学校教育とSDGs

2021年5月26日

人類史的転換期における教育改革

現代は人類史の大転換期

これまでに人類が経験したことの無いことが次々と生じているという点では、おそらく現代は人類史の大転換期であろうと思われます。

例えば、人口減少。日本がその先頭を走っていますが、韓国でも人口減少がはじまり、中国もほどなく人口減少に転じます。東南アジア諸国も合計特殊出生率が2.0を下回り始めており、10年後ぐらいから続々と人口減少国家の仲間入りをします。

例えば、モノづくりの価値の相対的低下。20世紀まではモノを作り出す製造業が経済の中心に位置していました。しかし今日、GAFA(M)と呼ばれるGoogle、Amazon、Facebook、Apple、(Microsoft )など、情報の収集・活用よって巨額の収入を得ているIT企業が世界の経済を牛耳っています。その情報化の進展で、今世紀後半には多くの職業が消滅し、雇用の危機が到来するかもしれません。逆に、人々が多くの自由時間を獲得して、新たな生活文化を生み出さすことになるかもしれません。

例えば、利益追求一辺倒だった経済界の変貌。2015年に国連で採択されたSDGsに対する協力姿勢が世界各国の経済界で広がってきています。利益追求中心であった企業活動も、環境への配慮や社会的貢献への意識が顕著になっています。

これらの変化の背景には、生態的・社会的な持続可能性の危機と情報化の急速な進展があり、その両者が、人々の価値観や生活様式の変化や、社会構造の在り方の変容をもたらしています。

ひょっとすると、これまでの人口の都市への集中が逆転し、地方への分散に向かうという、もう一つの人類史の大転換も目前に来ているのかもしれません。人口の都市から地方へ逆流は、今回の世界的なコロナ禍とリモートワークの定着によって、これから一気に顕在化していくかもしれません。

これからの学校教育改革も、今日人類が直面している課題と、上記のような人類史の大転換を視野に入れて構想していく必要があります。残念ながら前々回に紹介した文科省のOBと現役高官が執筆した『現代の教育改革』(徳永保編著、ミネルヴァ書房、2019年)は、最後に「今後の教育改革」という章を設けながら、「持続可能な社会」についても、SDGsについてもまったく触れていません。ひょっとすると、新学習指導要領の前文に「持続可能な社会の創り手」という言葉が入ったことにも対しても、教科至上主義の守旧派擁護という観点から、あえて記述をしなかったのかもしれません。

今回は、人類史の大転換後の、まさに「未来の学校」の姿を描き、そこに到達するために、今、どのような教育改革が求められているのかについて述べていきたいと思います。

ただし、そのためにも、やや回りくどいかもしれませんが、がつて上梓した『学校教育3.0』の骨子を要約して、学校教育がたどってきた道筋とこれから向かうべき方向性について振り返ったり、現在、文科省主導で進められている教育改革についてもその方向性を確認しておきたいと思います。

「学校教育1.0」」から「学校教育2.0」へ

国民のほぼすべての人が学校に通う公教育制度の整備は、日本では1872年に始まります。来年でちょうど150年が経過します。アメリカ合衆国では1860年代前半の南北戦争期、イングランドでは1870年の初等教育法が公教育制度の開始と見なされていますので、欧米の先進諸国にそれほど遅れをとっていない時期に日本の公教育制度は誕生したといえます。国民国家成熟期で、国家に奉仕する国民を大量に育成するという命題に応えるために、学校をつくり、教室に子どもたちを集め、教科に分けて、教科書に基づいて、時間割に従って知識を伝授する授業が行われました。教えたことを記憶したかどうかを試験で確認し、教師も師範学校できっちりと指導法を学んで教壇に立つというシステムが出来上がっていきました。私はこの教育システムを「国民国家型教育システム」と見なし、公教育制度の第1期であることから「学校教育1.0」と捉えています。

この学校教育1.0も、日本の場合、第二次世界大戦後の民主化の波でゆさぶりを経験します。1947年に6・3・3制という新たな教育制度が導入されました。同時に社会科という新たな教科が設けられて、経験主義的な問題解決学習が採用されました。また、一般の大学でも教員免許を取得できる「開放制教員養成制度」が1949年から始まります。しかし、経験主義的な社会科も中学・高校では数年のうちに地理や歴史、政治・経済・社会(のちに公民)に分かれた系統学習に戻り、教員養成でも小学校の教員は旧師範系の教員養成大学出身者が大多数を占める姿は残存します。

日本の教育史の時代区分では、第二次世界大戦の前と後とで分ける考え方が一般的ですが、すべての児童生徒に均質な教育を施して国家の底上げを図ろうとしたという点では、根本的な変更はなされてないので、戦後しばらくの間は学校教育1.0が継続したと捉えています。

学校教育1.0はシステムとして完成度が高かったために、今日も「学級」「学年」「教科」「教科書」「学期末試験」など、その根幹は継承されています。しかし、1960年代の高度成長期に入ると製造業の成長が著しく、1970年代に入ると日本は先進国の一員となり、物質的には「豊かな国」の仲間入りをするようになりました。下に掲げた産業別就業人口割合の推移を示した図からも明らかなように、農業を基盤としていた日本は大きく変容し、伝統的な産業構造も大きく変化しました。

このような社会構造の大きな変化の中で、国家に奉仕する国民を大量に育成する「国民国家型教育システム」であった「学校教育1.0」は時代遅れのものとなり、新たな教育システムが求められるようになります。

http://20世紀における日本人の生活変化の諸相 (research-soken.or.jp)

多くの人々が、よりレベルの高い教育を受けることがより豊かな生活に結びつくことを確信するようになり、高校進学率は1970年代半ばには90%を超えるようになります。高校卒業では不十分と大学卒を目指す動きも大きくなっていきました。さらに、よりよい職に就き、より豊かで安定した将来を獲得するには一流大学への入学を目指すべきだという傾向も顕著になり、受験競争が活発化していきます。国家に奉仕するために教育を受けるという意識は希薄になり、個人や家族の幸せを実現するために教育を受けるという意識が高まっていきました。

一方、高度成長の過程で経済発展が国家の繁栄の源という考えが定着し、教育制度についても経済界の意向が反映されがちになっていきました。さらには経済界自身も教育の在り方について積極的に提案をするようになります。経済界が求める人材も「国家に奉仕する人」から、経済発展に寄与する高い「資質・能力」を備えた人へと変化し、教育の需要者側でも高い「資質・能力」の獲得を目指すようになり、個人の「資質・能力」を重視する新たな教育システムへと移行していきました。主たる目的が国家の繁栄のためではなく、個人の資質・能力に焦点が当てられるようになることから、この教育システムを「資質・能力重視教育システム」と見なし、公教育制度の第2期と言える「学校教育2.0」と捉えています。

「学校教育2.0」」から「学校教育3.0」へ

今日の学校教育は、「学校教育1.0」のシステムを色濃く残しつつ、「資質・能力」を重視した「学校教育2.0」であることは明らかです。新学習指導要領においても、最頻出熟語が「資質・能力」であることがそのことを物語っています。

しかし、教育の提供者と受容者の綱引きや相互依存を基調とする「資質・能力重視教育システム」が、生態的・社会的な持続可能性の危機が増大する中で大転換を迫られています。持続可能な社会の構築を柱とする新たな教育システムである「持続可能社会型教育システム」(=「学校教育3.0」)への移行は、必然と思われます。実は、すでに世界全体の教育が持続可能な社会の構築を目指す方向に向かい始めており、その例は、多数あります。新学習指導要領でも「前文」に「持続可能な社会の創り手」を育てることが学校教育の目的として明記されました。新学習指導要領の中核的なキーフレーズである「社会に開かれた教育課程」も、地域の人々を巻き込んだ学校運営協議会の設置など「地域とともにある学校」を目指す動きも、焦点が「個人」から「社会」に移っており、「学校教育3.0」がはじまりつつあることを示すものと言えます。

学習方法として、従来の「知識注入」やドリル的学習から、「探究」や「課題解決」を柱とするアクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)へ転換してきたことも、新しい「持続可能社会型教育システム」への移行を示しているのかもしれません。ただし、アクティブ・ラーニングは本物の「資質・能力」を獲得するより良い方法であると認識されていますので、「学校教育2.0」である「資質・能力重視教育システム」の延長上にあるとも言えます。

個人の「資質・能力」を高めることは、近年の教育についての見方では基本中の基本と考えられがちです。個人の「資質・能力」を高めること自身が社会にとっても好ましいものとなることを否定するわけではありません。しかし、これからの社会の基本的な教育システムとして定着するには重大な欠陥が存在しており、学校教育の基本的なシステムとして固執すべきものではないと思っています。何よりも、資質・能力を重視する教育では、「社会の形成者」という意識をしっかりと根付かせることができませんでした。また、資質・能力を重視することは、必然的に競争を基調とする教育とならざるをえず、結果的に多くの子どもたちの自己肯定感を低下させるという結果を招きました。また、子どもたちの間にいじめ・不登校あるいは暴力行為が蔓延する事態も引き起こしています。

「資質・能力重視教育システム」は、「国民国家型教育システム」からの離脱という点では一定の役割を果たしてきましたが、上記のような課題だけでなく、人口減少問題などとも関わっています。今、学校教育においてもSDGsが急速に普及しつつあります。この動きも、「資質・能力重視教育システム」に代わって「持続可能社会型教育システム」が学校教育の新しい基本になろうとしている一つの側面と見なすことができると思います。

文科省を中心とする現在から近未来への教育改革とその方向性

このような学校教育の大きな歴史的展開と、今まさに進行し始めている社会の人類史的な転換を視野に入れ、直面する課題に対する的確な対応と言える学校教育改革とはどのようなものでしょうか。すでに進行していたり、これから進行すると想定される教育改革の主軸について、文科省や中教審の動きからその方向性を見ておきます。 

(a) 主体的対話的な学びへの転換・・現在の初等中等教育改革の主軸

近年の初等中等教育に関わる学習指導要領についての中教審への文科相の諮問やそれに対する中教審の答申で最も強調されたのは、アクティブ・ラーニングという主体的・対話的な学びです。PISA調査で出題されているような21世紀が求める学力は、東アジアの伝統的な教育手法であった「知識注入型」の教育では対応できず、学習者の主体的・対話的な学びで、特に課題解決に向けた協働的な学びが有効であることが明らかになってきたからです。このことは1990年代には東アジアでも浸透してきました。中国では上海でいち早く「知識注入」の教育から「学習者主導」の教育への転換が試験的に行われ、その効果が確認されたたことで、教育部は2001年に中国全土に対して「基礎教育課程改革」(略して「課改(クーグァイ)」)を宣告し、知識注入型教育との決別を図りました。日本でも、1998年告示の学習指導要領で「総合的な学習の時間」が創設されました。「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し」という言葉に象徴されるように、「学習者主導」の教育への転換でした。

これに対して中国でも日本でも一時的に反動が押し寄せました。知識を問うことを基調とする大学入試には、「知識注入型」の教育も重視せざるをえない、という現実もあり、日本の場合、2007年告示の学習指導要領では、学習内容や学習時間が増加しました。しかし、同じ2007年に43年ぶりに再開された「全国学力テスト」(正式名称は「全国学力・学習状況調査」)の結果に対する分析が進む中で、「総合的な学習の時間」の趣旨に沿った課題解決型の学習に取り組んできた学校ほど学力テストの成績がよいことが国立教育政策研究所から報告され、現行学習指導要領についての2014年の文科省諮問で、アクティブ・ラーニング重視が改めて強調されるようになります。自らが興味関心を抱いて自発的に集中して学んでいれば、本物の学力がつくのは当たり前とも言えます。

この一連の流れの中で大きな役割を果たしたのが、PISA調査の出題傾向です。PISA調査はOECD(経済協力開発機構)という自由主義経済の発展のために協力を行う先進諸国の集まりが2000年から3年ごとに行っているもので、「知識注入型」では対応できない出題傾向が顕著でした。「知識注入型」教育との決別は、21世紀を見据えた経済界からの要望に符合した動きとも言えます。

ICTの進展によって社会や産業構造の変化の著しい21世紀にどのような能力が求められているかについては、経済産業省が「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」として2006年に「社会人基礎力」提唱しています。また、国立教育政策研究所は2013年にこれからの学校教育で育成すべき資質・能力として「21世紀型能力」を提案しています。これらに共通していることは、課題解決に向けてチームとして協力し、領域を横断する学びを求めていることです。

この主体的・対話的な学びへの転換の背後には、生態的・社会的な持続可能性の危機の克服や、少子高齢化と人口減少が進む地域の再生に向けた課題の解決が求められているという差し迫った要求も存在しています。また、そのために、従来の教科中心の学習から教科横断的な学習への転換も、新学習指導要領ではカリキュラム・マネジメントという枠組みで強調されていますし、今でも根強く残っている教え込む教員から学習者に学びを促すファシリテーターとしての教員への転換も求められるようになっています。

この教育改革は、今回の新学習指導要領に盛り込まれており、現在の学校教育改革の主軸をなしていると言えます。

(b) 個別最適化とICTの活用―情報化の進展への対応するこれからの教育改革の主軸

まさに、これから急速に進むと見込まれる教育改革が、このICTの活用を柱とする改革です。中央教育審議会答申「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」が2021年1月末に公表されました。「~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~」という副題がついています。副題にある「個別最適」という表現は、諮問段階にはなかった言葉ですが、2018年6月に文科省がまとめた「Society 5.0 に向けた人材育成 ~ 社会が変わる、学びが変わる ~」の中で「(公正に)個別最適化された学び」という言い方で何度か言及されていました。

日本が目指すべき未来社会の姿を「Society 5.0(=超スマート社会) 」とする構想が盛り込まれた「第5期科学技術基本計画」が2016年1月に閣議決定され、各省庁にはこのSociety 5.0を具体的な施策に落とし込むことが求められました。文科省ではその構想取り纏めのために、有識者からなる「Society 5.0 に向けた人材育成に係る大臣懇談会」と、文科省の課長職以上を構成員とする「新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース」の二つの組織を立ち上げて約半年間検討し、それらを合体させたのが「Society 5.0 に向けた人材育成」という構想です。

「Society 5.0 に向けた人材育成」において、「個別最適化された学び」がどのような文脈で用いられているかを見ると、ICTのハードとソフトを学校教育の場に導入することで、児童生徒一人一人の能力や適性に応じた個別指導を進めようというものと理解できます。子どもたちの多様化と子どもたちが抱える課題の多様化が進む中で、従来の画一的な学校教育では対応できなくなっているという認識と、ICTやAIの助けを得ることによってこのような多様化に対応できるのではないかという期待感があります。 しかし、ICTを活用した「個別最適化された学び」を全面的に肯定すべきか、というと躊躇せざるをえません。NPO法人八ヶ岳SDGsスクールが昨年12月に開催した特別講演会において、佐藤学氏は下のスライドを示して、学校におけるコンピュータ利用時間と学力が逆の相関となっていることを指摘されました。今日、深い思考や探究的な学びが求められているのですが、コンピュータはそのような学びには適していないことも指摘されました。

学校におけるコンピュータ使用と学力の逆相関(佐藤学氏が八ヶ岳SDGsスクール特別講演会(2020年12月)で提示したPPTより)

私は別の視点から「個別最適」という言葉に違和感を覚えていました。「個別最適」を追究しても、「全体最適」には到達しないだろうということです。直面する持続可能性の危機に対しては、地球や社会の「全体最適」を求めるべきであると考えているからです。また、子どもたちの多様化と子どもたちが抱える課題の多様化への対応として、ICTの活用が適切なのだろうかという疑問もありました。ビッグデータの一部企業による独占やスマホ中毒の蔓延など、情報化の流れに乗ることの危険性についての吟味も、情報化の進展がもたらすマイナス面に対する防御も、ともに不十分なのではないかいう不信感もあります。

「個別最適な学び」については、『教育展望』20121年1・2月合併号の新春座談会「WITHコロナ時代の教育の方向性」でも、安彦忠彦氏や石井英真氏が、「分断」や「序列化」につながる懸念を述べています。子どもたちの世界にスマホが根付いてきたことで、逆に、社会的な事象に対して自分自身で突き詰めて考えることが苦手になってきていますし、恣意的な情報操作に対する抵抗力も弱まってきており、ICTの活用に突っ走ることは危険をともなうことです。

ただし、それでは全否定かというと、そうではありません。基本的な情報機器の操作は、現代社会の「読み書き算盤」に相当する必須要素ですし、インターネットによって得られる情報は今や日常生活に不可欠なもの、生活の質を豊かにしてくれるものになっていることは、認めざるをえません。

「Society5.0に向けた人材育成」はSociety5.0時代に求められる「新たな社会を牽引する人材」として、以下のような例示をしています。

・異分野をつなげる力と新たな物事にチャレンジするアントレプレナーシップが欠かせない。

・真理や美の追究を指向するサイエンス、アート的発想の両方を併せ持つ必要がある。

・多くの人を巻き込み引っ張っていくための社会的スキルとリーダーシップが不可欠となろう。新たな価値を創造するリーダーであればこそ、他者を思いやり、多様性を尊重し、持続可能な社会を志向する倫理観、価値観が一層重要となる。

このような「社会を牽引する人材」は確かに必要とされており、このことに同意すると、その実現の前提とされているICTの活用による「個別最適化された学び」を否定しづらい面もあります。

ただし、忘れてはならないことは、子どもたちの多様化に対するICTの活用も、テクニカルな事柄以上に、個々の学習者の特性や個性をどう捉えるかという、まさに教育者としての教師の力量が問われることになるということです。教師の役割をICTに肩代わりしてもらって手抜きを図ろうとすると、学力が低下するだけでなく、学校教育を根底で支えている教師と学習者の信頼関係を希薄化させていくことつながるはずです。「将来もなくならない職業」の上位に小中学校の教員が常にランクされているのは、教員という職業が、ただ教えるという役割だけを担っているわけではなく、子どもたち一人一人の個性と長時間向き合うなかで、必要な対応・選択をするということは、当分の間はAIもできないと判断されているからでしょう。

(c) 多様な人々が関わる学校を目指す教育改革—近未来の学校教育改革の主軸

ところで、「Society 5.0 に向けた人材育成」には、参考資料として「Siciety5.0 に向けた学校ver.3.0」という表題のポンチ絵が付されていました。そこには、「K-12教育からK-16プログラムへ」「ラーニング・オーガナイザー」「持続可能な開発モデル」など、「Society 5.0 に向けた人材育成」の本文には存在しないフレーズが散りばめられており、目指している方向は「Society 5.0 に向けた人材育成」と同じですが、大臣懇談会等の議論のさらに先を視野に入れた構想が示されています。

「Siciety5.0 に向けた学校ver.3.0」の一部

いったい誰が、どのような意図をもってこのポンチ絵を「Society 5.0 に向けた人材育成」の参考資料として紛れ込ませたのでしょうか。2019年8月に、その時点では文科省初中局財務課長で、その前には今回の新学習指導要領の取り纏め役である初中局教育課程課長を務めていた合田哲雄氏が、日本教育学会のシンポジウム「持続可能な社会と教育」で、この「Society 5.0 に向けた学校ver.3.0」について、以下のように語っています。

我が国の教育をどのようなビジョンをもって展開していくのか、ですが、その一つの方向性を示したのが、2018年6月に当時の林芳正大臣が発表した政策ビジョン「Society5.0に向けた人材育成」です。(一部略)工業化社会に対応した学校ver.1.0における学習指導要領は知識の体系でした。学年別漢字配当表がその典型です。それに対し、2017年の学習指導要領の改訂は、知識は大事であるということを当然の前提にしながらも、資質・能力の体系に転換したもので、これが学校ver. 2.0です。(中略)今後、持続可能な開発モデルとして、コミュニティ・ソリューションですとか、Society5.0 という言葉がキーワードになる時代になると、学校ver. 3.0という議論になってくるわけです。

ポンチ絵の最下段には、学校ver.1.0を「国民国家モデル」、学校ver.2.0を「グローバル  

市場経済モデル」、学校ver.3.0を「持続可能な開発モデル」とする構想が描かれています。筆者は、この政策ビジョンが公表される約二か月前に「国民国家型教育システムから資質・能力重視教育システムを経て持続可能社会型教育システムへ」という副題を付した『学校教育3.0』(2018年4月、三恵社)を刊行していますので、ほぼ同じ時期に、文科省の上層部でも同じような持続可能な社会の構築を柱に据えた将来構想を描いていたことになります。

「Society5.0に向けた人材育成」は、「Society 5.0 における学校」という節を設けています。その前半はAIやスタディ・ログの蓄積などの話題が中心ですが、中程で、「ただし、子供たちはデータから必ずしも読み取れない多様な可能性を秘めている。データに過度に依存することで、一人一人の成長や変化が正当に評価されない等の危険性も指摘されている」と述べています。ICTの活用の限界と落とし穴についても認識しています。ICTの活用は今後の学校教育にとって不可欠かつ不可避でしょうが、それを進める際には、念には念を入れた吟味が必要です。ICTを活用した学校教育の推進をビジネスチャンスと捉える情報関連企業の動きが活発ですが、情報(機器)関連業界のペースでのICT活用の進行には、特に警戒が必要であろうと思われます。

「Society 5.0 における学校」は、後半の締めくくりで、

Society 5.0 における学校は、一斉一律の授業スタイルの限界から抜け出し、読解力等の基盤的学力を確実に習得させつつ、個人の進度や能力、関心に応じた学びの場となることが可能となる。また、同一学年での学習に加えて、学習履歴や学習到達度、学習課題に応じた異年齢・異学年集団での協働学習も広げていくことができるだろう。さらに、学校の教室での学習のみならず、大学(アドバンスト・プレイスメントなど)、研究機関、企業、NPO、教育文化スポーツ施設、農山村の豊かな自然環境などの地域の様々な教育資源や社会関係資本を活用して、いつでも、どこでも学ぶことができるようになると予想される。(8頁)

と述べて、これまでの学校の在り方にとらわれない、自由度の高い構想を描いています。

シンポジウム「持続可能な社会と教育」で合田哲郎氏は、この記述をさらに一歩進め、「学校がすべての知識を持っていて独占的に子供たちを教育するのではなくて、大学や研究機関、図書館、NPOなど様々な機関が、子供をアクティブ・ラーナーにするために連携する」という姿を提示されました。上記のポンチ絵の右上で、学校以外の様々な機関・組織からの矢印が学習者に向かっている姿がこれからの教育改革に求められていることを指摘されたと受け止めています。

意図するところは多少違っていますが、学校外の人が学校教育にもっと関与すべきということを前述の『学校教育3.0』において、以下のように述べたことがあります。

教員の長時間労働や過酷な保護者対応の実態を考えれば、学校に関わる業務の一端を教員外に委ねることは当然行われてしかるべきである。しかし、それが「アウトソーシング」というような、外部の人への役割の委託だけであっては、関与者全員で困難な問題に立ち向かうということにはならない。

「持続可能社会型教育システム」においては、専門スタッフだけでなく、地域の普通の人々の教育への関与拡大が求められる。人口減少と少子高齢化が一層進行する中でこれからの日本の持続可能性という点で最も心配なのは、地域社会の未来である。必然の流れとして、そのような地域の課題を見出してその解決を探ろうとする児童生徒のプロジェクト学習が増えることになるが、そのサポーターとして最も適しているのは、地域のことを熟知している地域の普通の人々であろう。もちろん専門の研究者や専門スタッフの関与も必要であろうが、地域の普通の人々の関与拡大は不可欠で、そのような関係が、金銭の授受を前提としたものではなく、伝統社会ではごくごく当たり前に存在していた「相互関与」という姿で成立することが望ましい。

以上、社会の急速な変化に対応すべく、近い過去から現在、そして将来に向けて、日本の学校と学校教育をどのように変えようとしているかについて、文科省がすでに公表している学習指導要領や中教審答申、あるいは将来構想文書などから3つの主軸を紹介してきました。この3つの主軸をベクトルで捉えると、第一のベクトルは、「学び方」についての軸で、新学習指導要領の諮問段階で用いられた「アクティブ・ラーニング」に象徴された方向性、第二のベクトルは、「学習者の多様化に対するⅠⅭTの活用」という方向性、そして第三のベクトルが「学校教育の場と関与者の拡大」という方向性です。この三つのベクトルを図化すると以下の図のようになります。

図中で第三のベクトルについて、「ヨコ社会」化と記入してあることについて、簡単に説明しておきます。文化人類学者の中根千枝氏は『タテ社会の人間関係』(1967年、講談社現代新書)において、社会構造として「タテ社会」と「ヨコ社会」の2つのタイプがあると提示しました。「タテ社会」とは関係性が組織内で完結している社会、「ヨコ社会」は関係性が組織外に開かれている社会です。インドの社会が「ヨコ社会」となっているのに対して、日本の社会が「タテ社会」であると指摘していますが、中根氏は「おわりに」で以下のように述べています。

この日本列島における基本的文化の共通性は、とくに江戸時代以降の中央集権的政治権力に基づく行政網の発達によって、いやが上にも助長され、強い社会的単一性が形成されてきたのである。さらに近代における徹底した学校教育の普及が人口の単一化に一層貢献し、とくに戦時の挙国一致体制、そして、戦後の民主主義、経済の発展は、中間層の増大拡大という形をとりながら、ますます日本社会の単一性を推進させてきたものといえよう。(p.187-188)

日本の「タテ社会」化を進めた大きな要因として学校教育の在り方を50年以上も前に指摘されていたわけです。

関係性が組織内で閉じている「タテ社会」の学校を、組織外に開かれた「ヨコ社会化」することが、これからの時代の学校教育には必要なことであると、文科省の上層部も(もちろん筆者も)考えているということです。詳しくは以前のブログ「タテ社会とSDGsの学び」や「個別最適とタテ社会」で紹介していますのでご参照ください。

近年の教育改革の3つのベクトル(筆者作図)

なお、第一のベクトルの方向への移行過程では、教師にはそれまでのインストラクターとしての役割に加えて、ファシリテーターとしての役割も求められることになります。そして、第三のベクトルの方向へ移行するには、さらに学外者とのコーディナーターとしての役割も求められます。しかし、 現在での多忙を極める教員にそれをすべて要求するのは不適切です。第三のベクトルへの移行に当たっては、専任のコーディネーターを学校に置くことも求められます。

「NISHITA未来の学校」

学校外の組織に関係性を広げた未来の学校を構想するとして、具体的にどのようなものになるのでしょうか。その全貌について実例で示すことはできませんが、筆者が学校運営協議会の会長をしている杉並区立西田小学校が2020年2月に行った「NISHITA未来の学校」は参考になると思います。

そこで、以下に今年の「第2回NISHITA未来の学校」(オンラインで実施)のための資料集に寄稿した拙文を一部省略して再録させていただきます。

杉並区立西田小学校では、2016年度から「ESD子供報告会」を開催してきました。

小堂十前校長が着任され、ユネスコスクールに相応しいESDについての年間を通した取り組みが始まりました。その成果を2月の土曜日の午前中に児童が中心となって発表するのが「ESD子供報告会」です。「ESD子供報告会」は、年々、発表内容もレベルアップし、児童主体の活動が鮮明になっていきました。そして、その際立った活動が高く評価され、2019年秋には、ESD大賞(主催:NPO法人 日本持続発展教育(ESD)推進フォーラム)の小学校賞を受賞するに至りました。

(「その勢いに乗って」かどうか定かではありませんが、)西田小学校の学びの質をさらにレベルアップさせることはできないかという話が巻き起こり(多分、首謀者は新井雅晶前副校長)、学校運営協議会も協力することになって、2020年の「ESD子供報告会」の日の午後に開催されたのが、第1回「NISHITA未来の学校」です。「NISHITA未来の学校」の特色は以下の3点に集約できると思います。

1.児童も卒業生も教職員も地域の方々も同じ立場に立って、日ごろの活動の様子や成果を発表する。(ポスターセッション)

2.児童も卒業生も教職員も地域の方々も年齢も立場も関係なく、発表に対して質問をしたり意見を交わしたりする。

3.ポスターセッション終了後には、様々な立場の参加者が4~5人のグループになって円卓を囲み、振り返る。(「えんたくんミーティング」)

つまり、「学校は教職員が児童を指導する場所」というこれまでの固定観念を打ち破り、「学校の内側の人も学校の外の人も共に学び合う場」という新しい空間が生み出されることになりました。この構想のヒントは、実は、文部科学省が2018年6月に発表した「Society5.0に向けた学校er.3.0」というポンチ絵に描かれた未来の学校教育の姿にあります。

子どもたちをアクティブ・ラーナーにするために学校以外の多様な機関が関与するという、未来の「持続可能な開発モデル」の学校構想です。しかし、実は「NISHITA未来の学校」では、「学び手」に矢印が一方的に集まるのではなく、下の図のように、児童から大人たちへの発信があるので、双方向性が存在しています。

「NISHITA未来の学校」の双方向性(筆者作図)

この姿こそまさに「未来の学校」といえます。将来の学校は、子どもたちだけでなく、色々な大人が校内に入ってきて、さまざまな学び合いが展開される姿になるはずです。

第1回「NISHITA未来の学校」では、全部で25件のポスター発表が行われました。その内訳は西田小の児童が11件、西田小の教職員が5件、その他保護者や地域の方々、卒業生、学校運営協議会のメンバーなどが9件です。いずれの発表も素晴らしく、またそこで繰り広げられた子供と大人が入り混じった質疑応答も活発で、来場者からも高く評価されています。(一部略)

この資料集を充実したものにするために、学校運営協議会メンバーの成田喜一郎先生が、この春卒業する6年生に西田小学校で学んだESDをどのように受け止めているのかを訊ねるアンケートを作成し、学校側の協力で3月の初めに実施することができました。この資料集ではその一部しか紹介できないのが残念ですが、子どもたちが大人に対して色々と質問したいことがあるのがよくわかります。

例えば、私たち大人は次のようなことを子どもたちから突きつけられています。

「なぜ大人たちは、もっと早くから環境問題に対して具体的な対策をすることができなかったのか」

「なぜ環境破かいを何度もくりかえして、さらなるゆたかさを求めるのか?」

残念ながら、今年の第2回「NISHITA未来の学校」は、コロナ禍のためにオンラインでの実施となり、発表件数も大幅に縮小せざるを得なくなりました。しかし他方で、オンラインを活用した新たな企画の可能性も見えてきました。例えば大学のゼミやNPOの研究会と教室をオンラインで繋ぐことによって、子どもたちが大人たちに投げかけたい疑問を提示し、回答を求めることもできそうです。

「NISHITA未来の学校」は、今後もさらに進化してことになりそうです。

「NISHITA未来の学校」は、わずか半日のイベント的な行事でしたが、学校が「ヨコ社会」化することで、子どもたちばかりでなく、大人たちも大きな学びを得ることができることを確認できましたし、ひょっとすると教職員の多忙や疲弊、子どもたちの問題行動という今日の学校が抱えている大きな課題を解消させる可能性もあるのではないかと感じています。

 なお、上記の拙文で「多分、首謀者は・・」と書いた新井雅晶前副校長(当時)が第1回目の「NISHITA未来の学校」の詳細な記録(現段階では未公表)を残しています。その「はじめに」の「1「未来の学校」を考えるところから始めよう」の一部を抜粋して紹介することで、「NISHITA未来の学校」の持つ意味をより深くお伝え出来たらと思います。

学習指導要領で「持続可能な社会」の扱いが大きくなり、今後現在ある社会システムは、予測不可能な社会へと突入すると言われている。超スマート社会Society5.0の到来に向けた社会の変容と、生態的・社会的な持続可能性の深刻さから、教育も「持続可能社会型教育システム」へ転換することが不可欠である。諏訪(2020)は「持続可能社会型教育システム」に転換するに関して次のように述べる。

新学習指導要領では、教科横断的な視点を重視するカリキュラム・マネジメントが強調されている。新し方向性を示したものとして評価できるが、真の「SDGsの学び」に向かうには、教科の垣根をさらに低くしていくことが求められる。新たな「SDGsの学び」のための教材開発が進めば、「教科」の学習内容を記述した「教科書」の重要性は大幅に低下することになる。

「SDGsの学び」は、持続可能な世界、持続可能な社会に関するすべての事柄が対象であり、目指すべき世界を包括的に捉え、包括的な解決を目指すものである。従って、学校教育は、教科や学年の枠組から離れて、テーマごとに取り組む「プロジェクト学習」や「ワークショップ型学習」に形態を変え、主体的・協働的な学習過程の中で、課題解決能力の育成する教育内容が今後主流になるとされる。このような教育が求められるSociety5.0では、学校は存在するのであろうか。当然、教員がチームになって取り組んだとしても限界がある。「教育は学校でするもの」「教育は教員が行うもの」という概念から崩していかないと、今すでに始まっている予測不可能な社会へ対応できないのではないだろうか。(一部略)

少子高齢化社会におけるプロジェクト学習の例に限らず、地域社会には複数の課題が存在し、地域人材との関わりの中に、子供たちができる持続可能な社会の形成に向けた取組・行動のヒントが隠されている。また、教育に関わっていない地域人材にも、専門性をもった技術や仕事にかける思いがあり、このような人との出会いが、子供たちの視野を広げ、子供の課題追究の意欲を高める存在となることは間違いない。 このように考えると、もはや教育は学校で行うもの、教育は教員だけの特権ではなく、「持続可能な社会の形成」を合言葉に、地域人材と協働して、子供の成長に関わる学校教育の在り方を模索する必要があることは明らかである。今回行った「未来の学校」は、教員や保護者、卒業生、地域人材、子供、学識経験者等が関わって実現した学びの場である。異年齢のメンバーが、多様なジャンルで実践を発信し、参加者は各自の課題意識のもと交流を行った。もはや、学校は子供の教育のためだけにあるのではなく、地域の学びの場であり、子供から大人までが同等な立場で交流する場となった。もしかしたらSociety5.0 の学校教育は、このようなものに変わっているかもしれない。

地方創生に資する学校のあるべき姿と文科省の組織のギャップ

 

中教審答申の「「令和の日本型教育」の構築を目指して」では、子どもたちの知・徳・体を一体で育むことを「日本型学校教育」と見なしています。徳育は家庭や教会が担い、体育は地域が担い、学校の先生はもっぱら知育に専念する欧米の学校と異なり、知育、徳育、体育をすべて学校が担うのは理想かもしれませんが、知育に偏った教員免許制度や、すでに過剰労働となっている教員の労働状況からすると現実的ではありません。しかし、地域に関わる子どもから大人までのすべての人が学びに集う「地域の学習共同体」であれば、知育、徳育、体育のすべてを教員が担うわけではなく、全世代の交流の中で、自ずから(場合によっては意図的に)子どもたちの知・徳・体が一体で育まれる可能性は十分にあります。

日本では、人口減少と少子高齢化で活力低下が課題となっている地域はますます拡大しています。これから対応する必要があるのは、第一に、このような中であるべき日本の学校教育の姿とはどのようなものか、という根本に立ち返った議論です。そして10年後、20年後のあるべき姿が定まったら、その目標に向けて今、舵を切り替える必要があります。「日本の学校教育を覆う大きな問題」、おそらく最大の問題と考えているのは、本節の冒頭で述べたような人類史的な転換を見据え、10年後、20年後、30年後の日本にとってどのような学校教育の姿が望ましいのかをしっかりと捉えたうえでの教育改革がなされていない、ということではないかと推測しています。これまでの学校教育の至らない点を修正するというフォアキャスティング思考から抜け出せず、未来のあるべき姿からのバックキャスティング思考が不十分ないし欠落している、と思わざるをえません。そのようなバックキャスティング思考が働かない理由の一つに、文科省を筆頭とする教育関連組織が現在の教育システムに基づいて作られており、その枠組みから逸脱しにくいこともあるのでしょう。

千葉大学名誉教授の天笠茂氏は、『教育展望』(2021年5月号)で、今回の中教審答申「「令和の日本型教育」の構築を目指して」の審議過程で底流をなしたものが「学校というシステムの持続可能性」であり、「学校を持続可能なシステムとして存続を図る。そのために、何をどのように見直すか、その問いに対して、改革の方向性や方策を審議し成案をえたもの」(p.5)と述べています。そして、改革の方向性と方策の以下の6つの柱を「わが国の学校教育が積み重ねてきたものと新たなものとを、それぞれ適切に組み合わせていくことを重視」した結果と見なしています。

 ①学校教育の質と多様性、包括性を高め、教育の機会均等を重視する

 ②連携・分担による学校マネジメントを実現する

 ③これまでの実践とICTとの差異的な組み合わせを実現する

 ④履修主義・修得主義等を適切に組み合わせる

 ⑤感染症や災害の発生等を乗り越えて学びを保証する

 ⑥社会構造の変化の中で、持続的で魅力的な学校教育を実現する

上記の6つの柱は、かなり柔軟な方向性を示しており、それぞれに問題があるわけではありません。しかし、日本型教育の出発点を1872年の学制の開始からとしたところに、踏み込みの足りなさが出てしまったと感じています。日本に限らないでしょうが、近代以前の伝統的な社会の中で、まさに知・徳・体が一体で育まれる空間が存在したことにまで視野に入れれば、そして、これからの地域の活性化にとって学校教育が重要な役割を果たしうることに意識的であれば、「地域の学習共同体」という「学校」も将来構想として答申に盛り込まれてしかるべきだったのではないでしょうか。

「踏み込みの足りなさ」と書きましたが、それは文科省の組織の在り方から来ている部分もあります。今回の「令和の日本型学校教育」答申は、中教審の初等中等教育分科会が取りまとめたもので、文科省側は初等中等教育局がその背後で様々な情報を提供し、中教審の分科会と文科省の部局の双方で方向性を確認しながら作成したものです。大学教育の在り方や生涯学習にまで触れるのはタブーという暗黙の了解が存在しています。文科省内は初等中等教育局、高等教育局、総合教育政策局生涯学習推進課ときっちりと分かれており、中教審の方も初等中等教育分科会、大学分科会、生涯学習分科会ときれいに分かれています。そしてさらにそれらにはそれぞれの取り巻き集団も控えています。

地域の創成という喫緊の課題に対応した学校の在り方、地域における教育の在り方を追究するには、従来の学校や教育の枠組みから離れられない現在の文科省の組織を、地方創生という軸足を持つ組織へと改編していく必要があると思います。少なくとも、地域に関わる学部学科については、現行の大学設置基準に基づく文科省下の大学設置審議会による審査を経ての設置認可ではなく、地方自治体に設置認可の権限を移譲すれば、「地域の学習共同体」という学校の実現可能性は高まると思われます。

「社会的共通資本」としての教育の再構築は可能か

冒頭で述べたように、今日、様々な側面で人類史的な大転換が起ころうとしています。そのような大きな流れの中で教育を捉えたらどうなるのだろうかということを今回考えてきました。色々なことを一度に伝えたいということから長々としたものになりました。筆者が描いてみた持続可能社会型教育システム「学校教育3.0」、文科省がすでに打ち出したり、今後進めようとしている教育改革の3つの主軸ベクトルとその集合、「NISHITA未来の学校」、と別々に分けて書くべきだったのかもしれません。しかし、これらを統合した視点が重要なのだろうと思い、ひとまとめにしてみました。

そして、最後にもう一度考えてみたいのが、宇沢弘文氏が提起した「社会的共通資本」という枠組みと学校というものの在り方についてです。

宇沢弘文氏は、自然環境や社会的インフラストラクチャー、教育や医療のような制度のような社会にとっての共通の財産を「社会的共通資本」とし、次世代にも残さねばならないものと捉えています。学校という制度については、例えばイリッチが批判しているように、人々に教育を押し付ける装置と化しているという側面があったり、その制度をビジネスの対象とする動きが肥大化したり、また、学校という制度の中で苦しんでいる子どもたちの比率が上昇したりしており、このままではよくないことは、確かです。しかし、次世代を育むという基本的機能をなくしてよいということにはならないはずです。もし、公教育を全面的になくしてしまったら、富裕者だけが学びを継続できることになり、格差がさらにさらに拡大し、とんでもない社会になっていくことは目に見えています。したがって、学校を社会全体が利益を得ている、次世代にしっかりと残すべき「社会的共通資本」と捉えるのは適切なことであろうと思います。

しかし、その「社会的共通資本」としての学校という制度を誰がどのように管理運営していくかという点は大きな問題です。宇沢弘文氏は「社会的共通資本」の管理運営の原則について随所で触れていますが、例えば、『宇沢弘文傑作論文全ファイル』の327ページでは、「社会的共通資本」の形成と維持はデューイのリベラリズムの思想にもとづいたものでなければならないわけです。したがって、社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件に左右されてはならないことを強調したいと思います」と述べていますし、世界のコモンズ(日本の入会地のような共有地)の管理形態に触れ、「コモンズの管理が必ずしも国家権力を通じておこなわれるものではなく、コモンズを構成する人々の集団ないしコミュニティからフィデュシアリー(fiduciary,信託)の形で、コモンズの管理が信託されているのが、コモンズを特徴づける重要な性格であることを留意したい」(同書、p.74)とも述べています。

しかし、主要国の公教育制度が国家に有意な人材の大量育成に始まっている以上、教育が「国家の統治機構の一部として官僚的に管理」されることから免れられないのかもしれません。ほかの社会的共通資本についても同じようなことが言えます。例えば、自然環境としての河川も、防災という観点から国家的な事業として堤防が設置され、その管理を国土交通省の官僚をトップに据えた河川事務所が行っています。また、医療に関わる健康保険制度も、国家的な枠組みの国民健康保険制度が設けられて、そこに国家予算が相当規模で投入され、ることで、安心・安全が確保されていると感じている人が大多数ではないでしょうか。

学校教育制度が、新自由主義的な思潮が蔓延する中で、「市場的な条件に左右」されるに相当する不適切な規制強化からも免れることができず、様々な不都合を生み出していることはこれまでにも書いてきた通りです。同じようなことが、河川の管理や健康保険制度についても予算規模が大きいだけに、往々にして生じがちです。しかし、それでも、国家機関が管理運営に関与することを全面的に否定することはできません。

それでは、宇沢氏が提起する社会的共通資本の管理運営の原則と、国家機関の関与の必要性の間で、よりよい姿を導くような道筋はないものでしょうか。実は、2020年9月に本ホームページにアップした「「流域治水」への参画とSDGs」の中にヒントがあります。荒川下流河川事務所の早川潤所長は、これからの河川行政には「流域治水」という観点が不可欠で、そこで重要になってくるのが、SDGsで強調されている様々なステークホルダーの連携であり、「参画」と「統合」である、という指摘を下の図を示して説明されました。

(荒川下流河川事務所早川潤所長作図)

そこでは、これまでの「河川法」に基づく河川政策から、氾濫を防ぎ、被害を減らし、早期の復旧・復興を実現するため、地域住民を含むあらゆる関係者が参画し、統合的に取り組む「流域治水」への転換が必要との考え方が示されています。そして、そのことがSDGsの主要原則と対応していることが示されている点も注目できます。

学校教育においても、学習内容にSDGsを加えるとか、SDGsの目標達成に向けた活動を取り入れるだけでなく、「参画性」「統合性」といったSDGsの主要原則に則った学校の在り方を追究することも重要ではないでしょうか。「地域の学習共同体」という学校に地域内外の様々な世代の人々が参画し、統合された学び合いが展開される姿は、まさにこれからの社会的共通資本としての学校が目指すべきものでしょう。

では、具体的にはどのようにすれば、国家機関による管理運営と様々な関係者の参画との折り合いをつけていけるのか。これから上記の流域治水などほかの事例を参考にして、じっくりと検討してみるつもりですが、その構想をふくらます場合にも、様々な関係者の「参画」と、様々な事なった意見の「統合」というSDGsの主要原則が生きてくるはずです。

そうであるならばなおのこと、学校教育が「ヨコ社会」化されていく必要があります。学外者として立ち入りが制限されるような学校ではない、地域に住むあらゆる世代の人々が集って学び合い、啓発し合う開かれた場としての学校の在り方を追究していくことが、正しい学校教育改革の方向といえます。そしてそのような学校を創り上げた地域には、その魅力的な学校を目指して、子どもに安全安心な学校を求める保護者、地域探究に夢を膨らます市外からの高校生、地域活性化のプロを目指す全国からの大学生、そして、「その運営の手助けをしよう」というリタイア層など、様々な人々が集まり、結果的に人口増にもつながるはずです。

この3月に、『日本再生のための「プランB」』(兪炳匡(ゆうへいきょう)著、集英社新書)という新書が刊行されました。これ以上長くなるのを避けたいので詳しい紹介はいたしませんが、「医療・教育・芸術を融合する新たな産業・職業」を地方自治体や「非」営利組織が事業主体となって創出することで、地方の経済も潤い、地方に活力を取り戻せることを、予防医療を事例にとって数値的な裏付けに基づく主張をしています。学校教育が地方の再活性化の大きなカギを握っていると一層確信させられた次第です。

2021年5月9日

新自由主義と学校教育

新自由主義とその信奉者集団

過去半世紀の日本の学校教育改革を振り返ると、いくつかの大きな勢力をもつ集団が、自分たちの信念を通しやすくするために、あるいは自分たちに都合のよいようにするために、場合によっては欧米諸国における動向をいち早く取り入れることが正しいものと思い込んで、主役である児童生徒や教員の想いをほとんど無視するような形で影響力を発揮し、本当に望ましい姿とは違う方向に学校教育を捻じ曲げてきたように思います。その一つとして、前回は、特に教員養成を停滞させてきた旧師範系大学関係の守旧派集団を取り上げました。そして最後に、「守旧勢力以上に、日本の学校教育を覆う大きな問題が存在」していると、あたかも今回、最大の問題を取り上げるような書き方で終わりました。

しかし、最大の問題について述べる前に、もう一つの大きな影響力を与えている考え方、つまり今回のタイトルにもある「新自由主義」について触れておきたいと思います。集団という捉え方をすると、「新自由主義信奉者集団」と言えるかもしれません。

新自由主義とは、1970年代初頭のドル・ショック(米ドル紙幣と金との兌換停止)や石油ショック(原油価格の高騰)によって国家財政状態が悪化したのに対して、公共的な政策についても民間の市場競争の原理を導入したり、中央で一括して掌握していた権限を分割して地方に移譲したりすることで、中央政府の経済的な役割を縮小しようとした考え方です。1980年代イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根政権が採用した施策がその典型で、その後も影響力が続いています。日本における具体例としては、国営であった国鉄が分割民営化されて今日のJR各社になったことが挙げられます。

この新自由主義の考え方が学校教育にも適用されたのが「新自由主義的教育改革」です。以前は、教育政策に対して政治が直接介入することを遠慮する傾向がありましたが、1980年代の臨時教育審議会以後、教育に関する首相直属の会議体が置かれ、そこから様々な改革が提案され、実行されていきました。まず、この40年ほどの間に実際に試みられた事例から見ていきたいと思います。

①学校選択制

中曽根総理の諮問機関として設けられた臨時教育審議会は、1985年から87年にかけて教育改革に関する4回の答申を行っています。そのうちの第三次答申に「学校選択の機会を漸進的に拡大する」という提言が盛り込まれ、それから10年後に文部省が「通学区域制度の弾力的運用について」という通達を出したことで許容されたのが学校選択制です。従来、公立の小中学校には一つの学校に対応した通学区域が設定され、その通学区域内に居住する児童生徒が通学する学校は決まっていました。越境入学というこの原則に反する行為もありましたが、極一部でした。しかし、この制度の導入することにした自治体では、近隣のいくつかの学校から選択して通学できるようになりました。

この学校選択制導入の根底にあったのが「競争原理の導入による活性化」でした。荒れた学校やレベルの低い学校は忌避されて通学する児童生徒数が減少する、それを避けるために各学校は子どもたちのニーズに応える魅力づくりに学校が取り組み、レベルが向上する、という発想です。児童生徒数の減少に対して学校の統廃合をしやすくするために導入したのではないかと疑いたくなる自治体もありました。一時は学校選択制を導入したり検討したりする自治体が急増して、通学区域制度が形骸化するかと思わせるほどでした。しかし、地域コミュニティの崩壊や学校間の序列化や格差の深刻化、あるいは保護者や子どもたちの受ける軋轢など、弊害が大きいということから導入を検討したけれども断念したり、一旦導入したけれども見直しをしたりする自治体が増えています。この学校選択制は減少傾向にありますが、今も一部の自治体では存続しています。そのように自治体で近隣の子どもたちが選択しなくなる学校に勤務する教職員のストレスは非常に大きなものと想像できます。

公立の中高一貫教育・中等教育学校についてもここで触れておきます。臨時教育審議会の提言の中核に位置した「個性重視」や「多様化・弾力化」の一環として提起された公立の中高一貫教育や中等教育学校については、中学校段階からの序列化などに対する懸念から、文部省も慎重な対応姿勢を保っていました。しかし、1999年から開設が徐々に進み、カリキュラム上の中高の連携に留まる連携型ではない、併設型の公立中高一貫校と中等教育学校の合計はすでに130校ほどに増えています。大学入試競争において、私立の中高一貫校が好結果を示す中で、公立も負けてはいられないという心理が多分に働いたものと思われます。これらは中学入試を経ての入学ですので、学校側に選択権があり、入学者に選択権のある典型的な学校選択制度とは異質ですが、競争の原理が中学校に持ち込まれたという点では同じ範疇に含まれます。

ついでに、私立小学校にも触れておきます。全国の私立小学校の児童数は8万人弱で、40年前の6万人から3割ほど増加しています。少子化の流れの中で、小学生の総数が40年前の約1200万人から約600万人に半減していますので、私立小学校に通う児童の比率はかなり増加しています。

②習熟度別授業

1980年代以降の「ゆとり教育」は、詰め込み教育批判に応えるものでしたが、一方で「自己決定、自己責任」という自己管理を求めるものでした。1年前のコロナ休校で、家庭で学習を続けた子どもたちと、ゲームやSNSに明け暮れた子どもたちの間に大きな学力格差が生まれたように、「ゆとり教育」も、ゆとりの出た時間を有意義に過ごすか無為に過ごすかは「自己決定、自己責任」と見なされたため、結果的には、学力格差を拡大させました。この学力格差に大きく影響したのが家庭の経済的・文化的格差であったことを示す調査結果もあります。

そのような背景の中で、学力に応じた効率的な授業を行うために、習熟度別授業が拡大していきました。この習熟度別授業については賛否両論があり、今も決着はついていないと感じています。保護者の理解などの周到な準備をし、なおかつ適切な指導が行われている場合はうまくいっているようです。逆に、単純に成績上位者と下位者を分けた結果、学級の分断が生じ、上位グループでも下位グループでも学習意欲が低下したという報告もあります。全体として、一部の教科に限定された、きめ細かな配慮のなされた習熟度別授業は徐々に拡大しているようですが、全体がその方向に向かっているわけではありません。

一方で、国際化の進展で、日本語を母語としない子どもたちも増えており、在籍する学級を離れて日本語指導や教科指導を受ける「取り出し授業」は着実に増加してきています。

③自律的公設学校と公設民営学校

日本の公立学校の場合、地方自治体が設置し、文科省や各教育委員会の指導に基づき、学習指導要領という枠組みの中で画一的な教育がなされてきました。それに対し、臨時教育審議会は、様々な側面における「個性重視の原則」を打ち出し、それが従来の公立学校の在り方にもじわじわと影響を及ぼしました。

その一つの在り方が、「自律的公設学校」で、公立学校でありながら、特色あるカリキュラムを編成・実施したり、独自の入学者選抜方法を設けたりといった自律性をもつ学校です。アメリカでこの30年ほどに間に徐々に増加してきたチャーター・スクールがこれに該当します。チャーター・スクールの場合、地域の人々が希望するタイプの学校設立を申請し、公的な資金援助を得て設立されます。日本でもある種の特別な能力を身に付けることを目的として、特色あるカリキュラム編成をもつ公立高校が増えており、高校教育の多様化をもたらしています。理数コースや外国語コース、あるいは探究科など、多様化は着実に進んでいます。しかし、地方自治体の教育行政の一環として特色を付与したものがほとんどで、地域の人々が主導して設立するチャーター・スクールとは異質といえます。

似たようでありながら、少し違ったものに「公設民営学校」があります。日本ではこの春(2021年4月)に開校した大阪市立水都国際中・高等学校が初めての事例で、この学校の場合、公立校でありながらその運営を民間の「学校法人大阪YMCA」に委託しています。これは国家戦略特区の特例が適用されて認められたものです。特区による特例としては、学校法人ではなく株式会社が設立した学校が、2004年以降いくつか誕生していますが、大部分は通信制の学校です。多様性の一つと捉えることもできますが、大きな影響力を持つ存在にまではなっていません。

日本比較教育学会は機関誌『比較教育学研究』第61号(2020年7月)で、「自律的公設学校の国際比較」という特集を組んでいます。その冒頭で、特集のコーディネートをした中島千恵氏(京都文教大学)が、「調査を通して公立学校運営ビジネスの動きが想像以上に進展して」おり、「欧米で教育モデルが創造され、アジアがそのモデルを受容・購入するという構造が形成されつつある」(p.7)と述べています。まさに、新自由主義による市場原理が教育の世界に拡大しており、それゆえに特集が組まれたのだろうと思いますが、日本の場合、潜在的な拡大の可能性はありますが、今のところ大きな流れを引き起こす気配は感じられません。

なお、新自由主義のもう一つの側面である「地方への権限移譲」という点では、例えば、小泉政権の下で、2002年に①国庫補助金等の削減、②国から地方への財源移譲、③地方交付税改革、という「三位一体の改革」が推進されました。その結果として、学校教育関係でも、国の補助金が廃止されたり縮小されたりして、その一部が地方交付税で賄われるようになるということがありました。そのことも地方行政関係者や教育委員会関係者にとっては大問題だったかもしれませんが、学校の教員や保護者にとっては、あまり利害にかかわらないものと捉えられたようで、大きな反対運動も起こっていません。

なお、学校教育における「競争」という点では、「席次」や「受験競争」、「学校の序列化」といった、百年以上前から存在していた問題などもあり、それらを含めて根本から議論をする必要があると思っています。競争には、確かに学びへのインセンティブという要素もありますが、競争での勝ち負けへのこだわりは、学ぶことの本当の意味を見失わせることになりかねません。社会の変化が著しい中で、青少年期だけではなく、生涯を通して学び続けることが求められる生涯学習時代に移行しつつあります。そういった中での学びは、充実した「生」を重視する方向へと進むはずで、勝ち負けにこだわる「競争」は、学びへのインセンティブとしての役割は薄れていくのではないでしょうか。

新自由主義と「規制強化」

これまで述べたことからは、1980年代以降の主要国に蔓延し、様々な政策に大きな影響を及ぼしてきた新自由主義も、日本の学校教育にはそれほどの影響を与えなかったと受け取られるかもしれません。新自由主義的な教育改革とは異なった、学習者の主体性を重視する新たな教育改革の方向に歩み出しているようにも感じています。

しかし、実は、今回のテーマである「教育改革と教員の多忙・疲弊」という点では、新自由主義を基調とする国政の運営が大いに関わっていると見ています。そのことを理解していただくには、「新自由主義の本質」に立ち返る必要がありますので、少しお付き合いください。

新自由主義は市場原理を最優先する考え方で、それまで政府が担っていた役割を民間に委ねたりすることで無駄な支出を削減して国家財政のバランスの取れた「小さな国家」を目指すもの、と教えられてきました。また、市場が活発に機能するには「規制緩和」が不可欠とも言われてきました。そのためか「小さな国家」であれば、国家の果たす役割も小さくなり、予算規模も膨張しないで済むし、様々な規制が緩和されて誰もが自由度の拡大による恩恵を受けることができるようになる思い込みたくなりますが、現実にはまったく違った姿が展開されています。

下のグラフから明らかなように、平成2年すなわち1990年頃から、つまり新自由主義的な政策が本格化する頃から日本の一般会計は税収が伸び悩み、歳出はどんどん膨張し、その差を赤字国債の発行で補填するという姿になっています。この30年間の歴代政権は財政健全化を謳いながら税収を大幅に上回る支出を続けてきました。その結果、借金総額を人口一人当たりで割るとほぼ1000万円にまでに膨らんでいます。到底「小さな国家」とは言えません。

http://財政に関する資料 : 財務省 (mof.go.jp)

また、教育学者の藤田英典氏は、主要新聞に掲載された「政治主導」に関する記事の件数を調べ、新自由主義政権の活動が活発化する1990年以降、「政治主導」についての記事が急増していることを明らかにしています。教育行政においても、臨時教育審議会以降も、教育改革国民会議、教育再生会議、教育再生実行会議といった首相直属の会議体が、教育改革を促す様々な提案をし、その方針に沿った具体案が中教審、文科省から発出されるスタイルが定着しています。しかし、それらの基本的な方向性は新自由主義の基本をされる「規制緩和」ではなくむしろ「規制強化」であって、しかも様々な提案が矢継ぎ早に繰り出されるために、それらが教職員の多忙や疲弊の一因となっていると思われます。

ではなぜ、新自由主義政権の下で、教育行政に対する政治主導や政治介入が強まり、規制強化が進むのでしょうか。新自由主義の根本をなす「市場原理主義」において何が重視されているのかを探っていくと少しずつ謎が解けていきます。

「市場原理主義」において、最優先で優遇され、保護される対象は、市場での取引の可能な私有財産であって、社会が共有する財産や社会全体にとって価値を持つものは、仮に貨幣価値で表すことができたとしても、基本的には除外されます。また、市場での取引が妨害されたり機能不全に陥ったりしないようにしなければならないという名目から、政府はより強い力を行使する権限を求めます。その結果として、場合によっては高圧的な行政指導や「規制強化」がなされたりします。

例えば、農地や山林が持つ環境面での価値、あるいは保水機能による防災的な価値のように社会全体が享受している価値などは見過ごされがちです。市場で貨幣に換算できる価値ばかりを重視して農地や山林の価値は低いとみなされて、結果的に農村の疲弊をもたらすような農産物の自由化が、消費者に安価なものを低居できるという名目のもとで推進されています。

学校教育という次の世代を育むという社会全体にとって不可欠な制度も、教育の果たす深い役割や子どもたちを育てることの難しさに対する理解が不十分なまま、市場原理主義最優先によって、「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」と捻じ曲げられてきました。

この30年間で、事務的な作業も精神的な重圧感も増大した、というのが長年教職を担ってきた先生方の共通の感想であろうと思います。「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」という新自由主義的な要求が、政権から文科省経由で教育委員会へ、教育委員会から学校へ、そして教職員へと降りてくるようになったことが、その大きな原因と感じていますが、そこには、学校が次世代を育んで社会を持続可能なものにするという社会全体にとって価値に対する尊重する意識が欠落しています。

宇沢弘文氏の「社会的共通資本」と学校

前述の「社会が共有する財産や社会全体にとって価値を持つもの」のことを、経済学者の故宇沢弘文氏は「社会的共通資本」と言っています。宇沢氏は多くの著作でこの「社会的共通資本」の重要性を述べていますが、以下に重要な著作を集成した『宇沢弘文傑作論文全ファイル』(東洋経済、2016年)から数か所を引用します。

社会的共通資本は、一つの国ないし社会が、自然環境と調和し,すぐれた文化的水準を維持しながら、持続的なかたちで経済的な活動を営み、安定的な社会を具現するための社会的安定化装置といってもよいと思います。(p.54)

社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる。大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー、そして教育、医療、司法、金融制度などの制度資本が社会的共通資本の重要な構成要素である。(p.412)

・・日本社会はいま、戦後60年を通じて最大の危機を迎えている。日本では、市場原理主義が、経済の分野だけでなく、医療や教育という社会的共通資本の核心にまで、その悪魔の手を伸ばしつつあるからである。市場原理主義の精神に則って、医療、教育の規制緩和、効率化の名のもとに、実質的には官僚的管理を極端な形に推し進めてきた結果、現場の医療関係者や教師たちはいま極限的な状況に追いつめられている。(p.38)

宇沢氏の指摘は的を射ており、新自由主義的政権によって進められた政策の中には、この「社会的共通資本」の重要性が考慮されてないものが少なくありません。今回のコロナ禍でも、「社会的共通資本」としての医療に対する軽視がまかり通っています。医療の崩壊の危機が迫っていても、経済活動を抑制するような対応に躊躇して結局感染拡大を引き起こしたり、感性拡大の危険が当然視されている中でオリンピックを決行しようとしたりしています。

同様に、教育に対する前述の「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」という過剰な介入が、教員の多忙や疲弊を引き起こし、子どもたちに様々な異変を引き起こしたりしています。

「いやいや、自分たちの教育への介入は決して不適切なものではない。世界の主要先進諸国も同様の教育改革に取り組んでいる」と抗弁するかもしれません。教育においても「質保証と評価」が何より重要で、「成果・説明責任・エビデンス」を迫ることがよいパフォーマンスを生み出すと本気で信じ込んでいるのかもしれません。しかし、1990年以降、世界的に新自由主義的な教育改革が進められたのに対して、PISA調査でも常に好成績を示してきたフィンランドがそれとは正反対の教育実践を続けてきたことが、Finnish Lessonsという本に描出されています。そこで展開されている指摘は説得力に富み、教育という社会的共通資本に対する新自由主義的な介入を正当とする主張こそが、エビデンスに欠ける思い込みと確信させるものがあります。

教育を社会的共通資本と捉えた場合に、学校教育はどのようなものであるべきか、という視点は、「未来の学校教育」の姿を描くうえで非常に重要ですので、次回に改めて話題に挙げるつもりです。

Finnish Lessonsが示す新自由主義的教育改革とフィンランドの教育の対比

Finnish Lessonsを著したPasi Sahlberg(パシ・サールベリ)氏は、フィンランドで教職に携わる傍ら教育省の専門能力開発戦略を統率したりしており、その後、フィンランドを離れて世界銀行で要職に就いて、世界各国の教育事情を熟知するにいたった人です。いわばフィンランドの内側と外側の両方の世界の教育事情に熟知しているSahlber氏が2011年に刊行したFinnish Lessonsでは、世界的に進められていた教育改革を“Global educational reform movement (=GERM:英語の”germ”には「病原菌」という意味もあります)と呼び、フィンランドが進めてきた教育とどのように違っているかを明快に示しています。両者の違いはFinnish Lessonsの中でも対照表の形で簡略に示しており、それを澤野由紀子氏(聖心女子大学)が『改訂版 海外の教育改革』(坂野慎二、藤田晃之編、放送大学教育振興会、2021年3月)の中で日本語に訳出して紹介しています。

ただし、澤野氏が訳出したのは、2011年に刊行されたFinnish Lessonsに掲載された対照表で、2015年に刊行された改訂版Finnish Lessons 2.0では、項目数としては5つで変わっていませんが、取り上げている中身が一部差し替えられたり、順番がかえられたりしています。そこで、以下では、Finnish Lessons 2.0に掲載された対照表を訳出し、本文の記述に基づいて若干の補足説明を加えたいと思います。なお、2021年1月にはLessons 3.0が刊行されており、発注しているのですが、まだ入手できていません。入手できましたら改めて少し丁寧に紹介してみたいと思っています。

グローバル教育改革運動 (GERM)フィンランド・モデル
学校間の競争 根底にある仮説は、競争が市場メカニズムとして機能し、最終的には質と生産性とサービスの向上をもたらすということ。公立学校についてもチャーター・スクール、フリースクール、インデペンデント・スクール、私立学校と入学者獲得で競い合うことで、最終的に教育と学習も改善すると想定。学校間のコラボレーション 根底にある仮説は、人々を教育するということは協働的なプロセスであり、学校間での協力、ネットワーク、アイデアの共有は、最終的には教育の質を高めるということ。したがって学校が協力し合うことで、互いに助け合い、教師が教室で協力の文化を創造するのを助けることになると想定。
スタンダード化された学習 すべての学校、教師、および生徒の質と公平性の向上のために、明確かつ高度で、一元的に規定されたパフォーマンス目標を設定する。 このことが、外部で設計されたカリキュラムを通して、測定とデータの一貫した共通の基準を確保しうる、スタンダード化された教育に導くことになる。個人に対応した学び 学校をベースとするカリキュラム策定のために、明確ではあるが柔軟な全国的枠組みを設定する。 すべての人に対応した学習機会を創出する最良の方法を見つけるために、国の目標に対する学校をベースとした個別の解決策を奨励する。 特別な教育ニーズのある人には個別の学習計画を使用する。
リテラシーと計算能力に焦点を当てる 読み書き、数学、自然科学の基本的な知識とスキルが、教育改革の主要なターゲットとなる。 通常、これらの科目の指導時間は、(芸術や音楽などの)他の科目の時間を削って増加させる。全体としての子どもに焦点を当てる 教育と学習は、個人の人格、道徳的特性、創造性、知識、倫理、スキルの成長のすべての側面に平等な価値を与えるような、深く幅広い学びに焦点を当てる。 学校教育の目的は、それぞれの児童生徒の生来の能力(talent)を見つけることにある。
テストベースの説明責任 学校の成績と生徒の成績の向上は、昇進、検査、そして最終的には学校や教師に対する報酬のプロセスと密接に関係する。 教師の給与と学校の予算は、生徒のテストの点数によって決まる。 制裁措置には、多くの場合、解雇や学校の閉鎖が含まれる。 国勢調査に基づく児童生徒の評価とデータは、政策立案に情報を提供するために使用される。信頼に基づく責任 生徒にとって何が最善かを判断する際に、教師と校長の専門性を尊重するという、責任と信頼の文化を教育システム内に徐々に構築している。 失敗したり取り残されたりするリスクのある学校や生徒に、資源と支援が提供される。政策策定に情報を提供するために、標本調査に基づいた学生評価とテーマ別の調査が使用される。
学校選択 基本的な前提は、家族のニーズにより良く応えるために学校間の健全な競争を奨励しつつも、子どもの教育を選択する自由が保護者に与えられなければならないということ。理想的には、公立であろうと私立であろうと、保護者は子供の教育のために確保された公的資金を使用して、自分に最適な学校を選択できるべきである。  結果の公平性 基本的な前提は、すべての子どもが学校での教育の成功について平等な見通しを持つべきであるということ。学校での学習は子どもの家庭の背景と、関連する要因に強く影響されるので、不平等に対処するための実際のニーズに応じた資金が学校に提供されることが、結果の公平には必要である。学校の選択はしばしば結果の不公平を増大させる分離を引き起こす。
表4-1 グローバル教育改革運動とフィンランドの教育改革モデル(Pasi SahlbergのFinnish Lessons 2.0、p.149-150に掲載された対照表を訳出)

澤野氏が訳出したFinnish Lessonsの最初のバージョンと上記の第2のバージョンで大きく変わったのは、一番上の「学校間の競争」と「学校間のコラボレーション」の対比が加わった点で、最初のバージョンで4番目に取り上げられていた「市場原理による改革理念の借用」と「過去から学びイノベーションを主導する」が削除されています。参考までに、削除された部分の澤野氏の訳出(『改訂版 海外の教育改革』、p.126)を以下に引用します。

市場原理による改革理念の借用
・教育の変化の源泉は、法律や国のプログラムを通して学校にもたらされた企業の世界の経営と管理のモデルである。このような借用は学校と地方の教育システムを私企業の操業の論理に導く。
過去から学びイノベーションを主導する
・教育においては、教師の専門的役割や生徒との関係のような伝統的教育学的価値を高く評価する。 ・学校改善の主な源泉は、良いことが証明されている過去の教育実践である。

まず、この差し替えられた部分について考えてみたいと思います。「市場原理」という言葉は、新しく加わった「学校間の競争」にも書かれています。あくまでも推測ですが、文中にある「企業の世界の経営と管理のモデル」や「私企業の操業の論理」が変質してきていることをSahlberg氏が自覚し、そのままの記述では誤解を招くと感じたからではないでしょうか。かつての製造業中心の経済から情報・流通が大きなウエイトを占める経済へ転換していること、また2006年にアナン国連事務総長が金融業界に「投資責任原則」を提唱し、それに呼応するかのようにヨーロッパを中心に「ESG投資(環境・社会・企業統治に責任を持つ企業への投資)」が広がり始めたことなどから、企業の経営モデルは競争や効率一辺倒からに変容しはじめています。環境や社会への貢献を重視したり、SDGsに協力する態度を鮮明にしている企業が急増しています。この差し替えは、そのようなことを敏感に感知した結果であろうと推測しています。第2バージョンの本文中には「政府は、学校間の競争、教育と学習のスタンダード化、懲罰的なテストベースの説明責任、情報不足のパフォーマンスベースの支払いなど、企業の世界からしばしば時代遅れで悪い管理モデル(outdated and bad management models from the corporate world)を採用しています。」(p.143)という、そのことを裏付けるような記述もみられます。

また「過去から学びイノベーションを主導する」については、過去の学校教育制度や教育方法などにも大きな欠点があり、特に「知識重視」の教育と決別して学習者の主体的な学びに移行する動きを適切なものと捉え、過去の教育を重視するのは適切ではないと考えるようになったのではないでしょうか。

一方、新たに加えた第一段目の「学校間の競争」は、Sahlberg氏が一貫して不適切としている市場原理による競争を、学校間の入学者獲得競争に焦点をあてたものです。本文中の説明個所では、Finnish Lessonsの最初のバージョン出版後の2013年にOECDが公表したPISA 2012 results: What makes schools successful? Resources, policies and practices (Vol. 4) が数か所で参考文献として挙げられています。このレポートを通して、ほかの国々で入学者獲得を巡って熾烈な学校間競争が展開されていることをより強く認識することになったことから加えられたと想像しています。

そのような世界的な潮流に対して、フィンランドでは、The National Board of Educationが1998年に示した「フィンランドの教育成果を評価するためのフレームワーク」と、 1998年に成立した教育に関する国内法によって、「現在の教育政策が学校間の協力を奨励 (current education policies encourage cooperation)」(p.176)していることにも言及していますが、学校間の協力がごく普通になされていることから、「学校間の競争」との対比で「学校間のコラボレーション」を第1段目に加えたと推測しています。

2段目の「スタンダード化された学習」について、Sahlberg氏は、結果に対する評価に基づく教育改革が1980年代に普及し、1990年代にスタンダードに基づく教育政策が各国で実施されていったことについて、「結果的には、学校、教師、学生に明確で十分に高いパフォーマンス基準を設定することで、望ましい結果の質が必然的に向上するというbeliefが政策立案者や教育改革者の間で広く疑問の余地のないものと受け入れられた。」(p.145)と述べています。ここで用いられているのはbelief(=信仰、信念)であって、決してエビデンスではありません。ちなみに、残念ながら日本でも、「授業スタンダード」が特に2012年以降に各都道府県教育委員会から続々と発行されています。このスタンダード化については、根深いものがあると感じていますので、また別の機会に整理してみるつもりです。

3段目の「リテラシーと計算能力に焦点を当てる」教育について、OECDのPISA、IEAのTIMSS、PIRLSなどの国際的な学生評価が、各国の教育政策においてコア科目重視を促していると指摘するとともに、このことに触れた節の最後で、「人生と雇用で成功するには、好奇心が強く、他の人と協働する方法を知っており、困難な問題を解決でき、リーダーシップをマスターしている若者が求められている(to be successful in life and employment requires young people who are curious, who know how to work with other people, who can solve difficult problems, and who master leadership)」(p.146)と書いています。何となく、新自由主義的教育改革推進者に対する著者の「わかっていないなあ!」という溜息が伝わってきます。

この「リテラシーと計算能力に焦点を当てる」に対応したフィンランド・モデルの「全体としての子どもに焦点を当てる」欄の最後に、「学校教育の目的は、それぞれの児童生徒の生来の能力(talent)を見つけることにある。」と書かれています。この文に相当する記述は、最初のバージョンにはありませんでした。”talent”と書かれているので「英才教育?」と早とちりしかねません。しかし、この点については、1994年のナショナル・カリキュラムが、ハワード・ガードナーの多重知能理論の影響を受けてたことで、「学校教育がすべての生徒に精神のあらゆる側面を発達させる機会を提供しなければならないことを強調している」(p.168)と述べて、フィンランドの教育システムでは、”talent”をより広い定義で捉えていることを述べています。

4段目の「テストベースの説明責任」と「信頼に基づく責任」の対比は、新自由主義の「成果・説明責任・エビデンス」を振りかざす学校教育介入が顕著に現れている部分で、当然ながらSahlberg氏は随所で批判を展開しています。そして、教育学や教育理論の最先進国であるアメリカ合衆国で、フィンランドで実践されているような教育が大規模に展開されてない理由として「合衆国の学校の業務は官僚機構、テストベースの説明責任、および競争によって大いに操られているため、学校はこの厄介な状況のもとで、強制されていることを単に行っている可能性がある」(p.170)という推測を述べています。

5段目に書かれている「学校選択」と「結果の公平性」は、一見すると対応してないような印象を受けます。学校選択は不公平を拡大するものであるのに対して、フィンランドは結果の公平を目指してきたことを強調したかったのであろうと思います。学校選択を進めることが様々な弊害を生み出すことは明白ですが、教育の需要者がより優れた学校への入学を求め、それをビジネスチャンスとして需要者の希望に沿うような学校を提供しようとする動きはどのようにすれば制御できるのでしょうか。

上記の表に書かれた「グローバル教育改革運動とフィンランドの教育改革モデルの対比」は、表層に現れたわかりやすい顕著な違いが列挙されています。しかし、Finnish Lessons2.0全体を通して読んでいくと、よりよい学校教育の構築に向けて長年、地道な努力を積み重ねるとともに、市場メカニズムに基づく安易な誘惑に対して、その都度、聡明な判断がなされてきたことを示す事例が多数盛り込まれています。フィンランド人の思慮深い国民性にも感心させられた次第です。

今回のまとめ

教員の多忙と疲弊の原因を探るために、今回は新自由主義に焦点を当てて検討してみました。最初の方でも述べたように、社会の変化がスピードアップしている今日、社会の変化に適切に対応する教育改革は必要なことです。Sahlberg氏がFinnish Lessons 2.0において最初のバージョンの記述の一部を削除したように、伝統的な教育にも様々な欠点があり、それらと決別するための教育改革は必要です。今回の学習指導要領に盛られた「持続可能な社会の創り手」や「主体的・対話的で深い学び」、あるいは教科横断的な取り組みを促す「カリキュラムマネジメント」の実現は、未来の社会に生きる子どもたちを育む学校教育に相応しいものと捉えています。

首相直属の会議体から矢継ぎ早に繰り出される改革の提案も、社会の変化のスピードを考えると、決して早すぎるとは言えないかもしれません。また、改革の方向性についても、妥当と感じるものは少なくありません。ただし、良かれと思っての提案だったかもしれませんが、不適切なものも確実に存在してきました。多分に新自由主義的教育改革が内包されており、Sahlberg氏が子どもたちにとって決してプラスになっていないと指摘する「世界的な教育改革運動(GERM)」に当てはまる提案もなされてきました。また、宇沢弘文氏が重視する社会的共通資本としての教育という視点が希薄な提案も混じっています。

総体として、日本の学校教育改革を振り返ると、学校選択や民営化に突っ走ろうとする動きに対して文科省や自治体自身は、かなり抑制的な判断・態度を示してきたと思います。しかしながら、市場経済以外の側面に対してはむしろ「規制強化」を推し進めるという新自由主義信奉者集団の介入に対しては、抑制機能はあまり働いているとは言えません。新自由主義信奉者集団の学校教育への介入が、学校や教員への「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」という圧力となり、教員の多忙や疲弊をもたらす大きな要因になっています。

では、どうすればよいのでしょうか。次回は、少し巨視的な、大げさに言えば人類史的な観点から学校教育のあるべき姿を構想してみるつもりです。

2021年4月26日

教育改革と教員養成制度のズレ

教育改革に大きな影響を及ぼしている集団は複数

前回述べたように、日本における近年の学校教育改革には、以下の4つの大きな要因が存在すると捉えています。

①新たな教育課題の誕生

②教育方法の主流の変化

③学校と地域との関係の変化

④児童生徒や保護者の多様化

これらへの対応のための様々な改革が矢継ぎ早に打ち出されてきており、その次々と改革に迫られる感覚自身が教員を疲弊させていることは否定できません。新たに導入した仕組みが不適切であったり不十分であったり、あるいは従来と違ったやり方になじめなかったり、うまくいかなかったりと感じれば、落胆や疲労感につながることでしょう。

しかし、日本の今日の教育改革は、社会の急速で大規模な変化に対応する世界全体の教育改革と同じ方向性をもつもので、基本的には肯定的に捉えるべきものであると捉えています。教育改革をストップさせることは、学校が時代に取り残され、存在する意味を損ないかねません。150年前に誕生した学校は、青少年が社会に出る前段階に一定の知識や技能を習得させることが大きな役割でした。しかし、国際化と情報化と長寿化などの社会の変化によって、学校はあらゆる年代の人が生涯を通して学び続ける場へと変貌しようとしています。そして、その過渡期がまさに現在であって、学校教育改革をストップさせ、過去の学校の姿にとどめようとすることは、社会の変化がどんどん進む中で、事態を一層悪化させることにならざるを得ません。

教育改革を受け入れながらも、教員の過重労働や疲弊を避ける道筋を見出せないものでしょうか。

『教員という仕事 なぜ「ブラック化」したのか』を読みながら、「教育改革」にしろ「教員改革」にしろ、文科省から一方的に発されて、教育現場に押し付けられ、それが教員の過剰労働や疲弊に繋がっている、と朝比奈氏が捉えているような印象を受けました。そのように考えるのも仕方のない面があります。例えば、大学の教職課程履修者や教員採用試験受験者、あるいは現職の教育関係者を主たる購読者と想定している『現代の教育改革』(徳永保編著、ミネルヴァ書房、2019年)では、教育改革について「社会と社会を取り巻く環境の変化に対して、学校教育がその社会的責務を果たせるよう、教育の内容、在り方と関連する制度を一体的に変化させようとする中央政府あるいは地方政府の試みである」(p.4)と書いています。中央政府や地方政府において教育行政を主管するのは文部科学省や教育委員会ですから、不適切と感じる「教育改革」に対する矛先が、文科省や教育委員会に向かうのは無理からぬところです。

しかし、40年以上にわたって大学の教職課程という場で教員養成に携わる間に、「この改革は時代に逆行している」「この制度導入は本来の趣旨に矛盾しており弊害の方が大きい」「この審査は恣意的だ」など、方針の一貫性のなさを感じたり、もろに影響を受けてにがい思いしてきたりしました。そのような経験から、実は文科省や教育委員会、あるいは中央教育審議会の背後に、自分たちにとって好都合な学校教育にしようとする集団、改革の進行によって既得権益を奪われると感じている集団、この機に乗じて一儲けしようと企んでいる集団など、あれこれと改革を捻じ曲げたり足を引っ張ったりする集団が複数存在することを理解するようになりました。「教育改革」に大きな影響を及ぼしている複数の集団の思惑が、それぞれ異なっているため、結果的に改革に向けた方針に一貫性がなくなっています。

教員の疲弊についても、その問題点究明に当たっては、どの集団がどのような意図で圧力をかけた結果であるのかを、少し丁寧に見ていく必要があります。今回は、そのような複数の集団のうち、教員養成制度に焦点を当てて、そこに大きな影響を与えている集団から見ていきたいと思います。

「教職課程における41年間を振り返る」

まず、筆者が1年少し前に『学習院大学教職課程年報』第6号に寄稿した「教職課程における41年を振り返る」という文章の冒頭部分を少々長いのですが再録します。(本来はイタリックで表示すべきでしょうが、読みやすさを優先して小見出しのみイタリックにします。)

「不動如山」

 1979年に学習院大学の教職課程専任教員として着任し、この2020年3月末で41年が経過する。一般大学でも教員免許を取得できる「開放制教員養成制度」を、1949年5月の教育職員免許法成立から起算すると、70年以上が経過したことになる。したがって、開放制教員養成制度の70年の歴史のうち、7分の4以上を自分の目で見てきたことになる。ちなみに、この1949年は、4月に新制の学習院大学が誕生し、8月に筆者自身が誕生し、10月に中華人民共和国が誕生した年である。

 長年、教職課程に身を置いてきたうえでの率直な印象を一言で述べると、過去70年の日本の教員養成制度は、武田信玄の「風林火山」の最後の一節「不動如山(動かざること山のごとし)」がピッタリであろう。この一節は、一般には、よい意味で使われると思うが、この70年間の世界や社会の変化を考えると、「いささか時代遅れ」で困ったものだ、という意味合いが強い。

 中華人民共和国の場合は、1949年の建国後、毛沢東による土地改革から大躍進運動の失敗、文化大革命を経て1978年からの鄧小平による改革開放政策、そして今日の世界最大の工業生産国へと大きな変化をしている。世界全体の大きな流れを見ても、第二次世界大戦後にアジア・アフリカで植民地が続々と独立し、1960年代以降は産業や科学技術の高度化が進展し、1970年代以降は国際的な「ヒト・モノ・カネ」の動きが活発になった。1990年前後には米ソの冷戦が終結し、その後に猛烈な情報化の飛躍的発展が起こっている。近い将来、AI搭載のロボットに取って替られる職業も少なくないという。

教員免許制度の必然性に対する再検証

 このような世界や社会の大きな変化にもかかわらず、日本の教員養成制度の根幹はほとんど変わっていない。初等教員免許と中等教員免許の分離、中高教育の教科別の免許制度、教科に関する科目と教職に関する科目の2本柱、教育実習制度、教育委員会発行の免許状の大学卒業時取得、都道府県(+政令指定都市)単位の教員採用試験、教員採用試験合格者の卒業直後からの授業担当、設置認可申請における膨大な申請書類と独善的で不透明な審議会の決定、等々。

 「えっ、それらは当たり前で、変えなくてもいいんじゃない?」と思う向きも多いであろうが、そうでなければならない必然性のあるものは少ない。時代が変化する中で、当然変化していいのに変わってないものも多い。

 例えば、初等教員免許と中等教員免許の分離。少子化に伴う児童生徒数の減少の中で、小中統合の圧力が高まり、今後小中一貫校が急増するのは必然で、「義務教育学校」という枠組みも広がっている。しかし、「義務教育学校免許」は話題には上がったが、立ち消えになったままである。

 例えば、教科別の中等教員免許。新学習指導要領では、カリキュラム・マネジメントという名称の下で教科横断的な学びを求めている。様々な教育関係の答申でも「統合的・総合的」思考の重要性が指摘され、さらに今後は、教科の枠組みを超越したプロジェクト型の学習が重要になると予測されている。それにもかかわらず、人材の大量生産のための基本的な枠組みとし140年前に作られた教科の枠組みが、今日も不動の地位を確保している。中高の教員免許について、教科ごとの免許以外の新しいカテゴリーの免許を発行しようという動きは皆無に近い。

 そして、そもそもの教員免許制度。(以下略)

なぜ教員養成制度は変わらないのかー教科のエゴ

過去70余年の間に、社会が大きく変わり、学校に求められているものが変わり、児童生徒や保護者の多様化が進んだのですが、教員養成制度の根幹をなす教員免許制度が社会の変化に対応する動きをてこなかった、そのことにあきれ果てている思いを率直に書いたものです。

「教育改革」を促す要因の①として取り上げた「新たな教育課題の誕生」に対しても、新たな免許教科として追加したのは高等学校の「情報」免許ぐらいで、環境教育についても国際理解教育についても、小中学校の情報教育も、既存の教科の枠組みの中で指導することを求めています。しかもそれでいて、教員免許取得段階で新たな教育課題を必修にすることもなく、また、新たな教育課題についてのきっちりとした研修もほとんどなされない、というのが実態です。大部分は「現場任せ」と言っても過言ではない状態です。結局、教員に過重な負担を強いる形で新たな教育課題が学校に押しつけられることになっています。

新たな教育課題が学校に導入される際に、「足し算」になることにも触れておきます。グローバル化に対応するために、学習指導要領の2回の改訂で、「外国語活動(英語活動)」と教科としての「外国語(英語)」が導入されました。その結果、小学校5年生の教科別の年間の授業時間数がどうなったかを示したものが下の表です。総授業時間数は35時間ずつ、つまり、一週間の時間割の一つの枠に相当する分が2回にわたって増えています。

「外国語活動」あるいは教科「外国語」が導入された際に、既存の教科が時間数を削減して総時間数を増やさないようにするということは行われていません。新たな教育課題が誕生した際に、極力新たな教科を増やさないようにして対応したことにも、小学校における「外国語活動」や教科「外国語」の導入に際して既存教科が担当時間数を削減しなかったことにも、実は同じ力が働いていると推測しています。それは、各教科集団がそれぞれの教科の配当時間数を減らさないように様々な手段を用いて文科省に、あるいは中教審に圧力をかけた結果と思われます。ゆとり教育による「学力低下論」を利用して、各教科集団が既得権益を必死に守ろうとした、いわば「教科のエゴ」によるものとみています。

ではなぜ、各教科集団は既得権益を必死に守ろうとするのでしょか。おそらく2つの恐怖があるからでしょう。一つは①の「新たな教育課題の誕生」です。新たに誕生してきた教育課題のために授業時間を割いていくと、既存教科の配当時間が減少し、既存教科の重みが減少し、既存教科にまつわる既得権益が縮小するからです。もう一つは、「総合学習」や教科横断的な視点からの学習の拡大です。前回も触れたように、課題解決型の学習の重要性に対する認識が広がる中で各教科の独自性が薄れ、既存の教科は「基礎基本」の習得に限定されがちになります。

各教科の奥の深い面白さを伝えることが困難になる、それには何としても抵抗せざるを得ない、という思いは、長年教科教育に携わってきたのでよく理解できます。しかし、すべての学習者に対して、すべての学習者に配布される教科書を使って、すべての教科の奥の深い面白さを伝えることは、新たな教育課題が増大した今日では学習者に過重な負担を課すことになります。探究的な学習が主流になる中で、改めて教科における学習内容が重要であると気づくことは多々あるでしょう。そうであるならば、探究的な学習がきっかけとなって教科の学習内容に興味関心を抱いくようになった学習者を、奥の深い面白さに引き込むようなオンラインでの発信など、新たな伝達手段の開発が求められているのではないでしょうか。

なぜ教員養成制度は変わらないのかー旧師範系大学の守旧姿勢

教員養成制度が変わらない理由として「教科のエゴ」について書いてきましたが、実は既得権益を必死で守ろうとしているのは、各教科集団というよりも、旧師範系の教員養成大学ではないかと感じています。

そのことを感じさせた2つの例を以下に紹介します。

新しいところから始めると、2018年度の教職課程の再課程認定申請時に求められた「教職課程コアカリキュラム」に沿ったシラバス提示があります。「コアカリキュラム」とは、本来は、「学習者の生活上の問題を解決するための学習を中核におき、その周辺に基礎的な知識・技術を学習する課程を配する教育課程」(『大辞林』の記述)で、『日本国語大辞典』では「一九三〇年代のアメリカで、社会連帯性を学習させるためにとられたもので、問題解決を中心とする総合学習を特色とする。」という補足説明もなされています。それに対して、2017年11月に教職課程コアカリキュラムの在り方に関する検討会がまとめた報告書「教職課程コアカリキュラム」では、「大学が教職課程を編成するに当たり参考とする指針」で、「教職課程の質的水準に寄与する」ためのものとされていました。

報告書は、一応「教職課程コアカリキュラムは、地域や学校現場のニーズや大学の自主性や独自性が教職課程に反映されることを阻害するものではなく、むしろ、それを尊重したうえで・・」と書かれているのですが、国や文科省に対しては、「各大学の教職課程の質保証につながるよう、教職課程の審査・認定および実地視察においては、教職課程コアカリキュラムが活用されること」を求めました。そして、実際に2018年度の再課程認定申請時に求められたのは「教職に関する科目のシラバスにおいて、教職課程コアカリキュラムの指針に盛られた科目の「全体目標」、数項目の「一般目標」、さらに各項目に対応した複数の具体的な「到達目標」が反映されたものとなっているかどうかがチェックされ、そうなってないものは修正を求められました。

このような「教職課程コアカリキュラム」は「大学の自主性や独自性」を抹殺するもので、実際にその指針に沿った授業の展開は、教職の醍醐味や躍動感などを受講者に実感させるものとは正反対のものになる可能性が大きく、改悪以外の何物でもありません。ではなぜこのような改悪が行われるのか。その規制によって誰が得をするのかを考えると一目瞭然です。時代遅れの型にはまった指導方法の延命を願っている組織の圧力です。

もう一つの事例は、教科教育の担当者に関するものです。もう10年ほど前になるかもしれませんが、文科省からの通達で、「教科教育法(現在は教科の指導法に関する科目)」の担当者については、教科教育についての5年以内の業績(=論文)が不可欠との教員審査基準が、厳格に適用されるようになりました。

「まあ、それぐらいは妥当かな」と思う方も多いかもしれませんが、これも大きな問題を含んでいます。かつて私が在籍した私立大学の教職課程では、教科教育法を担当していただいていた先生方の多くは、国文学科や史学科、数学科等の卒業生で、中高の現場で教員経験をしていた方々でした。しかし「教科教育」の専門家でないために、関係する教科教育法に関する論文の業績がなく、担当してもらえなくなって教科教育法の担当から外さざるを得なくなっていきました。教科教育において学生に伝えてほしいのは、学習指導要領にはこんなことが書かれているとか表層的な指導法ではなく、それぞれの教科の奥の深い魅力です。社会科教育に即して言えば、「教職課程コアカリキュラム」の「各教科の指導法」に書かれた到達目標に忠実な授業をする以上に、例えばユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』やSDGsの17目標と169のターゲットなどを教材に用いて、今の中高生が学ぶべきことしっかり伝えるにはどうしたらよいか、という問いを学生に発し、その解を見つけるために多くの時間とエネルギーを注ぐような授業の方が望ましいと感じています。しかし、それをやりにくくしているのが、「教職課程コアカリキュラム」といった規制や、教科教育の担当者に求める教科教育に関する論文の要求です。

特に「社会科教育法」の担当者については、もう一つ問題があります。「社会科教育法」の総括的な科目(本学では「社会科教育法1」)の担当者には地理的分野、歴史的分野、公民的分野の3分野それぞれについての教育法に関する研究業績を求めています。地理的分野、歴史的分野、公民的分野の3分野の教育法についての業績のある人は、おそらく国立の教員養成系大学で「社会科教育」を専攻した人に限定されるのではないでしょうか。このように本当に優れた教員を学校に送り出すこと以上に、旧師範系の大学の権益拡大志向と守旧意識が、今日の教員養成制度を時代遅れのものにしまっています。

このような経験から、前掲の「教職課程における41年間を振り返る」の締めくくりの部分では、以下のような少々荒っぽい記述をしています。ここではイタリックで表示して再掲します。

変化の激しい時代に対応できていない、今日の教員養成制度の姿には残念な思いを強くしている。そして、時代の変化に対応した適切な改革を阻止している既得権益固守集団に対しては、大きな憤りを感じている。

 筆者は、かつて学校法人学習院の企画部長として、学習院女子短期大学の4年制女子大学への改組転換に深くかかわった経験を持っている。また、文学部の8番目の学科として教育学科を立ち上げるための設置認可申請にも大いに関与してきた。その過程で、何ら具体的な説明もなく「業績不足」という一言で「不可」の烙印を押し、短期間のうちにのうちに代替候補者を提示するように、との指示を平気で繰り出す横暴を目にしてきた。そのような経験の中で、信じがたい独善的で横暴な審査がなぜまかり通るのについて、強い怒りを抱きながら考えてきた。そして、(一部略)古いシステムを固守することによって既得利権を手放したくないというあがきが根底に存在するという結論に達した。

 しかし、このような既得権益固守集団の横暴を看過していては、日本の教員養成制度は立ち遅れから脱することができず、取り返しのつかない事態を引き起こすと強く危惧し、定年退職を機に率直な思いを書き記すことにした次第である。

 これからの学校教育は、地域の方々やNPOといった学校外の人々と協働して次世代を育てていくという新しい段階に入ろうとしている。そういった新しい時代にふさわしい教員養成とはどのようなものであろうか。新しい時代に適合した制度の確立に向けて、今後は地域の教育を支援するNPOの立場から発言していきたい。(以下、略)

最大の問題はもっと別のところに

冒頭に紹介した『現代の教育改革』には、これまで書いてきたことを否定するような以下の記述があります。

・・行政改革に関連して学校教育の変革が議論される場合には、教育行政機関や教育関係者の既得権益のために間違った教育制度が維持されているような見解さえ示される。

しかし、・・・(p.4-5)

残念ながら、最後の「しかし・・」のあとに、上記のイタリック部分を完全に否定する根拠を示す記述はなく、「それらが導入された時点では、それ以前のものより良いものと認識され、実際にもそうであったと考えられる」という少しばかりずれた記述がなされています。批判があるのは知っているが、改革を行った時点ではそれが望ましいものであったと弁明したいようです。そもそもこの『現代の教育改革』は、帯にも書かれているように、「文部科学省現役・OB幹部職員の執筆」であって、これまで自らが関わってきた教育改革を否定的に捉えることはあり得ません。

しかし、特にこの部分の執筆者がどのような経歴を経てきた人であり、この『現代の教育改革』の執筆者陣がどのようなメンバーであるかを知れば、これまで書いてきたことを「なるほど、そういった構造があるのだ」と納得してもらえると思います。

この『現代の教育改革』の編著者であり、上記の引用文の執筆者は、1976年に文部省に入省、文科省の研究振興局長や高等教育局長を歴任し、2010年からは国立教育政策研究所所長、そして、2013年度からは教員養成系大学の頂点に立つ筑波大学の教育推進部教授となっています。そして共著者8人のうち現役の官僚でない4人のうち3人は文部官僚から国立や私立の大学に転身しています。このような転身(一般には「天下り」という言葉が使われていますが)をする可能性の大きい文部官僚の上層部が教育改革を主導しているという実態がある以上、「既得権益のために間違った教育制度が維持されている」ことを否定しても、説得力はありません。天下り先候補の意向を「忖度した」改革がなされるのは、必然の構造と言えます。

社会の変化に対応した「教育改革」が次々となされていく中で、教員養成制度が旧態依然とした姿のまま変わっていないこと、そしてそこに守旧派の教育関係者が関与していること、そしてそれらも結果的に教員の負担や疲弊を増大させている、という観点から、今回は、教員養成制度の実態の一端を紹介してきました。

しかし、実はこれまで述べてきたような既得権益保持のためにもっともらしい理屈をつけて「教育改悪」に加担してきた守旧勢力以上に、学校教育にはもっともっと大きな問題が存在しています。

次回以降は、そのことについて書いていきます。

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