学校教育とSDGs

2021年5月9日

新自由主義と学校教育

新自由主義とその信奉者集団

過去半世紀の日本の学校教育改革を振り返ると、いくつかの大きな勢力をもつ集団が、自分たちの信念を通しやすくするために、あるいは自分たちに都合のよいようにするために、場合によっては欧米諸国における動向をいち早く取り入れることが正しいものと思い込んで、主役である児童生徒や教員の想いをほとんど無視するような形で影響力を発揮し、本当に望ましい姿とは違う方向に学校教育を捻じ曲げてきたように思います。その一つとして、前回は、特に教員養成を停滞させてきた旧師範系大学関係の守旧派集団を取り上げました。そして最後に、「守旧勢力以上に、日本の学校教育を覆う大きな問題が存在」していると、あたかも今回、最大の問題を取り上げるような書き方で終わりました。

しかし、最大の問題について述べる前に、もう一つの大きな影響力を与えている考え方、つまり今回のタイトルにもある「新自由主義」について触れておきたいと思います。集団という捉え方をすると、「新自由主義信奉者集団」と言えるかもしれません。

新自由主義とは、1970年代初頭のドル・ショック(米ドル紙幣と金との兌換停止)や石油ショック(原油価格の高騰)によって国家財政状態が悪化したのに対して、公共的な政策についても民間の市場競争の原理を導入したり、中央で一括して掌握していた権限を分割して地方に移譲したりすることで、中央政府の経済的な役割を縮小しようとした考え方です。1980年代イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根政権が採用した施策がその典型で、その後も影響力が続いています。日本における具体例としては、国営であった国鉄が分割民営化されて今日のJR各社になったことが挙げられます。

この新自由主義の考え方が学校教育にも適用されたのが「新自由主義的教育改革」です。以前は、教育政策に対して政治が直接介入することを遠慮する傾向がありましたが、1980年代の臨時教育審議会以後、教育に関する首相直属の会議体が置かれ、そこから様々な改革が提案され、実行されていきました。まず、この40年ほどの間に実際に試みられた事例から見ていきたいと思います。

①学校選択制

中曽根総理の諮問機関として設けられた臨時教育審議会は、1985年から87年にかけて教育改革に関する4回の答申を行っています。そのうちの第三次答申に「学校選択の機会を漸進的に拡大する」という提言が盛り込まれ、それから10年後に文部省が「通学区域制度の弾力的運用について」という通達を出したことで許容されたのが学校選択制です。従来、公立の小中学校には一つの学校に対応した通学区域が設定され、その通学区域内に居住する児童生徒が通学する学校は決まっていました。越境入学というこの原則に反する行為もありましたが、極一部でした。しかし、この制度の導入することにした自治体では、近隣のいくつかの学校から選択して通学できるようになりました。

この学校選択制導入の根底にあったのが「競争原理の導入による活性化」でした。荒れた学校やレベルの低い学校は忌避されて通学する児童生徒数が減少する、それを避けるために各学校は子どもたちのニーズに応える魅力づくりに学校が取り組み、レベルが向上する、という発想です。児童生徒数の減少に対して学校の統廃合をしやすくするために導入したのではないかと疑いたくなる自治体もありました。一時は学校選択制を導入したり検討したりする自治体が急増して、通学区域制度が形骸化するかと思わせるほどでした。しかし、地域コミュニティの崩壊や学校間の序列化や格差の深刻化、あるいは保護者や子どもたちの受ける軋轢など、弊害が大きいということから導入を検討したけれども断念したり、一旦導入したけれども見直しをしたりする自治体が増えています。この学校選択制は減少傾向にありますが、今も一部の自治体では存続しています。そのように自治体で近隣の子どもたちが選択しなくなる学校に勤務する教職員のストレスは非常に大きなものと想像できます。

公立の中高一貫教育・中等教育学校についてもここで触れておきます。臨時教育審議会の提言の中核に位置した「個性重視」や「多様化・弾力化」の一環として提起された公立の中高一貫教育や中等教育学校については、中学校段階からの序列化などに対する懸念から、文部省も慎重な対応姿勢を保っていました。しかし、1999年から開設が徐々に進み、カリキュラム上の中高の連携に留まる連携型ではない、併設型の公立中高一貫校と中等教育学校の合計はすでに130校ほどに増えています。大学入試競争において、私立の中高一貫校が好結果を示す中で、公立も負けてはいられないという心理が多分に働いたものと思われます。これらは中学入試を経ての入学ですので、学校側に選択権があり、入学者に選択権のある典型的な学校選択制度とは異質ですが、競争の原理が中学校に持ち込まれたという点では同じ範疇に含まれます。

ついでに、私立小学校にも触れておきます。全国の私立小学校の児童数は8万人弱で、40年前の6万人から3割ほど増加しています。少子化の流れの中で、小学生の総数が40年前の約1200万人から約600万人に半減していますので、私立小学校に通う児童の比率はかなり増加しています。

②習熟度別授業

1980年代以降の「ゆとり教育」は、詰め込み教育批判に応えるものでしたが、一方で「自己決定、自己責任」という自己管理を求めるものでした。1年前のコロナ休校で、家庭で学習を続けた子どもたちと、ゲームやSNSに明け暮れた子どもたちの間に大きな学力格差が生まれたように、「ゆとり教育」も、ゆとりの出た時間を有意義に過ごすか無為に過ごすかは「自己決定、自己責任」と見なされたため、結果的には、学力格差を拡大させました。この学力格差に大きく影響したのが家庭の経済的・文化的格差であったことを示す調査結果もあります。

そのような背景の中で、学力に応じた効率的な授業を行うために、習熟度別授業が拡大していきました。この習熟度別授業については賛否両論があり、今も決着はついていないと感じています。保護者の理解などの周到な準備をし、なおかつ適切な指導が行われている場合はうまくいっているようです。逆に、単純に成績上位者と下位者を分けた結果、学級の分断が生じ、上位グループでも下位グループでも学習意欲が低下したという報告もあります。全体として、一部の教科に限定された、きめ細かな配慮のなされた習熟度別授業は徐々に拡大しているようですが、全体がその方向に向かっているわけではありません。

一方で、国際化の進展で、日本語を母語としない子どもたちも増えており、在籍する学級を離れて日本語指導や教科指導を受ける「取り出し授業」は着実に増加してきています。

③自律的公設学校と公設民営学校

日本の公立学校の場合、地方自治体が設置し、文科省や各教育委員会の指導に基づき、学習指導要領という枠組みの中で画一的な教育がなされてきました。それに対し、臨時教育審議会は、様々な側面における「個性重視の原則」を打ち出し、それが従来の公立学校の在り方にもじわじわと影響を及ぼしました。

その一つの在り方が、「自律的公設学校」で、公立学校でありながら、特色あるカリキュラムを編成・実施したり、独自の入学者選抜方法を設けたりといった自律性をもつ学校です。アメリカでこの30年ほどに間に徐々に増加してきたチャーター・スクールがこれに該当します。チャーター・スクールの場合、地域の人々が希望するタイプの学校設立を申請し、公的な資金援助を得て設立されます。日本でもある種の特別な能力を身に付けることを目的として、特色あるカリキュラム編成をもつ公立高校が増えており、高校教育の多様化をもたらしています。理数コースや外国語コース、あるいは探究科など、多様化は着実に進んでいます。しかし、地方自治体の教育行政の一環として特色を付与したものがほとんどで、地域の人々が主導して設立するチャーター・スクールとは異質といえます。

似たようでありながら、少し違ったものに「公設民営学校」があります。日本ではこの春(2021年4月)に開校した大阪市立水都国際中・高等学校が初めての事例で、この学校の場合、公立校でありながらその運営を民間の「学校法人大阪YMCA」に委託しています。これは国家戦略特区の特例が適用されて認められたものです。特区による特例としては、学校法人ではなく株式会社が設立した学校が、2004年以降いくつか誕生していますが、大部分は通信制の学校です。多様性の一つと捉えることもできますが、大きな影響力を持つ存在にまではなっていません。

日本比較教育学会は機関誌『比較教育学研究』第61号(2020年7月)で、「自律的公設学校の国際比較」という特集を組んでいます。その冒頭で、特集のコーディネートをした中島千恵氏(京都文教大学)が、「調査を通して公立学校運営ビジネスの動きが想像以上に進展して」おり、「欧米で教育モデルが創造され、アジアがそのモデルを受容・購入するという構造が形成されつつある」(p.7)と述べています。まさに、新自由主義による市場原理が教育の世界に拡大しており、それゆえに特集が組まれたのだろうと思いますが、日本の場合、潜在的な拡大の可能性はありますが、今のところ大きな流れを引き起こす気配は感じられません。

なお、新自由主義のもう一つの側面である「地方への権限移譲」という点では、例えば、小泉政権の下で、2002年に①国庫補助金等の削減、②国から地方への財源移譲、③地方交付税改革、という「三位一体の改革」が推進されました。その結果として、学校教育関係でも、国の補助金が廃止されたり縮小されたりして、その一部が地方交付税で賄われるようになるということがありました。そのことも地方行政関係者や教育委員会関係者にとっては大問題だったかもしれませんが、学校の教員や保護者にとっては、あまり利害にかかわらないものと捉えられたようで、大きな反対運動も起こっていません。

なお、学校教育における「競争」という点では、「席次」や「受験競争」、「学校の序列化」といった、百年以上前から存在していた問題などもあり、それらを含めて根本から議論をする必要があると思っています。競争には、確かに学びへのインセンティブという要素もありますが、競争での勝ち負けへのこだわりは、学ぶことの本当の意味を見失わせることになりかねません。社会の変化が著しい中で、青少年期だけではなく、生涯を通して学び続けることが求められる生涯学習時代に移行しつつあります。そういった中での学びは、充実した「生」を重視する方向へと進むはずで、勝ち負けにこだわる「競争」は、学びへのインセンティブとしての役割は薄れていくのではないでしょうか。

新自由主義と「規制強化」

これまで述べたことからは、1980年代以降の主要国に蔓延し、様々な政策に大きな影響を及ぼしてきた新自由主義も、日本の学校教育にはそれほどの影響を与えなかったと受け取られるかもしれません。新自由主義的な教育改革とは異なった、学習者の主体性を重視する新たな教育改革の方向に歩み出しているようにも感じています。

しかし、実は、今回のテーマである「教育改革と教員の多忙・疲弊」という点では、新自由主義を基調とする国政の運営が大いに関わっていると見ています。そのことを理解していただくには、「新自由主義の本質」に立ち返る必要がありますので、少しお付き合いください。

新自由主義は市場原理を最優先する考え方で、それまで政府が担っていた役割を民間に委ねたりすることで無駄な支出を削減して国家財政のバランスの取れた「小さな国家」を目指すもの、と教えられてきました。また、市場が活発に機能するには「規制緩和」が不可欠とも言われてきました。そのためか「小さな国家」であれば、国家の果たす役割も小さくなり、予算規模も膨張しないで済むし、様々な規制が緩和されて誰もが自由度の拡大による恩恵を受けることができるようになる思い込みたくなりますが、現実にはまったく違った姿が展開されています。

下のグラフから明らかなように、平成2年すなわち1990年頃から、つまり新自由主義的な政策が本格化する頃から日本の一般会計は税収が伸び悩み、歳出はどんどん膨張し、その差を赤字国債の発行で補填するという姿になっています。この30年間の歴代政権は財政健全化を謳いながら税収を大幅に上回る支出を続けてきました。その結果、借金総額を人口一人当たりで割るとほぼ1000万円にまでに膨らんでいます。到底「小さな国家」とは言えません。

http://財政に関する資料 : 財務省 (mof.go.jp)

また、教育学者の藤田英典氏は、主要新聞に掲載された「政治主導」に関する記事の件数を調べ、新自由主義政権の活動が活発化する1990年以降、「政治主導」についての記事が急増していることを明らかにしています。教育行政においても、臨時教育審議会以降も、教育改革国民会議、教育再生会議、教育再生実行会議といった首相直属の会議体が、教育改革を促す様々な提案をし、その方針に沿った具体案が中教審、文科省から発出されるスタイルが定着しています。しかし、それらの基本的な方向性は新自由主義の基本をされる「規制緩和」ではなくむしろ「規制強化」であって、しかも様々な提案が矢継ぎ早に繰り出されるために、それらが教職員の多忙や疲弊の一因となっていると思われます。

ではなぜ、新自由主義政権の下で、教育行政に対する政治主導や政治介入が強まり、規制強化が進むのでしょうか。新自由主義の根本をなす「市場原理主義」において何が重視されているのかを探っていくと少しずつ謎が解けていきます。

「市場原理主義」において、最優先で優遇され、保護される対象は、市場での取引の可能な私有財産であって、社会が共有する財産や社会全体にとって価値を持つものは、仮に貨幣価値で表すことができたとしても、基本的には除外されます。また、市場での取引が妨害されたり機能不全に陥ったりしないようにしなければならないという名目から、政府はより強い力を行使する権限を求めます。その結果として、場合によっては高圧的な行政指導や「規制強化」がなされたりします。

例えば、農地や山林が持つ環境面での価値、あるいは保水機能による防災的な価値のように社会全体が享受している価値などは見過ごされがちです。市場で貨幣に換算できる価値ばかりを重視して農地や山林の価値は低いとみなされて、結果的に農村の疲弊をもたらすような農産物の自由化が、消費者に安価なものを低居できるという名目のもとで推進されています。

学校教育という次の世代を育むという社会全体にとって不可欠な制度も、教育の果たす深い役割や子どもたちを育てることの難しさに対する理解が不十分なまま、市場原理主義最優先によって、「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」と捻じ曲げられてきました。

この30年間で、事務的な作業も精神的な重圧感も増大した、というのが長年教職を担ってきた先生方の共通の感想であろうと思います。「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」という新自由主義的な要求が、政権から文科省経由で教育委員会へ、教育委員会から学校へ、そして教職員へと降りてくるようになったことが、その大きな原因と感じていますが、そこには、学校が次世代を育んで社会を持続可能なものにするという社会全体にとって価値に対する尊重する意識が欠落しています。

宇沢弘文氏の「社会的共通資本」と学校

前述の「社会が共有する財産や社会全体にとって価値を持つもの」のことを、経済学者の故宇沢弘文氏は「社会的共通資本」と言っています。宇沢氏は多くの著作でこの「社会的共通資本」の重要性を述べていますが、以下に重要な著作を集成した『宇沢弘文傑作論文全ファイル』(東洋経済、2016年)から数か所を引用します。

社会的共通資本は、一つの国ないし社会が、自然環境と調和し,すぐれた文化的水準を維持しながら、持続的なかたちで経済的な活動を営み、安定的な社会を具現するための社会的安定化装置といってもよいと思います。(p.54)

社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる。大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー、そして教育、医療、司法、金融制度などの制度資本が社会的共通資本の重要な構成要素である。(p.412)

・・日本社会はいま、戦後60年を通じて最大の危機を迎えている。日本では、市場原理主義が、経済の分野だけでなく、医療や教育という社会的共通資本の核心にまで、その悪魔の手を伸ばしつつあるからである。市場原理主義の精神に則って、医療、教育の規制緩和、効率化の名のもとに、実質的には官僚的管理を極端な形に推し進めてきた結果、現場の医療関係者や教師たちはいま極限的な状況に追いつめられている。(p.38)

宇沢氏の指摘は的を射ており、新自由主義的政権によって進められた政策の中には、この「社会的共通資本」の重要性が考慮されてないものが少なくありません。今回のコロナ禍でも、「社会的共通資本」としての医療に対する軽視がまかり通っています。医療の崩壊の危機が迫っていても、経済活動を抑制するような対応に躊躇して結局感染拡大を引き起こしたり、感性拡大の危険が当然視されている中でオリンピックを決行しようとしたりしています。

同様に、教育に対する前述の「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」という過剰な介入が、教員の多忙や疲弊を引き起こし、子どもたちに様々な異変を引き起こしたりしています。

「いやいや、自分たちの教育への介入は決して不適切なものではない。世界の主要先進諸国も同様の教育改革に取り組んでいる」と抗弁するかもしれません。教育においても「質保証と評価」が何より重要で、「成果・説明責任・エビデンス」を迫ることがよいパフォーマンスを生み出すと本気で信じ込んでいるのかもしれません。しかし、1990年以降、世界的に新自由主義的な教育改革が進められたのに対して、PISA調査でも常に好成績を示してきたフィンランドがそれとは正反対の教育実践を続けてきたことが、Finnish Lessonsという本に描出されています。そこで展開されている指摘は説得力に富み、教育という社会的共通資本に対する新自由主義的な介入を正当とする主張こそが、エビデンスに欠ける思い込みと確信させるものがあります。

教育を社会的共通資本と捉えた場合に、学校教育はどのようなものであるべきか、という視点は、「未来の学校教育」を考えるうえで非常に重要ですので、次回に改めて話題に挙げたいと思っています。

Finnish Lessonsが示す新自由主義的教育改革とフィンランドの教育の対比

Finnish Lessonsを著したPasi Sahlberg(パシ・サールベリ)氏は、フィンランドで教職に携わる傍ら教育省の専門能力開発戦略を統率したりしており、その後、フィンランドを離れて世界銀行で要職に就いて、世界各国の教育事情を熟知するにいたった人です。いわばフィンランドの内側と外側の両方の世界の教育事情に熟知しているSahlber氏が2011年に刊行したFinnish Lessonsでは、世界的に進められていた教育改革を“Global educational reform movement (=GERM:英語の”germ”には「病原菌」という意味もあります)と呼び、フィンランドが進めてきた教育とどのように違っているかを明快に示しています。両者の違いはFinnish Lessonsの中でも対照表の形で簡略に示しており、それを澤野由紀子氏(聖心女子大学)が『改訂版 海外の教育改革』(坂野慎二、藤田晃之編、放送大学教育振興会、2021年3月)の中で日本語に訳出して紹介しています。

ただし、澤野氏が訳出したのは、2011年に刊行されたFinnish Lessonsに掲載された対照表で、2015年に刊行された改訂版Finnish Lessons 2.0では、項目数としては5つで変わっていませんが、取り上げている中身が一部差し替えられたり、順番がかえられたりしています。そこで、以下では、Finnish Lessons 2.0に掲載された対照表を訳出し、本文の記述に基づいて若干の補足説明を加えたいと思います。なお、2021年1月にはLessons 3.0が刊行されており、発注しているのですが、まだ入手できていません。入手できましたら改めて少し丁寧に紹介してみたいと思っています。

グローバル教育改革運動 (GERM)フィンランド・モデル
学校間の競争 根底にある仮説は、競争が市場メカニズムとして機能し、最終的には質と生産性とサービスの向上をもたらすということ。公立学校についてもチャーター・スクール、フリースクール、インデペンデント・スクール、私立学校と入学者獲得で競い合うことで、最終的に教育と学習も改善すると想定。学校間のコラボレーション 根底にある仮説は、人々を教育するということは協働的なプロセスであり、学校間での協力、ネットワーク、アイデアの共有は、最終的には教育の質を高めるということ。したがって学校が協力し合うことで、互いに助け合い、教師が教室で協力の文化を創造するのを助けることになると想定。
スタンダード化された学習 すべての学校、教師、および生徒の質と公平性の向上のために、明確かつ高度で、一元的に規定されたパフォーマンス目標を設定する。 このことが、外部で設計されたカリキュラムを通して、測定とデータの一貫した共通の基準を確保しうる、スタンダード化された教育に導くことになる。個人に対応した学び 学校をベースとするカリキュラム策定のために、明確ではあるが柔軟な全国的枠組みを設定する。 すべての人に対応した学習機会を創出する最良の方法を見つけるために、国の目標に対する学校をベースとした個別の解決策を奨励する。 特別な教育ニーズのある人には個別の学習計画を使用する。
リテラシーと計算能力に焦点を当てる 読み書き、数学、自然科学の基本的な知識とスキルが、教育改革の主要なターゲットとなる。 通常、これらの科目の指導時間は、(芸術や音楽などの)他の科目の時間を削って増加させる。全体としての子どもに焦点を当てる 教育と学習は、個人の人格、道徳的特性、創造性、知識、倫理、スキルの成長のすべての側面に平等な価値を与えるような、深く幅広い学びに焦点を当てる。 学校教育の目的は、それぞれの児童生徒の生来の能力(talent)を見つけることにある。
テストベースの説明責任 学校の成績と生徒の成績の向上は、昇進、検査、そして最終的には学校や教師に対する報酬のプロセスと密接に関係する。 教師の給与と学校の予算は、生徒のテストの点数によって決まる。 制裁措置には、多くの場合、解雇や学校の閉鎖が含まれる。 国勢調査に基づく児童生徒の評価とデータは、政策立案に情報を提供するために使用される。信頼に基づく責任 生徒にとって何が最善かを判断する際に、教師と校長の専門性を尊重するという、責任と信頼の文化を教育システム内に徐々に構築している。 失敗したり取り残されたりするリスクのある学校や生徒に、資源と支援が提供される。政策策定に情報を提供するために、標本調査に基づいた学生評価とテーマ別の調査が使用される。
学校選択 基本的な前提は、家族のニーズにより良く応えるために学校間の健全な競争を奨励しつつも、子どもの教育を選択する自由が保護者に与えられなければならないということ。理想的には、公立であろうと私立であろうと、保護者は子供の教育のために確保された公的資金を使用して、自分に最適な学校を選択できるべきである。  結果の公平性 基本的な前提は、すべての子どもが学校での教育の成功について平等な見通しを持つべきであるということ。学校での学習は子どもの家庭の背景と、関連する要因に強く影響されるので、不平等に対処するための実際のニーズに応じた資金が学校に提供されることが、結果の公平には必要である。学校の選択はしばしば結果の不公平を増大させる分離を引き起こす。
表4-1 グローバル教育改革運動とフィンランドの教育改革モデル(Pasi SahlbergのFinnish Lessons 2.0、p.149-150に掲載された対照表を訳出)

澤野氏が訳出したFinnish Lessonsの最初のバージョンと上記の第2のバージョンで大きく変わったのは、一番上の「学校間の競争」と「学校間のコラボレーション」の対比が加わった点で、最初のバージョンで4番目に取り上げられていた「市場原理による改革理念の借用」と「過去から学びイノベーションを主導する」が削除されています。参考までに、削除された部分の澤野氏の訳出(『改訂版 海外の教育改革』、p.126)を以下に引用します。

市場原理による改革理念の借用
・教育の変化の源泉は、法律や国のプログラムを通して学校にもたらされた企業の世界の経営と管理のモデルである。このような借用は学校と地方の教育システムを私企業の操業の論理に導く。
過去から学びイノベーションを主導する
・教育においては、教師の専門的役割や生徒との関係のような伝統的教育学的価値を高く評価する。 ・学校改善の主な源泉は、良いことが証明されている過去の教育実践である。

まず、この差し替えられた部分について考えてみたいと思います。「市場原理」という言葉は、新しく加わった「学校間の競争」にも書かれています。あくまでも推測ですが、文中にある「企業の世界の経営と管理のモデル」や「私企業の操業の論理」が変質してきていることをSahlberg氏が自覚し、そのままの記述では誤解を招くと感じたからではないでしょうか。かつての製造業中心の経済から情報・流通が大きなウエイトを占める経済へ転換していること、また2006年にアナン国連事務総長が金融業界に「投資責任原則」を提唱し、それに呼応するかのようにヨーロッパを中心に「ESG投資(環境・社会・企業統治に責任を持つ企業への投資)」が広がり始めたことなどから、企業の経営モデルは競争や効率一辺倒からに変容しはじめています。環境や社会への貢献を重視したり、SDGsに協力する態度を鮮明にしている企業が急増しています。この差し替えは、そのようなことを敏感に感知した結果であろうと推測しています。第2バージョンの本文中には「政府は、学校間の競争、教育と学習のスタンダード化、懲罰的なテストベースの説明責任、情報不足のパフォーマンスベースの支払いなど、企業の世界からしばしば時代遅れで悪い管理モデル(outdated and bad management models from the corporate world)を採用しています。」(p.143)という、そのことを裏付けるような記述もみられます。

また「過去から学びイノベーションを主導する」については、過去の学校教育制度や教育方法などにも大きな欠点があり、特に「知識重視」の教育と決別して学習者の主体的な学びに移行する動きを適切なものと捉え、過去の教育を重視する考えは適切ではないと考えるようになったのではないでしょうか。

一方、新たに加えた第一段目の「学校間の競争」は、Sahlberg氏が一貫して不適切と考えている市場原理による競争を、学校間の入学者獲得競争に焦点をあてたものです。本文中の説明個所では、Finnish Lessonsの最初のバージョン出版後の2013年にOECDが公表したPISA 2012 results: What makes schools successful? Resources, policies and practices (Vol. 4) が数か所で参考文献として挙げられています。このレポートを通して、ほかの国々で入学者獲得を巡って熾烈な学校間競争が展開されていることをより強く認識することになったことから加えられたと想像しています。

そのような世界的な潮流に対して、フィンランドでは、The National Board of Educationが1998年に示した「フィンランドの教育成果を評価するためのフレームワーク」と、 1998年に成立した教育に関する国内法によって、「現在の教育政策が学校間の協力を奨励 (current education policies encourage cooperation)」(p.176)していることにも言及していますが、学校間の協力がごく普通になされていることから、「学校間の競争」との対比で「学校間のコラボレーション」を第1段目に加えたと推測しています。

2段目の「スタンダード化された学習」について、Sahlberg氏は、結果に対する評価に基づく教育改革が1980年代に普及し、1990年代にスタンダードに基づく教育政策が各国で実施されていったことについて、「結果的には、学校、教師、学生に明確で十分に高いパフォーマンス基準を設定することで、望ましい結果の質が必然的に向上するというbeliefが政策立案者や教育改革者の間で広く疑問の余地のないものと受け入れられた。」(p.145)と述べています。ここで用いられているのはbelief(=信仰、信念)であって、決してエビデンスではありません。ちなみに、残念ながら日本でも、「授業スタンダード」が特に2012年以降に各都道府県教育委員会から続々と発行されています。このスタンダード化については、根深いものがあると感じていますので、また別の機会に整理してみたいと思っています。

3段目の「リテラシーと計算能力に焦点を当てる」教育について、OECDのPISA、IEAのTIMSS、PIRLSなどの国際的な学生評価が、各国の教育政策においてコア科目重視を促していると指摘するとともに、このことに触れた節の最後で、「人生と雇用で成功するには、好奇心が強く、他の人と協働する方法を知っており、困難な問題を解決でき、リーダーシップをマスターしている若者が求められている(to be successful in life and employment requires young people who are curious, who know how to work with other people, who can solve difficult problems, and who master leadership)」(p.146)と書いています。何となく、新自由主義的教育改革推進者に対する著者の「わかっていないなあ!」という溜息が伝わってきます。

この「リテラシーと計算能力に焦点を当てる」に対応したフィンランド・モデルの「全体としての子どもに焦点を当てる」欄の最後に、「学校教育の目的は、それぞれの児童生徒の生来の能力(talent)を見つけることにある。」と書かれています。この文に相当する記述は、最初のバージョンにはありませんでした。”talent”と書かれているので「英才教育?」と早とちりしかねません。しかし、この点については、1994年のナショナル・カリキュラムが、ハワード・ガードナーの多重知能理論の影響を受けてたことで、「学校教育がすべての生徒に精神のあらゆる側面を発達させる機会を提供しなければならないことを強調している」(p.168)と述べて、フィンランドの教育システムでは、”talent”をより広い定義で捉えていることを述べています。

4段目の「テストベースの説明責任」と「信頼に基づく責任」の対比は、新自由主義の「成果・説明責任・エビデンス」を振りかざす学校教育介入が顕著に現れている部分で、当然ながらSahlberg氏は随所で批判を展開しています。そして、教育学や教育理論の最先進国であるアメリカ合衆国で、フィンランドで実践されているような教育が大規模に展開されてない理由として「合衆国の学校の業務は官僚機構、テストベースの説明責任、および競争によって大いに操られているため、学校はこの厄介な状況のもとで、強制されていることを単に行っている可能性がある」(p.170)という推測を述べています。

5段目に書かれている「学校選択」と「結果の公平性」は、一見すると対応してないような印象を受けます。学校選択は不公平を拡大するものであるのに対して、フィンランドは結果の公平を目指してきたことを強調したかったのであろうと思います。学校選択を進めることが様々な弊害を生み出すことは明白ですが、教育の需要者がより優れた学校への入学を求め、それをビジネスチャンスとして需要者の希望に沿うような学校を提供しようとする動きはどのようにすれば制御できるのでしょうか。

上記の表に書かれた「グローバル教育改革運動とフィンランドの教育改革モデルの対比」は、表層に現れたわかりやすい顕著な違いが列挙されています。しかし、Finnish Lessons2.0全体を通して読んでいくと、よりよい学校教育の構築に向けて長年、地道な努力を積み重ねるとともに、市場メカニズムに基づく安易な誘惑に対して、その都度、聡明な判断がなされてきたことを示す事例が多数盛り込まれています。フィンランド人の思慮深い国民性にも感心させられた次第です。

今回のまとめ

教員の多忙と疲弊の原因を探るために、今回は新自由主義に焦点を当てて検討してみました。最初の方でも述べたように、社会の変化がスピードアップしている今日、社会の変化に適切に対応する教育改革は必要なことです。Sahlberg氏がFinnish Lessons 2.0において最初のバージョンの記述の一部を削除したように、伝統的な教育にも様々な欠点があり、それらと決別するための教育改革は必要です。今回の学習指導要領に盛られた「持続可能な社会の創り手」や「主体的・対話的で深い学び」、あるいは教科横断的な取り組みを促す「カリキュラムマネジメント」の実現は、未来の社会に生きる子どもたちを育む学校教育に相応しいものと捉えています。

首相直属の会議体から矢継ぎ早に繰り出される改革の提案も、社会の変化のスピードを考えると、決して早すぎるとは言えないかもしれません。また、改革の方向性についても、妥当と感じるものは少なくありません。ただし、良かれと思っての提案だったかもしれませんが、不適切なものも確実に存在してきました。多分に新自由主義的教育改革が内包されており、Sahlberg氏が子どもたちにとって決してプラスになっていないと指摘する「世界的な教育改革運動(GERM)」に当てはまる提案もなされてきました。また、宇沢弘文氏が重視する社会的共通資本としての教育という視点が希薄な提案も混じっています。

総体として、日本の学校教育改革を振り返ると、学校選択や民営化に突っ走ろうとする動きに対して文科省や自治体自身は、かなり抑制的な判断・態度を示してきたと思います。しかしながら、市場経済以外の側面に対してはむしろ「規制強化」を推し進めるという新自由主義信奉者集団の介入に対しては、抑制機能はあまり働いているとは言えません。新自由主義信奉者集団の学校教育への介入が、学校や教員への「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」という圧力となり、教員の多忙や疲弊をもたらす大きな要因になっていると思っています。

では、どうすればよいのでしょうか。次回は、少し巨視的な、大げさに言えば人類史的な観点から学校教育のあるべき姿を考えてみるつもりです。

2021年4月26日

教育改革と教員養成制度のズレ

教育改革に大きな影響を及ぼしている集団は複数

前回述べたように、日本における近年の学校教育改革には、以下の4つの大きな要因が存在すると考えています。

①新たな教育課題の誕生

②教育方法の主流の変化

③学校と地域との関係の変化

④児童生徒や保護者の多様化

これらへの対応のための様々な改革が矢継ぎ早に打ち出されてきており、その次々と改革に迫られる感覚自身が教員を疲弊させていることは否定できません。新たに導入した仕組みが不適切であったり不十分であったり、あるいは従来と違ったやり方になじめなかったり、うまくいかなかったりと感じれば、落胆や疲労感につながることでしょう。

しかし、日本の今日の教育改革は、社会の急速で大規模な変化に対応する世界全体の教育改革と同じ方向性をもつもので、基本的には肯定的に捉えるべきものであると捉えています。教育改革をストップさせることは、学校が時代に取り残され、存在する意味を損ないかねません。150年前に誕生した学校は、青少年が社会に出る前段階に一定の知識や技能を習得させることが大きな役割でした。しかし、国際化と情報化と長寿化などの社会の変化によって、学校はあらゆる年代の人が生涯を通して学び続ける場へと変貌しようとしています。そして、その過渡期がまさに現在であって、学校教育改革をストップさせ、過去の学校の姿にとどめようとすることは、社会の変化がどんどん進む中で、事態を一層悪化させることにならざるを得ません。

教育改革を受け入れながらも、教員の過重労働や疲弊を避ける道筋を見出せないものでしょうか。

『教員という仕事 なぜ「ブラック化」したのか』を読みながら、「教育改革」にしろ「教員改革」にしろ、文科省から一方的に発されて、教育現場に押し付けられ、それが教員の過剰労働や疲弊に繋がっている、と朝比奈氏が捉えているような印象を受けました。そのように考えるのも仕方のない面があります。例えば、大学の教職課程履修者や教員採用試験受験者、あるいは現職の教育関係者を主たる購読者と想定している『現代の教育改革』(徳永保編著、ミネルヴァ書房、2019年)では、教育改革について「社会と社会を取り巻く環境の変化に対して、学校教育がその社会的責務を果たせるよう、教育の内容、在り方と関連する制度を一体的に変化させようとする中央政府あるいは地方政府の試みである」(p.4)と書いています。中央政府や地方政府において教育行政を主管するのは文部科学省や教育委員会ですから、不適切と感じる「教育改革」に対する矛先が、文科省や教育委員会に向かうのは無理からぬところです。

しかし、40年以上にわたって大学の教職課程という場で教員養成に携わる間に、「この改革は時代に逆行している」「この制度導入は本来の趣旨に矛盾しており弊害の方が大きい」「この審査は恣意的だ」という方針の一貫性のなさを感じたり、もろに影響を受けてにがい思いしてきたりしました。そのような経験から、実は文科省や教育委員会、あるいは中央教育審議会の背後に、自分たちにとって好都合な学校教育にしようとする集団、改革の進行によって既得権益を奪われると感じている集団、この機に乗じて一儲けしようと思っている集団など、あれこれと改革を捻じ曲げたり足を引っ張ったりする集団が複数存在することを理解するようになりました。「教育改革」に大きな影響を及ぼしている複数の集団の思惑が、それぞれ異なっているため、結果的に改革に向けた方針に一貫性がなくなっています。

教員の疲弊についても、その問題点究明に当たっては、どの集団がどのような意図で圧力をかけた結果であるのかを、少し丁寧に見ていく必要があると考えています。今回は、そのような複数の集団のうち、教員養成制度に焦点を当てて、そこに大きな影響を与えている集団から見ていきたいと思います。

「教職課程における41年間を振り返る」

まず、筆者が1年少し前に『学習院大学教職課程年報』第6号に寄稿した「教職課程における41年を振り返る」という文章の冒頭部分を少々長いのですが再録します。(本来はイタリックで表示すべきでしょうが、読みやすさを優先して小見出しのみイタリックにします。)

「不動如山」

 1979年に学習院大学の教職課程専任教員として着任し、この2020年3月末で41年が経過する。一般大学でも教員免許を取得できる「開放制教員養成制度」を、1949年5月の教育職員免許法成立から起算すると、70年以上が経過したことになる。したがって、開放制教員養成制度の70年の歴史のうち、7分の4以上を自分の目で見てきたことになる。ちなみに、この1949年は、4月に新制の学習院大学が誕生し、8月に筆者自身が誕生し、10月に中華人民共和国が誕生した年である。

 長年、教職課程に身を置いてきたうえでの率直な印象を一言で述べると、過去70年の日本の教員養成制度は、武田信玄の「風林火山」の最後の一節「不動如山(動かざること山のごとし)」がピッタリであろう。この一節は、一般には、よい意味で使われると思うが、この70年間の世界や社会の変化を考えると、「いささか時代遅れ」で困ったものだ、という意味合いが強い。

 中華人民共和国の場合は、1949年の建国後、毛沢東による土地改革から大躍進運動の失敗、文化大革命を経て1978年からの鄧小平による改革開放政策、そして今日の世界最大の工業生産国へと大きな変化をしている。世界全体の大きな流れを見ても、第二次世界大戦後にアジア・アフリカで植民地が続々と独立し、1960年代以降は産業や科学技術の高度化が進展し、1970年代以降は国際的な「ヒト・モノ・カネ」の動きが活発になった。1990年前後には米ソの冷戦が終結し、その後に猛烈な情報化の飛躍的発展が起こっている。近い将来、AI搭載のロボットに取って替られる職業も少なくないという。

教員免許制度の必然性に対する再検証

 このような世界や社会の大きな変化にもかかわらず、日本の教員養成制度の根幹はほとんど変わっていない。初等教員免許と中等教員免許の分離、中高教育の教科別の免許制度、教科に関する科目と教職に関する科目の2本柱、教育実習制度、教育委員会発行の免許状の大学卒業時取得、都道府県(+政令指定都市)単位の教員採用試験、教員採用試験合格者の卒業直後からの授業担当、設置認可申請における膨大な申請書類と独善的で不透明な審議会の決定、等々。

 「えっ、それらは当たり前で、変えなくてもいいんじゃない?」と思う向きも多いであろうが、そうでなければならない必然性のあるものは少ない。時代が変化する中で、当然変化していいのに変わってないものも多い。

 例えば、初等教員免許と中等教員免許の分離。少子化に伴う児童生徒数の減少の中で、小中統合の圧力が高まり、今後小中一貫校が急増するのは必然で、「義務教育学校」という枠組みも広がっている。しかし、「義務教育学校免許」は話題には上がったが、立ち消えになったままである。

 例えば、教科別の中等教員免許。新学習指導要領では、カリキュラム・マネジメントという名称の下で教科横断的な学びを求めている。様々な教育関係の答申でも「統合的・総合的」思考の重要性が指摘され、さらに今後は、教科の枠組みを超越したプロジェクト型の学習が重要になると予測されている。それにもかかわらず、人材の大量生産のための基本的な枠組みとして140年前に作られた教科の枠組みが、今日も不動の地位を確保している。中高の教員免許について、教科ごとの免許以外の新しいカテゴリーの免許を発行しようという動きは皆無に近い。

 そして、そもそもの教員免許制度。(以下略)

なぜ教員養成制度は変わらないのかー教科のエゴ

過去70余年の間に、社会が大きく変わり、学校に求められているものが変わり、児童生徒や保護者の多様化が進んだのですが、教員養成制度の根幹をなす教員免許制度が変化に対応する動きをしなかった、そのことにあきれ果てている思いを率直に書いたものです。

「教育改革」を促す要因の①として取り上げた「新たな教育課題の誕生」に対しても、新たな免許教科として追加したのは高等学校の「情報」免許ぐらいで、環境教育についても国際理解教育についても、小中学校の情報教育も、既存の教科の枠組みの中で指導することを求めています。しかもそれでいて、教員免許取得段階で新たな教育課題を必修にすることもなく、また、新たな教育課題についてのきっちりとした研修もほとんどなされない、というのが実態です。大部分は「現場任せ」と言っても過言ではない状態です。結局、教員に過重な負担を強いる形で新たな教育課題が学校に押しつけられることになっています。

新たな教育課題が学校に導入される際に、「足し算」になることにも触れておきます。グローバル化に対応するために、学習指導要領の2回の改訂で、「外国語活動(英語活動)」と教科としての「外国語(英語)」が導入されました。その結果、小学校5年生の教科別の年間の授業時間数がどうなったかを示したものが下の表です。総授業時間数は35時間ずつ、つまり、一週間の時間割の一つの枠に相当する分が2回にわたって増えています。

「外国語活動」あるいは教科「外国語」が導入された際に、既存の教科が時間数を削減して総時間数を増やさないようにするということは行われていません。新たな教育課題が誕生した際に、極力新たな教科を増やさないようにして対応したことにも、小学校における「外国語活動」や教科「外国語」の導入に際して既存教科が担当時間数を削減しなかったことにも、実は同じ力が働いていると推測しています。それは、各教科集団がそれぞれの教科の配当時間数を減らさないように様々な手段を用いて文科省に、あるいは中教審に圧力をかけた結果と思われます。ゆとり教育による「学力低下論」を利用して、各教科集団が既得権益を必死に守ろうとした、いわば「教科のエゴ」によるものとみています。

ではなぜ、各教科集団は既得権益を必死に守ろうとするのでしょか。おそらく2つの恐怖があるからでしょう。一つは①の「新たな教育課題の誕生」です。新たに誕生してきた教育課題のために授業時間を割いていくと、既存教科の配当時間が減少し、既存教科の重みが減少し、既存教科にまつわる既得権益が縮小するからです。もう一つは、「総合学習」や教科横断的な視点からの学習の拡大です。前回のコラムでも触れたように、課題解決型の学習の重要性に対する認識が広がる中で各教科の独自性が薄れ、既存の教科は「基礎基本」の習得に限定されがちになります。

各教科の奥の深い面白さを伝えることが困難になる、それには何としても抵抗せざるを得ない、という思いは、長年教科教育に携わってきたのでよく理解できます。しかし、すべての学習者に対して、すべての学習者に配布される教科書を使って、すべての教科の奥の深い面白さを伝えることは、新たな教育課題が増大した今日では学習者に過重な負担を課すことになります。探究的な学習が主流になる中で、改めて教科における学習内容が重要であると気づくことは多々あるでしょう。そうであるならば、探究的が学習をきっかけとなって教科の学習内容に興味関心を抱いくようになった学習者を、奥の深い面白さに引き込むようなオンラインでの発信など、新たな伝達手段の開発が求められているのではないでしょうか。

なぜ教員養成制度は変わらないのかー旧師範系大学の守旧姿勢

教員養成制度が変わらない理由として「教科のエゴ」について書いてきましたが、実は既得権益を必死で守ろうとしているのは、各教科集団というよりも、旧師範系の教員養成大学ではないかと感じています。

そのことを感じさせた2つの例を以下に紹介します。

新しいところから始めると、2018年度の教職課程の再課程認定申請時に求められた「教職課程コアカリキュラム」に沿ったシラバス提示があります。「コアカリキュラム」とは、本来は、「学習者の生活上の問題を解決するための学習を中核におき、その周辺に基礎的な知識・技術を学習する課程を配する教育課程」(『大辞林』の記述)で、『日本国語大辞典』では「一九三〇年代のアメリカで、社会連帯性を学習させるためにとられたもので、問題解決を中心とする総合学習を特色とする。」という補足説明もなされています。それに対して、2017年11月に教職課程コアカリキュラムの在り方に関する検討会がまとめた報告書「教職課程コアカリキュラム」では、「大学が教職課程を編成するに当たり参考とする指針」で、「教職課程の質的水準に寄与する」ためのものとされていました。

報告書は、一応「教職課程コアカリキュラムは、地域や学校現場のニーズや大学の自主性や独自性が教職課程に反映されることを阻害するものではなく、むしろ、それを尊重したうえで・・」と書かれているのですが、国や文科省に対しては、「各大学の教職課程の質保証につながるよう、教職課程の審査・認定および実地視察においては、教職課程コアカリキュラムが活用されること」を求めました。そして、実際に2018年度の再課程認定申請時に求められたのは「教職に関する科目のシラバスにおいて、教職課程コアカリキュラムの指針に盛られた科目の「全体目標」、数項目の「一般目標」、さらに各項目に対応した複数の具体的な「到達目標」が反映されたものとなっているかどうかがチェックされ、そうなってないものは修正を求められました。

このような「教職課程コアカリキュラム」は「大学の自主性や独自性」を抹殺するもので、実際にその指針に沿った授業の展開は、教職の醍醐味や躍動感などを受講者に実感させるものとは正反対のものになる可能性が大きく、改悪以外の何物でもありません。ではなぜこのような改悪が行われるのか。その規制によって誰が得をするのかを考えると一目瞭然です。時代遅れの型にはまった指導方法の延命を願っている組織の圧力です。

もう一つの事例は、教科教育の担当者に関するものです。もう10年ほど前になるかもしれませんが、文科省からの通達で、「教科教育法(現在は教科の指導法に関する科目)」の担当者については、教科教育についての5年以内の業績(=論文)が不可欠との教員審査基準が、厳格に適用されるようになりました。

「まあ、それぐらいは妥当かな」と思う方も多いかもしれませんが、これも大きな問題を含んでいます。かつて私が在籍した私立大学の教職課程では、教科教育法を担当していただいていた先生方の多くは、国文学科や史学科、数学科等の卒業生で、中高の現場で教員経験をしていた方々でした。しかし「教科教育」の専門家でないために、関係する教科教育法に関する論文の業績がなく、担当してもらえなくなって教科教育法の担当から外さざるを得なくなっていきました。教科教育において学生に伝えてほしいのは、学習指導要領にはこんなことが書かれているとか表層的な指導法ではなく、それぞれの教科の奥の深い魅力です。社会科教育に即して言えば、「教職課程コアカリキュラム」の「各教科の指導法」に書かれた到達目標に忠実な授業をする以上に、例えばユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』やSDGsの17目標と169のターゲットなどを教材に用いて、今の中高生が学ぶべきことしっかり伝えるにはどうしたらよいか、という問いを学生に発し、その解を見つけるために多くの時間とエネルギーを注ぐような授業の方が望ましいと感じています。しかし、それをやりにくくしているのが、「教職課程コアカリキュラム」といった規制や、教科教育の担当者に求める教科教育に関する論文の要求です。

特に「社会科教育法」の担当者については、もう一つ問題があります。「社会科教育法」の総括的な科目(本学では「社会科教育法1」)の担当者には地理的分野、歴史的分野、公民的分野の3分野それぞれについての教育法に関する研究業績を求めています。地理的分野、歴史的分野、公民的分野の3分野の教育法についての業績のある人は、おそらく国立の教員養成系大学で「社会科教育」を専攻した人に限定されるのではないでしょうか。このように本当に優れた教員を学校に送り出すこと以上に、旧師範系の大学の権益拡大志向と守旧意識が、今日の教員養成制度を時代遅れのものにしまっています。

このような経験から、前掲の「教職課程における41年間を振り返る」の締めくくりの部分では、以下のような少々荒っぽい記述をしています。ここではイタリックで表示して再掲します。

変化の激しい時代に対応できていない、今日の教員養成制度の姿には残念な思いを強くしている。そして、時代の変化に対応した適切な改革を阻止している既得権益固守集団に対しては、大きな憤りを感じている。

 筆者は、かつて学校法人学習院の企画部長として、学習院女子短期大学の4年制女子大学への改組転換に深くかかわった経験を持っている。また、文学部の8番目の学科として教育学科を立ち上げるための設置認可申請にも大いに関与してきた。その過程で、何ら具体的な説明もなく「業績不足」という一言で「不可」の烙印を押し、短期間のうちにのうちに代替候補者を提示するように、との指示を平気で繰り出す横暴を目にしてきた。そのような経験の中で、信じがたい独善的で横暴な審査がなぜまかり通るのについて、強い怒りを抱きながら考えてきた。そして、(一部略)古いシステムを固守することによって既得利権を手放したくないというあがきが根底に存在するという結論に達した。

 しかし、このような既得権益固守集団の横暴を看過していては、日本の教員養成制度は立ち遅れから脱することができず、取り返しのつかない事態を引き起こすと強く危惧し、定年退職を機に率直な思いを書き記すことにした次第である。

 これからの学校教育は、地域の方々やNPOといった学校外の人々と協働して次世代を育てていくという新しい段階に入ろうとしている。そういった新しい時代にふさわしい教員養成とはどのようなものであろうか。新しい時代に適合した制度の確立に向けて、今後は地域の教育を支援するNPOの立場から発言していきたい。(以下、略)

最大の問題はもっと別のところに

冒頭に紹介した『現代の教育改革』には、これまで書いてみたことを否定するような以下の記述があります。

・・行政改革に関連して学校教育の変革が議論される場合には、教育行政機関や教育関係者の既得権益のために間違った教育制度が維持されているような見解さえ示される。

しかし、・・・(p.4-5)

残念ながら、最後の「しかし・・」のあとに、上記のイタリック部分を完全に否定する根拠を示す記述はなく、「それらが導入された時点では、それ以前のものより良いものと認識され、実際にもそうであったと考えられる」という少しばかりずれた記述がなされています。批判があるのは知っているが、改革を行った時点ではそれが望ましいものであったと弁明したいようです。そもそもこの『現代の教育改革』は、帯にも書かれているように、「文部科学省現役・OB幹部職員の執筆」であって、これまで自らが関わってきた教育改革を否定的に捉えることはあり得ません。

しかし、特にこの部分の執筆者がどのような経歴を経てきた人であり、この『現代の教育改革』の執筆者陣がどのようなメンバーであるかを知れば、これまで書いてきたことを「なるほど、そういった構造があるのだ」と納得してもらえると思います。

この『現代の教育改革』の編著者であり、上記の引用文の執筆者は、1976年に文部省に入省、文科省の研究振興局長や高等教育局長を歴任し、2010年からは国立教育政策研究所所長、そして、2013年度からは教員養成系大学の頂点に立つ筑波大学の教育推進部教授となっています。そして共著者8人のうち現役の官僚でない4人のうち3人は文部官僚から国立や私立の大学に転身しています。このような転身(一般には「天下り」という言葉が使われていますが)をする可能性の大きい文部官僚の上層部が教育改革を主導しているという実態がある以上、「既得権益のために間違った教育制度が維持されている」ことを否定しても、説得力はありません。天下り先候補の意向を「忖度した」改革がなされるのは、必然の構造と言えます。

社会の変化に対応した「教育改革」が次々となされていく中で、教員養成制度が旧態依然とした姿のまま変わっていないこと、そしてそこに守旧派の教育関係者が関与していること、そしてそれらも結果的に教員の負担や疲弊を増大させている、という観点から、今回は、教員養成制度の実態の一端を紹介してきました。

しかし、実はこれまで述べてきたような既得権益保持のためにもっともらしい理屈をつけて「教育改悪」に加担してきた守旧勢力以上に、学校教育にはもっともっと大きな問題が存在しています。

次回以降は、そのことについて書いていきたいと思っています。

2021年4月19日

近年の教育改革の4つの主要因

社会の変化と教育改革

学校教育の改革とは、基本的には社会の変化あるいは社会の変化に対する子どもたちや保護者の変化に対して、学校教育における従来の在り方ややり方では対応できないことから、新たな仕組みを設けたり、従来と違ったやり方に変更したりするものと言えます。

社会の変化と広義の教育改革との関係は、人類史という長いスケールの中でも確認できます。狩猟採集社会では、狩猟の方法や食用になる植物の選別などは、大人のやり方をまねたり、周りの人から子供のうちに教え伝えられたりして習得していました。しかし、農耕社会になると社会の階層化が生じ、都市が誕生し、支配階層では社会の秩序維持や人々の統率のための様々な仕組みを学ぶための特別な訓練が行われはじめます。文字や算術も、社会の秩序維持や人々の統率のために生み出されたもので、一部の人たちが特別な訓練を受けて学ぶという、最初の「教育改革」といえるかもしれません。

社会が複雑化して、学ぶべきことも実用的なものばかりではなく、芸術的なもの、哲学的なもの、宗教的なものなどが加わり、高度化すると、専門的な素養を身につけるための大学をはじめとする学校が誕生していきます。また、「読み書き算盤」の習得が就業や生活水準の向上に有利な要素と見なされるようになると、教育は一層普及していきます。一度に多くの人がある一定の場所に集まって学ぶという学校の誕生は、人類史上の大きな「教育改革」といえます。

約150年前、国民国家の成熟によって、国家に奉仕する人材の大量育成による国民統合という国家的な要請によって、国民のほぼ全員が学校に通って学ぶ「公教育制度」が生まれました。ほとんどすべての人が少年期の一定期間を学校に通って過ごすというこの公教育制度の誕生も、人類史上の大きな「教育改革」の一つといえるでしょう。

そして現在、社会の急速な変化と、社会的生態的な持続可能性の危機が差し迫る中で、新たな教育改革が始まっています。

近年の学校教育改革の4つの主要因

日本における近年の教育改革は主に、以下の4つの大きな要因に基づくのではないかと考えています。便宜上4つに分けて述べていきますが、それぞれの要因が相互にかなり密接に関連し合っていることは言うまでもありません。

①新たな教育課題の誕生

②教育方法の主流の変化

③学校と地域との関係の変化

④児童生徒や保護者の多様化

これらは、持続可能性の危機の拡大、グローバル化や情報化の進展、産業構造の変化、雇用形態の変化、家族構造の変化、格差の拡大、少子高齢化など、広い意味での社会の変化とそれに付随する子どもたちや保護者の変化に起因しているものが大半です。

①新たな教育課題の誕生

1947年に6・3・3制の新しい学校教育制度が誕生してから、今年で75年目になります。その間だけでも社会の変化には著しいものがあり、それに対応して、学校教育には多くの新たな教育課題が押し寄せてきました。

例えば、1960年代には工業化の歪な発展がもたらした公害が社会問題となる中で、公害教育の必要性が叫ばれ、その後公害教育は自然保護教育と合流し、環境教育として学校教育に定着していきました。また、20世紀後半を通じて、ヒト・モノ・カネの国境を越えた交流が急拡大する中で、国際理解教育や外国語教育の強化が求められました。そして近年の情報通信技術の急速な進展に対応するために、高等学校に情報科という教科が設けられたり、新学習指導要領で小学校にプログラミング学習が導入されたり、今回の中教審答申に示されたように、ICTの活用が学校教育に求められてきています。

さらに社会的・生態的な持続可能性の危機に対応するために、新学習指導要領では「前文」において、「(一人一人の児童生徒が)持続可能な社会の創り手となる」ように指導することを求めており、国連持続可能な開発サミットで採択されSDGs(持続可能な開発目標)も重要な教育課題となってきています。

このような新たな教育課題を学校教育に取り入れる一方で、従来の教科等についても、児童生徒が習得すべき基礎基本と捉えているため、結果的に「足し算」となって、児童生徒にとっては授業時間数増となり、教員にとっては、もともと過剰労働であったところに、指導すべき課題が次々と押し寄せてきて、対応しきれないということになっています。じっくりと新たな教育課題についての指導方法を学ぶ時間もなく、「やってられないよ」という感覚を持つ教員も少なくないはずです。

②教育方法の主流の変化

ところで、①で例示したような新たな教育課題は、従来の教科のように児童生徒に知識を習得させることで済むというものではありません。「持続可能な社会の創り手となる」という言葉が象徴しているように、獲得した知識や技術を活用し、主体的な行動や活動への参画に結びつくことを求めています。筆者の専門領域である環境教育でも、環境についての知識を生み重ねるだけでなく、環境をよりよいものにするための行動・参画が重要という観点から、「参加体験型の学習」という手法が確立してきました。中教審での議論の中で「主体的・対話的で深い学び」と言い換えられましたが、課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ「アクティブ・ラーニング」が新学習指導要領の柱に据えられた背景には、このような新たな教育課題の性格も影響していると思っています。

上記のような新たな教育課題の影響もありますが、20世紀の末に起きた、受動的な学習から能動的・主体的学習への転換という教育方法の主流の変化には、学習効果についての本質的かつ根本的な考え方の変化に基づいたものと理解した方が正しいでしょう。主体的に何かに熱中しているときに大きな学びがあることや、回り道であっても、様々な体験や経験を重ねながら学ぶ方がしっかりと定着をすることは、以前から多くの人が実感してきたことです。しかし、それが世界の学校教育の在り方を大きく変えはじめたのはつい最近のことです。

世界の学校教育事情に精通している佐藤学氏は、ベルリンの壁の崩壊前後からヨーロッパを中心に始まった学習者中心の学びの拡大を「教室の静かな革命」と言っています。教師主導の教育から学習者中心の教育への転換は、その後、世界の多くの地域に広がっていきました。その一つの流れが、学習者が主体的・協働的にプロジェクトを進めていく「総合学習」の広がりでした。日本でも1998年告示の学習指導要領で、「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」ことを目指す「総合的な学習の時間」がはじまりました。

一方、学校教育の全教科等を学習者中心の学びに大転換させたのが中国です。上海での先行実施で好結果を確認した中国の教育部は、それまでの教師主導の知識注入型教育との決別を「基礎教育課程改革」として2001年に中国全土に発令しました。2009年にPISAに参入した上海が3領域のいずれでも断トツの一位になり、しかも、成績低位者の比率が少なかった理由として、いち早く学習者中心の学びに転換し、しかもそれに応じた教員養成に取り組んだ結果とみられています。

日本では、世界全体で浸透し始めていたこのような教育手法の主流の変化をキャッチしながらも、全面的な舵の切り替えには慎重でした。しかし2007年から再開された「全国学力・学習状況調査」(通称「全国学力テスト」)の分析が進み、「総合的な学習の時間」の趣旨に沿った主体的・協働的な問題解決型の学びに取り組んでいる学校の成績が、そのような取り組みをしていない学校を大きく上回ることが明らかになりました。そのこともきっかけとなって、学習者中心の学びへの転換の決断がなされ、2014年11月の下村文科相から「アクティブ・ラーニング」が4回も登場する中教審への諮問に結びつき、今回の「主体的・対話的で深い学び」を強調した学習指導要領にいたっています。

前述の公教育の誕生時には、多くの人に効率よく一定水準の知識を修得させることが重視されたため、教室の中に学習者を閉じ込め、教科に分けて時間割を組み、教科書に基づいて知識を伝授する、競い合わせることが活力を生んで有効との信念に基づいて試験を行い、席次を発表する、そして、師範学校できっちりと型を教え込まれた教師が教壇に立つという教育システムが確立されました。その教育システムががっちりと強固に出来上がってしまったために、能動的な学習の有効性を示唆する研究が様々な学問分野で提示されても、教員養成の場で、あるいは学校教育の場で新たな教育手法にすぐにシフトするということにはなりませんでした。知識の習得量に偏重した入試制度も、新たな教育手法へのスピーディなシフトを阻害してきたと言えるかもしれません。デューイの流れをくむ経験重視の教育や、教科を統合した「総合学習」が勢いを増すことは何度かありましたが、20世紀末までの世界の教育の主流は、教科ごとに分かれて知識を注入する教育方法でした。それが20世紀末に大きく動き始めたのは、情報化や国際化や産業構造の変化といった社会の大きな変動に対して、従来型の教育方法ではいよいよ対応できなくなった、限界に達してしまったという認識が定着してきた結果と言えそうです。

この教育方法の主流の変化に対応した教育改革は、本来であれば、「児童生徒に委ねる」という部分がより多くなるため、指導者には時間的な余裕が生じるはずです。しかし、教員養成過程で学んできたことや、教員として長年経験したこととの間には大きなギャップがあるため、多くの教員にとっては、従来から求められている基礎基本の習得の上に、さらに新たな課題を課されている感覚にならざるを得ないでしょう。

③学校と地域との関係の変化

少子高齢化が進み、世界に先駆けて人口減少がはじまった日本では、各地域で活力の低下が懸念されています。一方で、④で述べる児童生徒や保護者の多様化に伴う対応課題の増大から、地域の方々の支援・協力も求められています。学校が地域の活力維持の拠点になるとともに、地域が学校教育の一端を支えるという、いわばWin-winの関係を構築しようという動きが、「地域に開かれた学校」からさらに一歩進めた「地域とともにある学校」であり、それが、学習指導要領では「社会に開かれた教育課程」として前面に掲げられることになりました。新学習指導要領で強調された、①教科横断的な視点の重視、②人的・物的資源の活用、③PDCAサイクルの確立、という3つの質の異なる要素からなる「カリキュラム・マネジメント」の②の「人的・物的資源」は言うまでもなく、「学校外」の「人的・物的資源」を意識したものです。

学校と地域が密接な関係にあることはもちろん好ましいことです。私の住む地域では、平日の午後の4時ごろになると「地域の皆さん、いつも私たち小学生の見守りをありがとうございます。もうすぐ私たちの下校時間となります。今日も私たち小学生の見守りをよろしくお願いいたします。」という小学校の上級生による放送が流れます。しっかりした力強い児童の声に、逆に元気づけられているような気がします。

日本の場合、学校と地域を隔てる壁は、戦後徐々に低くなり、特に「総合的な学習の時間」が始まって以降、子どもたちが地域に出て学んだり、地域の人が学校に来て子どもたちに指導したりする機会も増えてきました。そして2016年1月に文部科学省から公表された「次世代の学校・地域」創生プランでは「チーム学校」の一員として地域の人々が学校を支える姿が描かれています。また、「地域とともにある学校」への転換を図るため設けられた学校運営協議会も、2017年から設置の努力義務化がなされ、急速に普及しつつあります。

しかし、地域と学校の関係が密になればなるほど、学校の教員は、地域との関係構築から日常的な諸連絡という新たな役割を求められます。学校という小さなコミュニティでの生活に慣れ親しみ、しかも多様な他者とのコミュニケーションが苦手な教員にとっては、この学校と地域の関係の拡大は大きな負担になるはずです。学外者との関係構築にたけた教員でも、そのことに時間を取られて勤務時間が長くなるということは起きているはずです。

「次世代の学校・地域」創生プランでは、地域学校協働本部の中に「地域コーディネーター」が位置づけられ、学校の地域連携の中核を担う教職員と連携・協働していくイメージが示されています。また、2017年の社会教育法の改正で地域学校協働本部が法律上きっちりと位置づけられ、地域コーディネーターをも包含する「地域学校協働活動推進員」制度を設けています。しかし、そのための十分な予算は確保されず、人員の配置は後回しにされているというのがほとんどの地域の実態と思われます。

④児童生徒や保護者の多様化への対応

④のうち児童生徒については、昨年末に「小学生の異変」と題したコラムでも取り上げたいじめや不登校、発達障害の増加、あるいは外国籍児童生徒の増加への対応という課題があります。外国籍児童生徒の増加の背景には、グローバル化の進展や少子高齢化があることは確かですが、いじめや不登校、発達障害の増加の要因は複合的なもので特定しづらい面があります。それでも非正規雇用の増加や片親世帯比率の増加、あるいは情報化の負の側面といえるSNSによる陰湿ないじめ、スマホ依存などが指摘されており、それらが複合することで「異変」と言わざるを得ない状況になってしまっています。保護者についても、雇用不安や片親での子育て負担、子供の抱える問題の増加など影響が間接的に学校に寄せられ、教員の負担増につながっています。

これらについては、「教員と多様な専門性を持つ職員が一つのチームとして、それぞれの専門性を生かして、連携、協働する」ことを趣旨とした「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について(答申)」が2015年12月に中教審より示され、スクールカウンセラーも従来以上に増員され、スクールソーシャルワーカーなどの配置も徐々には進んできています。また、地域によっては、教育委員会が顧問弁護士を雇い、学校における児童生徒や保護者などとのトラブルにも対応できる体制を整えつつあります。しかし、児童生徒や保護者の多様化に伴う様々な案件への対応の大部分は教員に託されており、教員の疲弊の原因としても、この④は相当大きなウエィトを占めているように思われます。

それでは、社会の変化あるいは社会の変化に対する子どもたちや保護者の変化に対応しようとしている「教育改革」が、教員の過剰労働や疲弊につながらないようにするためにはどうすればよいのでしょうか。次回からは、そのことについて考えてみたいと思います。

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