムを作成している姿を体で感じ取れるような、1年ぐらいゆっくりそこで暮らすような研修を実施し、その人が戻ってきて日本を見たときに「これは大変だ」「今後ますますギャップが大きくなってしまう」と痛感し、「自分たちで主体的にカリキュラムを作りましょう!」と周りの先生方を巻き込むような動きが出てくるで、ようやく事態が動き始めるのではないかと思っています。 「アクティブ・ラーニング」が4回も登場した2014年の下村文科大臣(当時)の中教審に対する諮問から間もなく10年が経過しようとしています。「主体的・対話的で深い学び」が授業の場に浸透し始めていることを感じることもしばしばです。しかし、教員自身が自らの力量を向上させるために「主体的・対話的で深い学び」「探究的な学び」をどれほど心がけているのでしょうか。教育委員会関係者や学校の管理職が、若手教員自身に対して「主体的・対話的で深い学び」「探究的な学び」を促し、主体的に力量形成を行うようにどれほど働きかけているのでしょうか。

免許更新講習を通して知った教員研修の実態

もう5年ほど前になりますが、財団法人日本環境教育フォーラム主催、学習院大学協力という免許更新講習を数回実施しました。川嶋直氏、中野民夫氏というワークショップ界の両巨頭による、「アクティブ・ラーニング」満載の講習でした。以下がその時のプログラムの概要です。筆者が担当した講義も、自らが大学の授業で実施しているアクティビティを紹介しながら、なぜ「主体的・対話的で深い学び」「探究的な学び」が求められているのかを語り、教師自身がアクティブ・ラーナーになることが求められていることを訴えたものでした。 その時、多くの受講者は、教育委員会などによる研修が、学習指導要領の解説などを中心とするもので、旧態依然とした「知識伝達型」の講義が主流であることを訴えていました。それから5年ほどが経過し、教育委員会などによる研修も様変わりしていることを期待したいところです。しかし、3年余りに及ぶコロナウイルスの拡散で、学校現場は再びかつての「知識注入型」の教え込み授業に戻りつつあるという情報がしばしば耳に入ってきます。

日本環境教育フォーラム主催の免許更新講習のプログラム(原図は川嶋直氏作成)

教科の枠組みと時間配当の抜本的な見直し

教員の長時間労働が顕在化してからすでに2~30年は経過していますが、一向に解消されていません。社会の進展に応じて学習課題が増えていくなかで、カリキュラム・オーバーロードが世界中で問題化し、その解決に向けた試みが始まっています。すでにこの欄でも取り上げましたが、文科省の白井俊氏は、教科の内容をビッグアイディアやキー・コンセプトに基づいて大胆な編成替えに取り組んでいる事例などを紹介しています。

現行の学習指導要領の策定に当たっては、どこかからの強力な圧力の結果だとは思いますが、早々に「学習内容の削減は行わない」と決めてしまったため、日本におけるカリキュラム・オーバーロード対策は完全に10年立ち遅れてしましました。「後発の利」と善意に解釈すれば、現行の学習指導要領で中途半端な学習内容の削減を行わなかったことで、次回の改訂では思い切った改革が可能になる条件が整ったと言えるのかもしれません。もしそうであれば、まさにここで話題にしている各学校や各教員による「主体的なカリキュラム作成」を促す仕組みをしっかりと盛り込んでもらいたいものです。あくまでも試案ですが、以下のような以下のような次期学習指導要領の大枠を提案したいと思います。

(1)教科の指導に充てる時間を3割から5割削減し、STEAM教育のような教科を統合した授業や探究に充てる時間を2割から4割増やし、全体としての授業時間を1割削減する。

(2)教科指導の時数削減と探究・STAEM的時数の増加計画は、各自治体の教育委員会ないし各学校に委ねる。ただし、文部科学省は、教科指導の時数5割削減と探究・STAEM的時数の4割設置のモデルプランぐらいは提示する。

(3)教科の内容に関わる学習指導要領の記述は大枠にとどめ、各学校、各教員の裁量で軽重をつけたり選択できる柔軟さを大幅に確保する。

(4)中学校についても高等学校と同様に単位制を採用し、教科ごとに必修領域を残しつつも、極力学習者の興味関心に沿った科目の選択履修を可能にする。

提案の根底にある時代観や学びの本質

この提案の根底にあるのは次の三つの考え方です。

第一は、すでに内閣府の「Society5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」でも示唆されているように、もはや100年以上も前の枠組みに沿った既存の教科に分割して授業を行う時代ではなくなっているという時代観です。それぞれの教科の基礎・基本の重要性は否定しませんが、それ以外の自教科中心的な「あれも重要、これも必要」が積み重なっているのが現状でしょう。各教科に求められているのは、まさに内容の精選と新たな視点からの内容の統合です。教科によっては、「新たな教育課題が次々と湧き出ており、時間数の削減どころか増やしたいぐらいだ」と言いたいところでしょう。しかし、21世紀に登場してきている新たな教育課題は、既存の単一教科で対応できるものはほとんどないはずです。複数の教科を統合したSTEAMで探究的に取り扱うことが望ましいものが大半のはずです。ただし、教科の基礎・基本の重みは、学校種によって異なります。小学校では、教科の指導に充てる時間の削減率を減らし、高校では削減率をうんと高めるような配慮は必要かもしれません。

「政策パッケージ」が「これからの学校」として例示した「教科の枠組みを超えた実社会に活きる学び」である「教科等横断・探究・STEAM」は、まさに21世紀の様々な要素が絡み合った課題を扱うには不可欠な枠組みです。そしてこの枠組みを学校教育に定着させるには、(1)で提示した新たな時間の枠組みを作らねば、動き出さないであろうという判断もあります。

ちなみに、「探究・STEAM」について、「政策パッケージ」には「専門性の高い高専生や専門高校生がインストラクターとなり、小中学生への学びを支援したり、高専の最先端機器等を活用した実験・実習等が体験できるよう、高専や専門高校を小中学生にとって身近な場所になるよう支援」とも書かれています。どこまで実現できるかわかりませんが、ここには「教室の中だけ」で「教員だけ」が授業を行う姿とは異なるものがイメージされています。(ただ、残念ながら現時点での次期学習指導要領に関する議論は、これまでの流れから二三歩前進させようというレベルにとどまっているように思われます。)

第2の根底にある考え方は ”Teach Less, Learn More” という、すでに、シンガポールやフィンランドで確認済みの事実です。「たくさん教えれば、子どもたちがより多く学び、学力も向上する」というのは、多くの先生方の思い込みでしかないことを改めて強調したいと思います。子どもたちが頭脳をフル回転させて成長しているのは、自分が関心を寄せたことと必死で取り組んでいる時です。佐藤学氏がしばしば指摘する、ただ授業に向かっているふりをする「学びの偽装」の時間は、脳の成長停止状態と言ってもよいでしょう。

ただし、ここでもう一つ強調しておきたいことは、多田孝志氏が特に近年強調している「学びの根、人間性の根幹」が幼少時からしっかりと作られている必要があるということです。多田氏は第6回RTDで以下の図を提示しています(『教育展望』2023年7、8月合併号のp.12ではモノクロで掲載)。「子供が生来もっているもの」である「感性、感覚、好奇心、遊び性」などを存分に伸ばすこと、そして様々な体験、特に自然との触れ合いなどを通した育まれる「学びの基盤」を確固としたものにすることが、「新たな時代の学び」の礎になることが示されています。

多田孝志氏による「人間的成長」

第3は、課題への取り組みを信頼して任せれば、大抵の人は予想以上の力を発揮するものだ、という経験則です。あれこれ指示したり、小言を並べるのは、やる気をなくさせるだけです。「こうした方がよい」「そうやってはいけない」という指示が出される結果として、多くの指示待ち人間を作ってしまっています。上記の提案で示したような大きな時間配分の枠組みを示し、そこに最もいいと思う図柄を埋め込んでみてください、という先生方への「主体的なカリキュラム作成」という課題は、佐藤学氏の言葉でいえば「ジャンプの課題」です。「ジャンプの課題」が提示され、それと格闘し始めれば、多くの教員が考えられないような力を発揮し始めるはずです。「主体的・対話的で深い学び」は児童生徒の成長を促すだけではありません。教師自身も「主体的・対話的で深い学び」を通して成長していきます。同様に児童生徒にとって有効な「ジャンプの課題」も、教師が飛躍的な成長を遂げる上では不可欠な要素と言えそうです。ただし、その場合も、教員が個々別々に進めるだけでなく、グループとなって課題に取り組むことが肝要と言えるのでしょう。

構想実現のバリアとしての入試制度も急速に変化する(はず)

以上、将来を見越したかなり大胆な提案をしてきましたが、このような構想を実現する上で、大きなバリアが存在していることは自覚しています。その一つは入試制度、特に大学入試です。学齢人口の減少によって、大学全入時代になったとはいえ、いわゆる有名大学、難関大学への入学実績を競い合う風潮はまだしばらくは変わりそうにありません。この問題に対する有効な試案を持ち合わせているわけではありませんが、大きな変化がそろそろ起こりはじめるであろう、という予感はあります。

文科省の最新の推計では、日本の大学の定員充足率が2040年には80%にまで低下するということです。当然、多くの私学は経営が悪化し、撤退を決断するでしょうが、新たな魅力づくりで生き残りを探る動きも活発化するでしょう。一方で、経済の長期的な停滞によって、いわゆる有名大学、難関大学が集中する首都圏に子弟を送り出す余力のない世帯が増加していくはずです。そしてこの3年余りのコロナウイルス拡散によるリモートワークの定着。そのような環境の変化の中で、いよいよインターネットを介した遠隔授業や生成AIを利用した非対面型の大学の講義が本格化していくことは間違いありません。

いわゆる有名大学、難関大学の価値として、先輩とのつながりによる就職時の有利さが指摘されてきました。しかし、日本のかつての終身雇用制度はもはや風前の灯です、一つの職場に留まる期間が短くなるにつれて、先輩との関係が機能する最初の就職の重みは薄れていき、本人の持つ魅力や実力が重視される時代が到来することも間違いありません。いわゆる有名大学、難関大学の価値の低減は着実に進行し、しかもそれは今後加速化するはずです。

最後に、7月1日のNPO法人八ヶ岳SDGsスクールの講演会で提示した、筆者の時代観を示す図を提示しておきます。20世紀は、産業別就業人口が大きく変動する激変の時代でした。それでも第一次産業への就業者が大半を占めていた20世紀初頭から、第三次産業就業者が過半を占める20世紀末までの変化は、連続的なものでした。基本的にはモノを作ることの重要性を残しつつ、機械化等によるモノづくりの効率化が進むにしたがって徐々に流通・サービス等の媒介的な役割が拡大する、という理解しやすい連続的な変化でした。しかし、20世紀後半から集積されてきた高度な科学技術と20世紀末から飛躍的な発展を遂げた情報通信技術によって、21世紀に入ってからは「異次元」とも「不連続」ともいわれる変化が生じています。また、地球温暖化や生物種の大量絶滅など、これまでの人類の利益や利便をひたすら追求してきた活動によって、持続可能性の危機が差し迫っています。

このような「不連続な変化」と持続可能性の危機という新たな局面に世界が入ってきているという認識に立てば、学校教育についても従来のスタイルを温存しつつマイナーチェンジを重ねていくことは、「小出し手遅れ(Too Little, Too Late)」を引き起こすことにほかならないと納得してもらえるはずです。「持続可能な社会の創り手」となる教育に向けた「大きな飛躍(Giant Leap)」が求められています。

20世紀と21世紀の非連続な変化(諏訪作成)
2023年7月12日

「持続可能な社会の創り手となる時間」の創設を

諏訪哲郎

教育調査研究所主催の第6回ラウンドテーブルディスカッション

教育調査研究所は、過去2年半に6回のラウンドテーブルディスカッション(以下、RTDと略称)を実施しています。2021年11月に実施した第1回RTDでは、「SDGs/ラーニング・コンパス2030が描く教育の未来」というテーマで、文部科学省の白井俊氏を囲み、学習院大学文学部教育学科特任教授の栗原清氏や筆者が、学校教育に対するOECDの新たな示唆と今後の学習指導要領への影響について話を伺いました。印象深かった点は、カリキュラム・オーバーロードに対して、カナダのブリティッシュコロンビア州のカリキュラムで採用されている「ビッグ・アイディア」を中心にまとめることが有効ではないかという白井氏の発言でした。これまでの硬直的な教科の在り方に一石を投じようとしているかに見られました。この第1回RTDの内容は、その後一定期間動画配信されるとともに、『教育展望』2022年1、2月合併号に掲載されました。

2022年7月に実施された第4回RTDでは、「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージをめぐって―「教員」をめぐる課題を中心に―」というテーマで、内閣府の教育・人材育成ワーキンググループのメンバーであった岩本悠氏とフィンランド大使館に勤務する堀内都喜子氏を招いて、内閣府が教育・教育人材育成に乗り出した真意や、フィンランドの教員が定時に学校から退出できる理由などを聴きました。特に印象に残っているのは、ワーキンググループ内で共有されていたのが、「熾烈なイノベーション競争における日本の立ち遅れに対する強い危機感」であったという岩本氏の発言でした。この第4回RTDの内容は、『教育展望』2022年9月号に掲載されています。

そして、この5月に開催されたのが第6回RTDです。金沢学院大学教育学部長の多田孝志氏、東京大学名誉教授の佐藤学氏を招いて「日本の学校教育の現状と変革の方向性」というテーマで行いました。そこでの様々な問題提起の中でも、とりわけ重要だと感じたのが、多田孝志氏が指摘された「学びの根、人間性の根幹」です。児童生徒が人間的な成長を遂げて行く上で「根っこ」になる学びの基礎が重要であるにもかかわらず、その形成に不可欠な自然体験や、それらを通して育まれる身体感覚の欠如が著しいという指摘です。それを聴いていた筆者が感じたのは、「学びの根、人間性の根幹」が揺らいでいるのは児童生徒だけでなく、若手の先生方にも当てはまるのではないかということです。前回取り上げた高校「教育コース」の拡充提案も、これから先生になる人が大学入学以前に、豊かな自然体験などを通して「学びの根、人間性の根幹」をしっかりと育んでほしいという思いからでした。

一方、佐藤学氏の、日本の学校教育が世界からどんどんと取り残されているという指摘も、説得力のある数値で示されただけに、強烈でした。例えば、教師の学歴のグローバルスタンダードが修士学位をなっている中で、日本の小学校4年の算数教師の修士以上修了者の比率は2019年も5%のままで、2011年から増えていません。また、日本の教師の研修時間の減少も著しく、1966年から2018年の半世紀余りの間に校内研修が5分の1に激減しているという数値を佐藤学氏は示しました。この第6回RTDの内容は『教育展望』2023年7、8月合併号に詳しく紹介されていますので、ぜひ目を通していただければと思います。

なお、上記の第1回、第4回、第6回のRTDのすべてで、東京都市大学環境学部の森朋子氏が見事なファシリテーター役を果たしています。それだけでなく、今回はトランジションという視点から、重要な問題提起をしています。「社会システムの中に埋め込まれた問題」が変革へのトランジションの足を引っ張っている例を示したのですが、それを敷衍して「学校教育システムの中に埋め込まれた問題」を考えると、何が日本の学校教育の変革の足を引っ張っているのかが見えてくる思いでした。

「持続可能な社会の創り手となる時間」の創設提案

この第6回RTDにおいて、筆者は自分の持ち時間10分の中で、今回の主要なテーマである「持続可能な社会の創り手となる時間」の創設提案を行いました。以下、『教育展望』2023年7、8月合併号の諏訪の提案部分(p.15-18)を抜粋・転載することで、提案の骨子をお伝えしたいと思います。

具体的な提案として、「持続可能な社会の創り手となる時間」というものを作ってはどうかという提案です(図1)。これは実に素朴な自然な発想です。現行の学習指導要領の前文に、「これからの学校には、(…)一人一人の児童生徒が、(…)多様な人々と協働しながら、(…)持続可能な社会の作り手となることができるようにすることが求められる」ということが明記されました。つまり、学校教育について、新たな目的が加わったと思っています。それならば当然それに対応する時間を設けるべきだということです。もう一つ意図がありまして、持続可能な未来を構築しようという国際的な動向、あるいは世界の教育改革の潮流というものを考えたときに、新しい仕組みを学校教育に取り入れるには、新しい時間を設けることが有効なのではないかということから発想したものです。

「持続可能な社会の創り手となる時間」の試案

①児童生徒主体のプロジェクトに

具体的にはどういうものかというと、あくまでも試みの案でいろいろなことが考えられるかと思いますが、「持続可能な社会の創り手となる時間」というのを創設し、毎月1回、4時間連続の時間で行います。しかも3学年縦割りで、児童生徒主体のプロジェクトを行う。そこには、教員だけでなく、保護者や地域の人々なども参画・伴走する。テーマはいうまでもなく、持続可能な社会に関わるものです。例えば、小学校の低学年であれば、米や野菜作りを実際にやってみる。小学校の高学年だったら、食品ロスとかプラスチック製品の削減の大作戦を行う。中高生になったら、世界中の中高生と私たちの未来について語り合うというようなテーマです。それらを年間を通してのプロジェクトとして行い、10月ぐらいに中間発表し、年度末には全体発表会をして発信しようというものです。(一部略)

②この時間を設ける背景

なぜこういう時間を設ける必要があるかという背景ですが、まず一つは、国連の持続可能な開発目標、いわゆるSDGsが、2015年に国連で全会一致で採択されました。持続可能な未来の危機感が大きなものになっています。世界を変革しなければいけない、誰一人取り残さないようにしなければいけないということがいわれているからです。それからもう一つ、以前のこのラウンドテーブルディスカッションでも話題になりましたが、OECDが、「ラーニングコンパス2030」というものを発表しました。学習者の主体性を重視するとともに、到達目標に、個人と社会のウェルビーイングを設けて、コンパス(羅針盤)を使って自ら進むわけです。その羅針盤の中には重要なものとして、「変革をもたらすコンピテンシー」が掲げられています。新たな価値の創造、対立やジレンマへの対処、責任ある行動といったコンピテンシーが求められているのです。

一方、国内でも、内閣府が「Society 5.0の実現に向けた教育人材育成に関する政策パッケージ」というものを出しました。図2の左側と右側に、これまでとこれからの学校が描かれています。もとの図は、左と右、これまでとこれからが完全に分かれていたのですが、斜めの白線が入れられるようになって、これらは左から右にどんどん動かす必要があるんだけれども、左も残す。右もこれからますます重要になるということで、二項往還といえるかと思います。

設置が望まれる背景としての日本の教育革新の動き

右側を見ますと、学年・学校種を超える学びや、教科を統合する探究、STEAM教育、あるいは教師は伴走者とか、学外の多様な人材との協働体制が非常に重要になると書き込まれています。(一部略)特に、学外の多様な人との協働体制を創るということが、これまでの学校ではなかなかなされていませんでした。しかしこれはかなり重要なことでしょう。まさに、先ほど申し上げました「持続可能な社会の創り手となる時間」の重要なものとして、保護者、地域の人々などが参画するという部分と、もう一つ、学年を超えた学びというのが先ほどあったんですが、3学年縦割りなども、試しにこの「持続可能な社会の創り手となる時間」で、そういう新しいアイディアを取り入れることができるのではないかということです。

③地域の学習共同体に

さて、実際に、私自身が学校運営協議会の会長をしております東京都杉並区西田小学校で、コロナ前にこういう試みを行いました。「NISHITA未来の学校」というもので、図3の写真の中にパネルがたくさんありますが、この半分ぐらいは子どもたち、半分ぐらいは大人、先生方あるいは地域の人たちあるいは卒業生のものです。そういった人たちが自分たちのプロジェクトの成果を発表して、意見を交換しているのです。ここでは子どもたちは発表者であるとともに、大人の発表に対する質問者でもあります。それがとても豊かな学びをもたらしたということを実感していまして、その後、西田小学校では、大人が子どもたちの学びに関わる機会を増やしています。これがなかなかいい感じで、大人も子どもも学べるというようになっているのです。

子どもも大人も一緒に学ぶNISHITA未来の学校

この「持続可能な社会の創り手となる時間」というのは、もう少し先を見越したことからも発想しております。どういうことかというと、先々地域の学習共同体というような姿が学校の姿として重要になってくると考えています。つまり、今は子どもたちだけが学ぶ場としての学校ですが、これからは老若男女みんなが学ぶ生涯学習の場、そして全員参加で持続可能な地域社会を探求し創造し、活動する活力ある地域社会を創出していく場、そのようなイメージの地域の学習共同体というのが、将来描けるのではないでしょうか。少子高齢化が進んでくわけですが、今後の少子高齢化社会に適した学校のモデルとして、今申し上げたような「持続可能な社会の創り手となる時間」というようなものを、次の学習指導要領において大胆に取り入れてみてはどうだろうかということです。これからの大きな流れを見越したときにこういう提案があってもいいのではないかと思い、提案させていただきました。

学外者との協働活動によって必然的に生じる対話がもたらす力量

今回の第6回RTDでは、質疑応答や新たな問題提起に充てる時間をしっかりと確保しました。そして、事前に多田孝志氏、佐藤学氏から受け取っていたPPTの内容からも、また安彦忠彦氏、石井英真氏、白井氏が登場した前回の第5回RTDでも、もともとのテーマは「これからの時代に求められるカリキュラムの在り方」だったのですが、最後は、「要するに教員の力量形成が不安だね」ということになったことから、「教員の力量形成」が話題になると思い、以下の図を用意してRTDに臨みました。幸いファシリテーターの森朋子氏の見事な進行もあって、図の意図を説明する時間も確保できました。

SDGs時代の教員の力量形成モデル(案)

以下、再び『教育展望』2023年7、8月合併号における上図のうちの「学外者との対話」についての説明部分(p.34)を抜粋・転載させていただきます。なお、直方体の底の「感性や身体性を育む諸体験」の部分は、前回書いた高等学校の「教育コース」拡充に関連した部分に相当します。

今の先生方は忙しくて研修を受ける時間もない、自分で力をつける時間もないという実態がある中で、ではどうすればいいのでしょうか。実は先ほどお話した「持続可能な社会の創り手となる時間」の中で重要な点は、学校以外の人とのコラボ、協働体制というもので、そういったことを考えたときに、学外者との対話ということが、先生方の力量を向上させるのに役に立つのではないかと思うのです。学外者が、先生方とともに児童生徒を伴走する、そういう出会いの中で、学外者との対話というのができれば、それは一つ役に立つのではないかと思ったわけです。

学校教育への学外者の関与の必然性と懸念

2022年6月に内閣府の総合科学技術・イノベーション会議で採択された「Society 5.0の実現に向けた 教育・人材育成に関する政策パッケージ」では、これからの学校教育の在り方として、「分野や機能ごとの多層構造・協働体制・様々なリソースを活用」を提唱しています。これまでのPTAや学校支援本部が果たしてきた学校や教員をサポートする「裏方」的な役割から一歩進めて、学校の教職員が果たしてきた役割の一翼を担うイメージです。しかし、本当にこのような構想は現実的なものでしょうか。この構想については、二つの点が気になります。第一点は、実は、様々なリソースとして挙がっているのは、「社会・民間の力 大学、高専、企業、NPO,研究機関、福祉機関、行政、発達支援の専門家等」です。このような人材の発掘は、大都市周辺では可能かもしれませんが、それ以外の地域では困難と思われます。また、中央と地方の格差のさらなる拡大を招くことにつながる懸念があります。第二点は、そもそも今の学校、特に小学校に求められている学外者は、ここにあがっているような専門家なのでしょうか。少なくとも小学生の場合、地域で出会う普通の大人たちの方が重要なのではないでしょうか。大人がときどき教室に現れて、自分たちの学びの場に加わって、色々と質問をしたり、「へぇー、よく知ってるねぇ」と褒めてくれたり、ということが子どもたちにとっては大きな刺激となります。また、保護者以外の地域の大人たちが子どもたちと出会い、先生方と出会うことで、今の学校が抱えている課題を共有してもらうことにも大きな意味があるように思います。

現実には、保護者にしても地域の方々にしても、かつての教え込み、知識注入型の教育を受けてきています。したがって、新しい「主体的・対話的で深い学び」の実践への参画を求められて、すぐに対応できるわけではありません。しかし、それぞれが学んできた多様な経験を生かし、子どもたちの未来をより良くするために知恵を出し合い、対話を重ね、試行錯誤を繰り返していけば、これまでにはなかった新たな可能性が開けてくる予感がします。

大局的な視点から学校教育の将来の姿を描いてみると、この学外者の教育への参画は必然の姿と思われます。社会の急激な変化と長寿化が一緒に到来している現代の日本。しかも地球温暖化のようなグローバルな課題から、身近にあった店舗が利用者の減少で次々と消えていくといったローカルな課題も一緒に押し寄せています。学校はこれまでとは違った役割を持たざるを得なくなっています。約百五十年前に、国家に有意な均質な人材を生み出す仕組みとして近代公教育制度が誕生し、すべての子どもたちが学校で教育を受けるようになりました。しかし、AIの目覚ましい発展によって消滅していく職種の拡大が現実味を帯びており、就職後も学び続けることが不可避となりつつあります。また、人生百年時代といわれるなか、退職後の人生を豊かにするという意味でも、学びの継続は重要性を増しています。そして、持続可能な社会を維持するにも、現代の大人は直面する課題の解決に向けて学び続けることが求められています。まさに「生涯学習社会」の到来です。このような大人の側の事情の変化も生じている中で、これからの学校はこれまでとは違ったものとならざるを得ません。学校は子どもたちだけが学ぶ場ではなく、大人たちも子どもたちと一緒に学び合う場に移行していくであろうし、それが望ましいのではないでしょうか。

改めて中教審の地方創生答申を読む

2015年(平成27年)12月21日に中央教育審議会が提示した「新しい時代の教育や地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・協働在り方と今後の推進方策について」答申の第1章第1節には以下の記述があります。

2 学校と地域の連携・協働の必要性

教育は,地域社会を動かしていくエンジンの役割を担っており,教育により,子供た ち一人一人の潜在能力を最大限に引き出し,全ての子供たちが幸福に,より良く生きられるようにすることが求められている。 学校は,全ての子供たちが自立して社会で生き,個人として豊かな人生を送ることができるよう,その基礎となる力を培う場であり,子供たちの豊かな学びと成長を保障する場としての役割のみならず,地域コミュニティの拠点として,地域の将来の担い手となる人材を育成する役割を果たしていかなければならない。一方,地域は実生活・実社会について体験的・探究的に学習できる場として,子供たちの学びを豊かにしていく役割を果たす必要がある。

また第2節には以下のように書かれています。

1.これからの学校と地域の目指すべき連携・協働の姿 (1)地域とともにある学校への転換

社会総掛かりでの教育の実現を図る上で,学校は,地域社会の中でその役割を果たし,地域と共に発展していくことが重要であり,とりわけ,これからの公立学校は,「開かれた学校」から更に一歩踏み出し,地域でどのような子供たちを育てるのか,何を実現していくのかという目標やビジョンを地域住民等と共有し,地域と一体となって子供たち を育む「地域とともにある学校」へと転換していくことを目指して,取組を推進していくことが必要である。すなわち,学校運営に地域住民や保護者等が参画することを通じ て,学校・家庭・地域の関係者が目標や課題を共有し,学校の教育方針の決定や教育活動の実践に,地域のニーズを的確かつ機動的に反映させるとともに,地域ならではの創意や工夫を生かした特色ある学校づくりを進めていくことが求められる。

さらに、第3章第1節にも以下のような記述があります。

地域における学校との連携・協働を進めていく際には,子供たちの将来,子供たちの 成長・発達に向けて,何よりも子供を軸として検討することが必要である。すなわち, 変化の激しい社会の中で,次代を担っていく子供たちに対して,どのような資質を育む のかという目標を共有して,地域社会と学校が協働して子供の教育に取り組んでいく必 要がある。また,今後は,子供たちを社会の主体的な一員として受け入れ,子供も大人 も,より多くの,より幅広い層の地域住民が参画し,地域課題や地域の将来の姿等につ いて議論を重ね,住民の意思を形成し,様々な実践へつなげていくことが重要である。 このように,子供の教育という共通の旗印の下に,地域住民がつながり,地域と学校 が協働することで,従来の地縁団体だけではない新しい人と人のつながりも生まれるで あろう。さらに,地域社会の課題解決にも,地域の一員として学校も関わっていくこと につながる。このため,真の意味で地域と学校が連携・協働することを目標としていく必要がある。

若手教員に求められる力量の形成を改めて考える

このような中教審答申が出されましたが、残念ながら、具体的な提案としては、学校運営協議会の設置についての教育委員会の努力義務化や、学校運営協議会に学校の応援団としての役割が付加されたことなどで、教員の基本的な力量形成に関わるものへの言及はありません。したがって、教員養成や教員研修の在り方を大きく変えるものにはなりませんでした。

しかし、地域や学校の将来像を視野に入れた場合、これからの若手教員には、学外者との協働活動を進める過程で必然的に生じる対話を通して身につけていくような力量が不可欠であることは納得してもらえることでしょう。現在の大学における教職課程で学ぶだけでは不十分であることは言うまでもありません。激減している校内研修、しかも「タテ社会」の身内による古めかしい学校文化の再生産を意図しているかのような研修では新しい時代が求める力量形成がなされることもあり得ません。実際にそのような場面を通しての、ある意味OJT(On the Job Training)のような、適切な環境がととなわない限り身につけることのできないタイプの力量と言えるのかもしれません。

前回提案した、教師の「学びの根、人間性の根幹」をしっかりと育むための高校「教育コース」の拡充とともに、必然的に学外者との対話を促すことになる「持続可能な社会の創り手となる時間」の創設も是非実現してもらいたいものです。

しかし、それとともに、やはり、学校自身が、そして教師自身がカリキュラムを作る主体になるという、より高レベルの力量の獲得も必要となります。これについては次の機会に述べたいと思います。

2023年7月2日

高等学校「教育コース」の拡充を

諏訪 哲郎

革新を阻む完成度の高い学校教育システム

これまで2回にわたって教育調査研究所研究紀要第102号『若手教師の悩みに応える』(2023年6月5日刊行)に掲載された調査結果で気になった事柄を取り上げました。1回目は、小学校の若手教員で「教職に意欲や使命感が持てない教師」の割合が3年目以降増加しているグラフなどから、今後の小学校教員の力量形成への懸念について書きました。また、2回目は、「地域とともにある学校」の重要性が指摘されているにも関わらず、若手教師に対する指導で重視している項目の中に「地域の人々との関係」が希薄であること、そしてその背景に教育委員会主や学校内の、いわば身内ともいえる、「タテ社会」の枠内での若手教員に対する指導体制に問題があるのではないかということ、さらにはいったん完成度の高いシステムが出来上がると、容易に新しいシステムに移行しないことについて述べてきました。

この完成度の高い学校教育システムは、地域との関係だけでなく、授業の在り方など様々な面で学校教育が社会の変化に対応した迅速な動きを生み出さない理由となっています。学校教育に限らず、あるシステムが順調に稼働し始めると、そのシステムによって生み出される利便や利益が、そのシステム自身の存続・延命をもたらす力として働くからです。しかし、現代の情報システムを見ていると、目まぐるしいぐらいに新しいシステムが次々と導入され、革新されています。時代遅れのシステムを維持していたら、熾烈な競争から脱落していくからです。システムの淘汰という力が存続・延命の力を圧倒してしまうからです。しかし、学校教育の世界ではそうはならないようです。システムの更新を妨げるような力が根強く存在しているようにも思われます。

古いシステムの温存は様々な側面で大きな歪みを生み始めています。6月20日の朝日新聞は、公立学校の新任教員の退職者が増加し、2021年度には新任教員数に対する退職教員数が1.6%に達し、2015年度から6割ほど増加したことを報じています。教員の長時間労働や保護者からのクレームだけでなく、学校内の人間関係など、様々な要因が積み重なった結果と言えるでしょう。これからそのような課題の解決のために具体的な提案をいくつか書いていこうと思います。

まず今回取り上げるのが、高等学校改革に関わる事柄です。少し意外な切り口と受け取られる方が多いと思います。しかし、小学校若手教員に関わる課題の解決に向けてどこから取り組むべきかを考えようとすると、「高等学校から着手して見たらどうだろうか」ということになります。小学校若手教員にかぎりませんが、教師の固有の特性が、学校教育というシステムの中でどのように作られていくのかを辿っていくと、納得していただけるのではないかと思います。

ダン・ローティの指摘する「観察の徒弟制」と「教師は教えられた方法で教える」

この教師に固有の特性については、ほぼ50年前にダン・ローティが『スクールティーチャー 教職の社会学的考察』の中で見事に描出しています。他の専門職と比較して教職には「個人主義・現状主義・保守主義」が顕著にみられることを指摘し、その由来についても解き明かしています。この「学校教育とSDGs」欄でも2022年5月9日にかなり長々と紹介したことがあります。特にこれから展開する今回の提案とも関わりが深いので、要点のみを列記しておきます。

・ローティは教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」の形成要因を探究する上で、「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造の学校」「精神的報酬」「風土病的不確実性」の4つを重要な分析概念としています。

・「観察の徒弟制(apprenticeship of observation)」とは、教師は、職業としての教職を自分自身が学校で長年授業を経験する過程で観察し、あたかも「徒弟制度」のように、教職についての文化や価値、規範などを身に付けているという意味です。

・「卵のパッケージ構造の学校(egg crate school)」とは、一まとまりの形状をしていながら、それぞれが分断されてしまっているという学校の教室の姿、あるいはそのことに由来する各教員の孤立した姿を表現しています。

・「精神的報酬(psychic rewards)」とは、教師の文化では他の専門職に比べて経済的な報酬や名声が少ない教職に、多くの人が参入し、止まっている理由として、教師が精神的報酬を重視しているからとローティは結論づけています。

・「風土病的不確実性(endemic uncertainties)について、ローティは、模範にする具体的なモデルが不在であることや教師の成果に対する評価が曖昧であること等の不確定性を上げています。このことについて、佐藤学氏は本書の「序」で「教師たちは「不確実性」によって絶えず不安に陥り、教育学の専門的知識に不信感を抱き、自らの経験を絶対化し、教育の理念においても理論においても知識においても集団的合意を形成せず、それぞれが悩みながら孤立している。」と解説をしています。

ローティは、教師のエートスとなっている「個人主義」「現状主義」「保守主義」を克服しなければ、教師や教職の置かれる状況は一層悪くなることを予言しています。

ダン・ローティの提示した4つの分析概念の中でも「観察の徒弟制」は重要で、教師は、小中高そして大学での授業を通して16年以上にわたって指導を受けてきた先生方の授業の進め方を身に沁み込ませてしまっています。まさに、「教師は教えられた方法で教える」という昔ながらのやり方が再生産されてしまうことになります。かつての教育実習の参観で私が鮮明に記憶していることを少し述べたいと思います。

2014年11月に下村文部科学大臣(当時)が、次期学習指導要領の方向性について諮問を行いました。わずかA4版で4ページほどの中に、「アクティブ・ラーニング」という言葉が3回も登場して話題になりました。その翌年度の教育実習の参観時には、実習生から「教科指導の先生から『文科省ではアクティブ・ラーニングと言っているけど、そんなことに時間を費やしていたら、大学入試の準備ができなくなる』と言われた」という話を聞きました。それから2年ほど経過したころ、私立の進学校での教育実習では、「あなたの授業の進め方は、あなたが5年ほど前に受けていた授業とまったく同じではないか。これからは知識を詰め込む授業ではなく、活動をさせ、考えさせる授業にしなければならない」という指導を実習生が受けていました。

確かに、現行の学習指導要領のもとで、「主体的・対話的で深い学び」(中教審の審議過程で「アクティブ・ラーニング」から名称が変更)を意識した授業はかなり増えています。しかし、コロナ休校の遅れを取り戻すということかもしれませんが、再び「知識を教え込む」という授業の先祖返りも生じています。

ここまで書いてきたことで、筆者がこれから主張しようとしていることは、すでに大方伝わったかと思います。小中高大の授業のスタイルが以前と変わらなければ、「教えられた方法で教える」という昔ながらのやり方が継承されてしまうことです。「観察の徒弟制」については、世界的に共通するかもしれませんが、日本の場合は、それに日本の教育界に強く染みついている「タテ社会」が加わっています。まさに、「タテ社会」型の研修制度と「教えられた方法で教える」という習性が両輪となって、社会の変化とは無縁の、学校教育独自の伝統的なやり方が継続していくことになります。そのために学びのイノベーションは進まず、結果として子どもたちのそのしわ寄せが及びます。

それでは、どうすればよいのでしょうか。小中高大の授業を全面的に変えていくことが求められているのでしょうが、それは容易なことでないではありません。ターゲットを絞り込む必要があります。ターゲットを絞り込む上で最も効果があると考えたのが、高等学校の「教育コース」の拡充とそのコースへの入学者を誘引するインセンティブの付与です。

高等学校「教育系コース」の現状と課題

牧瀬翔麻氏らによる「公立高等学校教育系コースの展開に関する予備的研究」(〔島根県立大学松江キャンパス研究紀要Vol.61、2022年〕には、「教育系コースの設置状況」という表が掲載されており、そこには25校が列記されています。そのうち、2011年度以降に設置されたものが16校に達しています。本文中のP.97には「2010年に24校設置されていたコースは、2020年は25校となっている」と述べられていますので、2010年までに設置されたコース等うち、15校は何らかの理由でなくなったということになります。 25校のすべての学校について、HPで確認した結果、7つの高校は幼児教育中心で、小中学校の教員養成はほとんど視野に入ってないことがわかりました。また、表中にも明記されていますが、大阪府の3校は統合されて1校になっています。筆者がネット検索した限りでは、牧瀬氏ら調査以降に新たに「教育系コース」が設けられたという情報は見当たりませんでした。コロナウイルスの感染拡大でそれどころではなかったと言えるのかもしれません。したがって、2023年4月時点では下の表に15校のみが小中学校の教員養成を意識した「教育系コース」を設けている高校と言えます。15校のうち兵庫県が5校、千葉県が4校、愛知県2校です。

小中学校の教員養成を意識した「教育系コース」を設けている高校一覧(2023年6月現在)

設置自治体高校名設立年次概要
千葉県千葉女子高校2014年普通科に教育基礎コースを設置
 安房高校2014年普通科に教育基礎コースを設置
 我孫子高校2018年普通科に教育基礎コースを設置
 君津高校2018年普通科に教育基礎コースを設置
愛知県半田高校2018年普通科に教育コースを設置
 豊橋南高校2018年普通科に教育コースを設置
大阪市桜和高校2022年教育文理学科に教職教育コースを設置
兵庫県明石西高校2008年普通科に教育類型を設置
 西宮甲山高校2009年普通科に教育総合類型を設置
 夢野台高校2010年普通科に教職類型を設置
 尼崎高校2014年普通科に教育と絆コースを設置
 山崎高校2017年普通科に教育類型を設置
奈良市高田高校2006年普通科に教育アンビシャスコースを設置
広島県庄原格致高校2019年普通科に医療・教職コースを設置
香川県坂出高校2017年普通科に教育創造コースを設置

この高校教育コースについての草分け的な論文である2012年の可児みづき氏の「高等学校における「教育」関連コース等のカリキュラムに関する事例研究 : 教員養成の試みとしての特徴と意義」(神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要 5 (2))では、特に2つの高校に焦点を当ててカリキュラムの紹介がなされています。論文ではÝ市立A高校とY県立B高校と記述されていますが、コースの設立年次から京都市立塔南高校と奈良県立平城高校と推定できます。しかし、両校ともつい最近統合されたり廃校となって教育コースがなくなっています。

高校「教育系コース」のカリキュラム

これら15校のカリキュラムでほぼ共通しているのが、教育系大学と連携した教育関連連続講義の実施と、地元小中学校での学校体験です。「教育関連コース」を持つ多くの高校は、地元の国立大学の教員養成系大学や教育学部と密接な関係を持っていますが、千葉県の千葉女子、我孫子、君津の各高校は、首都圏の多数の大学から講師を招いた講義を行っています。ただし、受講生から「自分の大学の宣伝ばかりでつまらない」という辛辣な評価がネットに書き込まれたりしています。

我孫子高校の教育基礎コースの令和4年度の夏季と冬季の集中講座については、HPに合計30枚の写真が掲載され、多種多様な大学から講師がやってきて講座を担当していることがよくわかります。ただし、その8割以上は、生徒が姿勢を正して座っている写真で、グループで活動している写真はわずかです。いまもなお、大学の教員養成課程においては、昔ながらの知識伝授型の講義が主流であることを想像させるものです。

一方、千葉県立君津高校の教育基礎コースについては、毎年度10回ほど発行している「教育基礎通信」がHPにアップされているので、教育基礎コースで実際にどのような活動をしているのかがよくわかります。平成4年度の「教員基礎コース通信 第1号」では、3年生の「課題研究」の中間発表が報告されています。そこには1、2年生での学習で見出した課題から教育に関するテーマを設定して各自で研究を進めてい様子が紹介されています。前年度までは、グループごとに研究を進めていたようですが、平成4年度からは個人での取り組みにすることに変えています。「一人 ひとりに妥協することなく興味あるテーマに取り組んで欲しいという思いから」変更した旨が書かれていました。2年生の春休みから調べを始め、テーマを絞り込んできた結果、「小学校の長期休み中に宿題は必要か」「幼い頃の遊びや習い事は集中力に影響を与えるのか」などの興味深いテーマが26も並んでいます。第2号では大学からの出前授業の報告がなされていますが、レゴブロックを使用して「困っている子ども」を客観的に表現すること、表現から読み取ることを学んだようです。9月に発行された第3号では、夏休みに中学校の学習会に支援者として参加した高校生のふりかえりも色々と紹介されています。ここでは紹介しませんが、中学生の学習指導を通して高校生が多くのことを学んでいることは間違いありません。第4号のタイトルは、「教育系大学進学者と語ろう。」で、君津高校の卒業生で教育系学部に進学した6名を囲んで聞き出したことが紹介されています。ただし、文面を見ると、半分ほどは進学相談的な内容でした。第5号は夏休みに公民館の子どもクラブに参加した1年生の活動報告で、レクも自分たちで考えて実施したようです。といった感じで、第9号には3年生の「課題研究発表会」の様子の報告、第10号には2年生が教職体験実習として小学校で授業実践をした様子が報告されています。なかなか工夫されたカリキュラムが準備され、実行されていることがよくわかります。私が教育学科の現役の教員であれば、ゼミ生に対して君津高校に1年間張り付いて卒論にまとめることを勧めたいところです。

愛知県の教育関連コースのカリキュラムの特色は、半田東高校がオーストラリア、豊橋南高校が台湾への教育研修旅行が組み込まれていることです。

その他で目に止まったのは、兵庫県立山崎高校の教育類型で、「地域のリーダーを目指すあなたの夢を実現するためのプログラム」として、キャンプや登山などの自然体験や、幼稚園・小学校での授業実習が用意されていることが書かれています。ともすると、進路指導の一環として「教育系コース」を設ける傾向が見え隠れする中で、正面から「地域のリーダー」の育成が謳われ、しかも、そのためにキャンプや登山などの自然体験が位置づけられている点、大いに心を動かされた次第です。ぜひ、直接訪ねてみたい高校です。

高校「教育系コース」でも旧態依然の教員が再生産される懸念

以上見ただけでも、高校「教育コース」には、探究や対話といった、これからの学校のカギを握る重要な要素がそこそこ散りばめられています。学外の講師を招き、小中学校や公民館等に出向いて子どもたちと接するだけでも、高校生としては得難い経験、体験になることでしょう。

しかし、それでは高校で「教育コース」を選択し、教員への道を歩み始めたとしても、知識伝授に明け暮れる旧態依然とした教員が再生産される懸念はぬぐい切れません。「教育コース」選択者であっても、全教育課程に占める「教育コース」特設授業の割合は1割程度でしかありません。大部分の授業は従来通りというのが大半だと推測されます。となると、大量の従来型の授業を通して「これまでの学校」の教師が再生産されていくのではないでしょうか。19世紀型、20世紀型授業の再生産から脱却するには、全カリキュラムが探究・対話・プロジェクト・STEAM教育中心の授業で構成され、さらに学年を超えた学び、学外者との協働など、「これからの学校」に相応しい授業が満載の「教育コース」が求められているのではないでしょうか。

現在でさえ15校しかないのに、そこまで望むのはないものねだり、と思われるかもしれません。しかし、日本の学校教育、特に教員の力量形成に大きな危機が迫っている小学校教育を立て直すには、「全カリキュラム丸ごと探究・対話型教育コース」(以後、「丸ごと探究・対話型教育コース」とします。)を各都道府県に2,3校設けるぐらいの大英断が必要なのではないでしょうか。各都道府県の知事ないし教育長が決断すれば、実現可能なことです。すでに文科省も、さらに内閣府もそのような方向性を打ち出しているわけですし、莫大な予算が必要になるという話ではないので「大英断」というほどのことではないはずです。

「丸ごと探究・対話型教育コース」拡充に必要な各界の支援

「丸ごと探究・対話型教育コース」の拡充には、学校関係者だけでなく、様々な学外関係団体や地域の方々の支援が必要となります。

全カリキュラムを丸ごと探究・対話型の授業に変えていくには、そのような体制を作るための人材を確保する必要があります。現在の学校教育の世界だけからそのような協力者を発掘しようとすると無理があります。地域ごとに事情が違うと思いますが、当NPOが拠点を置く山梨県北杜市で協力してもらえそうな団体として候補に挙がるのは、まず、KEEP協会と国際自然大学校という日本でも草分け的な自然学校が浮かびます。

少し古い調査ですが、日本には3700ほどの自然学校があると言われています。地域的な偏りはありますが、市区町村といった基礎自治体の数は約1750ですので、自然学校は、平均2つ以上存在しています、その多くは自然体験や環境教育に力を入れており、KEEP協会も国際自然大学校も、1980年代から参加体験型の学習手法を取り入れた活動を行ってきています。

地域の方々も有力な支援者になりえます。例えば、地域の課題の解決に取り組むような探究においては、地域の人々は最も頼りになる助っ人でしょう。2015年頃から若者の地方への「田園回帰」が進み、コロナウイルスの感染拡大がきっかけとなってリモート・ワークが急速に普及し、地方への移住者も増えています。「丸ごと探究・対話型の授業」の支援者を募ると、いろいろな能力とともに「次世代のためなら」という志を持つ人々が集まるはずです。単なるサポーターではなく、教員とともに次世代の育成活動に参画するという大きな役割を担ってもらうことは可能なはずです。

おそらく、「丸ごと探究・対話型教育コース」の拡充にとって、より大きな課題となるのは、コース選択者の確保でしょう。「取りあえずまずは無難な大学に進学して」と、自分の将来の選択を先延ばしにするモラトリアム志向が蔓延する中、高校入学段階で教職への道に誘引するには、「丸ごと探究・対話型教育コース」に対する高い評価が定着するまでの間は、相当なインセンティブを意図的に設けることは不可欠です。高校の学費免除だけでなく、特別奨学金を準備することも必要でしょうし、教員養成系大学への優先入学の枠をしっかりと確保しておくことも重要でしょう。それらのために各都道府県は若干の予算を計上する必要が出てきます。しかし、質の高い教員を確保し、質の高い学校教育制度を維持することによってもたらされる先々の利益を考えたら、微々たるもののはずです。

国や自治体が負担している公立学校の児童・生徒1人当たりの年間教育費は、大雑把に言うと約100万円です。児童生徒数は急速に減少していますが、1学年あたり、これも大雑把に言うと約100万人です。したがって、1学年あたり年間1兆円の教育費が投じられています。

一方で、佐藤学氏がかつて指摘した「学びからの逃避」や同氏が最近指摘する「学びの偽装」の蔓延は、それらの膨大な投資が十分に機能していないことを意味しています。仮に50%しか機能していない学校教育を60%にまで引き上げるとした場合、その最も有効な方法は、教育の質の向上であり、教師の質の向上であることは多くの人が肯定するのではないでしょうか。OECD諸国で最低レベルの公教育費(対一人当たりGDP比)を30年以上にわたって続けてきた結果として、今日の日本の衰退がもたらされたという意見があります。私も基本的にはその考えに賛成しています。

しかし、他方で、社会の変化に対応していない時代遅れの学校教育システムを放置しておくことで、イノベーションが進みにくくなっていることにも目を向ける必要があると思っています。

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