学校教育とSDGs

2021年4月26日

教育改革と教員養成制度のズレ

教育改革に大きな影響を及ぼしている集団は複数

前回述べたように、日本における近年の学校教育改革には、以下の4つの大きな要因が存在すると捉えています。

①新たな教育課題の誕生

②教育方法の主流の変化

③学校と地域との関係の変化

④児童生徒や保護者の多様化

これらへの対応のための様々な改革が矢継ぎ早に打ち出されてきており、その次々と改革に迫られる感覚自身が教員を疲弊させていることは否定できません。新たに導入した仕組みが不適切であったり不十分であったり、あるいは従来と違ったやり方になじめなかったり、うまくいかなかったりと感じれば、落胆や疲労感につながることでしょう。

しかし、日本の今日の教育改革は、社会の急速で大規模な変化に対応する世界全体の教育改革と同じ方向性をもつもので、基本的には肯定的に捉えるべきものであると捉えています。教育改革をストップさせることは、学校が時代に取り残され、存在する意味を損ないかねません。150年前に誕生した学校は、青少年が社会に出る前段階に一定の知識や技能を習得させることが大きな役割でした。しかし、国際化と情報化と長寿化などの社会の変化によって、学校はあらゆる年代の人が生涯を通して学び続ける場へと変貌しようとしています。そして、その過渡期がまさに現在であって、学校教育改革をストップさせ、過去の学校の姿にとどめようとすることは、社会の変化がどんどん進む中で、事態を一層悪化させることにならざるを得ません。

教育改革を受け入れながらも、教員の過重労働や疲弊を避ける道筋を見出せないものでしょうか。

『教員という仕事 なぜ「ブラック化」したのか』を読みながら、「教育改革」にしろ「教員改革」にしろ、文科省から一方的に発されて、教育現場に押し付けられ、それが教員の過剰労働や疲弊に繋がっている、と朝比奈氏が捉えているような印象を受けました。そのように考えるのも仕方のない面があります。例えば、大学の教職課程履修者や教員採用試験受験者、あるいは現職の教育関係者を主たる購読者と想定している『現代の教育改革』(徳永保編著、ミネルヴァ書房、2019年)では、教育改革について「社会と社会を取り巻く環境の変化に対して、学校教育がその社会的責務を果たせるよう、教育の内容、在り方と関連する制度を一体的に変化させようとする中央政府あるいは地方政府の試みである」(p.4)と書いています。中央政府や地方政府において教育行政を主管するのは文部科学省や教育委員会ですから、不適切と感じる「教育改革」に対する矛先が、文科省や教育委員会に向かうのは無理からぬところです。

しかし、40年以上にわたって大学の教職課程という場で教員養成に携わる間に、「この改革は時代に逆行している」「この制度導入は本来の趣旨に矛盾しており弊害の方が大きい」「この審査は恣意的だ」など、方針の一貫性のなさを感じたり、もろに影響を受けてにがい思いしてきたりしました。そのような経験から、実は文科省や教育委員会、あるいは中央教育審議会の背後に、自分たちにとって好都合な学校教育にしようとする集団、改革の進行によって既得権益を奪われると感じている集団、この機に乗じて一儲けしようと企んでいる集団など、あれこれと改革を捻じ曲げたり足を引っ張ったりする集団が複数存在することを理解するようになりました。「教育改革」に大きな影響を及ぼしている複数の集団の思惑が、それぞれ異なっているため、結果的に改革に向けた方針に一貫性がなくなっています。

教員の疲弊についても、その問題点究明に当たっては、どの集団がどのような意図で圧力をかけた結果であるのかを、少し丁寧に見ていく必要があります。今回は、そのような複数の集団のうち、教員養成制度に焦点を当てて、そこに大きな影響を与えている集団から見ていきたいと思います。

「教職課程における41年間を振り返る」

まず、筆者が1年少し前に『学習院大学教職課程年報』第6号に寄稿した「教職課程における41年を振り返る」という文章の冒頭部分を少々長いのですが再録します。(本来はイタリックで表示すべきでしょうが、読みやすさを優先して小見出しのみイタリックにします。)

「不動如山」

 1979年に学習院大学の教職課程専任教員として着任し、この2020年3月末で41年が経過する。一般大学でも教員免許を取得できる「開放制教員養成制度」を、1949年5月の教育職員免許法成立から起算すると、70年以上が経過したことになる。したがって、開放制教員養成制度の70年の歴史のうち、7分の4以上を自分の目で見てきたことになる。ちなみに、この1949年は、4月に新制の学習院大学が誕生し、8月に筆者自身が誕生し、10月に中華人民共和国が誕生した年である。

 長年、教職課程に身を置いてきたうえでの率直な印象を一言で述べると、過去70年の日本の教員養成制度は、武田信玄の「風林火山」の最後の一節「不動如山(動かざること山のごとし)」がピッタリであろう。この一節は、一般には、よい意味で使われると思うが、この70年間の世界や社会の変化を考えると、「いささか時代遅れ」で困ったものだ、という意味合いが強い。

 中華人民共和国の場合は、1949年の建国後、毛沢東による土地改革から大躍進運動の失敗、文化大革命を経て1978年からの鄧小平による改革開放政策、そして今日の世界最大の工業生産国へと大きな変化をしている。世界全体の大きな流れを見ても、第二次世界大戦後にアジア・アフリカで植民地が続々と独立し、1960年代以降は産業や科学技術の高度化が進展し、1970年代以降は国際的な「ヒト・モノ・カネ」の動きが活発になった。1990年前後には米ソの冷戦が終結し、その後に猛烈な情報化の飛躍的発展が起こっている。近い将来、AI搭載のロボットに取って替られる職業も少なくないという。

教員免許制度の必然性に対する再検証

 このような世界や社会の大きな変化にもかかわらず、日本の教員養成制度の根幹はほとんど変わっていない。初等教員免許と中等教員免許の分離、中高教育の教科別の免許制度、教科に関する科目と教職に関する科目の2本柱、教育実習制度、教育委員会発行の免許状の大学卒業時取得、都道府県(+政令指定都市)単位の教員採用試験、教員採用試験合格者の卒業直後からの授業担当、設置認可申請における膨大な申請書類と独善的で不透明な審議会の決定、等々。

 「えっ、それらは当たり前で、変えなくてもいいんじゃない?」と思う向きも多いであろうが、そうでなければならない必然性のあるものは少ない。時代が変化する中で、当然変化していいのに変わってないものも多い。

 例えば、初等教員免許と中等教員免許の分離。少子化に伴う児童生徒数の減少の中で、小中統合の圧力が高まり、今後小中一貫校が急増するのは必然で、「義務教育学校」という枠組みも広がっている。しかし、「義務教育学校免許」は話題には上がったが、立ち消えになったままである。

 例えば、教科別の中等教員免許。新学習指導要領では、カリキュラム・マネジメントという名称の下で教科横断的な学びを求めている。様々な教育関係の答申でも「統合的・総合的」思考の重要性が指摘され、さらに今後は、教科の枠組みを超越したプロジェクト型の学習が重要になると予測されている。それにもかかわらず、人材の大量生産のための基本的な枠組みとし140年前に作られた教科の枠組みが、今日も不動の地位を確保している。中高の教員免許について、教科ごとの免許以外の新しいカテゴリーの免許を発行しようという動きは皆無に近い。

 そして、そもそもの教員免許制度。(以下略)

なぜ教員養成制度は変わらないのかー教科のエゴ

過去70余年の間に、社会が大きく変わり、学校に求められているものが変わり、児童生徒や保護者の多様化が進んだのですが、教員養成制度の根幹をなす教員免許制度が社会の変化に対応する動きをてこなかった、そのことにあきれ果てている思いを率直に書いたものです。

「教育改革」を促す要因の①として取り上げた「新たな教育課題の誕生」に対しても、新たな免許教科として追加したのは高等学校の「情報」免許ぐらいで、環境教育についても国際理解教育についても、小中学校の情報教育も、既存の教科の枠組みの中で指導することを求めています。しかもそれでいて、教員免許取得段階で新たな教育課題を必修にすることもなく、また、新たな教育課題についてのきっちりとした研修もほとんどなされない、というのが実態です。大部分は「現場任せ」と言っても過言ではない状態です。結局、教員に過重な負担を強いる形で新たな教育課題が学校に押しつけられることになっています。

新たな教育課題が学校に導入される際に、「足し算」になることにも触れておきます。グローバル化に対応するために、学習指導要領の2回の改訂で、「外国語活動(英語活動)」と教科としての「外国語(英語)」が導入されました。その結果、小学校5年生の教科別の年間の授業時間数がどうなったかを示したものが下の表です。総授業時間数は35時間ずつ、つまり、一週間の時間割の一つの枠に相当する分が2回にわたって増えています。

「外国語活動」あるいは教科「外国語」が導入された際に、既存の教科が時間数を削減して総時間数を増やさないようにするということは行われていません。新たな教育課題が誕生した際に、極力新たな教科を増やさないようにして対応したことにも、小学校における「外国語活動」や教科「外国語」の導入に際して既存教科が担当時間数を削減しなかったことにも、実は同じ力が働いていると推測しています。それは、各教科集団がそれぞれの教科の配当時間数を減らさないように様々な手段を用いて文科省に、あるいは中教審に圧力をかけた結果と思われます。ゆとり教育による「学力低下論」を利用して、各教科集団が既得権益を必死に守ろうとした、いわば「教科のエゴ」によるものとみています。

ではなぜ、各教科集団は既得権益を必死に守ろうとするのでしょか。おそらく2つの恐怖があるからでしょう。一つは①の「新たな教育課題の誕生」です。新たに誕生してきた教育課題のために授業時間を割いていくと、既存教科の配当時間が減少し、既存教科の重みが減少し、既存教科にまつわる既得権益が縮小するからです。もう一つは、「総合学習」や教科横断的な視点からの学習の拡大です。前回も触れたように、課題解決型の学習の重要性に対する認識が広がる中で各教科の独自性が薄れ、既存の教科は「基礎基本」の習得に限定されがちになります。

各教科の奥の深い面白さを伝えることが困難になる、それには何としても抵抗せざるを得ない、という思いは、長年教科教育に携わってきたのでよく理解できます。しかし、すべての学習者に対して、すべての学習者に配布される教科書を使って、すべての教科の奥の深い面白さを伝えることは、新たな教育課題が増大した今日では学習者に過重な負担を課すことになります。探究的な学習が主流になる中で、改めて教科における学習内容が重要であると気づくことは多々あるでしょう。そうであるならば、探究的な学習がきっかけとなって教科の学習内容に興味関心を抱いくようになった学習者を、奥の深い面白さに引き込むようなオンラインでの発信など、新たな伝達手段の開発が求められているのではないでしょうか。

なぜ教員養成制度は変わらないのかー旧師範系大学の守旧姿勢

教員養成制度が変わらない理由として「教科のエゴ」について書いてきましたが、実は既得権益を必死で守ろうとしているのは、各教科集団というよりも、旧師範系の教員養成大学ではないかと感じています。

そのことを感じさせた2つの例を以下に紹介します。

新しいところから始めると、2018年度の教職課程の再課程認定申請時に求められた「教職課程コアカリキュラム」に沿ったシラバス提示があります。「コアカリキュラム」とは、本来は、「学習者の生活上の問題を解決するための学習を中核におき、その周辺に基礎的な知識・技術を学習する課程を配する教育課程」(『大辞林』の記述)で、『日本国語大辞典』では「一九三〇年代のアメリカで、社会連帯性を学習させるためにとられたもので、問題解決を中心とする総合学習を特色とする。」という補足説明もなされています。それに対して、2017年11月に教職課程コアカリキュラムの在り方に関する検討会がまとめた報告書「教職課程コアカリキュラム」では、「大学が教職課程を編成するに当たり参考とする指針」で、「教職課程の質的水準に寄与する」ためのものとされていました。

報告書は、一応「教職課程コアカリキュラムは、地域や学校現場のニーズや大学の自主性や独自性が教職課程に反映されることを阻害するものではなく、むしろ、それを尊重したうえで・・」と書かれているのですが、国や文科省に対しては、「各大学の教職課程の質保証につながるよう、教職課程の審査・認定および実地視察においては、教職課程コアカリキュラムが活用されること」を求めました。そして、実際に2018年度の再課程認定申請時に求められたのは「教職に関する科目のシラバスにおいて、教職課程コアカリキュラムの指針に盛られた科目の「全体目標」、数項目の「一般目標」、さらに各項目に対応した複数の具体的な「到達目標」が反映されたものとなっているかどうかがチェックされ、そうなってないものは修正を求められました。

このような「教職課程コアカリキュラム」は「大学の自主性や独自性」を抹殺するもので、実際にその指針に沿った授業の展開は、教職の醍醐味や躍動感などを受講者に実感させるものとは正反対のものになる可能性が大きく、改悪以外の何物でもありません。ではなぜこのような改悪が行われるのか。その規制によって誰が得をするのかを考えると一目瞭然です。時代遅れの型にはまった指導方法の延命を願っている組織の圧力です。

もう一つの事例は、教科教育の担当者に関するものです。もう10年ほど前になるかもしれませんが、文科省からの通達で、「教科教育法(現在は教科の指導法に関する科目)」の担当者については、教科教育についての5年以内の業績(=論文)が不可欠との教員審査基準が、厳格に適用されるようになりました。

「まあ、それぐらいは妥当かな」と思う方も多いかもしれませんが、これも大きな問題を含んでいます。かつて私が在籍した私立大学の教職課程では、教科教育法を担当していただいていた先生方の多くは、国文学科や史学科、数学科等の卒業生で、中高の現場で教員経験をしていた方々でした。しかし「教科教育」の専門家でないために、関係する教科教育法に関する論文の業績がなく、担当してもらえなくなって教科教育法の担当から外さざるを得なくなっていきました。教科教育において学生に伝えてほしいのは、学習指導要領にはこんなことが書かれているとか表層的な指導法ではなく、それぞれの教科の奥の深い魅力です。社会科教育に即して言えば、「教職課程コアカリキュラム」の「各教科の指導法」に書かれた到達目標に忠実な授業をする以上に、例えばユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』やSDGsの17目標と169のターゲットなどを教材に用いて、今の中高生が学ぶべきことしっかり伝えるにはどうしたらよいか、という問いを学生に発し、その解を見つけるために多くの時間とエネルギーを注ぐような授業の方が望ましいと感じています。しかし、それをやりにくくしているのが、「教職課程コアカリキュラム」といった規制や、教科教育の担当者に求める教科教育に関する論文の要求です。

特に「社会科教育法」の担当者については、もう一つ問題があります。「社会科教育法」の総括的な科目(本学では「社会科教育法1」)の担当者には地理的分野、歴史的分野、公民的分野の3分野それぞれについての教育法に関する研究業績を求めています。地理的分野、歴史的分野、公民的分野の3分野の教育法についての業績のある人は、おそらく国立の教員養成系大学で「社会科教育」を専攻した人に限定されるのではないでしょうか。このように本当に優れた教員を学校に送り出すこと以上に、旧師範系の大学の権益拡大志向と守旧意識が、今日の教員養成制度を時代遅れのものにしまっています。

このような経験から、前掲の「教職課程における41年間を振り返る」の締めくくりの部分では、以下のような少々荒っぽい記述をしています。ここではイタリックで表示して再掲します。

変化の激しい時代に対応できていない、今日の教員養成制度の姿には残念な思いを強くしている。そして、時代の変化に対応した適切な改革を阻止している既得権益固守集団に対しては、大きな憤りを感じている。

 筆者は、かつて学校法人学習院の企画部長として、学習院女子短期大学の4年制女子大学への改組転換に深くかかわった経験を持っている。また、文学部の8番目の学科として教育学科を立ち上げるための設置認可申請にも大いに関与してきた。その過程で、何ら具体的な説明もなく「業績不足」という一言で「不可」の烙印を押し、短期間のうちにのうちに代替候補者を提示するように、との指示を平気で繰り出す横暴を目にしてきた。そのような経験の中で、信じがたい独善的で横暴な審査がなぜまかり通るのについて、強い怒りを抱きながら考えてきた。そして、(一部略)古いシステムを固守することによって既得利権を手放したくないというあがきが根底に存在するという結論に達した。

 しかし、このような既得権益固守集団の横暴を看過していては、日本の教員養成制度は立ち遅れから脱することができず、取り返しのつかない事態を引き起こすと強く危惧し、定年退職を機に率直な思いを書き記すことにした次第である。

 これからの学校教育は、地域の方々やNPOといった学校外の人々と協働して次世代を育てていくという新しい段階に入ろうとしている。そういった新しい時代にふさわしい教員養成とはどのようなものであろうか。新しい時代に適合した制度の確立に向けて、今後は地域の教育を支援するNPOの立場から発言していきたい。(以下、略)

最大の問題はもっと別のところに

冒頭に紹介した『現代の教育改革』には、これまで書いてきたことを否定するような以下の記述があります。

・・行政改革に関連して学校教育の変革が議論される場合には、教育行政機関や教育関係者の既得権益のために間違った教育制度が維持されているような見解さえ示される。

しかし、・・・(p.4-5)

残念ながら、最後の「しかし・・」のあとに、上記のイタリック部分を完全に否定する根拠を示す記述はなく、「それらが導入された時点では、それ以前のものより良いものと認識され、実際にもそうであったと考えられる」という少しばかりずれた記述がなされています。批判があるのは知っているが、改革を行った時点ではそれが望ましいものであったと弁明したいようです。そもそもこの『現代の教育改革』は、帯にも書かれているように、「文部科学省現役・OB幹部職員の執筆」であって、これまで自らが関わってきた教育改革を否定的に捉えることはあり得ません。

しかし、特にこの部分の執筆者がどのような経歴を経てきた人であり、この『現代の教育改革』の執筆者陣がどのようなメンバーであるかを知れば、これまで書いてきたことを「なるほど、そういった構造があるのだ」と納得してもらえると思います。

この『現代の教育改革』の編著者であり、上記の引用文の執筆者は、1976年に文部省に入省、文科省の研究振興局長や高等教育局長を歴任し、2010年からは国立教育政策研究所所長、そして、2013年度からは教員養成系大学の頂点に立つ筑波大学の教育推進部教授となっています。そして共著者8人のうち現役の官僚でない4人のうち3人は文部官僚から国立や私立の大学に転身しています。このような転身(一般には「天下り」という言葉が使われていますが)をする可能性の大きい文部官僚の上層部が教育改革を主導しているという実態がある以上、「既得権益のために間違った教育制度が維持されている」ことを否定しても、説得力はありません。天下り先候補の意向を「忖度した」改革がなされるのは、必然の構造と言えます。

社会の変化に対応した「教育改革」が次々となされていく中で、教員養成制度が旧態依然とした姿のまま変わっていないこと、そしてそこに守旧派の教育関係者が関与していること、そしてそれらも結果的に教員の負担や疲弊を増大させている、という観点から、今回は、教員養成制度の実態の一端を紹介してきました。

しかし、実はこれまで述べてきたような既得権益保持のためにもっともらしい理屈をつけて「教育改悪」に加担してきた守旧勢力以上に、学校教育にはもっともっと大きな問題が存在しています。

次回以降は、そのことについて書いていきます。

2021年4月19日

近年の教育改革の4つの主要因

社会の変化と教育改革

学校教育の改革とは、基本的には社会の変化あるいは社会の変化に対する子どもたちや保護者の変化に対して、学校教育における従来の在り方ややり方では対応できないことから、新たな仕組みを設けたり、従来と違ったやり方に変更したりするものと言えます。

社会の変化と広義の教育改革との関係は、人類史という長いスケールの中でも確認できます。狩猟採集社会では、狩猟の方法や食用になる植物の選別などは、大人のやり方をまねたり、周りの人から子供のうちに教え伝えられたりして習得していました。しかし、農耕社会になると社会の階層化が生じ、都市が誕生し、支配階層では社会の秩序維持や人々の統率のための様々な仕組みを学ぶための特別な訓練が行われはじめます。文字や算術も、社会の秩序維持や人々の統率のために生み出されたもので、一部の人たちが特別な訓練を受けて学ぶという、最初の「教育改革」といえるかもしれません。

社会が複雑化して、学ぶべきことも実用的なものばかりではなく、芸術的なもの、哲学的なもの、宗教的なものなどが加わり、高度化すると、専門的な素養を身につけるための大学をはじめとする学校が誕生していきます。また、「読み書き算盤」の習得が就業や生活水準の向上に有利な要素と見なされるようになると、教育は一層普及していきます。一度に多くの人がある一定の場所に集まって学ぶという学校の誕生は、人類史上の大きな「教育改革」といえます。

約150年前、国民国家の成熟によって、国家に奉仕する人材の大量育成による国民統合という国家的な要請によって、国民のほぼ全員が学校に通って学ぶ「公教育制度」が生まれました。ほとんどすべての人が少年期の一定期間を学校に通って過ごすというこの公教育制度の誕生も、人類史上の大きな「教育改革」の一つといえるでしょう。

そして現在、社会の急速な変化と、社会的生態的な持続可能性の危機が差し迫る中で、新たな教育改革が始まっています。

近年の学校教育改革の4つの主要因

日本における近年の教育改革は主に、以下の4つの大きな要因に基づくのではないかと考えています。便宜上4つに分けて述べていきますが、それぞれの要因が相互にかなり密接に関連し合っていることは言うまでもありません。

①新たな教育課題の誕生

②教育方法の主流の変化

③学校と地域との関係の変化

④児童生徒や保護者の多様化

これらは、持続可能性の危機の拡大、グローバル化や情報化の進展、産業構造の変化、雇用形態の変化、家族構造の変化、格差の拡大、少子高齢化など、広い意味での社会の変化とそれに付随する子どもたちや保護者の変化に起因しているものが大半です。

①新たな教育課題の誕生

1947年に6・3・3制の新しい学校教育制度が誕生してから、今年で75年目になります。その間だけでも社会の変化には著しいものがあり、それに対応して、学校教育には多くの新たな教育課題が押し寄せてきました。

例えば、1960年代には工業化の歪な発展がもたらした公害が社会問題となる中で、公害教育の必要性が叫ばれ、その後公害教育は自然保護教育と合流し、環境教育として学校教育に定着していきました。また、20世紀後半を通じて、ヒト・モノ・カネの国境を越えた交流が急拡大する中で、国際理解教育や外国語教育の強化が求められました。そして近年の情報通信技術の急速な進展に対応するために、高等学校に情報科という教科が設けられたり、新学習指導要領で小学校にプログラミング学習が導入されたり、今回の中教審答申に示されたように、ICTの活用が学校教育に求められてきています。

さらに社会的・生態的な持続可能性の危機に対応するために、新学習指導要領では「前文」において、「(一人一人の児童生徒が)持続可能な社会の創り手となる」ように指導することを求めており、国連持続可能な開発サミットで採択されSDGs(持続可能な開発目標)も重要な教育課題となってきています。

このような新たな教育課題を学校教育に取り入れる一方で、従来の教科等についても、児童生徒が習得すべき基礎基本と捉えているため、結果的に「足し算」となって、児童生徒にとっては授業時間数増となり、教員にとっては、もともと過剰労働であったところに指導すべき課題が次々と押し寄せてきて、対応しきれないということになっています。じっくりと新たな教育課題についての指導方法を学ぶ時間もなく、「やってられないよ」という感覚を持つ教員も少なくないはずです。

②教育方法の主流の変化

ところで、①で例示したような新たな教育課題は、従来の教科のように児童生徒に知識を習得させることで済むというものではありません。「持続可能な社会の創り手となる」という言葉が象徴しているように、獲得した知識や技術を活用し、主体的な行動や活動への参画に結びつくことを求めています。筆者の専門領域である環境教育でも、環境についての知識を生み重ねるだけでなく、環境をよりよいものにするための行動・参画が重要という観点から、「参加体験型の学習」という手法が確立してきました。中教審での議論の中で「主体的・対話的で深い学び」と言い換えられましたが、課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ「アクティブ・ラーニング」が新学習指導要領の柱に据えられた背景には、このような新たな教育課題の性格も影響しているはずです。

上記のような新たな教育課題の影響もありますが、20世紀の末に起きた、受動的な学習から能動的・主体的学習への転換という教育方法の主流の変化には、学習効果についての本質的かつ根本的な考え方の変化に基づいたものと理解した方が正しいでしょう。主体的に何かに熱中しているときに大きな学びがあることや、回り道であっても、様々な体験や経験を重ねながら学ぶ方がしっかりと定着をすることは、以前から多くの人が実感してきたことです。しかし、それが世界の学校教育の在り方を大きく変えはじめたのはつい最近のことです。

世界の学校教育事情に精通している佐藤学氏は、ベルリンの壁の崩壊前後からヨーロッパを中心に始まった学習者中心の学びの拡大を「教室の静かな革命」と言っています。教師主導の教育から学習者中心の教育への転換は、その後、世界の多くの地域に広がっていきました。その一つの流れが、学習者が主体的・協働的にプロジェクトを進めていく「総合学習」の広がりでした。日本でも1998年告示の学習指導要領で、「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」ことを目指す「総合的な学習の時間」がはじまりました。

一方、学校教育の全教科等を学習者中心の学びに大転換させたのが中国です。上海での先行実施で好結果を確認した中国の教育部は、それまでの教師主導の知識注入型教育との決別を「基礎教育課程改革」として2001年に中国全土に発令しました。2009年にPISAに参入した上海が3領域のいずれでも断トツの一位になり、また成績低位者の比率が少なかった点も注目されました。上海の躍進の理由は、いち早く学習者中心の学びに転換し、しかもそれに応じた教員養成に取り組んだ結果とみられています。

日本では、世界全体で浸透し始めていたこのような教育手法の主流の変化をキャッチしながらも、全面的な舵の切り替えには慎重でした。しかし2007年から再開された「全国学力・学習状況調査」(通称「全国学力テスト」)の分析が進み、「総合的な学習の時間」の趣旨に沿った主体的・協働的な問題解決型の学びに取り組んでいる学校の成績が、そのような取り組みをしていない学校を大きく上回ることが明らかになりました。そのこともきっかけとなって、学習者中心の学びへの転換の決断がなされ、2014年11月の下村文科相から「アクティブ・ラーニング」が4回も登場する中教審への諮問に結びつき、今回の「主体的・対話的で深い学び」を強調した学習指導要領にいたっています。

前述の公教育の誕生時には、多くの人に効率よく一定水準の知識を修得させることが重視されました。そのため教室の中に学習者を閉じ込め、教科に分けて時間割を組み、教科書に基づいて知識を伝授する、競い合わせることが活力を生んで有効との信念に基づいて試験を行い、席次を発表する、そして、師範学校できっちりと型を教え込まれた教師が教壇に立つという教育システムが確立されました。その教育システムががっちりと強固に出来上がってしまったために、能動的な学習の有効性を示唆する研究が様々な学問分野で提示されても、教員養成の場で、あるいは学校教育の場で新たな教育手法にすぐにシフトするということにはなりませんでした。知識の習得量に偏重した入試制度も、新たな教育手法へのスピーディなシフトを阻害してきました。デューイの流れをくむ経験重視の教育や、教科を統合した「総合学習」が勢いを増すことは何度かありましたが、20世紀末までの世界の教育の主流は、教科ごとに分かれて知識を注入する教育方法でした。それが20世紀末に大きく動き始めたのは、情報化や国際化や産業構造の変化といった社会の大きな変動に対して、従来型の教育方法ではいよいよ対応できなくなった、限界に達してしまったという認識が定着してきた結果と言えそうです。

この教育方法の主流の変化に対応した教育改革は、本来であれば、「児童生徒に委ねる」という部分がより多くなるため、指導者には時間的な余裕が生じるはずです。しかし、教員養成過程で学んできたことや、教員として長年経験したこととの間には大きなギャップがあるため、多くの教員にとっては、従来から求められている基礎基本の習得の上に、さらに新たな課題を課されている感覚にならざるを得ないでしょう。

③学校と地域との関係の変化

少子高齢化が進み、世界に先駆けて人口減少がはじまった日本では、各地域で活力の低下が懸念されています。一方で、④で述べる児童生徒や保護者の多様化に伴う対応課題の増大から、地域の方々の支援・協力も求められています。学校が地域の活力維持の拠点になるとともに、地域が学校教育の一端を支えるという、いわばWin-winの関係を構築しようという動きが、「地域に開かれた学校」からさらに一歩進めた「地域とともにある学校」です。それが、学習指導要領では「社会に開かれた教育課程」として前面に掲げられることになりました。新学習指導要領で強調された、①教科横断的な視点の重視、②人的・物的資源の活用、③PDCAサイクルの確立、という3つの質の異なる要素からなる「カリキュラム・マネジメント」の②の「人的・物的資源」は言うまでもなく、「学校外」の「人的・物的資源」を意識したものです。

学校と地域が密接な関係にあることはもちろん好ましいことです。私の住む地域では、平日の午後の4時ごろになると「地域の皆さん、いつも私たち小学生の見守りをありがとうございます。もうすぐ私たちの下校時間となります。今日も私たち小学生の見守りをよろしくお願いいたします。」という小学校の上級生による放送が流れます。しっかりした力強い児童の声に、逆に元気づけられているような気がします。

日本の場合、学校と地域を隔てる壁は、戦後徐々に低くなり、特に「総合的な学習の時間」が始まって以降、子どもたちが地域に出て学んだり、地域の人が学校に来て子どもたちに指導したりする機会も増えてきました。そして2016年1月に文部科学省から公表された「次世代の学校・地域」創生プランでは「チーム学校」の一員として地域の人々が学校を支える姿が描かれています。また、「地域とともにある学校」への転換を図るため設けられた学校運営協議会も、2017年から設置の努力義務化がなされ、急速に普及しつつあります。

しかし、地域と学校の関係が密になればなるほど、学校の教員は、地域との関係構築から日常的な諸連絡という新たな役割を求められます。学校という小さなコミュニティでの生活に慣れ親しみ、しかも多様な他者とのコミュニケーションが苦手な教員にとっては、この学校と地域の関係の拡大は大きな負担になるはずです。学外者との関係構築にたけた教員でも、そのことに時間を取られて勤務時間が長くなるということは起きているはずです。

「次世代の学校・地域」創生プランでは、地域学校協働本部の中に「地域コーディネーター」が位置づけられ、学校の地域連携の中核を担う教職員と連携・協働していくイメージが示されています。また、2017年の社会教育法の改正で地域学校協働本部が法律上きっちりと位置づけられ、地域コーディネーターをも包含する「地域学校協働活動推進員」制度を設けています。しかし、そのための十分な予算は確保されず、人員の配置は後回しにされているというのがほとんどの地域の実態と思われます。

④児童生徒や保護者の多様化への対応

④のうち児童生徒については、昨年末に「小学生の異変」と題したコラムでも取り上げたいじめや不登校、発達障害の増加、あるいは外国籍児童生徒の増加への対応という課題があります。外国籍児童生徒の増加の背景には、グローバル化の進展や少子高齢化があることは確かですが、いじめや不登校、発達障害の増加の要因は複合的なもので特定しづらい面があります。それでも非正規雇用の増加や片親世帯比率の増加、あるいは情報化の負の側面といえるSNSによる陰湿ないじめ、スマホ依存などが指摘されており、それらが複合することで「異変」と言わざるを得ない状況になってしまっています。保護者についても、雇用不安や片親での子育て負担、子供の抱える問題の増加など影響が間接的に学校に寄せられ、教員の負担増につながっています。

これらについては、「教員と多様な専門性を持つ職員が一つのチームとして、それぞれの専門性を生かして、連携、協働する」ことを趣旨とした「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について(答申)」が2015年12月に中教審より示され、スクールカウンセラーも従来以上に増員され、スクールソーシャルワーカーなどの配置も徐々には進んできています。また、地域によっては、教育委員会が顧問弁護士を雇い、学校における児童生徒や保護者などとのトラブルにも対応できる体制を整えつつあります。しかし、児童生徒や保護者の多様化に伴う様々な案件への対応の大部分は教員に託されており、教員の疲弊の原因としても、この④は相当大きなウエィトを占めているように思われます。

それでは、社会の変化あるいは社会の変化に対する子どもたちや保護者の変化に対応しようとしている「教育改革」が、教員の過剰労働や疲弊につながらないようにするためにはどうすればよいのでしょうか。次回からは、そのことについて考えてみたいと思います。

2021年4月10日

教育改革と教員の疲弊

「教育改革」と「教員改革」は別物?

「ここ20年間、教員は「教育改革」で学校現場に強制された膨大な業務量に苦しめられている。さらに「教員改革」も推進され、「教育改革」との相乗作用で業務が激増し現場は疲弊し、教員集団も変質した—。」

上記の文章は、『教員という仕事 なぜ「ブラック化」したのか』(朝比奈なを著、朝日新書、2020年11月)の裏表紙部分の帯に書かれた文章です。著者は、公立高校の教員を約20年経験し、その後、公立教育センターにおける教育相談などの活動の傍ら、教育ジャーナリストとして教育現場を取材し著述活動している方です。教員の激務や教員間の人間関係の複雑さなどの記述、特にコロナ禍で教員の業務量がますます増加しているという指摘はまさにその通りです。また、約半分のページ数を割いている5人の教員のライフヒストリーは、近年の教員の実態に鋭く迫っています。

しかし、上記の文章を目にしたとき、「教員改革」という言い方に多少引っ掛かりを感じました。「教員改革」という言葉は、それほど当たり前に使われている言葉ではないからです。「教員の働き方改革」とか「教員組織改革」、あるいは「教員養成制度改革」といった改革の対象が明示された言い方が一般的で、「教員改革」では、教員に関わる何を改革するのかがわかりません。「教員を改革する」という教員そのものを改革の対象とするニュアンスのある言い方は、適切でないように感じます。

教員に関わる様々な改革を総称して「教員改革」と言っていると理解したとしても、「教育改革」と「教員改革」とが並列して書かれている点も気になりました。「教員改革」は「教育改革」と並列されるものでしょうか。教育改革という大きな枠組みの中の一つの領域が「教員改革」なのではないか、教育改革の本道を達成するために教員に関わる改革が付随して生じるものであって、並列的な関係ではないのではないでしょうか。

教員を取り巻く環境の変質と「教育改革」

冒頭に紹介した裏表紙の帯に書かれていた文章は、「はじめに」に書かれている以下の文章を、(おそらく編集者が)縮減して作成したものでしょう。

教員が直面している最大の問題は、長時間労働を余儀なくさせるほどの仕事量にある。それらは、「教育改革」という名の下、ここ20年間ほどで矢継ぎ早に学校現場へと強制された変化に対応するための仕事が大半を占める。「ゆとり教育」から「学力向上」への転換を基調に、新しい学習指導要領が作成されるたびに、その時点で必要とされた教科・科目の指導、学力や能力、スキルの育成が教員への新たな業務として付け加えられる。

そして、あまり知られていないが、この間には「教員改革」も推し進められている。「教育改革」と「教員改革」の相乗作用で業務が増え、教員は疲弊し、教員集団の変質・変容も生じているのだ。(p.6-7)

著者は、教育改革の中でも、「ゆとり教育」から「学力向上」への転換といった、学校教育の目指す方向性の変更や、それに伴う約10年に一回の学習指導要領の改訂に対して「教育改革」という言葉を用いています。上の引用に続く以下の記述から、著者の言わんとする「教員改革」の姿もかなり明確となります。

本書では、主に「教員改革」の動きを概観し、それが教員及び教員集団に与えている影響や、現在、教壇に立つ教員のリアルな姿などを取材から明らかにしていきたい。筆者は「教員改革」によって教員の同質化が起こり、ある種の「ムラ社会」化進んだと見ている。(中略)ある一定のタイプの人間を教員にしたい、既に教員になった人を一定のタイプにたわめたいという意図を持つ改革を進めたことが大きな原因だと考える。(p.7)

どうやら、著者がいわんとしている「教員改革」の相当部分は、教育改革の本道とは関係ないところで生じている教員の過重労働や疲弊をもたらしている制度の改悪や歪な慣行の拡大などではないかと感じました。

そして、本書のまとめとして結論的に書かれている以下の文章にも、違和感を覚えました。

まずは、現在進行している、また近年中に予定されている改革を一時中断し立ち止まって検証することが必要だ。どれほど緻密で優秀な機械やシステムでも点検が必要であり、そのための一時中断は不可欠だ。「教育改革」も今、その目ざすべき方向性や具体策を見直す時期に来ている。次々に実行される改革に関する書類を読むだけでも教員は多くの時間を取られ、忙しい日常の中ではそれについて真剣に考える暇もない。(p.202)

確かに、この1月に中央教育審議会が公表した「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」という答申は、A4版で91ページに達しています。しかし、近年では重要な文書にはたいてい概要版がついているので、上記答申の趣旨を理解するには、それほど多くの時間を取られるわけではありません。「教育改革」の点検が必要という指摘は同意できますが、教員が忙しすぎて疲弊しているから「教育改革」を一時中断すべき、という結論は、適切な改革も不適切な改革も一緒に十把一からげにした議論と言わざるを得ません。

教員の過剰労働や疲弊が大問題であり、早急な解決が必要なことであるのは間違いないのですが、その原因究明の矛先を誤った方向に向けてしまうと、問題解決も遠のいてしまう恐れがあります。

「教育改革」や「教員改革」と一言でいうのではなく、どの改革のどの部分が教員の多忙や疲弊をもたらしているのかを、少し丁寧に見ていく必要があると思います。

今後、近年の教育改革の対象を分けて検討していくつもりです。

PAGE TOP