学校教育とSDGs

2021年2月27日

「個別最適」と「タテ社会」(その4)

「タテ社会」型の教科の構造とこれからの教員に求められる「ヨコ社会」型思考

教員養成大学にしても学校にしても、「我が〇〇大学」「わが校は」という意識のもとでのまとまりを重視する「タテ社会」の典型であることはあえて説明の必要はないと思います。150年間にわたって日本の学校教育の基本とされてきた教科の構造も、まさに第2図のXと同じ「タテ社会」の構造であることについて補足しておきます。

例えば小学校の場合、学習内容の全体が実技系教科と非実技系教科に分かれ、実技系教科は音楽、図画工作の芸術系教科と体育、家庭の非芸術系教科に分かれ、非実技系教科は文系の国語、社会と理系の算数、理科に分かれ、という「タテ社会」と同じ枝分かれ構造となっています。また、全科担当を原則とする小学校教員の養成においても、例えば東京学芸大学の初等教育教員養成課程では、国語選修、社会選修、数学選修、理科選修、音楽選修美術選修、保健体育選修、家庭選修等々と、それぞれの専門性を深める仕組みが導入されています。つまり、単に教科が「タテ社会」と同じ構造であるだけでなく、教員も専門教科によって「タテ社会」に組み込まれる仕組みとなっています。教科単位の教員免許制度となっている中学校や高等学校の教員が、どっぷりと「タテ社会」に組み込まれる構造となっていることは、言うまでもありません。今回の「令和の日本型学校教育」答申は、小学校に教科担任制を導入する方向を示しており、小学校教員の「タテ社会」化が一層強まる懸念があります。

では、どうすればよいのでしょうか。来るべき多文化共生社会を考えると、これからの社会の担い手を育む役割を持つ教員が、「タテ社会」にどっぷりと浸かっていることが、未来の多文化共生社会で生きる子どもたちに好ましからぬ影響を与えることに意識的であるべきでしょう。そのために二つのことを勧めたいと思います。

一つは、学校以外の活動に積極的に参加することです。特にぜひ勧めたいのが、NPOの活動への参加です。市民レベルでの国際交流を進めているNPO、環境問題に取り組んでいるNPO、子どもたちの貧困や学習支援に取り組んでいるNPO、地域の活性化に取り組んでいるNPO、安全な「食」と「農」を目指しているNPO、障がい者の支援を行っているNPO、音楽などの芸術活動の振興をサポートしているNPO、伝統文化の継承に取り組んでいるNPO等々。日本財団は、「NPOなどの公益活動を実施している団体に関する全国規模のデータベース」をネット上で公開していますが、そこに情報提供されているだけでも1万以上があがっています。

NPOは何らかの目的を持って活動しているので、その目的に深く関心を寄せているという点では同じ思いを抱いている人たちですが、自分の職場から一歩離れた立場で集まってきていることが多く、多様性に富む傾向があります。日常生活の大部分を過ごす学校から離れ、多様な人々が集まる場で活動することで、社会の様々な側面を知ることもできますし、学校以外の世の中の様々な仕組みを知ることもできます。

もう一つは、授業の中に極力「SDGsの学び」を取り入れることです。以下に述べるように、実はSDGs自身が「ヨコ社会」の構造をもつものであるので、授業の中に「SDGsの学び」を取り入れると、いつの間にか「ヨコ社会」的な思考が身についていくと思われます。

SDGsについては、17の目標のロゴを3段に並べた以下の図が最も基本的なものです。

しかし、SDGsのきわめて重要な点は、「2030アジェンダ」の前文の最終段落に書かれている「持続可能な開発目標の相互関連性及び統合された性質」にあります。そこで筆者は『学17のすべての目標が辺と対角線で結ばれた、以下の図を描いてみました。

SDGsの17の目標間のつながりを示した上図の正多角形は、中根氏が「ヨコ社会」の構造として示した図の各構成員を繋いだ図3の、構成員を17に増やしたものと一致しています。もちろん、図3の場合は「人々」の間の構造であるのに対して、上図は、SDGsの17の目標という「事柄」の間の構造であって、一律に論じることができるものではありません。しかし、「ヨコ社会」において新たな成員の参加が「全成員に影響する」のと同様に、SDGsの場合も、一つの目標への働きかけがほかのすべての目標に影響が及ぶという点でも、類似しています。

DNAから見た日本人

「そうはいっても、「タテ社会」は日本人のDNAにまで浸み込んだものなので、文科省が学校の在り方を変えようとしても、各教員が意識変革を図ろうと、おいそれと変わるものではないよ」という反論も出そうです。しかし、日本人のDNAは、今日もなお多様性に富んだ多文化共生タイプであることを最後に述べておきます。

ある地域に住む人々が、どのような来歴の集団によって構成されているかについては、1980年代以降のDNAの解析研究の進展によって、かなり断定できる状況になっています。女性から女性だけに継承されるミトコンドリアDNAと、男性から男性だけに継承されるY染色体のDNAについて、人類が世界各地に拡散する過程で生じた突然変異の痕跡をたどることで、アフリカで誕生した現生人類が、アラビア半島経由で南アジアから西アジアにわたり、その後新たな食料獲得手段を獲得しながらユーラシア大陸の各地へ移り住んでいった経路と年代がおおむね推定できています。そのようなDNA解析研究の結果、日本列島は、実は各地に移り住み、それぞれの場所で新たな食料獲得手段を発達させたいくつかの集団が再集合した、やや特異な場所であることがわかっています

日本人の男性については、下図のように古い時代に分化したCというタイプとDというタイプの遺伝子(古代遺伝子)を持つ人々が半分近くを占めているという大きな特色があり、その古代遺伝子を持つ人々も大きく3系統からなっています。森林の中で狩猟採集をしながら東に移動して日本列島に到着したDというタイプのY-DNAを持つ人々が約36%、南方からおそらく漁労生活をしながら北上してきた人々と、シベリア方面から南下してきた人々が合計で約7%です。残りの約50%以上は、稲作を始めたことで急拡大したと思われるOというタイプのY-DNAを持つ人々です。このように来歴や食料獲得手段の違う集団どうしは、最初のうちは住み分けをしていたはずです。しかし、長い歴史の中で多文化共生の段階を経て次第に文化的な融合が進み、単一民族的な様相を帯びるようになっていったと推定できます。

日本男性のY染色体DNAのタイプ別分布
(http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/ 中 の Y DNA県別調査 の データより作成)


一方、日本の女性は大きく分けると、南方系と北方系に分かれるのですが、下図に示されているように様々なタイプのミトコンドリアDNAを持つ人々から構成されています。ミトコンドリアDNAのタイプの多様性という点では、東アジアは世界でも突出していると言えます。そして興味深いことに、ミトコンドリアDNAのタイプ別の構成比率を見ると、日本から朝鮮半島、長江以北の中国、そしてチベット高原にまで続く帯状の地域では、同じような構成比率が見られます。日本の男性の場合と同様に、かつて各方面から集まってきた人々が同じような植生の下で長年共生してきた結果であろうと思われます。今日ではしばしば対立する異なった民族となっていますが、元をたどると、同じような由来と同じような食生活を持っていた集団同士であったと言えそうです。

日本人女性のミトコンドリアDNAのタイプ別分布
(篠田謙一2007 ,『日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造』、
NHK 出版, 219pp)

東アジアでは農耕段階に入って以来、男性が支配的な存在であったことが、上記のようなDNAレベルでの男女の違いになっています。特に島国である日本の場合、男性中心の社会の単一性が「タテ社会」を形作ることになっていったのですが、DNAレベルでは今日も多様なタイプの共生関係がみられます。今後、日本においても女性の活躍が進み、SDGsの目標5の「ジェンダー平等を実現しよう」が達成されるようになると、「タテ社会」から「ヨコ社会」への移行が急速に進むかもしれません。ただし、現時点ではジェンダー平等に対する自覚のない抵抗勢力(筆者もその一人かもしれませんが)が根強く、「ジェンダー平等を実現しよう」の目標達成度は、先進諸国では最低、途上国を含めても最低に近い位置にあります。

まとめ

中教審の「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」答申では、児童生徒の多様化に対応する「個別最適な学び」が強調されており、そこでは、主としてICTの活用によって実現させようとしているように受け取れます。しかし、「個別最適」という表現の源と目される「Society5.0 に向けた人材育成」は、ICTの活用の危険性にも言及し、学校が「ヨコ」の関係にある学校外の組織や人材などと協力して、未来社会の担い手を育む構想を打ち出しています。しかし、日本社会の根強い「タテ社会」は健在で、学校という組織ばかりでなく、教科を軸とする教育体制も、また教科の枠組みに組み込まれている教員も、「タテ社会」にどっぷりと浸かっているという実態があり、そこを解きほぐしていくことから取り組まねばなりません。日本人のDNAは、実は多文化共生タイプなので、「ヨコ社会」への移行も不可能ではありません。今回の答申においても、「外部人材」の活用などに触れていますが、様々な課題への言及と対応の膨大な記述の中に紛れてしまい、大きな比重を置かれているように感じることができません。また、活用する「外部人材」についても、限定的な印象を受け、「タテ社会」型の発想から抜け出ていないのではないかと疑わざるを得ません。社会の変化に対する的確かつ迅速な学校改革が求められていますが、まだまだ不十分というのが、今回の答申に対する率直な感想です。(おわり)

2021年2月27日

「個別最適」と「タテ社会」(その3)

根強い日本の「タテ社会」

東京オリンピック・パラリンピックの日本側組織委員会の会長が、女性蔑視発言の責任を取って辞任の意向を表明しました。しかもその後任会長としていわば身内の高齢者を指名しかけたこと、さらに、それを政府内で容認しかけたことには、唖然とさせられました。しかし、日本の社会では、このようなことがまだまだ当たり前のこととして通用していることも、認めざるをえません。

昨年末に、学校教育における共創型対話学習の重要性を指摘されてきた金沢学院大学の多田孝志先生からいただいたメールの中に、中根千枝氏が2019年に講談社現代新書として刊行した『タテ社会の現代社会』に触れた次のような一節がありました。

(『タテ社会の現代社会』)には『タテ社会の人間関係』(1967)以降、50余年たっても日本の社会の基調は変わっていないとの鋭い指摘が記されています。日本の社会、学校教育の根本を問い直し、多文化共存の新たな時代に向けて拓いていくことは緊要の課題と考えます。

多田先生は、『事典 持続可能な社会と教育』(教育出版、2019年)の「共創型対話」という項目の中で、グローバル時代、多文化共生社会における共創型対話の要点として「完全には分かり合えないかもしれない相手とも、できる限り合意形成をもとめての話し合いを継続していく粘り強さ」などをあげていますが、トップが決めたことに異論をはさまない「わきまえた」態度を求める風潮が、多くの日本の組織でまかり通っていたことが露呈されました。コロナ禍の中では、日本社会の中に強力な「同調圧力」が働き、ギスギスした人間関係を生み出し、「自粛警察」という言葉まで生まれました。今なお、このような共創型対話の対極にあるような姿や、派閥政治や縦割り行政が一向に改善されない日本の姿は、これからの本格的な多文化共生社会の到来を考えると、憂慮せざるをえません。

中根氏は、『タテ社会の人間関係』の中で「タテ社会」と「ヨコ社会」の構造の違いを、以下の2つの図を用いて説明しています。(p.114-115)

両集団とも同じ一定数の個人からなっている仮定で、その数を抽象したa・b・cの三点によって示すと第1図のようになる。すなわち、Yにおいては三点の関係が三角形を構成するのに対して、Xにおいては、底辺のない三角関係となる。

さらに、この両者の構成を複雑にすると第2図のようになり、その違いは一層明らかになるであろう。この両者の構造の違いは、・・・Xの成員はaを頂点としてのみ全員がつながっているのに対して、Yにおいては、すべての成員が互いにつながっていること。(一部略) すなわち、もしここに新たにhというものがはいってくる場合、Xにおいては、理論的にa・b・c・d・e・f・gのどれか一つにつながることによっての成員たりうる。しかるに、Yにおいては、hの参加は全成員に影響する。(p.114-115)

この文中の「ヨコ社会」の構造の説明にある「すべての成員が互いにつながっている」を生かしてより正確に図化すると、第2図の右側の七角形は以下のように書き表せます。

図3 各構成員がつながる「ヨコ社会」

つまり、個々の構成員が他のすべての構成員と繋がっている、あるいは繋がらざるを得ない「ヨコ社会」に対して、「タテ社会」では各構成員は「タテ」の関係では繋がっているが「ヨコ」の関係では繋がっていない、あるいは繋がらなくても済んでいる、といえます。中根氏はなぜ、「タテ社会」という日本的な社会構造が生まれたのかについて、「おわりに」で以下のように述べています。

日本社会の場合、この(=「タテ社会」を作った)条件を支えている一つの大きな特色が存在する。それはいうまでもなく、社会の「単一性」である。現在、世界で一つの国(すなわち「社会」)として、これほど強い単一性をもっている例は、ちょっとないのではないかと思われる。(中略)日本列島は圧倒的多数の同一民族によって占められ、基本的な文化を共有してきたことが明白である。(中略)この日本列島における基本的文化の共通性は、とくに江戸時代以降の中央集権的政治権力に基づく行政網の発達によって、いやが上にも助長され、強い社会的単一性が形成されてきたのである。さらに近代における徹底した学校教育の普及が人口の単一化に一層貢献し、とくに戦時の挙国一致体制、そして、戦後の民主主義、経済の発展は、中間層の増大拡大という形をとりながら、ますます日本社会の単一性を推進させてきたものといえよう。(p.187-188)

この日本社会の「単一性」は、多田先生が懸念するように、これから必然的に到来する多文化共生社会にとって、大きな問題をはらんでいると考えざるをえません。それゆえに、今日の日本の状況を考えると、持続可能な社会の構築や多文化共生社会の構築のための「全体最適」を実現するには、その前提として、持続可能な社会や多文化共生社会にふさわしい「個の確立」や「個人の自律」が求められており、そのためにも「個別最適」の追究は不可欠なのかもしれません。

ただし、ICTの活用まっしぐらの「個別最適」とは別のルートによる「個別最適化」がありうるのではないでしょうか。上述の「2.Society 5.0 において求められる人材像、学びの在り方」は、「(2)共通して求められる力」のあとに、「(3)Society 5.0 における学校」という節を設けています。その前半はAIやスタディ・ログの蓄積などの話題が中心ですが、中程で、「ただし、子供たちはデータから必ずしも読み取れない多様な可能性を秘めている。データに過度に依存することで、一人一人の成長や変化が正当に評価されない等の危険性も指摘されている。」と述べ、後半には以下のような記述がなされています。

Society 5.0 における学校は、一斉一律の授業スタイルの限界から抜け出し、読解力等の基盤的学力を確実に習得させつつ、個人の進度や能力、関心に応じた学びの場となることが可能となる。また、同一学年での学習に加えて、学習履歴や学習到達度、学習課題に応じた異年齢・異学年集団での協働学習も広げていくことができるだろう。さらに、学校の教室での学習のみならず、大学(アドバンスト・プレイスメントなど)、研究機関、企業、NPO、教育文化スポーツ施設、農山村の豊かな自然環境などの地域の様々な教育資源や社会関係資本を活用して、いつでも、どこでも学ぶことができるようになると予想される。(p.8)

学習指導要領といった枠組みに囚われない、自由度の高い構想が描かれており、前述の合田氏のスピーチにあった「学校が、・・・独占的に子供たちを教育するのではなく」という構想の一端をここに見ることができます。なお、「社会関係資本」とは、人々の信頼関係や社会的ネットワークのように、広く便益をもたらす人間関係を意味しています。

 中根千枝氏は、日本の「タテ社会」を生んだ要因として日本社会の「単一性」を挙げています。日本の学校制度もまた「単一性」を育み、「タテ社会」を強固なものにしているという見方をしています。それに対し、「Society5.0に向けた人材育成」ではSociety 5.0時代の学校の在り方として、学校外の様々な組織や豊かな自然環境に恵まれた空間などを活用した姿を構想しています。そこでは「ヨコ」の関係がふんだんに取り入れられる構想となっており、それは従来の学校の「単一性」を打破し、多文化共生社会にそぐわない強固な「タテ社会」から多様性が尊重される「ヨコ社会」への転換をもたらす可能性を秘めたものといえます。

 しかし、多様性が尊重される「ヨコ社会」への移行という点では、学校側の、特に教職員の意識変革も不可欠です。日本の学校の教員の多くは、教員養成系大学で養成されて、学校という組織に入り、しかも何らかの教科を専門とするという三重の「タテ社会」に組み込まれているといっても過言ではありません。この現状が変わらなければ、「Society5.0に向けた人材育成」に描かれた「Society 5.0 における学校」は実現できません。(続く)

2021年2月27日

「個別最適」と「タテ社会」(その2)

「個別最適」への違和感

違和感を持ったのは、「部分最適」の総和が「全体最適」にならないのと同様に、「個別最適」を追い求めていっても、「全体最適」には到達しないのではないかということもありました。つまり、直面する生態的・社会的な持続可能性の危機に対しては、社会の、そして地球の「全体最適」が求められているのであって、根本に個人の資質・能力の向上を据えた「個別最適」を求めるのは、これからの学校教育が依拠すべき「持続可能社会型教育システム」ではなく、学校教育2.0すなわち「資質・能力重視教育システム」の発想ではないかと感じたからです。

もちろん、子どもたちの多様化と子どもたちが抱える課題の多様化への対応が求められていることも、その対応で教員がますます多忙化を強いられることが適切でないことも理解しているつもりです。しかし、それがICT の活用と少人数化で実現できるものだろうか、ICT の活用と少人数化が学校教育の在り方として適切なのだろうかということに対する疑問もあります。特に、情報化の流れに乗ることの危険性について吟味が不十分なのではないかという不信感のようなものと言ってもよいかもしれません。

科学文明は確かに人類に多大な利便や恩恵をもたらしました。と同時に、様々な環境問題や格差をもたらし、今、生態的・社会的な持続可能性が人類の最大の課題となっています。同様に、情報化の進展によって大きな恩恵を受けているのですが、ビッグデータが一部の企業や組織に集積されることの危険性やスマホ中毒の蔓延など、以前から指摘されていた懸念材料は現実のものとなっています。「個別最適な学び」が学習者の個別最適を目指すものであることは百も承知ですが、それが情報関連企業や情報操作側にとっての「最適」にすり替わってしまう危険性も十分にあります。嘘で塗り固められた情報が大量に発信され、そのような情報を鵜吞みにする人が極めて多いという実態を見ると、情報化の進展がもたらすマイナス面に対する防御は現段階でも脆弱ですし、今後もその脆弱さは変わらないのではないかと思っています。

今回の中教審答申の「個別最適な学び」については、『教育展望』2021年1・2月合併号の新春座談会「WITHコロナ時代の教育の方向性」でも、安彦忠彦氏や石井英真氏が、「分断」や「序列化」につながる懸念を述べています。「持続可能社会型教育システム」にしても「持続可能な開発モデル」にしても、持続可能性を追求する上では、従来の「競争」を基調とする教育から「共創」を基調とする教育への転換が不可欠と筆者は考えていますので、安彦氏や石井氏の懸念についても同様の感想を持っています。蛇足ながら、拙著『学校教育3.0』では、現行の学習指導要領で重視されている「資質・能力重視」に対しても、持続可能な社会の構築に対して阻害要素となりかねない「競争」と直結しがちであることから、否定的な見方を取っています。

情報化の進展によって、子どもたちの姿が明らかに変わってきています。子どもたちの世界にスマホががっちりと根付いてきたことで、逆に、社会的な事象に対して自分自身で突き詰めて考えることが苦手になってきているようも感じます。そして、さらに、恣意的な情報操作に対する抵抗力も弱まってきていると考もえています。このような危険性に対して、学校や教育委員会レベルだけで的確に対応することは相当に無理があることです。子どもたちの生育にとってプラスにならない恣意的な情報操作をチェックするために、保護者や地域関係者などを巻き込んだ仕組み作りも、「個別最適な学び」を進めていく上では必要不可欠であろうと思っています。

「個別最適な学び」は懸念が多い、されど

以上述べてきたように、「個別最適な学び」には多くの懸念があります。しかし他方で、「Society5.0に向けた人材育成」で重視されている「新たな社会を牽引する人材」も必要とされている、と思わざるをえません。Society5.0は情報機器やAIと不可分の関係にあるので、「Society5.0に向けた人材育成」が目指す人材像の考え方に賛同するのは、上記の懸念と矛盾するのですが、これまでの教育論の偏狭な枠組みを取り払ったような、納得させられる記述も少なくありません。

「新たな社会を牽引する人材」は「2.Society 5.0 において求められる人材像、学びの在り方」として、まず「(1)新たな社会を牽引する人材」を挙げ、以下のように記述しています。

Society 5.0 を牽引するための鍵は、技術革新や価値創造の源となる飛躍知を発見・創造する人材と、それらの成果と社会課題をつなげ、プラットフォームをはじめとした新たなビジネスを創造する人材であると考えられる。異分野をつなげることでエコシステムを創造するプラットフォーム・ビジネスの形態は、巨大な規模を持たなくとも、発想次第で新たな価値を創造することができる。このようなプラットフォームを創造できる人材には、異分野をつなげる力と新たな物事にチャレンジするアントレプレナーシップが欠かせない。また、課題解決を指向するエンジニアリング、デザイン的発想に加えて、真理や美の追究を指向するサイエンス、アート的発想の両方を併せ持つ必要がある。これらの資質・能力に加えて、多くの人を巻き込み引っ張っていくための社会的スキルとリーダーシップが不可欠となろう。新たな価値を創造するリーダーであればこそ、他者を思いやり、多様性を尊重し、持続可能な社会を志向する倫理観、価値観が一層重要となる。

Society 5.0 の世界を仮定せずとも、今日の日本の状況を考えると「社会を牽引する人材」は必要であり、やや要求が多岐にわたりすぎという気がしないでもありませんが、確かにそのようなイメージを備えた社会の牽引者が求められている、と同意させられます。

ちなみに、その次に記されている「(2)共通して求められる力」(p.7)でも、要求過剰気味ですが、おおむね妥当な記述がなされていますので、一部省略して以下に引用します。

(冒頭略)どのような時代の変化を迎えるとしても、知識・技能、思考力・判断力・表現力をベースとして、 言葉や文化、時間や場所を超えながらも自己の主体性を軸にした学びに向かう一人一人の能力や人間性が問われることになる。特に、共通して求められる力として、①文章や情報を正確に読み解き、対話する力、②科学的に思考・吟味し活用する力、③価値を見つけ生み出す感性と力、 好奇心・探求力が必要であると整理した。まず、知識・技能としての語彙や数的感覚などの学力の基礎に加え、人間の強みを発揮するための基盤として、文章や情報を正確に理解し、論理的思考を行うための読解力や、他者と協働して思考・判断・表現を深める対話力等の社会的スキルなど、読み解き対話する力が決定的に重要である。また、人と機械が複雑かつ高度に関係し合う社会となっていく中、科学的に思考・吟味し活用する力が不可欠となる。機械を理解し使いこなすためのリテラシーや、その基盤となるサイエンスや数学、分析的・クリティカルに思考する力、全体をシステムとしてデザインする力がこれまで以上に必要な力となる。(以下、略)

この「Society 5.0 において求められる人材像」に対しておおむね同意するとなると、その実現と不可分なものと前提されている「個別最適化された学び」を否定しづらいのですが、「今日の日本の状況を考えると」という前提はつけておきたいと思います。この「今日の日本の状況」をどのように捉えているのかについて次に述べたいと思います。(続く)

2021年2月27日

「個別最適」と「タテ社会」(その1)

中教審答申のキーワード「個別最適な学び」

中央教育審議会答申「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」が1月末(2021年)に公表されました。この答申作成には、中教審の教育課程部会とともに教員養成部会も加わっており、これから文部科学省内で次の学習指導要領の作成に向けた作業が進むとともに、学校教育を支える学校外の体制と教員免許制度の在り方など、多様な側面での動きが活発化すると見込まれます。

新学習指導要領の全面実施が中学校ではこの春から、高等学校では来年度からというのに、その次の学習指導要領の話題では、少々早すぎと感じるかもしれません。しかし、それだけ社会の変化が速く、これまでのような10年に1回の改訂ペースでは急激な変化に対応できないということでしょう。今後、学習指導要領の改訂ペースはますます早まっていくものと思われます。

新学習指導要領の改訂の目玉は、中教審での審議過程で「主体的・対話的で深い学び」に変わりましたが、当初は「アクティブ・ラーニング」でした。それに対し、次期の学習指導要領における改訂の目玉は「ICTの活用」です。文科省では、すべての児童生徒に端末1台というICT環境を整備すべくGIGAスクール構想を進めてきました。しかし、コロナ禍で近隣諸国に比べて「ICTの活用」が立ち遅れていたことを思い知らされました。休校期間中に多くの公立学校では遠隔授業が成立しない実態が露呈してしまいました。したがって、今回、諮問段階でも「ICT環境や先端技術の活用」があがっていましたが、答申では「ICTの活用」がより一層強調されたように感じます。中教審答申の概要でも、1枚目の最上部、つまり最も力を入れた部分に「ICTの活用」が書かれています。

今回の中教審答申には「~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと, 協働的な学びの実現~」という副題がついています。ここに書かれている「個別最適な学び」は、2019年(平成31年)4月の諮問段階にはなかった言葉です。ただし、諮問事項の一つに「障害のある者を含む特別な配慮を要する児童生徒に対する指導及び支援の在り方など、児童生徒一人一人の能力、適性等に応じた指導の在り方」が挙げられており、前述の「ICT環境や先端技術の活用」との組み合わせから、これまでの一斉授業中心の授業から児童生徒一人一人に対応する「個別最適な学び」にたどり着く道筋は準備されていたとも言えます。

答申の「はじめに」に記載された文言を拾い出して、「個別最適な学び」を一文で表現すると、

「個別最適な学び」とは、多様な子供たちを誰一人取り残さないよう、ICT の活用と少人数によるきめ細かな指導体制の整備によって実現しようとするもので、「協働的な学び」と一体的に充実させることで、これからの子供たちに求められる資質・能力を育成しようとするもの

となるかと思います。

「Society 5.0 に向けた人材育成」

「個別最適」という表現は、10か月ほど遡った2018年6月に文科省が公表した「Society 5.0 に向けた人材育成 ~ 社会が変わる、学びが変わる ~」の中で「(公正に」個別最適化された学び」として何度か言及されています。2016年1月に閣議決定された「第5次科学技術基本計画」で、日本が目指すべき未来社会の姿として「Society 5.0 」が提唱されたのを受け、それを各省庁レベルで具体的な提案に落とし込むことが求められました。それに対して文科省としてまとめた構想が、「Society 5.0 に向けた人材育成 ~ 社会が変わる、学びが変わる ~」でした。文科省ではその構想取り纏めのために有識者からなる「Society 5.0 に向けた人材育成に係る大臣懇談会」と、文科省の課長職以上を構成員とする「新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース」の二つの検討組織を立ち上げて約半年間検討し、それらを合体させたのが「Society 5.0 に向けた人材育成」です。

「Society 5.0 に向けた人材育成」において、「個別最適」という言葉がどのような文脈の中で用いられているかを確認すると、「個別最適」が登場してきた意図は明らかです。

・児童生徒一人一人の能力や適性に応じて個別最適化された学びの実現に向けて、スタディ・ログ等を蓄積した学びのポートフォリオ活用しながら・・・・

・EdTech を活用し、個人の学習状況等のスタディ・ログを学びのポートフォリオとして電子化・蓄積し、指導と評価の一体化を加速・・・・

・ICT 環境の整備、ビッグデータ活用・・・さらに、デジタル教科書、デジタル教材、CBT 導入などを進める・・・・

 以上から十分に察しがつくように、ICTに関するハードとソフトを学校教育の場にこれまで以上に導入することで、児童生徒一人一人の能力や適性に応じた指導を進めようというものです。その背景には、子供の貧困や地域間格差の拡大、いじめ・不登校等の増加、外国籍の子供や障害のある子供の増加など、一人一人の個別のニーズに丁寧に対応することが求められるという、時代の要請があったことは間違いありません。子どもたちの多様化、子どもたちが抱える課題の多様化が進む中で、従来の画一的な学校教育では対応できなくなっているという認識とともに、ICTを活用したりAIの助けを得ることによって、このような多様性に対応できるのではないかという期待感があります。しかし同時に、情報関連企業の相当な売り込みがあったことも推測できます。

「Society 5.0 に向けた人材育成」は、今回の答申案を取りまとめた「新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会」の第1回目の会合(2019年6月27日)でも資料として、配布されています。つまり、「個別最適な学び」が今回の答申の最前面に位置づけられるレールは、諮問の10か月前に示された「Society 5.0 に向けた人材育成」によって敷かれていたといえます。

「個別最適化された学び」と「学校ver.3.0」

ところで、「Society 5.0 に向けた人材育成」には、参考資料として「Siciety5.0 に向けた学校ver.3.0」という表題のポンチ絵と、「Society5.0におけるEdTechを活用した教育ビジョンの策定に向けた方向性」という表題の2枚組PPTシートが付されています。後者については、「文部科学省新たな時代に対応するためのEdTechを活用した教育改革推進プロジェクトチーム」という作成者名が付されており、大臣懇談会やタスクフォース内での議論を受けて、今後のEdTech(教育現場にテクノロジーを取り入れて教育を支援する仕組みやサービス)の在り方を整理したもので、参考資料として付した意図は明確です。

それに対し、下に示した「Siciety5.0 に向けた学校ver.3.0」は、誰が作成したのかが明記されてないばかりでなく、「「K-12教育」から「K-16プログラム」へ」「ラーニング・オーガナイザー」「持続可能な開発モデル」など、「Society 5.0 に向けた人材育成」の本文には存在しないフレイズが散りばめられています。学校教育の未来像を描くという意味では「Society 5.0 に向けた人材育成」と方向を同じくするものですが、大臣懇談会等の議論のさらに先を行く構想が示されています。

 いったい誰が、どのような意図をもってこのポンチ絵を「Society 5.0 に向けた人材育成」の参考資料として紛れ込ませたのでしょうか? 

 この「Society 5.0 に向けた人材育成」が発表された当時、林芳正文科大臣の補佐官であり、しかも大臣懇談会の座長を務めていた鈴木寛氏(現:東京大学公共政策大学院教授 兼 慶應義塾大学政策・メディア研究科教授)が、2018年7月28日に行った「2030年に向けた日本の教育政策について」と題する講演の中で、このポンチ絵を分割し内容の一部捨象した2枚のPPTを示しています。上述の大臣懇談会やタスクフォースとは別に、林芳正文科大臣、鈴木寛補佐官を中心とする少人数の集まりができていて、社会経済的な枠組みの発展段階に対応した学校教育の在り方という観点から、未来の学校のあるべき姿を模索していたと想像できます。

http://基調講演2 (鈴木寛 文部科学大臣補佐官) (mext.go.jp)

鈴木氏の基調講演から約1年後の2019年8月8日、その時点では文科省初中局の財務課長で、その前には新学習指導要領の取り纏めの要である初中局教育課程課長を務めていた合田哲雄氏が、日本教育学会のシンポジウム「持続可能な社会と教育」でゲスト・スピーカーとして登壇し、以下のように語っています。

我が国の教育をどのようなビジョンをもって展開していくのか、ですが、その一つの方向性を示したのが、2018年6月に当時の林芳正大臣が発表した政策ビジョン「Society5.0に向けた人材育成」です。(一部略)工業化社会に対応した学校バージョン1.0における学習指導要領は知識の体系でした。学年別漢字配当表がその典型です。それに対し、2017年の学習指導要領の改訂は、知識は大事であるということを当然の前提にしながらも、資質・能力の体系に転換したもので、これが学校バージョン2.0です。2017年の改訂の時に参考にしたのは、学年という枠組がなく個々の子供たちに対応した学びを作り上げている特別支援教育であるとか、教科という枠組みなしに子供たちを育んでいる幼稚園教育でした。

今後、持続可能な開発モデルとして、コミュニティ・ソリューションですとか、Society5.0 という言葉がキーワードになる時代になると、学校バージョン3.0という議論になってくるわけで、そのポイントは二つあります。一つは、これまで以上に学年や教科といった垣根が相対的に低くなるということ。この林大臣のビジョンでは「K-12教育からK-16プログラム」ということで表現しています。二つ目は 学校がすべての知識を持っていて独占的に子供たちを教育するのではなくて、大学や研究機関、図書館、NPOなど様々な機関が、子供をアクティブ・ラーナーにするために連携する。このことが、二つ目のポイントだと思っています。

合田氏は、「林芳正大臣が発表した政策ビジョン」「この林大臣のビジョン」と2回も文科大臣の名前を挙げていますが、実は、このスピーチの冒頭で、「私は公教育と民主制の黒子ですので、・・」と述べて、シンポジウムなどで前面に出てくる立場ではないことを弁解されているのですが、逆に、ポンチ絵の構想をご自身がまとめ上げたことほのめかしてしまったのではないかと受け止めています。ポンチ絵の最下段には、学校ver.1.0を「国民国家モデル」、学校ver.2.0を「グローバル市場経済モデル」、学校ver.3.0を「持続可能な開発モデル」とする構想が描かれています。筆者は、この政策ビジョンが公表される約2か月前に「国民国家型教育システムから資質・能力重視教育システムを経て持続可能社会型教育システムへ」という副題を付した『学校教育3.0』(2018年4月、三恵社)を刊行しています。ほぼ同じような時期に、文科省の上層部でも社会や経済の発展段階に応じた学校教育の在り方があるという観点から、同じような将来構想を描いていたことを知り、心強く感じた次第です。

ではなぜ、「持続可能な開発モデル」の学校ver.3.0という構想を、作成者無記名のポンチ絵の形で「Society5.0に向けた人材育成」の中に紛れ込ませたのでしょうか。おそらく、学校関係者の中には、学校ver.1.0を「国民国家モデル」に固執する抵抗勢力が根強く存在するという実態を考慮した結果ではないかと想像しています。

ただし、ポンチ絵に示された学校er.3.0 の「持続可能な開発モデル」と、筆者が提示した「持続可能社会型教育システム」に基づく学校教育3.0が、同じような方向性を有するものと考えた場合、そこに「個別最適化された学び」が重要な位置を占めていることには、違和感がありました。(続く)

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