学校教育とSDGs

2022年7月18日

『専門職としての教師の資本』

『教育展望』2022年5月号の書評

教育調査研究所から『教育展望』の「展望らいぶらりい」欄へ『専門職としての教師の資本

―21世紀を革新する教師・学校・教育政策のグランドデザイン』(アンディ・ハーグリーブス、マイケル・フラン著、木村優、篠原岳司、秋田喜代美監訳、金子書房、2022年1月)に対する書評の依頼があり、以下の書評をまとめました。しかし、同書についてはもっと詳しく紹介しておいた方がよいと思い、少し補足しておきたいと思います。

本書は、著名な教育社会学者2名の共著Professional Capitalの完訳である。原著の刊行は2012年であるが、約十年を経て今年日本語訳が刊行されたことは、絶妙なタイミングであったとさえ感じている。

タイトルに付された「資本」は、ビジネス資本が1970年代以降、教育の世界に猛威を振るい、大きな弊害をもたらしていることに対して、今こそ、充実した教育を通して社会を豊かにする専門職としての教師に投資すべきである、という思いが込められている。

重視されている専門職としての資本は、人的資本、社会関係資本、意思決定資本の三つ。人的資本は、教師個人の知識・スキル等の力量、社会関係資本は教師としての同僚性やネットワークなどである。三番目に意思決定資本をあげているのが本書のユニークな点で、明白なエビデンスが存在せずマニュアルが通用しない中で「自由裁量の判断を実行する能力」である。

これら三つの専門職としての資本について、いずれも集団として獲得することが有効であることと、歳月をかけた経験の蓄積が不可欠であることを、豊富かつ説得力のある事例を通して著者は強調している。

しかし、後者の歳月をかけた経験の蓄積と、今まさに日本で進められようとしている教育改革が目指す教育関与者の拡大との間には、丁寧に埋めるべき溝がある。

この三月に内閣府の教育・人材育成ワーキンググループから「Society5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」が提示された。そこでは、子供たちを取り巻く環境の変化や児童生徒の多様性の拡大に対して、学校外の「よそ者」との協働体制が構想されている。教職の専門職としての資本のない人々が学校教育に深く関与することとなるが、教員の過剰労働や新たな教育課題の増加を考えれば、必然の方向といえよう。

学外協力者は不慣れな学校文化に大いに戸惑うと予測されるし、学校側では学校教育に理解の乏しい学外者に対するアレルギーが生じるであろう。そこで、学外者が教職や教師、学校文化を深く理解でき、また学校側も自らを省察するのに最適な本書が両者の溝を埋めてくれると期待している。絶妙のタイミングと感じたゆえんである。

ビジネス資本への対抗としての専門職への投資

ダン・ローティがSCHOOL TEACHER : A Sociological Study を刊行した1975年から、このハーグリーブスらによる『専門職としての教師の資本』が刊行された2012年までの間、アメリカ合衆国の教師は、新自由主義的な教育改革の猛威でさらされまし。レーガン政権の下で進められた新自由主義政策の一環として、アメリカでは「新自由主義的教育改革」が進められ、公教育に対してビジネス資本が次々と参入したり、達成目標に到達しない学校や教師に厳しい説明責任(アカウンタビリティ)を求めたりするようになりました。

本書の原題はProfessional Capitalです。Capital=資本は、投資されることで価値が増える資産です。新自由主義政策の下で教育の世界に続々と参入したビジネス資本への対抗概念として、「教育をよくするためは(教師という)専門職にこそ、投資すべき」という思いが込められた書名です。ただし、直訳の『専門職の資本』ではどんなジャンルの本かわからないということから、監訳者がハーグリーブスと協議して『専門職としての教師の資本』とすることにした経緯が、「監訳者あとがき」に書かれています。逆にいうと、Andy Hargreaves, Michael Fullanという著者名を見ただけで教育の分野の書籍と理解されるほど、二人の著者はアメリカでは名の知られた教育学者ということです。

では、その「専門職としての教師の資本」とは具体的には何なのか。第1章「資本というアイデア」でハーグリーブスらが挙げている専門職としての資本は、書評にも書いたように、人的資本、社会関係資本、意思決定資本の三つです。

その資本に対して誰が投資すべきかについて、序文では、「政治のリーダーたちは、教師の専門職の資本への期待、激励、後押し、そして投資を行う必要がある。ただし専門職の資本は真っ先に、個人的にも協働的にも教師たち自身によって獲得され、広げられ、再投資される必要がある。」(p.11)と書いています。

そして、専門職としての教師の資本を豊かにすることの意義について、第1章の締めくくりでは、新自由主義的教育改革を念頭に置いて、「専門職の資本の開発は、教職を苦しませるもの、責め立てるもの、そして全体として社会を苦しませるものに対する、いわゆる新たな「ソーシャル・キュア」の探究である。」(p.42)としています。

アメリカと高パフォーマンスの国々の違い

ハーグリーブスらは、第2章の「教職への相反する二つの考え方」で、PISAのような国際的な学力比較調査で好成績を示すの国々(高パフォーマンスの国々)が、教職にとってより良い労働条件を整えることに投資しているのに対し、アメリカは教育への投資を減らして私立学校に依存したり、安直な教員養成を行ったり、成果に対して特別な報酬を支払うメリットペイを導入したりして、短期的な利益追求に走っている、と指摘し、専門職の資本への投資する必要があることを主張しています。

しかし、本書の大きな価値は、著者らが、そのためには、何を変革せねばならないかを知る必要があるので、教職について多くの人が抱いているステレオタイプを乗り越えて、教職の本質を徹底的に掘り下げてみる必要がある、と考えて、様々な視点からの考察によって教職と教師の本質を浮き彫りにしている点です。その結果として本書は、学校関係者以外の者が教職や教師、学校文化を深く理解する上でも、また学校関係者自身も自らを省察するのに最適な書籍となっています。

本書では、第2章以降、高パフォーマンスの国々とアメリカの対比がしばしば登場します。しかも、高パフォーマンス国の代表としてフィンランドへの言及が多くなされています。2003年にハーグリーブスの単著として刊行された『知識社会の学校と教師』では、もっぱら自身が滞在し、調査を行ったカナダのオンタリオ州の事例が中心でした。最初のPISA調査の結果が示され、フィンランドの好成績が明らかになったのは2001年です。『知識社会の学校と教師』の刊行以降、フィンランドの教育に対する様々な情報を得る中で、アメリカとの対比がより鮮明になってきたことが、本書に反映されています。

アメリカでは、共和党ブッシュ(子) 政権時代の2002年1月に立法化された「どの子も置き去りにしない法(No Child Left Behind Act of 2002:NCLB)」による、全国一律の到達基準の設定と基準未達に対する制裁措置を軸とする教育政策が打ち出されました。その後オバマ政権になって、その方向転換が期待されましたが、2009年7月に「頂点への競争(Race to the Top:RTTT)」という「競争と結果」を重視する教育政策が実施され、しかもNCLB法が継続されている、という時点で本書は執筆されています。そのような「競争と結果」重視の教育行政が進められ、しかも情報化の進展を好機と捉えたビジネス資本が教育産業への進出を進める中で、教師と学校が疲弊していくことへの対抗として、「専門職の資本」への投資こそ重要であることを、高パフォーマンスの国々の教育政策との対比を軸に主張したのが本書です。

PISA調査は、高パフォーマンスの国々とアメリカ、イギリスを対比させるという点で、ハーグリーブスは随所で利用していますが、PISA調査はリテラシー(読解力)と数学・科学に限定されたものである。その影響で、多くの国々がリテラシーと数学中心のカリキュラムを設定し、そこにビジネス資本が目をつけて「数値データやテスト結果といった狭小なエビデンス」を利用して教育産業として勢力を拡大していくことにも、ハーグリーブスは強く警鐘を鳴らしています。

教職へのステレオタイプ視による歪み

第3章の「教職のステレオタイプ」で、ハーグリーブスらは、私たちの教師に対する記憶と感覚が現在の教職に対する人々の見方や期待に大きく影響しており、選択された記憶によるステレオタイプの多くは、部分的には正しく、部分的には虚構であり、様々な視点から「作られたもの」であることを多くの事例で示しています。そして、ステレオタイプによる虚構が不適切な教職批判を招いている例として以下のようなものを挙げています。

・ケアを大切にする教師は子どもたちを過保護にして、子どもたちの挑戦にブレーキをかけやすい。(p.85 )

・教える中で自分自身を表現したり、情熱に突き動かされて教えたりするのでは、効果的な成果は必ずしも保障されない。(p.86 )

ハーグリーブスらは、従来のステレオタイプ的な見方を取り上げて、そう単純なものではないが、ステレオタイプ的な教師や教職像は、学校現場に度々足を踏み入れた研究者でも抱きがちであることも指摘しています。例示されたステレオタイプ的な見方の記述からも、著者らが、いかに教師と教職の過去と現状を熟知しているかが伝わってきます。ハーグリーブスらは、単に外から観察するだけでなく、プロジェクトを組んで教師へのインタビュー調査を重ね、また、多くの研究者と意見を交わして、今の教師の実態と、教師として教えることがどんなに大変なことであるかを十分に理解したうえで、解決の道筋をその後の章で展開しています。

エビデンスの限界と協働による新たな創造

1990年代以降、エビデンスに基づく教育実践運動が盛んになっています。しかし、測定可能なエビデンスは、しばしば意図的な選択や政治的な意図で歪曲されて学校や教師になげかけられがちです。第4章の「潜在能力とかかわりに投資する」の前半は、このようなエビデンスに対してハーグリーブスらは、限界を見極めて警戒すべきで、教師はエビデンスに過度に頼ることなく、経験を省察的に活用することでよりよい方法を獲得すべきことを勧めています。

この「よりよい方法」に関連して、ハーグリーブスらはここでもフィンランドを例に挙げて「協働での創造」の重要性を指摘しています。その骨子をまとめると以下のようになります。

「フィンランドでは、カリキュラムと教授法を教師が協働で創造していくことは専門職組織の責任と認識されている。効果的な授業実践は、見られ、観察され、経験され、解釈され、探究され、試行されることで初めて実現される。今、求められているのは、専門職の知を絶えず組織として打ち立てていける教師である。そこで必要になるのは、現時点で最良の教育実践と近未来を形作る新しい教育実践をともに用いる教師たちのコミュニティという専門職の資本である。(中略)フィンランドの教師たちが教室で過ごす時間は、他の先進諸国の教師たちよりも短い。フィンランドの教師たちは自らの実践を省察し、探究する時間を豊かに持っているが、アメリカでは正反対である。」

また、社会の急速な変化によって教育自身も大きく変化しつつある中、従来エビデンスにもとづく適切な判断とされていたものも、前提条件が変わることで有効でなくなっていることをハーグリーブスらは、ジョン・ハッティが準備段階、開始時、学習段階、フィードバック段階、終了時という一連の教えと学びを可視化してメタ分析をすることの重要性を指摘したことに一定の評価を示しつつも、以下のように述べています。

「ハッティが教育実践や学校教育の標準時間として採用した授業の単位は、1世紀以上古いものであった。授業という単位は、教師がその場で教える時間だけではない。また、現在、そして近い未来には、教師が教える時間は授業という単位の中で、ますます少なくなることであろう。それは、例えば自然の実地調査、ドラマ制作、午後に行われる総合的な社会研究プロジェクト、協同的なグループワークにおける子どもたち主体の学びへの没頭、地元にある河川汚染の科学的調査、学習障害を抱えた子どもたちを支えるテクノロジーの学び等である。(p.131)」

この記述からも、ハーグリーブスらは、未来の学校における学びが大きく変わることをしっかりと視野に入れていることを読み取ることができます。

教職の継続と同僚の支援

第4章の後半では、教職という仕事の継続にとって同僚との良好な関わり、すなわち社会関係資本がきわめて重要であることに力点が置かれています。

クリストファー・デイらが、「教師の質を改善するための様々な方略を3年目から5年目の若く熱意のある教師たちに対して行い経過を見たとしても費やしたお金や時間の投資に見合う最高のリターンを得ることは望めない」(p.142)としながらも、「教職への意欲を維持し続けた教師のうち、その63%は同僚の存在が決定的に大事だと感じていた。特に、小学校の教師たちはチームワーク、うまくいかなかったときに話せる人の存在、みんな同じ方向に向かおうとしているという感覚といったものに、高い価値を置いていた。」(p.142-143)とする報告や、マイケル・ヒューバーマンが、教職への意欲や情熱についてキャリア・ステージごとに分析した研究を紹介し、ハーグリーブスらは、「第4章のまとめ」の冒頭で以下のように書いています。

「もしも、あなたがプロとして教えることを望むならば、教職に長く留まる必要がある。ただし、永遠に留まりつづける必要はない。求められるのは、あなた自身の中で燃える情熱の火を探し当て、知識やスキルを研ぎ澄ますことである。また、もしもプロとして教えたいと願うならば、勇敢な一匹狼を目指すことは避けて、逆にオープンの助けを―リーダーから、同僚から、そしてあなたの専門性それ自体から―求める必要もある。(p.170 -171)」

専門職としての資本を高めるための要点

以下では、第5章「専門家の資本」と第6章「専門職の文化とコミュニティ」の中から、これは外せないと思ったパラグラフのみを転載します。

「国際学力テストの成績でトップクラスの国々のように、教職はどこでも専門職である必要があり、また専門職として改善し続ける必要がある。そのように私たちは信じている。教師の仕事である教えるという実践は、他の職業に就く前にちょっと試してみるような類の単純な行為ではなく、また、よりよい仕事が何もない時に頼るしかない行為でもない。効果的な教えとはよく準備され、繰り返し実践されなければならない。しかし、教えるという実践の熟達の高みへと完全に至るまでには、複数年の歳月が必要となるのも事実である。」(p.184)

「人的資本と社会関係資本だけでは不十分である。まだ何か見落としている資本がある。それは私たちが意思決定資本と呼ぶものである。専門職の本質は自由裁量の判断を実行する能力である。もしもあなたが被雇用者に対して難しい質問をしたとき、彼が「主任と相談するので、ちょっと待ってくれ」と答えたならば、その人は自由裁量をまったく実行できない専門職ではないと思うだろう。もしも教師がいつもマニュアルばかり参照していたら、あるいは授業が計画どおりにただ、一直線に進むなら、そのような教師もまた専門職でないと思うだろう。なぜならそのような教師はどのように判断していいのか分からないか、あるいは判断することを許されていないとみなされるためである。」(p.208)

「個人主義とは、単なる態度や見せかけても、ましてや教師たちが抱える心理的な苦悩でもない。時間、建物、フィードバックシステムなど、教師の仕事上の文脈や状況に根ざしたものである。しかし、これらの状況、あるいは伝統は、21世紀の初頭に著しい変化を経験してきた。ピア・コーチング、メンタリング、専門職の学び合うコミュニティ、データ・チームは、教師たちをより協働へと導くようになり、新たな可能性を教師たち自身に、教職そのものに、そして教師の専門職性に開拓した。教師たちが協働すれば専門職の資本を育むための機会もはっきりと増えていく。」(p.244)

「協働の文化と社会関係資本について学んだことは何であったか。傑出していたのは二つの基本的な教訓である。第一に、協働の文化を構築する多くの作業がインフォーマルであることだ。つまりは信頼と関係性を育むことが肝心で、それには時間を要する。しかし、もし協働に向けた努力が自発性や偶然性に完全に任されるなら、たいていは消え去り、誰にも理解をもたらすことはないだろう。第二に、同僚間の共同作業に見られる力強い協働は、会議、チーム、構造、規定等の計画的調整から利益を得られるかもしれないが、もしもこれらの調整が急がされたり、押しつけられたり、強制されたりしたならば、あるいは人間関係をより良くするために働きかけを欠いたままに用いられたならば。それらはまたもや効果を生み出さないだろう。」(p.269)

最後のパラグラフにある「調整が急がされたり、押しつけられたり、強制されたりしたならば」について補足しておきます。このような作為的な上からの協働や同僚性に対しては、「画策された同僚性」と表現されており、本書の重要なキー・フレーズです。

なお、第7章「変化を生み出すために歩みを進める」では、変化を起こすためにアクション・ガイドラインが、教師へ、学校と学区のリーダーへ、州や国、国際組織のリーダーへ、と3つに分けて書かれている。若干マニュアル本的な記述となっていますが、著者が様々な立場から教職や教師を俯瞰できる証ともいえます。

2022年5月9日

ダン・ローティの『スクールティーチャー』

これから数回、教員や教員養成ついての著作等を紹介します。今、日本の教員養成制度が抜本的大改革が求められていると感じ始めているからです。

教師についての社会人類学的研究

ダン・ローティが1975年に著したSCHOOL TEACHER : A Sociological Studyの日本語訳が、2021年11月に『スクールティーチャー 教職の社会学的考察』として学文社から刊行されました。アメリカ合衆国の約50年前の教員を対象にした社会人類学的手法を用いた研究ですが、そこに描き出された教員の姿の相当部分は、今日の日本の教員の姿そのものと言っても過言ではありません。

本書は、冒頭で監訳者の佐藤学が11ページにわたる行き届いた解説をしています。「著者と学風」に続いて解説の第2節で「教師研究としての意義―ウォーラーとの比較」を書いていますので、ここでも、まず佐藤学の解説を手掛かりに、ローティからさらに40年以上遡った、ウォーラーの捉えたアメリカの教員の姿を少し見ておきます。

ウィラード・W・ウォーラー(1899–1945)は、1932年に、The Sociology of Teaching(教職の社会学、1957年の日訳は『学校集団』(明治図書))を刊行しています。同書を、教師研究の草分けとなった古典的名著とする佐藤学は、「ウォーラーの研究の主たる関心は、教師の偽善、欺瞞、卑屈、権力性、権威性などの「非人間性(impersonality)」が、学校という制度のなかでどのように形成されるのかにあった。」「何よりも同書が、教師には特有のものの見方や考え方や行動の仕方があるという教師文化の存在を明示したことは、ウォーラーの最大の功績であった。」述べています。

ウォーラーは短い生涯でしたが、軍事アカデミーで自らが6年間携わった教師についての著作以外に、「離婚と法廷」「戦争と退役軍人」に関する著作があります。ローティが修士論文で医師の研究、博士論文で弁護士の研究を行っているのと同様に、他の職業についての研究や経験を踏まえて、教職や教師を外から(ないしは斜めから)捉えています。

ウォーラーは、学校の基本的な性質についてほとんどの政策立案者が理解おらず、教師が内外の圧力に対して脆弱性を強く感じていることが、偽善、欺瞞、威圧的態度といった教師の非人間性を生み出しているということを、多くの事例をあげて説明しています。The Sociology of Teachingの最後の節で、「学校の改革は教師から始めなければならず、教師の個人的なリハビリテーションを含まないプログラムでは、教師の古い秩序に対する受動的な抵抗を克服することはできない。」(p.458)、「教師のトレーニングの中心的な要点は、学校という社会の現実の性質に対して深い洞察を試みることであるべきである。」(p.459)と述べています。

観察の徒弟制

ウォーラーが、自身の経験と様々な見聞を集約して社会学的に考察して教師の特質を描き出したのに対し、ローティは自身が行った質問紙を用いたインタビュー調査と全米教育協会による大規模調査データにもとづいて、教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」の形成要因を探究しています。ローティの重要な分析概念となっている「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造」「精神的報酬」「風土病的不確実性」について以下で順に説明を加えていきます。

 「観察の徒弟制」とは、教師は、職業としての教職というものを、自らが学校での授業を長年経験する過程で観察し、あたかも「徒弟制度」のように、教職についての文化や価値、規範などを身に付けているという意味です。その結果、教師はその参入過程で、他の専門職のような専門的な職業教育を軽視していると指摘しています。ローティの指摘する「観察の徒弟制」が教職の伝統的で直感的なアプローチの基礎を築くことについて、佐藤学は「教職を志望する学生は、大学に入る前から教職について「わかったつもり」になっており、他の専門職(医師や弁護士)のように専門家教育を受ける必要を感じていないし、教師になって以降は自分が教わった授業を再生産することになる。」(p.iv)とわかりやすく説明しています。

 ローティは、「観察の徒弟制」がもたらす不利益について、「ある職業が専門職として認識される理由の一つは、そのメンバーが極めて重要な公的事項についての奥義的(arcane)知識を共同で保有していると信じられているからである。」「教師たちの個人主義が自分の立場を強調したがらないことの基底にあると私は見ている。」と述べ、「成果(パフォーマンス)に関する考えが個人主義的であるがゆえに、教師たちは集団の達成レベルを向上させる戦略を発展させることが困難であると感じている。教師たちは専門文化の潜在力を向上させる方法を知らない。集団として要求に応答する能力がないことが、教職の地位を脅かしているのである。」(p.124 )と結論づけています。

卵のパッケージ構造

2番目の「卵のパッケージ構造」については、本文では、「細胞構造」と表現され、しかも様々な項目に分散して書かれています。卵のパッケージにしても細胞にしても、一まとまりの形状をしていながら、それぞれが分断されている学校の教室の姿、あるいはそのことに由来する各教員の孤立した姿を象徴した表現といえます。本書の第1章の「歴史的概観」に描かれた「卵のパッケージ構造」の成立過程には「なるほど」と納得させられます。

アメリカの場合、広大で人口の少ない土地に開拓地が分散していたため、それぞれの教師たちも互いに分散・隔絶された単細胞状態でした。しかし、都市の規模が大きくなるにつれて、学校のパターンが変化し、「それまで分離していた細胞は1つの屋根の下に結合され、生徒は年齢に応じて別々の教室に割り当てられた。」と述べています。重要な点は、一つの屋根のもとで複数の教員が集まることになって相互依存性が高まったわけではない点です。「なぜなら、個々の教師は、特定のグループに全教科を一年にわたって教えるか、のちに高学年で展開するように、単一教科を同じ集団に所定の期間教えるかのいずれかだったからである。」とローティは書いています。1950年代後半から、チーム・ティーチングや学校内部の壁の除去などの主張が現れて変化が生じていますが、教師間の分離と職務の相互依存の低さが長年続いています。そのもう一つの要因として、若い女性に依存しながらも既婚女性の雇用を認めない教育委員会の方針もあって、教職が離職率の高い職業で、「平均在任期間が短い場合、緊密に連携した分業体制を構築することはむつかしい」と指摘しています。

この学校の細胞構造が学校と教師に様々な不合理・不具合を引き起こしていることを、ローティは以下のような例で示しています。

・初任教師は同僚から物理的に離れて多くの時間を過ごす。初任者は校長やその他の教職員から指導的な関心を向けられるが、そうした最善の支援を提供できる学校システムにおいてさえ、1ヶ月に合計2,3時間以上に達することはまれである。(p.115)

・学校は細胞化された構造であるため、教師は閉ざされたドアを背にして、生徒以外の誰にも見られず、(おそらく)自分の成果を誰からも称賛されないことが容易に想像できる。(p.184)

・教師は互いの仕事をみることがほとんどなく、同僚からの監視から免れることを好むのである。(p.330)

精神的報酬

この「精神的報酬」は、本書の充実した「索引」を信用すると、29ものページに登場する本書における最頻出フレーズです。他の専門職に比べて決して高くない給与、長く勤めても低下するばかりの昇給比率といった経済的な報酬、あるいは名声や他者に対する権力という点でも満たされることの少ない教職に、多くの人が参入し、留まっている理由の追究が、社会学者としてのローティには大きな関心であったことが伺われます。このことは、以下のインタビュー項目の39番目にも、はっきりと表れています。

39今日では教師が抱える問題を耳にすることが多いのですが、アメリカ合衆国では150万人が教職で働いています。公立学校の教職の何が人々を引きつけているから、教職にとどまるのだと思いますか?

 大雑把にまとめると、教師の文化では、上記のような外発的報酬の獲得を重視していない、ということになります。ローティは「教師の報酬構造は、精神的報酬を重視している。教室の文化が奉仕を重んじることを思い出せば、教師の労働生活における精神的報酬の重要性を強調するデータがあったとしても驚くことはない。」(p.156)と述べています。

ローティが、教師の得る報酬をどのように分類していたかは、以下に転載した質問紙インタビュー調査で用いた質問項目(巻末p.352-353に付録として掲載)を確認するとわかりやすいと思います。

外発的報酬に関する質問項目

T8 学校教師を「特権階級」と呼ぶことはまずありませんが、教師はおかねっを稼ぎ、ある程度は他者から尊敬され、何らかの影響を及ぼす立場にあります。あなたに最も満足をもたらすのは、これら3つのうちのどれですか?

 専門職として稼ぐ給料

 他者からの尊敬

 何らかの影響を及ぼす機会

 いずれも満足をもたらさない

精神的報酬に関する質問項目

T9 教師は自分の仕事で多様なことを楽しむことができます。あなたにとって最も重要な満足の源泉は、次のうちのどれですか?

授業の勉強をし、読書をし、計画する機会

規律と教室経営の習得ために与えられる機会

生徒(集団)の「心に届き」、生徒が学んだことが分かるとき

子供たち(少年たち)と交流して関係を築くための機会

付帯的報酬に関する質問項目

T10 教職について最も好きなのは、次のうちのどれですか?

収入と地位の総体的な安定性

旅行や家族活動などが認められる時間(特に夏季)

多くの競争相手や他者との競争なしに生計を立てるための機私のような人間にとっての特別な適切さ

いずれも満足とはならない。 

ローティは、実際に収集したデータの集計結果として「とくに教職から得られる満足を尋ねる質問に対する回答では、職務に関連する成果への言及が圧倒的に多かった。たとえば、ある質問項目では、125件が精神的報酬としてコード化されたのに対し、11件が付帯的報酬、9件が外発的報酬であった。」「質問に対する回答で最も強調されたのは、満足が生徒に関する望ましい結果に付随して生じることであった。」(p.156)ことを明らかにしています。

本書には、この精神的報酬に触れたインタビューへの回答事例が多く掲載されていますが、以下に一つだけ転載します。

卒業生が学校にやってきて話をしても、彼らは何の得もしてないし、握手することもないのですが、自分に大きな影響を与えてくれたことを話して、感謝の気持ちを伝えたいと思っているのです。これはいかなる教師生活のなかで何物にも代えがたい瞬間だと思います(以下略)。(p.182 )

風土病的不確実性

一方で、教師の仕事に対する評価の困難さなどが、教師の安心感ややりがいの喪失につながると、精神的報酬を脅かすことになります。教師の仕事に対する評価における不確実性の度合いの高さなどが、ローティが取り上げた4番目の特質「風土病的不確実性」です。この「「風土病的」という用語の説明は本文中には見当たりませんが、佐藤学は「職業病的」という意味であると解説しています。

 第6章の「風土病的不確実性」の最初の方で、ローティは、他の職業の場合との比較で、以下のように教職の不確実性を多方面から例示しています。

「有形の分野における職人は、作業モデル、青写真、計画、詳細仕様を活用する。教師は、この種の物質的な標準(スタンダード)を何も保持していない。」

「職人は、特定の製品のどの部分に責任を負うかを把握しており、その段階にあるステップを統制するのが通例である。(中略)しかし、通常、教師は子どもに影響を及ぼす意義深い大人の一人にすぎない。教師の影響力の評価は、自己と他者との関係しあう影響力についての困難な判断を必要とする。」

「弁護士は訴訟に勝つか負けるか、技術者の橋は所定の重量に耐えるか否かである。しかし教職の行為は、同時に採用される多様な基準(クライテリア)の観点から評価される。クラスを魅了する教師が、内容の正確さを批難される場合がある。特定の子どもを叱責することは、残りの生徒たちを静かにさせるだろうが、その被疑者から不平等の申し立てを招くこともある。」(以上すべてp.199 )

 ローティは、以上のような模範にする具体的なモデルの不在、不明確な一連の影響力、多元的で論争的な基準、に加え、教師の成果を評価するための適切な時間やタイミングが曖昧であること、対象である子どもたちは教えられた後の成熟過程で変化し続けること、等の不確定性を上げています。

 そしてさらに、教師は教える対象を選択する権利をってないことや、教師の役割義務が「規則遵守を確保するだけでなく、「学習する仕事」への関心や努力を高めるような絆を築くことが期待されている」こと、教師は教室での一般的なルールを確立し、それらのルールからの逸脱を罰するが、「一人の子供に対して行われる行為は、他の子どもたちにも見えてしまうため、生徒たちは不公平だと思う扱いを受けるとすぐに反発する」ことなど、教職の不確実性の要因にも言及しています。

 この「不確実性」が教師の不安感や繊細な感情などを生み出していることを、ローティは豊富な事例を交えて丁寧に説明していますが、佐藤学は「教師たちは「不確実性」によって絶えず不安に陥り。教育学の専門的知識に不信感を抱き、自らの経験を絶対化し、教育の理念においても理論においても知識においても集団的合意を形成せず、それぞれが悩みながら孤立している。」(p.vi)と、見事に要点を手短にまとめた解説をしています。

 また、佐藤学は、本書のインパクトとして、ローティがこの「不確実性」を「専門家として克服しなければならないと提起したことが、その後の教職の専門性の開発研究を促し、1980年代半ば以降の教師教育改革を準備したとしています。この点については、そこから導かれる「同僚性」にも関わることで、是非、本書の佐藤学の解説を直接設参照してほしいと思います。

教育改革と教師の「個人主義・現状主義・保守主義」

ローティは、主に「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造」「精神的報酬」「風土病的不確実性」の4つの分析概念に基づいて、教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」が形成され、保持され続ける所以を本書で解明していますが、その研究の意図は、最終章の「変革についての総合的な思案」で明らかになります。

 ローティは「近年、何百万ドルもの費用が教育開発に費やされてきたにもかかわらず、学校の実情についての報告が質量ともに著しく不十分なのは逆説的である。学校への大規模な介入が意図せざる帰結をもたらすのは明らかである。(p.301)」と学校や教職や教師の実態についての研究が不足していることを訴えています。

 そのうえで、3つのシナリオを提示して、教師のエートスとなっている「個人主義」「現状主義」「保守主義」を克服しなければ、教師や教職の置かれる状況は一層悪くなることを予言しています。3つのシナリオのうち、2番目、3番目は約50年前の、しかも、アメリカ合衆国の実態を出発点としたシナリオという性格が多分にあるので、ここでは1番目のシナリオの要点を紹介します。ただし、2番目、3番目のシナリオは、進行しつつあった新自由主義的な改革に公立学校の教育現場が適切に対応できずに、悪化し続ける事態を招いているので、何をしなければならなかったのを理解する意味では重要です。

 「伝統の侵食」というタイトルのついたシナリオ1は、教員文化の変化に焦点を当てたものです。今後、教育上の選択肢が急増する結果として、教師の保守主義に対する疑念の眼差しが高まり、教師たちが順応しなければならなくなるというシナリオです。教師たちは提示されたすべての選択肢を受け入れなければならないわけではないが、頑固な執着が功を奏することはないからです。 高度に構造化された事業プログラムが開発され、効果が高いと宣伝された場合、教師はそうした変革にどのように立ち向かうのか、そうしたプログラムに反撃するために、教師はどのように知的資源を持たなければならないのか、という問いに対して、納得いく回答を見いだすためには、協同するとともに、教師は自前の専門家を必要とすることになる、というシナリオです。

2022年3月18日

持続可能な社会の構築に向けた教育改革の円滑な推進のために

持続可能な社会の構築に向けた教育改革がいよいよ本格化しはじめています。しかし、改革案が明確になるとともに、その推進を阻むことになりそうな要素も明らかになってきていると感じています。その一つが学校と学校の外の世界の文化の違いです。この1年ほど、世界の教育改革の潮流や日本の教育改革の動向を私なりに整理して、この「SDGsと学校教育」欄に書いてきました。今回は、世界と日本の教育改革の潮流と動向を簡単に振り返るとともに、「学校文化」「教員文化」とも呼ばれる学校内の文化と、学校の外の世界の文化の溝が教育改革を阻むのではないかという懸念を述べ、その解消にための一つの提案をしたいと思います。

近年の国際的な教育改革の潮流

地球環境問題の深刻化や貧困・格差の拡大を背景に、持続可能な社会を目指す動きは、特に1992年の国連環境開発会議(リオ・サミット)以降、活発化してきました。また、2005年から始まった「国連持続可能な開発のための教育の10年(DESD)」によって、持続可能な社会の構築には、教育が大きな役割を果たす必要があるという認識も世界的に広まっています。

2015年の国連持続可能サミットにおいて、SDGs(持続可能な開発目標)を中心に据えた「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択されました。SDGsは、「私たちの世界を変革する(Transforming our World)」ために、それまで別々に議論されがちであった環境、社会、経済に関わる問題を統合したもので、17の目標についても「相互関連性と統合」が重視されています。また、同じ2015年に、OECD(経済協力開発機構)もEducation 2030プロジェクトを発足させて、持続可能な社会の構築に向けた教育のあり方について本格的に検討を始めました。そして2019年に、これからの世界の学校教育の潮流を大きく変える可能性を秘めたラーニング・コンパス2030を提示しました。

OECDは、2000年から国際的な学力比較調査PISAを実施してきましたが、2001年には「キー・コンピテンシー」という概念を提示して、それまでの「何を学ぶか」が中心であった世界の学校教育を、「何ができるか」に重点を移行させる役割を果たしています。近年の日本の学習指導要領でも「何ができるか」というコンピテンシーが重視されています。しかし、Education 2030プロジェクトでは、「社会の変化に対応する力を育む」という、それまでのOECDのスタンスでは、「持続可能な社会の構築」といった人類が直面する課題に対応した教育としては不十分なのではないか、という認識に基づいて、Well-beingを実現するための「変革をもたらすコンピテシー(transformative competencies)」を求めています。ラーニング・コンパス2030では、「新たな価値の創造」「対立やジレンマへの対処」「責任ある行動」の3つが変革的をもたらすコンピテンシーとして示されています。

これらのコンピテンシーは、従来から重視されてきた「知識・態度・価値観」に付加されるものですので、学校にとっても児童生徒にとっても、オーバーロード(過負荷)問題をもたらす可能性があり、その対応に向けた教育の変革もこれから求められることになります。

近年の日本の教育改革の動向

一方、日本では、新学習指導要領の前文で、児童生徒が「持続可能な社会の創り手となる」ことを求めています。これはまさに、持続可能な社会の構築を目指す世界の潮流に対応しようとしたものです。また、この持続可能な社会の構築に向けた教育を実質化するためには新たな学校教育の枠組みが必要という認識と、科学技術やイノベーションの立ち遅れが日本の国際的な地位低下をもたらしているという認識が重なって、2021年度から内閣府主導による教育行政への強力なテコ入れがはじまっています。

2021年4月に、内閣府の管轄する科学技術基本計画を科学技術イノベーション基本計画と改め、その3本柱の一つに「教育・人材育成」を位置づけ、内閣府の総合科学技術・イノベーション会議のもとに「教育・人材育成ワーキンググループ」を発足させました。同ワーキンググループでは9月以降、急ピッチで教育・人材育成についての検討を進め、2022年3月に取りまとめの提案がなされました。そこでは「学年・学校種を超える学び」「教科の枠組みを超えた実社会に活きる学び」「多様な人材・協働体制」というように、これまで分断されていたものを統合することで学校教育を変革しようという姿勢が強く打ち出されています。従来の学校の姿を大きく変える大胆な提案で、日本中の学校に激震をもたらす可能性もあります。

とりわけ、強調されているのが「協働体制」です。様々な新たな教育課題が学校に押し寄せている一方で、教員の過剰労働の解消が大きな課題となっていることから、これまで学校においてもっぱら教職員が担ってきていたものを教職員以外の学外の「よそ者」にも協力して担ってもらおう、というものです。「協働体制」を構築する必要があるという観点から、下図のような協働体制への移行が示されています。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/5kai/siryo2.pdf

このような日本のこれからの教育改革の方向性は、持続可能な社会の構築を目指す、「統合」による「変革」という世界の潮流にも一致したものであり、その着実な実施と学校教育への浸透が望まれます。

教育改革に伴う様々な軋轢・葛藤

しかし、これまでの学校教育の改革の経験から、国から示される改革が学校現場ですんなりと受け入れられ難いことは明らかです。授業や児童生徒・保護者への対応に加え、教育委員会などからも様々な報告等が求められ、多忙な日々の連続であって、将来の学校の在り方をじっくり考える余裕のない教員が多いのが実態でしょう。それだけではありません。従来の学校は社会から切り離された存在であったために独特の「学校文化」「教員文化」が存在しており、外からもたらされる変革も、できることなら避けて済ませ、現状を維持しようとする傾向が存在します。20世紀末のカリキュラム改革で導入された「総合的な学習の時間」についても、教科担任制が採られ、教科別の教員免許制度となっている中学校や高等学校の多くでは、その定着に10年以上の時間が必要でした。

しかしながら、教職員が「よそ者」とともに「協働体制」を構築すべきであるという教育・人材育成ワーキンググループの提案は、持続可能な社会の構築に求められる「変革をもたらすコンピテンシー」を育むためにも、また、児童生徒の多様化が進み、様々な新たな教育課題が押し寄せてきている現状に対応するためにも、大変重要な学校改革です。しかも、常態化しつつある教員の「過剰労働」が教員志望者を減少させ、教員の全体的なレベル低下を招くのではないかと懸念され始めている現在、「協働体制」の構築は、避けて通れないものと思われます。

学校教育に学外者の協力を求める姿勢は、以前から徐々に進行してきました。いじめの深刻化や不登校児童生徒の増加を受けてスクール・カウンセラー制度や、発達障害児の増加への対応として特別支援教育支援員制度などを導入してきました。また「チームとしての学校」という構想の下で、スクール・カウンセラー以外にもICT支援員、部活動支援員などを学校に配置されるようになってきました。

また、各学校に学校運営協議会を設置することを教育委員会の努力義務と課し、それまでの「地域に開かれた学校」から「地域とともに歩む学校」への転換を促してきました。そこでは「学校における地域との連携・協働体制を組織的・継続的に確立する」というように「協働体制」という言葉が使われています。しかし、約5年半、学校運営協議会の会長を務めてきた経験からも、学校運営協議会は学校の外側から学校運営に参画するというイメージで、学校の教職員との密な接触は限定的です。多くの学校に設けられ始めている学校支援地域本部にしても、それをさらに発展させる構想と思われる地域学校協働本部にしても、そこで展開される活動は、学校の外の「社会教育」のフィールドでの活動が中心で、学校内では「授業補助」「教員補助」「部活動指導補助」という補助的な位置づけの活動に留まっています。いわば、外堀に関わる活動といえます。

しかし、今回の教育・人材育成ワーキンググループが提示している「協働体制」は、従来から学校が担ってきた学習活動や特別活動、あるいは児童生徒指導という本丸に「よそ者」が入っていって役割分担をし、またある時は協力し合って協働活動をしよう、という提案です。この実施は「よそ者」を受け入れる学校側にとっても、「よそ者」として学校に乗り込む学外協力者にとっても、大きな、しかも多様な軋轢・葛藤を生み出す可能性が大きいと思われます。

地ならしのための双方の主体的学習

大胆な教育改革の提案が様々な軋轢や葛藤をもたらし、構想通りにすんなりと進行しないであろうという懸念には、根拠があります。アメリカの社会学者D.C.ローティによる『スクールティーチャー』(原著は1975年刊、織田泰幸らによる全訳は2021年)は、社会学的な調査研究に基づいて、教師という職業の特性として「風土病的不確定性(endemic uncertainty)」や保守主義、個人主義、現状主義をあげています。「風土病的不確定性」とは、一般的な物資の生産活動のようにマニュアル化し難く、次々と変化する子どもの反応に対して常に臨機応変の対応が求められるという意味です。そして、上記のような特性の結果として、「教師たちの提案は、ラディカルというよりは保守的であり、集団主義者というよりは個人主義的であり、未来志向と言うよりは現状維持志向になる。」「それらの提案は、革命よりは修繕に近く、要するに、要求の厳しい改革ではなく、軽微な調整で構成される。」(p.259 )と述べています。

このような教師の姿のままでは、社会の急速な変化の中で、次世代をしっかりと育むことができないということから、アメリカのハーグリーブス氏や日本の佐藤学氏は、同僚との協働の重視や、授業を互いにオープンにして研鑽を諮る「レッスン・スタディ(授業研究)を通した「専門職としての教師」という、新たな教師の在り方を追求していく必要があると主張してきました。しかし、教師の保守主義、個人主義、現状主義は今日も根強く残っています。しかも、これまでにもこの欄で書いてきたように、日本の教員社会は、日本の社会全般以上に、今もなお「タテ社会」の傾向が顕著です。したがって、そもそも教育改革自身にも消極的であるばかりでなく、「よそ者」が入ってく来ることに対して拒絶反応ないしアレルギー反応を起こす可能性が他の国々以上に大きいと思われます。

他方で、学校教育に協力しようという学外の組織団体のメンバーが学校に入って協働活動を進めようとした場合、独特の学校文化・教員文化に大いに戸惑うことになります。例えば、教員同士が同僚と密接に連携しているように見えながら、学校全体としてではなく、教科や学年といった特定の集団に留まっている「バルカナイゼーション(バルカン半島の国や民族に見られる敵対的な小集団に分割されている現象)」と名付けられた実態に接すると、国境を超えたサプライ・チェーンが当たり前の世界にいる人々には、学校の時代遅れを感じさせられるに違いないでしょう。

では、どのようにすれば無理のない「協働体制」を確立し、役割を分担して双方の力を存分に発揮できるのであろうか。以下に、具体的な提案を述べていきます。

教育改革の円滑な推進のための具体的方策

まずは、以下の事柄について、双方が当事者としてより正確な共通認識を持つことが、「協働体制」を創るうえでの前提になると思います。

(1)生態的・社会的な持続可能性の危機が、人類が解決すべき最優先課題となっており、それに対して教育が大きな役割を果たす必要が生じている。

(2)社会の急速な進展に伴い、学校が担うことが求められている新たな教育課題が急増している。

(3)児童生徒の多様性が拡大しており、これまでのような教室に30人以上を集めて一人の教員が一斉授業を行うことが困難になっている。

(4)また、上記のような課題に加え、保護者への対応や様々な事務作業の増大もあって、教員の過剰労働は、看過できない段階になっている。

(5)このような学校教育を取り巻く環境の変化の中で、文部科学省は、「地域とともにある学校」という、地域と学校との密な連携を重視してきた。しかし、地域との連携だけで乗り越えることができるレベルではないという判断から、さらに一歩踏み込んだ「よそ者」との「協働体制」が不可欠と考えるに至っている。

(6)しかし、長年培われてきた学校文化、教員文化について、学校側の教職員も自覚し、また学校教育に参画する「よそ者」もそれらが生まれてきた背景を理解しておくべきである。

 このような共通認識を持つには、双方が出会い、対話を重ねるのが最も有効でしょうが、そのような機会を度々設定することは現実的ではないでしょう。そこで、以下のような簡略化したアクティブ・ブック・ダイアローグ(以下、簡略版ABD)を中心とした勉強会をそれぞれが2回ほど事前に実施してはどうかと提案する次第です。

 なお、簡略版ABDに用いる資料は、A4版4ページ×5,6章を2回分で、新たに書き起こす必要があります。しかし、以下の項目の相当部分は、すでにこの「学校教育とSDGs」欄にアップしていますので、それほど多くの作業量にはならないと見込んでいます。

第1回目の勉強会案

世界の教育の潮流と日本の教育改革の動向に関する簡略版ABD

第1章 1990年以降の世界の教育の潮流と持続可能な社会

第2章 新自由主義的教育改革と『Finnish Lessons』

第3章 OECDのEducation2030 とラーニング・コンパス2030

第4章 戦後日本の教育改革を振り返る

第5章 内閣府教育・人材育成ワーキンググループの改革案(前半)社会と子供たちの変化

第6章 内閣府教育・人材育成ワーキンググループの改革案(後半)改革案の骨子

第2回目の勉強会案

学校文化・教員文化を理解し、未来の学校を考える簡略版ABD

第1章 ダン・ローティ『スクールティーチャー』の概要

第2章 アンディ・ハーグリーブス『専門職としての教師の資本』の概要

第3章 日本の学校と「タテ社会」

第4章 日本の教員養成制度とその特質

第5章 教師の専門性追求か、多様性追求か

第6章 2050年の学校の姿を予測する

簡略版ABDの進め方(合計時間150分)

1.【ガイダンス、教材配布】簡略版ABDについての手順や意図の説明し、参加者を5~6人のグループに分け、各グループのメンバーにそれぞれ1章分の教材を配布する。(5人の場合、第1回目、第2回目とも第4章を使用しない)【5分】

2.【資料読み込み】各メンバーは、自分が担当する章の資料を読み込む。(読み進める過程で、重要と思った部分にサインペン等で下線を引くことがお勧め)【30分】

3.【要旨書き込み】配布されたB6用紙6枚に、マーカーで要旨を書き込む。用紙は横長で用い、4行以内に収める、マーカーは太字を用いる。【30分】

 (休憩【10分】:この間に書き終えなかったメンバーは書き終えるようにする)

4.【説明】第1章分担者から順に、B6判用紙を1枚ずつ机に並べながら説明を加えて発表していく。一人4分以内。【25分】

5.【対話】全員分のB6判用紙を眺めながら、質問をしたり意見を交換したりする。【25分】

6.【ギャラリー・ウォーク】他のグループの机に並んだ36枚の用紙を見て回る。【10分】

7.【ふりかえり】ふりかえり用紙に感想等を記入し、グループ内で順に読み上げる。【15分】

《参考》

簡略版ABDを実施した2018年夏の免許更新講習(日本環境教育フォーラム主催、学習院大学協力、講師:川嶋直氏(日本環境教育フォーラム理事長)、中野民夫氏(東京工業大学教授)、諏訪)の記録写真を添付します。使用した教材は、拙著『学校教育3.0』(2018年4月刊、三恵社)の各章でした。

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