学校教育とSDGs

2023年7月24日

主体的なカリキュラム作成という力量

諏訪哲郎

カリキュラム作成に関するフィンランドと日本の違い

2021年10月の「SDGsと学校教育」コーナーで、Pasi Sahlberg(パシ・サールベリ)が2021年1月に刊行したFinnish Lessons 3.0 (「フィンランドの教訓」)の抜粋翻訳をアップしました。その第3章では、フィンランドで教師という職業が医師や弁護士に匹敵する高い評価を受けている理由が縷々述べられています。一言でいうと、教師が高い専門性をもち、それを主体的に発揮しうる職業と見なされているから、ということです。その端的な例が、カリキュラム開発と学校運営計画の作成において教師と校長が中心的な役割を果たしているという点でしょう。フィンランドの教師は、学校内で主体的なカリキュラム作成を託されており、教員養成の過程でそれを遂行できるだけの力量が育まれているようです。日本の小学校教員の大半が学部卒であるのに対し、フィンランドの教師の大半は修士修了です。

翻って、日本の教師の場合はどうでしょうか。長時間労働や保護者からのバッシング等でブラック化が指摘されており、教員採用試験の受験者数は年々減少しています。決して社会的に高い評価を得ているとは言えそうにありません。教師という職業に携わっていることについての本人の満足度はどうでしょうか。日々の子どもたちとの交流に、そして授業を通して子どもたちの成長を確認できて満足しているという教員も多いことでしょう。その一方で、6月15日のこの欄にアップした「若手教員の教職に対する意欲と使命感」で紹介したように、小学校の若手教員の間では、時間の経過とともに教職に対する意欲や使命感が低下しています。主体的に対応できているというよりも、日々やるべきことを何とかギリギリこなしているという若手教員も少なくないようです。自らが担当する授業について、主体的にカリキュラム作成をしている教師の比率は極めて低いと思われます。授業以外の様々な用務に時間を取られ、教材研究の時間確保さえままならないのが実態でしょう。「主体的・対話的で深い学び」が謳われながらも、教科書の内容を、場合によっては指導書に頼りながら教えるという、半世紀以前の授業スタイルが今もなお相当部分を占めているのではないでしょうか。

学校・教師の自律性の低さと主体的なカリキュラム作成能力

佐藤学氏は教育調査研究所主催の第5回ラウンドテーブルディスカッションで、OECDの調査結果に基づいて、日本の学校の自律性の低さを下図で示しました。(『教育展望』2023年7、8月合併号、p.24)

日本の学校の自律性の低さ(佐藤学氏の提示図)

上図の濃い色のグラフが「学校の自律性」で、カリキュラムを決定できるか、人事裁量権があるか、予算を独自に組めるかなどの総合的な評価です。日本はOECD諸国の中でも学校の自律性がかなり低い位置にあることを確認できます。実は、過去四半世紀余りの間に、日本では各学校の権限や裁量の拡大が謳われ、その方向に進んできたはずです。しかし、依然として国際的に見て学校の自律性はあまり高まっていないようですし、過去6年間、ある小学校の学校運営協議会の会長を務めてきましたが、その間、コロナウイルスの問題もありましたが、学校の自律性の拡大を感じさせられることはほとんどありませんでした。

その一方で、校長の権限や裁量の拡大は、確実に高まってきたと感じています。学校としての自律性が高まらず、校長の権限や裁量が高まったとすると、結局は一般の教職員の権限や裁量が縮小した可能性が考えられます。このことは、これからの時代に求められる教員の主体的なカリキュラム作成という力量と密接にかかわっているはずです。基本的には信頼されて任されなければ、必要な力量は育まれないからです。

『教育展望』2023年1、2月合併号は、「これからの時代に求められるカリキュラムの在り方」をテーマとした第5回ラウンドテーブルディスカッションを特集しています。しかし、最後の討論では、安彦忠彦、石井英真両先生から、今後は各先生の裁量のもとでカリキュラムが作られるべきであるが、現在の日本の教師については力量に不安が大きいという流れで終わっていました。

前回も提示した下図の直方体の一番上に掲げた「主体的なカリキュラム作成」という力量がこれからの教師には求められるのですが、在職後の研修時間も世界最短レベルですし、修士課程修了者の比率も上がっていません。「小学校若手教員の教職への意欲や使命感」でも紹介したように、出身大学の「一般的な入学の難しさ」で「あまり難しくない/難しくない」の割合が、30代に比べて20代で大幅に増加しています。過去15年の間に初等教員養成に参入した私立大学の多くが、受験者全員合格となっていることと無関係ではありえません。

これからの教師の力量形成モデル(案)(諏訪作成)

しかし、教員のレベルでの「主体的なカリキュラム作成」という力量形成を考えた場合、本当に必要なことは、それぞれの教員が力量を発揮できる環境を整えること重要なのではないでしょうか。これまでの脈絡でいうと、教員の権限や裁量を拡大し、もっと信頼して任せるべきなのではないでしょうか。それとともに、これまでの学習指導要領の在り方の見直しと、上意下達的に現場を拘束する研修等の見直しも必要なのではないかと感じています。

佐藤学氏が主張する教師の力量形成についての正論

前回紹介した第6回ラウンドテーブルディスカッションで、佐藤学氏は日本の教員養成の課題を具体的に説明した後、自身のかねてからの主張であり、まさに正論である「教師教育の高度化と専門職化」を実現するために何をすべきかを論じています。氏の論点を要約したり整理したりすると、本当に主張したかったことが伝わらないので、『教育展望』2023年7,8月合併号から以下に引用させていただきます。

日本が推進すべきこと

そのために何をするかということですが、一つは、2012年の中教審答申で提示された標準免許の修士標準化です。参議院まで行ったんですけども、教師を国家公務員する必要があります。第1次試験は国家試験にするという提案です。二つ目に、専門職化を推進するための新しい人材確保法を制定し、現在の教師の待遇を2割程度高めないと、これは実現できません。三つ目に、教員養成。現在は正規カリキュラムではなく、オプションになっています。こんなのは日本だけです。専門家養成にふさわしい正規カリキュラムでの教員養成をやるべきです。四つ目に教員給料特別法の廃止です。ただで超過勤務させるようなことはすぐに廃止すべきです。

まとめてみますと、質と平等の同時追求の面で、教育未来法でも制定して予算措置を組まないことには、凋落の袋小路から脱出できません。これはぜひとも文科省を含めて動いていただきたいと思います。あとは、日本の学校現場で遅れている21世紀型の教室や授業や学びへのイノベーションを推進すべきこと、専門家共同体としての学校づくりを推進すること、それから市町村教育委員会を主体とする「地域教育イノベーション構想」というのを策定すべきだと思います。(p.25-26)

佐藤学氏の教師の力量形成についての主張は、小手先の対応で何とかなるものではなく、教師教育を本道に戻さねば教師の尊厳を回復し、日本の教育を再度世界に誇れるものに戻すことはできないということで、まさに正論です。 しかし、教師の資格を修士以上とし、国家試験を課したうえで国家公務員とすること、そして、教職課程というオプションで行ってきた大学での教員養成を、正規カリキュラムでの教員養成にすることは、一挙に実現できることではありません。まして今の教員不足が叫ばれている中での「修士標準化」は現実的には無理があります。教員免許取得者の大半が、正規のカリキュラムでないオプションの課程で取得している現状を一挙に変えることも不可能です。お金で何とか解決できそうな、待遇を2割ほどアップさせる新しい人材確保法の制定も、財源不足が叫ばれている今日、望み薄です。1949年の教育職員免許法制定から74年間マイナーチェンジしか行わなかったことで、さまざまな利権ががっちりと根を張り巡らしている中で、佐藤学氏の正論を実現することは絶望的なレベルの困難な作業と判断せざるを得ません。では、何もせずに手をこまねいていてよいのでしょうか。ますます事態が悪化してしまうことは目に見えています。何とかできそうなところから早速手を付けるべきですし、最後で述べるように、社会の変化が急激で、しかも様々な難題が押し寄せている今日、中途半端な「改善」ではない、抜本的な改革へ向かうことが求められています。

日本の立ち遅れの実態に対する体感での認識

まずは、日本の教員養成制度が70年以上にわたって停滞した結果、世界の趨勢から大きく立ち遅れている実態を、学校教育の当事者が単なる知識としてだけでなく身体感覚として受け止め、それを周りに拡散することから始める必要があるでしょう。

7月1日のNPO法人八ヶ岳SDGsスクールの講演会の翌日、多田孝志氏、佐藤学氏を囲む少人数の勉強会を実施しましたが、その場で話題にあがった、教員の定期的な異動が日本独特であることや、大学の正規カリキュラムに付加されたオプションして教員免許を取得できる日本の教員養成制度が世界でも稀有な例であることを、数十年の経験を持つベテラン教員が、「初めて知った」と驚いて受け止めていました。日本の教員養成の在り方として佐藤学氏の描く姿を正論として受け止めて、そこに向けて本気で取り組もうという人を増やすには、このようなことを単に知識として知るだけでは不十分です。

上図の右の吹き出しに書き込んだように、「海外研修の拡大」が有効と考えています。「主体的なカリキュラム作成」が当たり前となっている国の学校に入って、長期間の参与観察を行うという海外研修を拡大させることで、ようやく事態が動き始めるのではないでしょうか。海外の先生方が主体的にカリキュラムを作成している姿を体で感じ取れるような、1年ぐらいゆっくりそこで暮らすような研修を実施し、その人が戻ってきて日本を見たときに「これは大変だ」「今後ますますギャップが大きくなってしまう」と痛感し、「自分たちで主体的にカリキュラムを作りましょう!」と周りの先生方を巻き込むような動きが出てくるで、ようやく事態が動き始めるのではないかと思っています。 「アクティブ・ラーニング」が4回も登場した2014年の下村文科大臣(当時)の中教審に対する諮問から間もなく10年が経過しようとしています。「主体的・対話的で深い学び」が授業の場に浸透し始めていることを感じることもしばしばです。しかし、教員自身が自らの力量を向上させるために「主体的・対話的で深い学び」「探究的な学び」をどれほど心がけているのでしょうか。教育委員会関係者や学校の管理職が、若手教員自身に対して「主体的・対話的で深い学び」「探究的な学び」を促し、主体的に力量形成を行うようにどれほど働きかけているのでしょうか。

免許更新講習を通して知った教員研修の実態

もう5年ほど前になりますが、財団法人日本環境教育フォーラム主催、学習院大学協力という免許更新講習を数回実施しました。川嶋直氏、中野民夫氏というワークショップ界の両巨頭による、「アクティブ・ラーニング」満載の講習でした。以下がその時のプログラムの概要です。筆者が担当した講義も、自らが大学の授業で実施しているアクティビティを紹介しながら、なぜ「主体的・対話的で深い学び」「探究的な学び」が求められているのかを語り、教師自身がアクティブ・ラーナーになることが求められていることを訴えたものでした。 その時、多くの受講者は、教育委員会などによる研修が、学習指導要領の解説などを中心とするもので、旧態依然とした「知識伝達型」の講義が主流であることを訴えていました。それから5年ほどが経過し、教育委員会などによる研修も様変わりしていることを期待したいところです。しかし、3年余りに及ぶコロナウイルスの拡散で、学校現場は再びかつての「知識注入型」の教え込み授業に戻りつつあるという情報がしばしば耳に入ってきます。

日本環境教育フォーラム主催の免許更新講習のプログラム(原図は川嶋直氏作成)

教科の枠組みと時間配当の抜本的な見直し

教員の長時間労働が顕在化してからすでに2~30年は経過していますが、一向に解消されていません。社会の進展に応じて学習課題が増えていくなかで、カリキュラム・オーバーロードが世界中で問題化し、その解決に向けた試みが始まっています。すでにこの欄でも取り上げましたが、文科省の白井俊氏は、教科の内容をビッグアイディアやキー・コンセプトに基づいて大胆な編成替えに取り組んでいる事例などを紹介しています。

現行の学習指導要領の策定に当たっては、どこかからの強力な圧力の結果だとは思いますが、早々に「学習内容の削減は行わない」と決めてしまったため、日本におけるカリキュラム・オーバーロード対策は完全に10年立ち遅れてしましました。「後発の利」と善意に解釈すれば、現行の学習指導要領で中途半端な学習内容の削減を行わなかったことで、次回の改訂では思い切った改革が可能になる条件が整ったと言えるのかもしれません。もしそうであれば、まさにここで話題にしている各学校や各教員による「主体的なカリキュラム作成」を促す仕組みをしっかりと盛り込んでもらいたいものです。あくまでも試案ですが、以下のような以下のような次期学習指導要領の大枠を提案したいと思います。

(1)教科の指導に充てる時間を3割から5割削減し、STEAM教育のような教科を統合した授業や探究に充てる時間を2割から4割増やし、全体としての授業時間を1割削減する。

(2)教科指導の時数削減と探究・STAEM的時数の増加計画は、各自治体の教育委員会ないし各学校に委ねる。ただし、文部科学省は、教科指導の時数5割削減と探究・STAEM的時数の4割設置のモデルプランぐらいは提示する。

(3)教科の内容に関わる学習指導要領の記述は大枠にとどめ、各学校、各教員の裁量で軽重をつけたり選択できる柔軟さを大幅に確保する。

(4)中学校についても高等学校と同様に単位制を採用し、教科ごとに必修領域を残しつつも、極力学習者の興味関心に沿った科目の選択履修を可能にする。

提案の根底にある時代観や学びの本質

この提案の根底にあるのは次の三つの考え方です。

第一は、すでに内閣府の「Society5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」でも示唆されているように、もはや100年以上も前の枠組みに沿った既存の教科に分割して授業を行う時代ではなくなっているという時代観です。それぞれの教科の基礎・基本の重要性は否定しませんが、それ以外の自教科中心的な「あれも重要、これも必要」が積み重なっているのが現状でしょう。各教科に求められているのは、まさに内容の精選と新たな視点からの内容の統合です。教科によっては、「新たな教育課題が次々と湧き出ており、時間数の削減どころか増やしたいぐらいだ」と言いたいところでしょう。しかし、21世紀に登場してきている新たな教育課題は、既存の単一教科で対応できるものはほとんどないはずです。複数の教科を統合したSTEAMで探究的に取り扱うことが望ましいものが大半のはずです。ただし、教科の基礎・基本の重みは、学校種によって異なります。小学校では、教科の指導に充てる時間の削減率を減らし、高校では削減率をうんと高めるような配慮は必要かもしれません。

「政策パッケージ」が「これからの学校」として例示した「教科の枠組みを超えた実社会に活きる学び」である「教科等横断・探究・STEAM」は、まさに21世紀の様々な要素が絡み合った課題を扱うには不可欠な枠組みです。そしてこの枠組みを学校教育に定着させるには、(1)で提示した新たな時間の枠組みを作らねば、動き出さないであろうという判断もあります。

ちなみに、「探究・STEAM」について、「政策パッケージ」には「専門性の高い高専生や専門高校生がインストラクターとなり、小中学生への学びを支援したり、高専の最先端機器等を活用した実験・実習等が体験できるよう、高専や専門高校を小中学生にとって身近な場所になるよう支援」とも書かれています。どこまで実現できるかわかりませんが、ここには「教室の中だけ」で「教員だけ」が授業を行う姿とは異なるものがイメージされています。(ただ、残念ながら現時点での次期学習指導要領に関する議論は、これまでの流れから二三歩前進させようというレベルにとどまっているように思われます。)

第2の根底にある考え方は ”Teach Less, Learn More” という、すでに、シンガポールやフィンランドで確認済みの事実です。「たくさん教えれば、子どもたちがより多く学び、学力も向上する」というのは、多くの先生方の思い込みでしかないことを改めて強調したいと思います。子どもたちが頭脳をフル回転させて成長しているのは、自分が関心を寄せたことと必死で取り組んでいる時です。佐藤学氏がしばしば指摘する、ただ授業に向かっているふりをする「学びの偽装」の時間は、脳の成長停止状態と言ってもよいでしょう。

ただし、ここでもう一つ強調しておきたいことは、多田孝志氏が特に近年強調している「学びの根、人間性の根幹」が幼少時からしっかりと作られている必要があるということです。多田氏は第6回RTDで以下の図を提示しています(『教育展望』2023年7、8月合併号のp.12ではモノクロで掲載)。「子供が生来もっているもの」である「感性、感覚、好奇心、遊び性」などを存分に伸ばすこと、そして様々な体験、特に自然との触れ合いなどを通した育まれる「学びの基盤」を確固としたものにすることが、「新たな時代の学び」の礎になることが示されています。

多田孝志氏による「人間的成長」

第3は、課題への取り組みを信頼して任せれば、大抵の人は予想以上の力を発揮するものだ、という経験則です。あれこれ指示したり、小言を並べるのは、やる気をなくさせるだけです。「こうした方がよい」「そうやってはいけない」という指示が出される結果として、多くの指示待ち人間を作ってしまっています。上記の提案で示したような大きな時間配分の枠組みを示し、そこに最もいいと思う図柄を埋め込んでみてください、という先生方への「主体的なカリキュラム作成」という課題は、佐藤学氏の言葉でいえば「ジャンプの課題」です。「ジャンプの課題」が提示され、それと格闘し始めれば、多くの教員が考えられないような力を発揮し始めるはずです。「主体的・対話的で深い学び」は児童生徒の成長を促すだけではありません。教師自身も「主体的・対話的で深い学び」を通して成長していきます。同様に児童生徒にとって有効な「ジャンプの課題」も、教師が飛躍的な成長を遂げる上では不可欠な要素と言えそうです。ただし、その場合も、教員が個々別々に進めるだけでなく、グループとなって課題に取り組むことが肝要と言えるのでしょう。

構想実現のバリアとしての入試制度も急速に変化する(はず)

以上、将来を見越したかなり大胆な提案をしてきましたが、このような構想を実現する上で、大きなバリアが存在していることは自覚しています。その一つは入試制度、特に大学入試です。学齢人口の減少によって、大学全入時代になったとはいえ、いわゆる有名大学、難関大学への入学実績を競い合う風潮はまだしばらくは変わりそうにありません。この問題に対する有効な試案を持ち合わせているわけではありませんが、大きな変化がそろそろ起こりはじめるであろう、という予感はあります。

文科省の最新の推計では、日本の大学の定員充足率が2040年には80%にまで低下するということです。当然、多くの私学は経営が悪化し、撤退を決断するでしょうが、新たな魅力づくりで生き残りを探る動きも活発化するでしょう。一方で、経済の長期的な停滞によって、いわゆる有名大学、難関大学が集中する首都圏に子弟を送り出す余力のない世帯が増加していくはずです。そしてこの3年余りのコロナウイルス拡散によるリモートワークの定着。そのような環境の変化の中で、いよいよインターネットを介した遠隔授業や生成AIを利用した非対面型の大学の講義が本格化していくことは間違いありません。

いわゆる有名大学、難関大学の価値として、先輩とのつながりによる就職時の有利さが指摘されてきました。しかし、日本のかつての終身雇用制度はもはや風前の灯です、一つの職場に留まる期間が短くなるにつれて、先輩との関係が機能する最初の就職の重みは薄れていき、本人の持つ魅力や実力が重視される時代が到来することも間違いありません。いわゆる有名大学、難関大学の価値の低減は着実に進行し、しかもそれは今後加速化するはずです。

最後に、7月1日のNPO法人八ヶ岳SDGsスクールの講演会で提示した、筆者の時代観を示す図を提示しておきます。20世紀は、産業別就業人口が大きく変動する激変の時代でした。それでも第一次産業への就業者が大半を占めていた20世紀初頭から、第三次産業就業者が過半を占める20世紀末までの変化は、連続的なものでした。基本的にはモノを作ることの重要性を残しつつ、機械化等によるモノづくりの効率化が進むにしたがって徐々に流通・サービス等の媒介的な役割が拡大する、という理解しやすい連続的な変化でした。しかし、20世紀後半から集積されてきた高度な科学技術と20世紀末から飛躍的な発展を遂げた情報通信技術によって、21世紀に入ってからは「異次元」とも「不連続」ともいわれる変化が生じています。また、地球温暖化や生物種の大量絶滅など、これまでの人類の利益や利便をひたすら追求してきた活動によって、持続可能性の危機が差し迫っています。

このような「不連続な変化」と持続可能性の危機という新たな局面に世界が入ってきているという認識に立てば、学校教育についても従来のスタイルを温存しつつマイナーチェンジを重ねていくことは、「小出し手遅れ(Too Little, Too Late)」を引き起こすことにほかならないと納得してもらえるはずです。「持続可能な社会の創り手」となる教育に向けた「大きな飛躍(Giant Leap)」が求められています。

20世紀と21世紀の非連続な変化(諏訪作成)
2023年7月12日

「持続可能な社会の創り手となる時間」の創設を

諏訪哲郎

教育調査研究所主催の第6回ラウンドテーブルディスカッション

教育調査研究所は、過去2年半に6回のラウンドテーブルディスカッション(以下、RTDと略称)を実施しています。2021年11月に実施した第1回RTDでは、「SDGs/ラーニング・コンパス2030が描く教育の未来」というテーマで、文部科学省の白井俊氏を囲み、学習院大学文学部教育学科特任教授の栗原清氏や筆者が、学校教育に対するOECDの新たな示唆と今後の学習指導要領への影響について話を伺いました。印象深かった点は、カリキュラム・オーバーロードに対して、カナダのブリティッシュコロンビア州のカリキュラムで採用されている「ビッグ・アイディア」を中心にまとめることが有効ではないかという白井氏の発言でした。これまでの硬直的な教科の在り方に一石を投じようとしているかに見られました。この第1回RTDの内容は、その後一定期間動画配信されるとともに、『教育展望』2022年1、2月合併号に掲載されました。

2022年7月に実施された第4回RTDでは、「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージをめぐって―「教員」をめぐる課題を中心に―」というテーマで、内閣府の教育・人材育成ワーキンググループのメンバーであった岩本悠氏とフィンランド大使館に勤務する堀内都喜子氏を招いて、内閣府が教育・教育人材育成に乗り出した真意や、フィンランドの教員が定時に学校から退出できる理由などを聴きました。特に印象に残っているのは、ワーキンググループ内で共有されていたのが、「熾烈なイノベーション競争における日本の立ち遅れに対する強い危機感」であったという岩本氏の発言でした。この第4回RTDの内容は、『教育展望』2022年9月号に掲載されています。

そして、この5月に開催されたのが第6回RTDです。金沢学院大学教育学部長の多田孝志氏、東京大学名誉教授の佐藤学氏を招いて「日本の学校教育の現状と変革の方向性」というテーマで行いました。そこでの様々な問題提起の中でも、とりわけ重要だと感じたのが、多田孝志氏が指摘された「学びの根、人間性の根幹」です。児童生徒が人間的な成長を遂げて行く上で「根っこ」になる学びの基礎が重要であるにもかかわらず、その形成に不可欠な自然体験や、それらを通して育まれる身体感覚の欠如が著しいという指摘です。それを聴いていた筆者が感じたのは、「学びの根、人間性の根幹」が揺らいでいるのは児童生徒だけでなく、若手の先生方にも当てはまるのではないかということです。前回取り上げた高校「教育コース」の拡充提案も、これから先生になる人が大学入学以前に、豊かな自然体験などを通して「学びの根、人間性の根幹」をしっかりと育んでほしいという思いからでした。

一方、佐藤学氏の、日本の学校教育が世界からどんどんと取り残されているという指摘も、説得力のある数値で示されただけに、強烈でした。例えば、教師の学歴のグローバルスタンダードが修士学位をなっている中で、日本の小学校4年の算数教師の修士以上修了者の比率は2019年も5%のままで、2011年から増えていません。また、日本の教師の研修時間の減少も著しく、1966年から2018年の半世紀余りの間に校内研修が5分の1に激減しているという数値を佐藤学氏は示しました。この第6回RTDの内容は『教育展望』2023年7、8月合併号に詳しく紹介されていますので、ぜひ目を通していただければと思います。

なお、上記の第1回、第4回、第6回のRTDのすべてで、東京都市大学環境学部の森朋子氏が見事なファシリテーター役を果たしています。それだけでなく、今回はトランジションという視点から、重要な問題提起をしています。「社会システムの中に埋め込まれた問題」が変革へのトランジションの足を引っ張っている例を示したのですが、それを敷衍して「学校教育システムの中に埋め込まれた問題」を考えると、何が日本の学校教育の変革の足を引っ張っているのかが見えてくる思いでした。

「持続可能な社会の創り手となる時間」の創設提案

この第6回RTDにおいて、筆者は自分の持ち時間10分の中で、今回の主要なテーマである「持続可能な社会の創り手となる時間」の創設提案を行いました。以下、『教育展望』2023年7、8月合併号の諏訪の提案部分(p.15-18)を抜粋・転載することで、提案の骨子をお伝えしたいと思います。

具体的な提案として、「持続可能な社会の創り手となる時間」というものを作ってはどうかという提案です(図1)。これは実に素朴な自然な発想です。現行の学習指導要領の前文に、「これからの学校には、(…)一人一人の児童生徒が、(…)多様な人々と協働しながら、(…)持続可能な社会の作り手となることができるようにすることが求められる」ということが明記されました。つまり、学校教育について、新たな目的が加わったと思っています。それならば当然それに対応する時間を設けるべきだということです。もう一つ意図がありまして、持続可能な未来を構築しようという国際的な動向、あるいは世界の教育改革の潮流というものを考えたときに、新しい仕組みを学校教育に取り入れるには、新しい時間を設けることが有効なのではないかということから発想したものです。

「持続可能な社会の創り手となる時間」の試案

①児童生徒主体のプロジェクトに

具体的にはどういうものかというと、あくまでも試みの案でいろいろなことが考えられるかと思いますが、「持続可能な社会の創り手となる時間」というのを創設し、毎月1回、4時間連続の時間で行います。しかも3学年縦割りで、児童生徒主体のプロジェクトを行う。そこには、教員だけでなく、保護者や地域の人々なども参画・伴走する。テーマはいうまでもなく、持続可能な社会に関わるものです。例えば、小学校の低学年であれば、米や野菜作りを実際にやってみる。小学校の高学年だったら、食品ロスとかプラスチック製品の削減の大作戦を行う。中高生になったら、世界中の中高生と私たちの未来について語り合うというようなテーマです。それらを年間を通してのプロジェクトとして行い、10月ぐらいに中間発表し、年度末には全体発表会をして発信しようというものです。(一部略)

②この時間を設ける背景

なぜこういう時間を設ける必要があるかという背景ですが、まず一つは、国連の持続可能な開発目標、いわゆるSDGsが、2015年に国連で全会一致で採択されました。持続可能な未来の危機感が大きなものになっています。世界を変革しなければいけない、誰一人取り残さないようにしなければいけないということがいわれているからです。それからもう一つ、以前のこのラウンドテーブルディスカッションでも話題になりましたが、OECDが、「ラーニングコンパス2030」というものを発表しました。学習者の主体性を重視するとともに、到達目標に、個人と社会のウェルビーイングを設けて、コンパス(羅針盤)を使って自ら進むわけです。その羅針盤の中には重要なものとして、「変革をもたらすコンピテンシー」が掲げられています。新たな価値の創造、対立やジレンマへの対処、責任ある行動といったコンピテンシーが求められているのです。

一方、国内でも、内閣府が「Society 5.0の実現に向けた教育人材育成に関する政策パッケージ」というものを出しました。図2の左側と右側に、これまでとこれからの学校が描かれています。もとの図は、左と右、これまでとこれからが完全に分かれていたのですが、斜めの白線が入れられるようになって、これらは左から右にどんどん動かす必要があるんだけれども、左も残す。右もこれからますます重要になるということで、二項往還といえるかと思います。

設置が望まれる背景としての日本の教育革新の動き

右側を見ますと、学年・学校種を超える学びや、教科を統合する探究、STEAM教育、あるいは教師は伴走者とか、学外の多様な人材との協働体制が非常に重要になると書き込まれています。(一部略)特に、学外の多様な人との協働体制を創るということが、これまでの学校ではなかなかなされていませんでした。しかしこれはかなり重要なことでしょう。まさに、先ほど申し上げました「持続可能な社会の創り手となる時間」の重要なものとして、保護者、地域の人々などが参画するという部分と、もう一つ、学年を超えた学びというのが先ほどあったんですが、3学年縦割りなども、試しにこの「持続可能な社会の創り手となる時間」で、そういう新しいアイディアを取り入れることができるのではないかということです。

③地域の学習共同体に

さて、実際に、私自身が学校運営協議会の会長をしております東京都杉並区西田小学校で、コロナ前にこういう試みを行いました。「NISHITA未来の学校」というもので、図3の写真の中にパネルがたくさんありますが、この半分ぐらいは子どもたち、半分ぐらいは大人、先生方あるいは地域の人たちあるいは卒業生のものです。そういった人たちが自分たちのプロジェクトの成果を発表して、意見を交換しているのです。ここでは子どもたちは発表者であるとともに、大人の発表に対する質問者でもあります。それがとても豊かな学びをもたらしたということを実感していまして、その後、西田小学校では、大人が子どもたちの学びに関わる機会を増やしています。これがなかなかいい感じで、大人も子どもも学べるというようになっているのです。

子どもも大人も一緒に学ぶNISHITA未来の学校

この「持続可能な社会の創り手となる時間」というのは、もう少し先を見越したことからも発想しております。どういうことかというと、先々地域の学習共同体というような姿が学校の姿として重要になってくると考えています。つまり、今は子どもたちだけが学ぶ場としての学校ですが、これからは老若男女みんなが学ぶ生涯学習の場、そして全員参加で持続可能な地域社会を探求し創造し、活動する活力ある地域社会を創出していく場、そのようなイメージの地域の学習共同体というのが、将来描けるのではないでしょうか。少子高齢化が進んでくわけですが、今後の少子高齢化社会に適した学校のモデルとして、今申し上げたような「持続可能な社会の創り手となる時間」というようなものを、次の学習指導要領において大胆に取り入れてみてはどうだろうかということです。これからの大きな流れを見越したときにこういう提案があってもいいのではないかと思い、提案させていただきました。

学外者との協働活動によって必然的に生じる対話がもたらす力量

今回の第6回RTDでは、質疑応答や新たな問題提起に充てる時間をしっかりと確保しました。そして、事前に多田孝志氏、佐藤学氏から受け取っていたPPTの内容からも、また安彦忠彦氏、石井英真氏、白井氏が登場した前回の第5回RTDでも、もともとのテーマは「これからの時代に求められるカリキュラムの在り方」だったのですが、最後は、「要するに教員の力量形成が不安だね」ということになったことから、「教員の力量形成」が話題になると思い、以下の図を用意してRTDに臨みました。幸いファシリテーターの森朋子氏の見事な進行もあって、図の意図を説明する時間も確保できました。

SDGs時代の教員の力量形成モデル(案)

以下、再び『教育展望』2023年7、8月合併号における上図のうちの「学外者との対話」についての説明部分(p.34)を抜粋・転載させていただきます。なお、直方体の底の「感性や身体性を育む諸体験」の部分は、前回書いた高等学校の「教育コース」拡充に関連した部分に相当します。

今の先生方は忙しくて研修を受ける時間もない、自分で力をつける時間もないという実態がある中で、ではどうすればいいのでしょうか。実は先ほどお話した「持続可能な社会の創り手となる時間」の中で重要な点は、学校以外の人とのコラボ、協働体制というもので、そういったことを考えたときに、学外者との対話ということが、先生方の力量を向上させるのに役に立つのではないかと思うのです。学外者が、先生方とともに児童生徒を伴走する、そういう出会いの中で、学外者との対話というのができれば、それは一つ役に立つのではないかと思ったわけです。

学校教育への学外者の関与の必然性と懸念

2022年6月に内閣府の総合科学技術・イノベーション会議で採択された「Society 5.0の実現に向けた 教育・人材育成に関する政策パッケージ」では、これからの学校教育の在り方として、「分野や機能ごとの多層構造・協働体制・様々なリソースを活用」を提唱しています。これまでのPTAや学校支援本部が果たしてきた学校や教員をサポートする「裏方」的な役割から一歩進めて、学校の教職員が果たしてきた役割の一翼を担うイメージです。しかし、本当にこのような構想は現実的なものでしょうか。この構想については、二つの点が気になります。第一点は、実は、様々なリソースとして挙がっているのは、「社会・民間の力 大学、高専、企業、NPO,研究機関、福祉機関、行政、発達支援の専門家等」です。このような人材の発掘は、大都市周辺では可能かもしれませんが、それ以外の地域では困難と思われます。また、中央と地方の格差のさらなる拡大を招くことにつながる懸念があります。第二点は、そもそも今の学校、特に小学校に求められている学外者は、ここにあがっているような専門家なのでしょうか。少なくとも小学生の場合、地域で出会う普通の大人たちの方が重要なのではないでしょうか。大人がときどき教室に現れて、自分たちの学びの場に加わって、色々と質問をしたり、「へぇー、よく知ってるねぇ」と褒めてくれたり、ということが子どもたちにとっては大きな刺激となります。また、保護者以外の地域の大人たちが子どもたちと出会い、先生方と出会うことで、今の学校が抱えている課題を共有してもらうことにも大きな意味があるように思います。

現実には、保護者にしても地域の方々にしても、かつての教え込み、知識注入型の教育を受けてきています。したがって、新しい「主体的・対話的で深い学び」の実践への参画を求められて、すぐに対応できるわけではありません。しかし、それぞれが学んできた多様な経験を生かし、子どもたちの未来をより良くするために知恵を出し合い、対話を重ね、試行錯誤を繰り返していけば、これまでにはなかった新たな可能性が開けてくる予感がします。

大局的な視点から学校教育の将来の姿を描いてみると、この学外者の教育への参画は必然の姿と思われます。社会の急激な変化と長寿化が一緒に到来している現代の日本。しかも地球温暖化のようなグローバルな課題から、身近にあった店舗が利用者の減少で次々と消えていくといったローカルな課題も一緒に押し寄せています。学校はこれまでとは違った役割を持たざるを得なくなっています。約百五十年前に、国家に有意な均質な人材を生み出す仕組みとして近代公教育制度が誕生し、すべての子どもたちが学校で教育を受けるようになりました。しかし、AIの目覚ましい発展によって消滅していく職種の拡大が現実味を帯びており、就職後も学び続けることが不可避となりつつあります。また、人生百年時代といわれるなか、退職後の人生を豊かにするという意味でも、学びの継続は重要性を増しています。そして、持続可能な社会を維持するにも、現代の大人は直面する課題の解決に向けて学び続けることが求められています。まさに「生涯学習社会」の到来です。このような大人の側の事情の変化も生じている中で、これからの学校はこれまでとは違ったものとならざるを得ません。学校は子どもたちだけが学ぶ場ではなく、大人たちも子どもたちと一緒に学び合う場に移行していくであろうし、それが望ましいのではないでしょうか。

改めて中教審の地方創生答申を読む

2015年(平成27年)12月21日に中央教育審議会が提示した「新しい時代の教育や地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・協働在り方と今後の推進方策について」答申の第1章第1節には以下の記述があります。

2 学校と地域の連携・協働の必要性

教育は,地域社会を動かしていくエンジンの役割を担っており,教育により,子供た ち一人一人の潜在能力を最大限に引き出し,全ての子供たちが幸福に,より良く生きられるようにすることが求められている。 学校は,全ての子供たちが自立して社会で生き,個人として豊かな人生を送ることができるよう,その基礎となる力を培う場であり,子供たちの豊かな学びと成長を保障する場としての役割のみならず,地域コミュニティの拠点として,地域の将来の担い手となる人材を育成する役割を果たしていかなければならない。一方,地域は実生活・実社会について体験的・探究的に学習できる場として,子供たちの学びを豊かにしていく役割を果たす必要がある。

また第2節には以下のように書かれています。

1.これからの学校と地域の目指すべき連携・協働の姿 (1)地域とともにある学校への転換

社会総掛かりでの教育の実現を図る上で,学校は,地域社会の中でその役割を果たし,地域と共に発展していくことが重要であり,とりわけ,これからの公立学校は,「開かれた学校」から更に一歩踏み出し,地域でどのような子供たちを育てるのか,何を実現していくのかという目標やビジョンを地域住民等と共有し,地域と一体となって子供たち を育む「地域とともにある学校」へと転換していくことを目指して,取組を推進していくことが必要である。すなわち,学校運営に地域住民や保護者等が参画することを通じ て,学校・家庭・地域の関係者が目標や課題を共有し,学校の教育方針の決定や教育活動の実践に,地域のニーズを的確かつ機動的に反映させるとともに,地域ならではの創意や工夫を生かした特色ある学校づくりを進めていくことが求められる。

さらに、第3章第1節にも以下のような記述があります。

地域における学校との連携・協働を進めていく際には,子供たちの将来,子供たちの 成長・発達に向けて,何よりも子供を軸として検討することが必要である。すなわち, 変化の激しい社会の中で,次代を担っていく子供たちに対して,どのような資質を育む のかという目標を共有して,地域社会と学校が協働して子供の教育に取り組んでいく必 要がある。また,今後は,子供たちを社会の主体的な一員として受け入れ,子供も大人 も,より多くの,より幅広い層の地域住民が参画し,地域課題や地域の将来の姿等につ いて議論を重ね,住民の意思を形成し,様々な実践へつなげていくことが重要である。 このように,子供の教育という共通の旗印の下に,地域住民がつながり,地域と学校 が協働することで,従来の地縁団体だけではない新しい人と人のつながりも生まれるで あろう。さらに,地域社会の課題解決にも,地域の一員として学校も関わっていくこと につながる。このため,真の意味で地域と学校が連携・協働することを目標としていく必要がある。

若手教員に求められる力量の形成を改めて考える

このような中教審答申が出されましたが、残念ながら、具体的な提案としては、学校運営協議会の設置についての教育委員会の努力義務化や、学校運営協議会に学校の応援団としての役割が付加されたことなどで、教員の基本的な力量形成に関わるものへの言及はありません。したがって、教員養成や教員研修の在り方を大きく変えるものにはなりませんでした。

しかし、地域や学校の将来像を視野に入れた場合、これからの若手教員には、学外者との協働活動を進める過程で必然的に生じる対話を通して身につけていくような力量が不可欠であることは納得してもらえることでしょう。現在の大学における教職課程で学ぶだけでは不十分であることは言うまでもありません。激減している校内研修、しかも「タテ社会」の身内による古めかしい学校文化の再生産を意図しているかのような研修では新しい時代が求める力量形成がなされることもあり得ません。実際にそのような場面を通しての、ある意味OJT(On the Job Training)のような、適切な環境がととなわない限り身につけることのできないタイプの力量と言えるのかもしれません。

前回提案した、教師の「学びの根、人間性の根幹」をしっかりと育むための高校「教育コース」の拡充とともに、必然的に学外者との対話を促すことになる「持続可能な社会の創り手となる時間」の創設も是非実現してもらいたいものです。

しかし、それとともに、やはり、学校自身が、そして教師自身がカリキュラムを作る主体になるという、より高レベルの力量の獲得も必要となります。これについては次の機会に述べたいと思います。

2023年7月2日

高等学校「教育コース」の拡充を

諏訪 哲郎

革新を阻む完成度の高い学校教育システム

これまで2回にわたって教育調査研究所研究紀要第102号『若手教師の悩みに応える』(2023年6月5日刊行)に掲載された調査結果で気になった事柄を取り上げました。1回目は、小学校の若手教員で「教職に意欲や使命感が持てない教師」の割合が3年目以降増加しているグラフなどから、今後の小学校教員の力量形成への懸念について書きました。また、2回目は、「地域とともにある学校」の重要性が指摘されているにも関わらず、若手教師に対する指導で重視している項目の中に「地域の人々との関係」が希薄であること、そしてその背景に教育委員会主や学校内の、いわば身内ともいえる、「タテ社会」の枠内での若手教員に対する指導体制に問題があるのではないかということ、さらにはいったん完成度の高いシステムが出来上がると、容易に新しいシステムに移行しないことについて述べてきました。

この完成度の高い学校教育システムは、地域との関係だけでなく、授業の在り方など様々な面で学校教育が社会の変化に対応した迅速な動きを生み出さない理由となっています。学校教育に限らず、あるシステムが順調に稼働し始めると、そのシステムによって生み出される利便や利益が、そのシステム自身の存続・延命をもたらす力として働くからです。しかし、現代の情報システムを見ていると、目まぐるしいぐらいに新しいシステムが次々と導入され、革新されています。時代遅れのシステムを維持していたら、熾烈な競争から脱落していくからです。システムの淘汰という力が存続・延命の力を圧倒してしまうからです。しかし、学校教育の世界ではそうはならないようです。システムの更新を妨げるような力が根強く存在しているようにも思われます。

古いシステムの温存は様々な側面で大きな歪みを生み始めています。6月20日の朝日新聞は、公立学校の新任教員の退職者が増加し、2021年度には新任教員数に対する退職教員数が1.6%に達し、2015年度から6割ほど増加したことを報じています。教員の長時間労働や保護者からのクレームだけでなく、学校内の人間関係など、様々な要因が積み重なった結果と言えるでしょう。これからそのような課題の解決のために具体的な提案をいくつか書いていこうと思います。

まず今回取り上げるのが、高等学校改革に関わる事柄です。少し意外な切り口と受け取られる方が多いと思います。しかし、小学校若手教員に関わる課題の解決に向けてどこから取り組むべきかを考えようとすると、「高等学校から着手して見たらどうだろうか」ということになります。小学校若手教員にかぎりませんが、教師の固有の特性が、学校教育というシステムの中でどのように作られていくのかを辿っていくと、納得していただけるのではないかと思います。

ダン・ローティの指摘する「観察の徒弟制」と「教師は教えられた方法で教える」

この教師に固有の特性については、ほぼ50年前にダン・ローティが『スクールティーチャー 教職の社会学的考察』の中で見事に描出しています。他の専門職と比較して教職には「個人主義・現状主義・保守主義」が顕著にみられることを指摘し、その由来についても解き明かしています。この「学校教育とSDGs」欄でも2022年5月9日にかなり長々と紹介したことがあります。特にこれから展開する今回の提案とも関わりが深いので、要点のみを列記しておきます。

・ローティは教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」の形成要因を探究する上で、「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造の学校」「精神的報酬」「風土病的不確実性」の4つを重要な分析概念としています。

・「観察の徒弟制(apprenticeship of observation)」とは、教師は、職業としての教職を自分自身が学校で長年授業を経験する過程で観察し、あたかも「徒弟制度」のように、教職についての文化や価値、規範などを身に付けているという意味です。

・「卵のパッケージ構造の学校(egg crate school)」とは、一まとまりの形状をしていながら、それぞれが分断されてしまっているという学校の教室の姿、あるいはそのことに由来する各教員の孤立した姿を表現しています。

・「精神的報酬(psychic rewards)」とは、教師の文化では他の専門職に比べて経済的な報酬や名声が少ない教職に、多くの人が参入し、止まっている理由として、教師が精神的報酬を重視しているからとローティは結論づけています。

・「風土病的不確実性(endemic uncertainties)について、ローティは、模範にする具体的なモデルが不在であることや教師の成果に対する評価が曖昧であること等の不確定性を上げています。このことについて、佐藤学氏は本書の「序」で「教師たちは「不確実性」によって絶えず不安に陥り、教育学の専門的知識に不信感を抱き、自らの経験を絶対化し、教育の理念においても理論においても知識においても集団的合意を形成せず、それぞれが悩みながら孤立している。」と解説をしています。

ローティは、教師のエートスとなっている「個人主義」「現状主義」「保守主義」を克服しなければ、教師や教職の置かれる状況は一層悪くなることを予言しています。

ダン・ローティの提示した4つの分析概念の中でも「観察の徒弟制」は重要で、教師は、小中高そして大学での授業を通して16年以上にわたって指導を受けてきた先生方の授業の進め方を身に沁み込ませてしまっています。まさに、「教師は教えられた方法で教える」という昔ながらのやり方が再生産されてしまうことになります。かつての教育実習の参観で私が鮮明に記憶していることを少し述べたいと思います。

2014年11月に下村文部科学大臣(当時)が、次期学習指導要領の方向性について諮問を行いました。わずかA4版で4ページほどの中に、「アクティブ・ラーニング」という言葉が3回も登場して話題になりました。その翌年度の教育実習の参観時には、実習生から「教科指導の先生から『文科省ではアクティブ・ラーニングと言っているけど、そんなことに時間を費やしていたら、大学入試の準備ができなくなる』と言われた」という話を聞きました。それから2年ほど経過したころ、私立の進学校での教育実習では、「あなたの授業の進め方は、あなたが5年ほど前に受けていた授業とまったく同じではないか。これからは知識を詰め込む授業ではなく、活動をさせ、考えさせる授業にしなければならない」という指導を実習生が受けていました。

確かに、現行の学習指導要領のもとで、「主体的・対話的で深い学び」(中教審の審議過程で「アクティブ・ラーニング」から名称が変更)を意識した授業はかなり増えています。しかし、コロナ休校の遅れを取り戻すということかもしれませんが、再び「知識を教え込む」という授業の先祖返りも生じています。

ここまで書いてきたことで、筆者がこれから主張しようとしていることは、すでに大方伝わったかと思います。小中高大の授業のスタイルが以前と変わらなければ、「教えられた方法で教える」という昔ながらのやり方が継承されてしまうことです。「観察の徒弟制」については、世界的に共通するかもしれませんが、日本の場合は、それに日本の教育界に強く染みついている「タテ社会」が加わっています。まさに、「タテ社会」型の研修制度と「教えられた方法で教える」という習性が両輪となって、社会の変化とは無縁の、学校教育独自の伝統的なやり方が継続していくことになります。そのために学びのイノベーションは進まず、結果として子どもたちのそのしわ寄せが及びます。

それでは、どうすればよいのでしょうか。小中高大の授業を全面的に変えていくことが求められているのでしょうが、それは容易なことでないではありません。ターゲットを絞り込む必要があります。ターゲットを絞り込む上で最も効果があると考えたのが、高等学校の「教育コース」の拡充とそのコースへの入学者を誘引するインセンティブの付与です。

高等学校「教育系コース」の現状と課題

牧瀬翔麻氏らによる「公立高等学校教育系コースの展開に関する予備的研究」(〔島根県立大学松江キャンパス研究紀要Vol.61、2022年〕には、「教育系コースの設置状況」という表が掲載されており、そこには25校が列記されています。そのうち、2011年度以降に設置されたものが16校に達しています。本文中のP.97には「2010年に24校設置されていたコースは、2020年は25校となっている」と述べられていますので、2010年までに設置されたコース等うち、15校は何らかの理由でなくなったということになります。 25校のすべての学校について、HPで確認した結果、7つの高校は幼児教育中心で、小中学校の教員養成はほとんど視野に入ってないことがわかりました。また、表中にも明記されていますが、大阪府の3校は統合されて1校になっています。筆者がネット検索した限りでは、牧瀬氏ら調査以降に新たに「教育系コース」が設けられたという情報は見当たりませんでした。コロナウイルスの感染拡大でそれどころではなかったと言えるのかもしれません。したがって、2023年4月時点では下の表に15校のみが小中学校の教員養成を意識した「教育系コース」を設けている高校と言えます。15校のうち兵庫県が5校、千葉県が4校、愛知県2校です。

小中学校の教員養成を意識した「教育系コース」を設けている高校一覧(2023年6月現在)

設置自治体高校名設立年次概要
千葉県千葉女子高校2014年普通科に教育基礎コースを設置
 安房高校2014年普通科に教育基礎コースを設置
 我孫子高校2018年普通科に教育基礎コースを設置
 君津高校2018年普通科に教育基礎コースを設置
愛知県半田高校2018年普通科に教育コースを設置
 豊橋南高校2018年普通科に教育コースを設置
大阪市桜和高校2022年教育文理学科に教職教育コースを設置
兵庫県明石西高校2008年普通科に教育類型を設置
 西宮甲山高校2009年普通科に教育総合類型を設置
 夢野台高校2010年普通科に教職類型を設置
 尼崎高校2014年普通科に教育と絆コースを設置
 山崎高校2017年普通科に教育類型を設置
奈良市高田高校2006年普通科に教育アンビシャスコースを設置
広島県庄原格致高校2019年普通科に医療・教職コースを設置
香川県坂出高校2017年普通科に教育創造コースを設置

この高校教育コースについての草分け的な論文である2012年の可児みづき氏の「高等学校における「教育」関連コース等のカリキュラムに関する事例研究 : 教員養成の試みとしての特徴と意義」(神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要 5 (2))では、特に2つの高校に焦点を当ててカリキュラムの紹介がなされています。論文ではÝ市立A高校とY県立B高校と記述されていますが、コースの設立年次から京都市立塔南高校と奈良県立平城高校と推定できます。しかし、両校ともつい最近統合されたり廃校となって教育コースがなくなっています。

高校「教育系コース」のカリキュラム

これら15校のカリキュラムでほぼ共通しているのが、教育系大学と連携した教育関連連続講義の実施と、地元小中学校での学校体験です。「教育関連コース」を持つ多くの高校は、地元の国立大学の教員養成系大学や教育学部と密接な関係を持っていますが、千葉県の千葉女子、我孫子、君津の各高校は、首都圏の多数の大学から講師を招いた講義を行っています。ただし、受講生から「自分の大学の宣伝ばかりでつまらない」という辛辣な評価がネットに書き込まれたりしています。

我孫子高校の教育基礎コースの令和4年度の夏季と冬季の集中講座については、HPに合計30枚の写真が掲載され、多種多様な大学から講師がやってきて講座を担当していることがよくわかります。ただし、その8割以上は、生徒が姿勢を正して座っている写真で、グループで活動している写真はわずかです。いまもなお、大学の教員養成課程においては、昔ながらの知識伝授型の講義が主流であることを想像させるものです。

一方、千葉県立君津高校の教育基礎コースについては、毎年度10回ほど発行している「教育基礎通信」がHPにアップされているので、教育基礎コースで実際にどのような活動をしているのかがよくわかります。平成4年度の「教員基礎コース通信 第1号」では、3年生の「課題研究」の中間発表が報告されています。そこには1、2年生での学習で見出した課題から教育に関するテーマを設定して各自で研究を進めてい様子が紹介されています。前年度までは、グループごとに研究を進めていたようですが、平成4年度からは個人での取り組みにすることに変えています。「一人 ひとりに妥協することなく興味あるテーマに取り組んで欲しいという思いから」変更した旨が書かれていました。2年生の春休みから調べを始め、テーマを絞り込んできた結果、「小学校の長期休み中に宿題は必要か」「幼い頃の遊びや習い事は集中力に影響を与えるのか」などの興味深いテーマが26も並んでいます。第2号では大学からの出前授業の報告がなされていますが、レゴブロックを使用して「困っている子ども」を客観的に表現すること、表現から読み取ることを学んだようです。9月に発行された第3号では、夏休みに中学校の学習会に支援者として参加した高校生のふりかえりも色々と紹介されています。ここでは紹介しませんが、中学生の学習指導を通して高校生が多くのことを学んでいることは間違いありません。第4号のタイトルは、「教育系大学進学者と語ろう。」で、君津高校の卒業生で教育系学部に進学した6名を囲んで聞き出したことが紹介されています。ただし、文面を見ると、半分ほどは進学相談的な内容でした。第5号は夏休みに公民館の子どもクラブに参加した1年生の活動報告で、レクも自分たちで考えて実施したようです。といった感じで、第9号には3年生の「課題研究発表会」の様子の報告、第10号には2年生が教職体験実習として小学校で授業実践をした様子が報告されています。なかなか工夫されたカリキュラムが準備され、実行されていることがよくわかります。私が教育学科の現役の教員であれば、ゼミ生に対して君津高校に1年間張り付いて卒論にまとめることを勧めたいところです。

愛知県の教育関連コースのカリキュラムの特色は、半田東高校がオーストラリア、豊橋南高校が台湾への教育研修旅行が組み込まれていることです。

その他で目に止まったのは、兵庫県立山崎高校の教育類型で、「地域のリーダーを目指すあなたの夢を実現するためのプログラム」として、キャンプや登山などの自然体験や、幼稚園・小学校での授業実習が用意されていることが書かれています。ともすると、進路指導の一環として「教育系コース」を設ける傾向が見え隠れする中で、正面から「地域のリーダー」の育成が謳われ、しかも、そのためにキャンプや登山などの自然体験が位置づけられている点、大いに心を動かされた次第です。ぜひ、直接訪ねてみたい高校です。

高校「教育系コース」でも旧態依然の教員が再生産される懸念

以上見ただけでも、高校「教育コース」には、探究や対話といった、これからの学校のカギを握る重要な要素がそこそこ散りばめられています。学外の講師を招き、小中学校や公民館等に出向いて子どもたちと接するだけでも、高校生としては得難い経験、体験になることでしょう。

しかし、それでは高校で「教育コース」を選択し、教員への道を歩み始めたとしても、知識伝授に明け暮れる旧態依然とした教員が再生産される懸念はぬぐい切れません。「教育コース」選択者であっても、全教育課程に占める「教育コース」特設授業の割合は1割程度でしかありません。大部分の授業は従来通りというのが大半だと推測されます。となると、大量の従来型の授業を通して「これまでの学校」の教師が再生産されていくのではないでしょうか。19世紀型、20世紀型授業の再生産から脱却するには、全カリキュラムが探究・対話・プロジェクト・STEAM教育中心の授業で構成され、さらに学年を超えた学び、学外者との協働など、「これからの学校」に相応しい授業が満載の「教育コース」が求められているのではないでしょうか。

現在でさえ15校しかないのに、そこまで望むのはないものねだり、と思われるかもしれません。しかし、日本の学校教育、特に教員の力量形成に大きな危機が迫っている小学校教育を立て直すには、「全カリキュラム丸ごと探究・対話型教育コース」(以後、「丸ごと探究・対話型教育コース」とします。)を各都道府県に2,3校設けるぐらいの大英断が必要なのではないでしょうか。各都道府県の知事ないし教育長が決断すれば、実現可能なことです。すでに文科省も、さらに内閣府もそのような方向性を打ち出しているわけですし、莫大な予算が必要になるという話ではないので「大英断」というほどのことではないはずです。

「丸ごと探究・対話型教育コース」拡充に必要な各界の支援

「丸ごと探究・対話型教育コース」の拡充には、学校関係者だけでなく、様々な学外関係団体や地域の方々の支援が必要となります。

全カリキュラムを丸ごと探究・対話型の授業に変えていくには、そのような体制を作るための人材を確保する必要があります。現在の学校教育の世界だけからそのような協力者を発掘しようとすると無理があります。地域ごとに事情が違うと思いますが、当NPOが拠点を置く山梨県北杜市で協力してもらえそうな団体として候補に挙がるのは、まず、KEEP協会と国際自然大学校という日本でも草分け的な自然学校が浮かびます。

少し古い調査ですが、日本には3700ほどの自然学校があると言われています。地域的な偏りはありますが、市区町村といった基礎自治体の数は約1750ですので、自然学校は、平均2つ以上存在しています、その多くは自然体験や環境教育に力を入れており、KEEP協会も国際自然大学校も、1980年代から参加体験型の学習手法を取り入れた活動を行ってきています。

地域の方々も有力な支援者になりえます。例えば、地域の課題の解決に取り組むような探究においては、地域の人々は最も頼りになる助っ人でしょう。2015年頃から若者の地方への「田園回帰」が進み、コロナウイルスの感染拡大がきっかけとなってリモート・ワークが急速に普及し、地方への移住者も増えています。「丸ごと探究・対話型の授業」の支援者を募ると、いろいろな能力とともに「次世代のためなら」という志を持つ人々が集まるはずです。単なるサポーターではなく、教員とともに次世代の育成活動に参画するという大きな役割を担ってもらうことは可能なはずです。

おそらく、「丸ごと探究・対話型教育コース」の拡充にとって、より大きな課題となるのは、コース選択者の確保でしょう。「取りあえずまずは無難な大学に進学して」と、自分の将来の選択を先延ばしにするモラトリアム志向が蔓延する中、高校入学段階で教職への道に誘引するには、「丸ごと探究・対話型教育コース」に対する高い評価が定着するまでの間は、相当なインセンティブを意図的に設けることは不可欠です。高校の学費免除だけでなく、特別奨学金を準備することも必要でしょうし、教員養成系大学への優先入学の枠をしっかりと確保しておくことも重要でしょう。それらのために各都道府県は若干の予算を計上する必要が出てきます。しかし、質の高い教員を確保し、質の高い学校教育制度を維持することによってもたらされる先々の利益を考えたら、微々たるもののはずです。

国や自治体が負担している公立学校の児童・生徒1人当たりの年間教育費は、大雑把に言うと約100万円です。児童生徒数は急速に減少していますが、1学年あたり、これも大雑把に言うと約100万人です。したがって、1学年あたり年間1兆円の教育費が投じられています。

一方で、佐藤学氏がかつて指摘した「学びからの逃避」や同氏が最近指摘する「学びの偽装」の蔓延は、それらの膨大な投資が十分に機能していないことを意味しています。仮に50%しか機能していない学校教育を60%にまで引き上げるとした場合、その最も有効な方法は、教育の質の向上であり、教師の質の向上であることは多くの人が肯定するのではないでしょうか。OECD諸国で最低レベルの公教育費(対一人当たりGDP比)を30年以上にわたって続けてきた結果として、今日の日本の衰退がもたらされたという意見があります。私も基本的にはその考えに賛成しています。

しかし、他方で、社会の変化に対応していない時代遅れの学校教育システムを放置しておくことで、イノベーションが進みにくくなっていることにも目を向ける必要があると思っています。

2023年6月17日

「地域とともにある学校」と若手教員への指導

諏訪 哲郎

『若手教師の悩みに応える』掲載グラフより(つづき)

教育調査研究所研究紀要第102号『若手教師の悩みに応える』(2023年6月5日刊行)が同研究所のご厚意で送付されてきました。前回は、そこに掲載されていた教職に意欲や使命感をもてない小学校若手教員の経年増加を示すグラフを取り上げ、今後の小学校教員の力量についての懸念について書きました。

今回は、今回は若手教員と地域との関わりの希薄さについて、また、学校教育における学外者との関わりに話題を広げていこうと思います。

「地域の人々との関係」の希薄さ

『若手教師の悩みに応える』のP.16には、管理職が「若手教師に指導するとき重視していること」を3つ選択させた以下のグラフが掲げられています。以下のグラフは小学校についてですが、中学校の場合、「授業をする力」に続いて「子供との人間関係」「生活指導をする力」「学級をまとめる力」となっています。中学校では教科担任制を採用しているので、「学級をまとめる力」の比重が低く表れています。

管理職が若手教師に指導するとき重視していること(3つ選択)

「授業する力」が小中ともに8割を超えていることについて、「学校では昔から「授業が命」「授業で勝負」と言われ、専門職として当然のことであるが改めて確認できたといえよう」と解説しています。また「最近重視されている「特別な支援を必要とする子供を指導する力」は1割強で少なく」とも書かれています。本研究の遂行者にとっては特別支援教育に関わる数値は予想以上の低さであったようです。

しかし、私にとっては、「地域の人々との関係」が小中ともに0.0%であったことに目が行きました。文科省からの「上意」が教育員会を経て各学校に「下達」される過程で取捨選択されていることを確認させられる思いでした。

現行の学習指導要領が2017年に告示されて7年が経過します。その中心に位置づけられたのが「社会に開かれた教育課程」です。また、学習指導要領の総則で強調されたのが「教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制」の確保を柱としたカリキュラム・マネジメントでした。ここでの「人的」体制には、学外の人材の活用が強く意識されていたはずです。さらにさかのぼると2015年12月には中央教育審議会から「新しい時代の教育や地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・協働の在り方と今後の推進方策について」という答申が出されています。その答申の理念として「未来を創り出す子供たちの成長のために,学校のみならず,地域住民や保護者等も含め,国民一人一人が教育の当事者となり,社会総掛かりでの教育の実現を図るということであり,そのことを通じ,新たな地域社会を創り出し,生涯学習社会の実現を果たしていくということである。」と書かれており、そこでのキーフレーズは「地域とともにある学校」です。様々な課題を抱えた学校は地域社会の支援を必要としており、地域社会もまた学校という地域の結節拠点を必要としているという相互依存の関係がいよいよ重要になっている、という認識です。生涯学習社会の到来による学校の変容も視野に入れています。

しかし、少なくとも小中学校における若手教員に対する指導では、「地域の人々との関係」は二の次、蚊帳の外というのが実態のようです。

「タテ社会」の身内による指導体制

では、どうして文科省や中教審が重視している学校と地域の連携・協働が学校現場では重視されないのでしょうか?若手教師にとって地域との関係よりも優先度の高い課題が「授業力」であり「学級」であり「子供との関係」だからでしょうが、若手教員に対する指導体制にも一因がありそうです。 『若手教師の悩みに応える』のP48には若手教員がどのような場で(あるいはどのような人によって)指導を受けているかが示されています。下のグラフで一目瞭然ですが、教育委員会主催の研修、教育委員会関係者による指導、学内の管理職や指導的立場にある人の指導や校内研究会が大部分を占めています。しかも、16年前の2007年に実施した「前回」の調査結果とほとんど変わっていません。おそらく、このような身内ともいえる学校教育関係者中心の、「タテ社会」の枠内での若手教員に対する指導体制が変わることなく続いていることが、「地域の人々との関係」が重視されないことにつながっているように感じています。

若手教員はどのような場でどのような人から指導を受けているのか

おそらく、多くの学校関係者にとっては、別に疑問を感じることのない当たり前のことと受け止められているかもしれません。しかし、中教審答申を引き合いに出すまでもなく、学外者が果たす役割が大きな時代に入っていると思っています。この6年ほど学校運営協議会の会長として関わってきた杉並区立西田小学校では、様々な学外関係者が授業や研究会に関与しており、その結果として先生方も子どもたちも確実に著しい成長ぶりを示しています。そのような様々な学外者を交えた学びも評価されて、西田小学校は2022年度のESD大賞を受賞しています。

下の図は2021年1月の中教審の「令和の日本型学校教育」答申を受け、「「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実」に向けた関係会議に文科省が提示している図です。このなかでも、「協働的な学び」を進めるに当たって「多様な他者との協働」を重視する姿が描かれています。多様な他者として「専門家」とともに、「地域の人」がはっきりと書き込まれています。

http://(参考)「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実(イメージ):文部科学省 (mext.go.jp)

教育課題の増大と学外関係者関与の必然性

なぜ学外関係者が学校教育への関与を深める必要があるのかについて、学校が抱える教育課題の拡大とその対応を以下の図で私なりの理解を説明していきたいと思います。

下の図は、学校が抱える教育課題が増大しており、さらに増え続けることを示しています。そのうちのある程度は、学校の中の従来の教科教育等で教員がカバーする領域を増やすことで対応しています。しかし、授業や保護者対応で多忙な日々を送っている教師に対応できることには限度があります。多種多様な新たな教育課題に対して、子どもたちからの鋭い質問が出された場合に、満足できる返答をすることは困難です。したがって、学外者と連携・協働を進め、新しい教育課題にも対応できる体制でを構築することが必要になっています。

ただし、重要な教育課題が増えたからと言って、授業時間を増やすことは現実的ではありません。したがって、次期学習指導要領の作り方で議論が始まっているように従来の教科の内容を「ビッグ・アイディア」などでまとめてスリム化することで、新しい教育課題に対応する時間を確保することが求められることになります。このことは結果的には、下の図で示したように、これまでの学校で教職員が直接指導できる領域が縮小し、学外の関係者と連携・協働する領域が拡大することを意味します。そのことは必然的に教員が果たすべき役割として、学外者との連携・協働のためのコーディネーターとしての役割が増加し、その分、従来の教科指導等の役割の縮小が求められることになります。ひょっとすると教員間で得手不得手による役割分担が進むのかもしれません。

このような方向への変動を必然と捉えているのが、2022年6月に最終決定された内閣府の「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」です。そこに描けれた次の図では、これまで学校教育が担ってきた役割を層状に分解し、社会や民間の力を活用した協働体制を構築していこうという姿です。

「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」が描く学校教育の協働体制

学外者との協働体制に向けた準備

ここまで、学校教育に求められる課題の増大が、必然的に学外者の関与の度合いを増大させる方向に向かうことを述べてきました。そのような観点から改めて「管理職が若手教師に指導するとき重視していること」から「地域の人々との関係」がすっぽり抜け落ちている現実を見ると、未来社会における「地域とともにある学校」像が軽視され、結果的に未来社会を生きる今の子どもたちに不利益を与えてる可能性が大きいと思わざるを得ません。少し皮肉な見方をすると、若手教員が、もっぱら教育委員会が設定した研修会や学校内の研究会で、「これまで」の教育を進めるうえで指導的な立場にあった人から、「これまで」の教育の再生産のための指導を受けていると言えます。その当事者にはそのような意図はないでしょうが、結果的には学校教育界という「タテ社会」の再生産装置の役割を果たしてしまっている可能性があります。もちろん、教育には「不易と流行」があり、「不易」である部分についてはしっかりと保持すべきでしょうが、その一方で、未来社会への対応という視点が欠落しかねません。

『若手教師の悩みに応える』に掲載された二つのグラフから上記のような感想を持ち、さらに、いかに内閣府が学外者との協働体制という将来の学校教育の在り方について提案しても、すんなりとそれらが受け入れられることは極めて困難であろうと予想せざるを得ませんでした。いったん成功を収めたシステムが稼働し、それなりの役割を長期間果たし続けると、そのシステム自身が新たな展開を見せる社会に対する対応力を失い、むしろしかるべきトランジションへの移行を妨げる役割を果たしてしまいます。日本の高い教育力を支えてきた完成度の高い学校教育システムだからこそ、社会の大きな変動に迅速に対応しにくいことについては、約5年前に『学校教育3.0』(三恵社)で論じたことがありますので、ご参照いただければ幸いです。

それでは、前回述べた若手教員の力量形成に関する懸念と、社会の変化が必然的に求めている学外関係者との協働体制構築の困難さは、どのようにすれば克服していくことができるのでしょうか?一番肝心の子どもたち、将来の日本を背負う子どもたちにとって望ましい姿をどうすればできるのかについて、次回以降に考えてみたいと思います。

2023年6月15日

小学校若手教員の教職への意欲や使命感

『若手教師の悩みに応える』掲載グラフより

教育調査研究所研究紀要第102号『若手教師の悩みに応える』(2023年6月5日刊行)が同研究所のご厚意で送付されてきました。そこに掲載されていた調査結果で気になるものがありましたので、いくつか紹介していきたいと思います。この調査は、同研究所が2022年度に実施した質問紙調査に対して全国の小学校224校、中学校79校から得た回答を集計したものです。

同書のP.35には以下の二つのグラフが対比して掲載されています。いずれも初任から6年間に「教職に意欲や使命感が持てない教師の割合がどのように調査したかを示したものです。

中学校では2年目に意欲や使命感がもてない教師の割合が10%を超えていますが、以後減少を続けています。それに対して、小学校の場合は、3年目で一旦わずかに減少しますが、4年目以降どんどんと増加しています。極端に異なる傾向が現れていますが、一体なぜこのような変化が生じているのでしょうか。

教職に対する意欲・使命感の経年変化の小中比較

私立大学に対する初等教員免許課程認定の規制緩和

研究紀要をいただいたお礼として、このグラフについて、以下のような感想と独断的分析を教育調査研究所にお送りしました。

「教職に意欲や使命感がもてない教師の割合」について

P.35の「教職に意欲や使命感がもてない教師の割合」を示した小学校と中学校のグラフの対比は衝撃的でした。解説では、あえて小学校で4年目以降に「意欲や使命感」が持てなくなる理由を深く追及していないようですが、私は(あまり表立って言えないのですが)小学校教員の中に潜在的な力量の低い人が相当数混じるようになったことが、このような傾向を導いているのではないかと疑っています。

この十数年で初等教員免許の課程認定を百数十という私立大学が取得しています。その大多数は入試の偏差値が40以下あるいは偏差値ナシです。小学校教員免許の取得過程および教員採用段階である程度選別されるとは思いますが、高校時代にほとんど勉強しない、佐藤学先生の言葉でいえば「学びの偽装」で通した人や、大学生になっても読書の習慣が全くついてない人が相当数小学校教員になっています。

そのような人にとっては、新任当初は様々な支援を得ることで、また子どもたちと楽しい時間を過ごすこと、自分の適性や能力に疑問をもつことはあまりないかもしれません。しかし、4,5年経過するうちに独り立ちすることが求められるようになると、小学校の学習内容であっても大きな負担になっているのではないかと思われます。保護者との良好なコミュニケーションも、交わす話題を豊富に持ち合わせていないと苦痛に感じることと思います、

P26に「若手教師自身の課題」が列挙されていますが、上記のことと符合する事柄がいくつか見当たります。また、P50 で若手教師の状況で管理職が困っていることとして「子どものトラブルの調整」「保護者との関係」が高い数値になっています。それに対して、若手教師が「子どものトラブルの調整」や「保護者との関係」をあまり重視していないという対比が示されています。このギャップからは、若手教師に見受けられる感受性、感性の未成熟を感じさせられます。

「若手教師自身の課題」と若手教師の自己認識

上記のP.26には、小学校の管理職からの若手教師に対する辛辣な記述が列記されていますが、「ここまで書くか」という感想を持った2つを紹介します。

・資質能力が著しく低い若手教師が配置されつつある。頭数が揃っていればよいという問題ではない。特に理数系に弱い。

・自ら本を読んだり研究会に参加したりして学ぼうとする意欲が見られない。

「特に理数系が弱い」については、かつての小学校教員の多くが5教科入試の国立大学卒であったのに対し、近年増加している私立大学卒の小学校教員は、文系中心の3教科入試で大学に入学しているので、当然の帰結と言えます。小学校の理科や算数で教科専任が増えている背後にはこのような事情もあります。

他にもp.23には以下のような管理職の記述があります。

・自分は頑張っている、自分のやり方はまちがっていないという人はいくら指導しても変わらない。

次の二つのグラフの上は、管理職が「若手教師の状況で困っていること」、下は3年目から5年目の若手教師が「教師として一人前になるために重視していること」です。「授業をする力」や「学級をまとめる力」がともに高い数値になっているのは、当然でしょうが、「子供のトラブルの調整」や「保護者との関係」で管理職が困っているにもかかわらず、若手教師はそれらを重視していません。上記の「このギャップからは、若手教師に見受けられる感受性、感性の未成熟を感じさせられます。」と書きましたが、このような外部評価と自己認識の食い違いの背後には、教員になるまでの段階で、感受性、感性を十分に発達させるような諸体験の不足があるのではないかと思っています。

管理職から見た若手教員の状況で困っていること
若手教員が教師として一人前になるために重視していること

小学校教員の年代別出身大学の難易度

教育調査研究所へ送った感想・独断的分析に対して、本研究紀要の企画・編集を担当した同研究所研究部長から「諏訪先生のご指摘と分析は全くその通りです」と全面同意があった旨の文面とともに、その裏付けとなる資料も送られてきました。届いた資料は、龍谷大学の松岡亮二教授が2022年秋の中央教育審議会「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会基本問題小委員会に提示した資料でした。以下の表はその「『教員の資質能力の育成等に関する全国調査』の基礎分析」の中でも注目せざるを得なかったものです。出身大学の「一般的な入学の難しさ」で「あまり難しくない/難しくない」の割合が、30代に比べて20代で大幅に増えています。正規任用教員については30代の14.8%から20代は26.7%に、臨時的任用講師も30代の17.0%から20代は31.9%に急増しています。

学齢人口の減少によって大学入学の難易度が低くなっていることはありますが、中学校で「あまり難しくない/難しくない」の割合が30代と20代で極端な増加が見られないことから、前述の初等教員免許の課程認定を多くの私立大学に認可した結果が大きく関与しているとほぼ断定できます。

下表の出典:

松岡亮二(2022)『教員の資質能力の育成等に関する全国調査』の基礎分析

(中央教育審議会「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会基本問題小委員会提示資料)

教員の出身大学の入試難易度の年代別、小中別比較

では、どうしてこのような事態が、引き起こされたのでしょうか。初等教員免許の課程認定の私立大学に対する規制緩和を進める時点で、ある程度予想された事態だったにも関わらず、国立大学の教員養成系学部・学科への運営費交付金の削減を求めた財務省、それを容認した政権に大きな責任があるように思われます。しかし、それ以外にも追及するに値する問題がありそうです。

次回は『若手教師の悩みに応える』に掲載された別のグラフを取り上げて、もう少し別の側面から教育行政の問題点を探ってみたいと思います。そして、いくつかの視点からの問題を総合的に捉える中で、このような若手小学校教員に関わる課題に対してどのように対応していけばよいのかについての提案もしていくつもりです。

2022年11月23日

デジタルブックレット『「学校週4日(+地域学校1日)」の可能性』を刊行

ブックレット執筆のきっかけ

教育調査研究所のホームページに拙著『「学校週4日(+地域学校1日)」の可能性』がデジタルブックレットとしてアップされました。有償(650円)ですが、ダウンロードして読んでいただければ幸いです。

以下、そのブックレットにどんなことを書いたのかを掻い摘んで紹介したいと思います。

一言でいうと、現在の日本の学校教育には様々な課題が押し寄せており、それらの解決策として、「学校週4日(+「地域学校」週1日)」はどうだろうか、という提案です。つまり、子どもたちは従来型の学校に週4日だけ通い、地域社会が運営母体となる新たな「地域学校」に週1日に通うというもので、この構想の原形は、拙著『学校教育3.0』の付録で提示しています。しかし、原形に肉付けして再度持ち出ことになったきっかけは、2022年4月に内閣府内の教育・人材育成ワーキンググループが取りまとめた「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」です。そこにはこれまでの学校の姿から懸け離れた大胆な改革構想が示されています。例えば、小中高の垣根を超えた学びや多様な人材が子どもたちの学びに参画する姿です。今日の日本の学校教育が直面する大きな課題に立ち向かうには、このような大胆な改革構想が求められていると受け取りました。しかし、それらを実現するには、従来の学校教育のシステムを温存したままでは混乱を生じさせるばかりで、実際の有効な改革に結びつかない、これまでとは異なる新しいシステムの「地域学校」のようなものを導入する必要があると判断したことが、本書執筆のきっかけです。

日本の学校教育に求められている3つの改革

現在の日本の学校教育は、①教員の長時間労働、②世界的な学校教育の高度化、③児童生徒の多様化、という3つの大きな課題に直面しています。そして、それらに対応するために、3つの改革、すなわち「教員の働き方改革」「21世紀型学校教育システムへの改革」「子どもたちのWell-being改革」が求められています。しかし、今日の学校教育システムの根幹維持を前提とした改善策の積み重ねでは、対応しきれない、という懸念から想起したものが、「学校週4日(+「地域学校」週1日)」という構想です。

「学校週4日(+「地域学校」週1日)」構想の大枠を図示すると、以下のようになります。

「学校週4日(+「地域学校」週1日)」構想

「教員の働き方改革」が求められているのは、広く認識されていると思います。そして教員に押し寄せた結果として、教員の長時間労働が恒常化してしまっています。教員の多忙は、教員志望者を減少させるというような悪循環をもたらしていますが、教員の専門性開発に時間がどんどん減少しているという問題が生じていることなども、本ブックレットは重視して取り上げました。児童生徒が学校に通う日を週4日に削減することで、教員が夜遅くまで学校で過ごしたり、専門性開発に時間が取れないという問題を解消させるのが学校週4日の提案です。

そこで削減された週1日をどうするかということに対して、地域社会が中心となって運営する「地域学校」の開設を本ブックレットでは提案しています。しかし、地域社会という新たなシステムは、単なる子どもたちの週1日の居場所づくりだけのものではありません。前述の内閣府の教育・人材育成政策パッケージの改革構想や、2019年にOECDのEducation2030 プロジェクトが提示した「ラーニング・コンパス2030」の核心といえる「変革をもたらすコンピテンシー(transformative competencies)」を獲得したりするための、既存のシステムから解放された新たな学びの場という役割を果たすことができます。また、現在の学校教育システムでは対応の困難な「子どもたちの多様化」に柔軟に対応して、「子どもたちのWell-being改革」を実現するにも役立つはずです。

デジタルブックレット『「学校週4日(+地域学校1日)」の可能性』の構成

本ブックレットでは第1章で上記の事柄をもう少し丁寧に説明した後、第2章では、教員の長時間労働について、長時間労働の実態とその要因、時間労働がもたらす悪循環、専門性開発の衰退を中心に詳しく説明しています。第3章では、世界の学校教育の高度化と求められる教師の新たな専門性について、前述のラーニング・コンパス2030、社会のデジタル化、イノベーションとSTEAM教育などを例に挙げて記述しています。

 上に掲げた「学校週4日(+地域学校1日)」の構想図に即して詳しく記述していくと、次の章は、「子どもたちの多様化とウェルビーイング」というような章にすべきでしょうが、これについては、書きたいことが膨大ですので、次のブックレットに譲ることにしました。

 第4章では、「地域学校週1日」の可能性について検討しています。地域と学校の関係を歴史的に振り返ったのち、「地域学校」で展開される活動候補例を示すことで、地域関係者も十分参画できるものであることを強調しています。そして最後に、この「地域学校」は、将来的には「地域の学習共同体」という、宇沢弘文氏が提起した「社会的共通資本」としての学校の姿への展開が見込まれるものであることを述べています。

なお、付録として、『学校教育3.0』で提示した「未来の教育ショートストーリー:20X0 年の日本の社会と教育」の抄録を加えています

以上の紹介を読まれて、「学校週4日なんて夢物語」とか、「今の地域社会にはそれだけの余力がないよ」と思われた方にこそ、ぜひ、本ブックレットをダウンロードしてじっくりと読んでいただきたいと思っています。

2022年7月18日

『専門職としての教師の資本』

『教育展望』2022年5月号の書評

教育調査研究所から『教育展望』の「展望らいぶらりい」欄へ『専門職としての教師の資本

―21世紀を革新する教師・学校・教育政策のグランドデザイン』(アンディ・ハーグリーブス、マイケル・フラン著、木村優、篠原岳司、秋田喜代美監訳、金子書房、2022年1月)に対する書評の依頼があり、以下の書評をまとめました。しかし、同書についてはもっと詳しく紹介しておいた方がよいと思い、少し補足しておきたいと思います。

本書は、著名な教育社会学者2名の共著Professional Capitalの完訳である。原著の刊行は2012年であるが、約十年を経て今年日本語訳が刊行されたことは、絶妙なタイミングであったとさえ感じている。

タイトルに付された「資本」は、ビジネス資本が1970年代以降、教育の世界に猛威を振るい、大きな弊害をもたらしていることに対して、今こそ、充実した教育を通して社会を豊かにする専門職としての教師に投資すべきである、という思いが込められている。

重視されている専門職としての資本は、人的資本、社会関係資本、意思決定資本の三つ。人的資本は、教師個人の知識・スキル等の力量、社会関係資本は教師としての同僚性やネットワークなどである。三番目に意思決定資本をあげているのが本書のユニークな点で、明白なエビデンスが存在せずマニュアルが通用しない中で「自由裁量の判断を実行する能力」である。

これら三つの専門職としての資本について、いずれも集団として獲得することが有効であることと、歳月をかけた経験の蓄積が不可欠であることを、豊富かつ説得力のある事例を通して著者は強調している。

しかし、後者の歳月をかけた経験の蓄積と、今まさに日本で進められようとしている教育改革が目指す教育関与者の拡大との間には、丁寧に埋めるべき溝がある。

この三月に内閣府の教育・人材育成ワーキンググループから「Society5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」が提示された。そこでは、子供たちを取り巻く環境の変化や児童生徒の多様性の拡大に対して、学校外の「よそ者」との協働体制が構想されている。教職の専門職としての資本のない人々が学校教育に深く関与することとなるが、教員の過剰労働や新たな教育課題の増加を考えれば、必然の方向といえよう。

学外協力者は不慣れな学校文化に大いに戸惑うと予測されるし、学校側では学校教育に理解の乏しい学外者に対するアレルギーが生じるであろう。そこで、学外者が教職や教師、学校文化を深く理解でき、また学校側も自らを省察するのに最適な本書が両者の溝を埋めてくれると期待している。絶妙のタイミングと感じたゆえんである。

ビジネス資本への対抗としての専門職への投資

ダン・ローティがSCHOOL TEACHER : A Sociological Study を刊行した1975年から、このハーグリーブスらによる『専門職としての教師の資本』が刊行された2012年までの間、アメリカ合衆国の教師は、新自由主義的な教育改革の猛威でさらされまし。レーガン政権の下で進められた新自由主義政策の一環として、アメリカでは「新自由主義的教育改革」が進められ、公教育に対してビジネス資本が次々と参入したり、達成目標に到達しない学校や教師に厳しい説明責任(アカウンタビリティ)を求めたりするようになりました。

本書の原題はProfessional Capitalです。Capital=資本は、投資されることで価値が増える資産です。新自由主義政策の下で教育の世界に続々と参入したビジネス資本への対抗概念として、「教育をよくするためは(教師という)専門職にこそ、投資すべき」という思いが込められた書名です。ただし、直訳の『専門職の資本』ではどんなジャンルの本かわからないということから、監訳者がハーグリーブスと協議して『専門職としての教師の資本』とすることにした経緯が、「監訳者あとがき」に書かれています。逆にいうと、Andy Hargreaves, Michael Fullanという著者名を見ただけで教育の分野の書籍と理解されるほど、二人の著者はアメリカでは名の知られた教育学者ということです。

では、その「専門職としての教師の資本」とは具体的には何なのか。第1章「資本というアイデア」でハーグリーブスらが挙げている専門職としての資本は、書評にも書いたように、人的資本、社会関係資本、意思決定資本の三つです。

その資本に対して誰が投資すべきかについて、序文では、「政治のリーダーたちは、教師の専門職の資本への期待、激励、後押し、そして投資を行う必要がある。ただし専門職の資本は真っ先に、個人的にも協働的にも教師たち自身によって獲得され、広げられ、再投資される必要がある。」(p.11)と書いています。

そして、専門職としての教師の資本を豊かにすることの意義について、第1章の締めくくりでは、新自由主義的教育改革を念頭に置いて、「専門職の資本の開発は、教職を苦しませるもの、責め立てるもの、そして全体として社会を苦しませるものに対する、いわゆる新たな「ソーシャル・キュア」の探究である。」(p.42)としています。

アメリカと高パフォーマンスの国々の違い

ハーグリーブスらは、第2章の「教職への相反する二つの考え方」で、PISAのような国際的な学力比較調査で好成績を示すの国々(高パフォーマンスの国々)が、教職にとってより良い労働条件を整えることに投資しているのに対し、アメリカは教育への投資を減らして私立学校に依存したり、安直な教員養成を行ったり、成果に対して特別な報酬を支払うメリットペイを導入したりして、短期的な利益追求に走っている、と指摘し、専門職の資本への投資する必要があることを主張しています。

しかし、本書の大きな価値は、著者らが、そのためには、何を変革せねばならないかを知る必要があるので、教職について多くの人が抱いているステレオタイプを乗り越えて、教職の本質を徹底的に掘り下げてみる必要がある、と考えて、様々な視点からの考察によって教職と教師の本質を浮き彫りにしている点です。その結果として本書は、学校関係者以外の者が教職や教師、学校文化を深く理解する上でも、また学校関係者自身も自らを省察するのに最適な書籍となっています。

本書では、第2章以降、高パフォーマンスの国々とアメリカの対比がしばしば登場します。しかも、高パフォーマンス国の代表としてフィンランドへの言及が多くなされています。2003年にハーグリーブスの単著として刊行された『知識社会の学校と教師』では、もっぱら自身が滞在し、調査を行ったカナダのオンタリオ州の事例が中心でした。最初のPISA調査の結果が示され、フィンランドの好成績が明らかになったのは2001年です。『知識社会の学校と教師』の刊行以降、フィンランドの教育に対する様々な情報を得る中で、アメリカとの対比がより鮮明になってきたことが、本書に反映されています。

アメリカでは、共和党ブッシュ(子) 政権時代の2002年1月に立法化された「どの子も置き去りにしない法(No Child Left Behind Act of 2002:NCLB)」による、全国一律の到達基準の設定と基準未達に対する制裁措置を軸とする教育政策が打ち出されました。その後オバマ政権になって、その方向転換が期待されましたが、2009年7月に「頂点への競争(Race to the Top:RTTT)」という「競争と結果」を重視する教育政策が実施され、しかもNCLB法が継続されている、という時点で本書は執筆されています。そのような「競争と結果」重視の教育行政が進められ、しかも情報化の進展を好機と捉えたビジネス資本が教育産業への進出を進める中で、教師と学校が疲弊していくことへの対抗として、「専門職の資本」への投資こそ重要であることを、高パフォーマンスの国々の教育政策との対比を軸に主張したのが本書です。

PISA調査は、高パフォーマンスの国々とアメリカ、イギリスを対比させるという点で、ハーグリーブスは随所で利用していますが、PISA調査はリテラシー(読解力)と数学・科学に限定されたものである。その影響で、多くの国々がリテラシーと数学中心のカリキュラムを設定し、そこにビジネス資本が目をつけて「数値データやテスト結果といった狭小なエビデンス」を利用して教育産業として勢力を拡大していくことにも、ハーグリーブスは強く警鐘を鳴らしています。

教職へのステレオタイプ視による歪み

第3章の「教職のステレオタイプ」で、ハーグリーブスらは、私たちの教師に対する記憶と感覚が現在の教職に対する人々の見方や期待に大きく影響しており、選択された記憶によるステレオタイプの多くは、部分的には正しく、部分的には虚構であり、様々な視点から「作られたもの」であることを多くの事例で示しています。そして、ステレオタイプによる虚構が不適切な教職批判を招いている例として以下のようなものを挙げています。

・ケアを大切にする教師は子どもたちを過保護にして、子どもたちの挑戦にブレーキをかけやすい。(p.85 )

・教える中で自分自身を表現したり、情熱に突き動かされて教えたりするのでは、効果的な成果は必ずしも保障されない。(p.86 )

ハーグリーブスらは、従来のステレオタイプ的な見方を取り上げて、そう単純なものではないが、ステレオタイプ的な教師や教職像は、学校現場に度々足を踏み入れた研究者でも抱きがちであることも指摘しています。例示されたステレオタイプ的な見方の記述からも、著者らが、いかに教師と教職の過去と現状を熟知しているかが伝わってきます。ハーグリーブスらは、単に外から観察するだけでなく、プロジェクトを組んで教師へのインタビュー調査を重ね、また、多くの研究者と意見を交わして、今の教師の実態と、教師として教えることがどんなに大変なことであるかを十分に理解したうえで、解決の道筋をその後の章で展開しています。

エビデンスの限界と協働による新たな創造

1990年代以降、エビデンスに基づく教育実践運動が盛んになっています。しかし、測定可能なエビデンスは、しばしば意図的な選択や政治的な意図で歪曲されて学校や教師になげかけられがちです。第4章の「潜在能力とかかわりに投資する」の前半は、このようなエビデンスに対してハーグリーブスらは、限界を見極めて警戒すべきで、教師はエビデンスに過度に頼ることなく、経験を省察的に活用することでよりよい方法を獲得すべきことを勧めています。

この「よりよい方法」に関連して、ハーグリーブスらはここでもフィンランドを例に挙げて「協働での創造」の重要性を指摘しています。その骨子をまとめると以下のようになります。

「フィンランドでは、カリキュラムと教授法を教師が協働で創造していくことは専門職組織の責任と認識されている。効果的な授業実践は、見られ、観察され、経験され、解釈され、探究され、試行されることで初めて実現される。今、求められているのは、専門職の知を絶えず組織として打ち立てていける教師である。そこで必要になるのは、現時点で最良の教育実践と近未来を形作る新しい教育実践をともに用いる教師たちのコミュニティという専門職の資本である。(中略)フィンランドの教師たちが教室で過ごす時間は、他の先進諸国の教師たちよりも短い。フィンランドの教師たちは自らの実践を省察し、探究する時間を豊かに持っているが、アメリカでは正反対である。」

また、社会の急速な変化によって教育自身も大きく変化しつつある中、従来エビデンスにもとづく適切な判断とされていたものも、前提条件が変わることで有効でなくなっていることをハーグリーブスらは、ジョン・ハッティが準備段階、開始時、学習段階、フィードバック段階、終了時という一連の教えと学びを可視化してメタ分析をすることの重要性を指摘したことに一定の評価を示しつつも、以下のように述べています。

「ハッティが教育実践や学校教育の標準時間として採用した授業の単位は、1世紀以上古いものであった。授業という単位は、教師がその場で教える時間だけではない。また、現在、そして近い未来には、教師が教える時間は授業という単位の中で、ますます少なくなることであろう。それは、例えば自然の実地調査、ドラマ制作、午後に行われる総合的な社会研究プロジェクト、協同的なグループワークにおける子どもたち主体の学びへの没頭、地元にある河川汚染の科学的調査、学習障害を抱えた子どもたちを支えるテクノロジーの学び等である。(p.131)」

この記述からも、ハーグリーブスらは、未来の学校における学びが大きく変わることをしっかりと視野に入れていることを読み取ることができます。

教職の継続と同僚の支援

第4章の後半では、教職という仕事の継続にとって同僚との良好な関わり、すなわち社会関係資本がきわめて重要であることに力点が置かれています。

クリストファー・デイらが、「教師の質を改善するための様々な方略を3年目から5年目の若く熱意のある教師たちに対して行い経過を見たとしても費やしたお金や時間の投資に見合う最高のリターンを得ることは望めない」(p.142)としながらも、「教職への意欲を維持し続けた教師のうち、その63%は同僚の存在が決定的に大事だと感じていた。特に、小学校の教師たちはチームワーク、うまくいかなかったときに話せる人の存在、みんな同じ方向に向かおうとしているという感覚といったものに、高い価値を置いていた。」(p.142-143)とする報告や、マイケル・ヒューバーマンが、教職への意欲や情熱についてキャリア・ステージごとに分析した研究を紹介し、ハーグリーブスらは、「第4章のまとめ」の冒頭で以下のように書いています。

「もしも、あなたがプロとして教えることを望むならば、教職に長く留まる必要がある。ただし、永遠に留まりつづける必要はない。求められるのは、あなた自身の中で燃える情熱の火を探し当て、知識やスキルを研ぎ澄ますことである。また、もしもプロとして教えたいと願うならば、勇敢な一匹狼を目指すことは避けて、逆にオープンの助けを―リーダーから、同僚から、そしてあなたの専門性それ自体から―求める必要もある。(p.170 -171)」

専門職としての資本を高めるための要点

以下では、第5章「専門家の資本」と第6章「専門職の文化とコミュニティ」の中から、これは外せないと思ったパラグラフのみを転載します。

「国際学力テストの成績でトップクラスの国々のように、教職はどこでも専門職である必要があり、また専門職として改善し続ける必要がある。そのように私たちは信じている。教師の仕事である教えるという実践は、他の職業に就く前にちょっと試してみるような類の単純な行為ではなく、また、よりよい仕事が何もない時に頼るしかない行為でもない。効果的な教えとはよく準備され、繰り返し実践されなければならない。しかし、教えるという実践の熟達の高みへと完全に至るまでには、複数年の歳月が必要となるのも事実である。」(p.184)

「人的資本と社会関係資本だけでは不十分である。まだ何か見落としている資本がある。それは私たちが意思決定資本と呼ぶものである。専門職の本質は自由裁量の判断を実行する能力である。もしもあなたが被雇用者に対して難しい質問をしたとき、彼が「主任と相談するので、ちょっと待ってくれ」と答えたならば、その人は自由裁量をまったく実行できない専門職ではないと思うだろう。もしも教師がいつもマニュアルばかり参照していたら、あるいは授業が計画どおりにただ、一直線に進むなら、そのような教師もまた専門職でないと思うだろう。なぜならそのような教師はどのように判断していいのか分からないか、あるいは判断することを許されていないとみなされるためである。」(p.208)

「個人主義とは、単なる態度や見せかけても、ましてや教師たちが抱える心理的な苦悩でもない。時間、建物、フィードバックシステムなど、教師の仕事上の文脈や状況に根ざしたものである。しかし、これらの状況、あるいは伝統は、21世紀の初頭に著しい変化を経験してきた。ピア・コーチング、メンタリング、専門職の学び合うコミュニティ、データ・チームは、教師たちをより協働へと導くようになり、新たな可能性を教師たち自身に、教職そのものに、そして教師の専門職性に開拓した。教師たちが協働すれば専門職の資本を育むための機会もはっきりと増えていく。」(p.244)

「協働の文化と社会関係資本について学んだことは何であったか。傑出していたのは二つの基本的な教訓である。第一に、協働の文化を構築する多くの作業がインフォーマルであることだ。つまりは信頼と関係性を育むことが肝心で、それには時間を要する。しかし、もし協働に向けた努力が自発性や偶然性に完全に任されるなら、たいていは消え去り、誰にも理解をもたらすことはないだろう。第二に、同僚間の共同作業に見られる力強い協働は、会議、チーム、構造、規定等の計画的調整から利益を得られるかもしれないが、もしもこれらの調整が急がされたり、押しつけられたり、強制されたりしたならば、あるいは人間関係をより良くするために働きかけを欠いたままに用いられたならば。それらはまたもや効果を生み出さないだろう。」(p.269)

最後のパラグラフにある「調整が急がされたり、押しつけられたり、強制されたりしたならば」について補足しておきます。このような作為的な上からの協働や同僚性に対しては、「画策された同僚性」と表現されており、本書の重要なキー・フレーズです。

なお、第7章「変化を生み出すために歩みを進める」では、変化を起こすためにアクション・ガイドラインが、教師へ、学校と学区のリーダーへ、州や国、国際組織のリーダーへ、と3つに分けて書かれている。若干マニュアル本的な記述となっていますが、著者が様々な立場から教職や教師を俯瞰できる証ともいえます。

2022年5月9日

ダン・ローティの『スクールティーチャー』

これから数回、教員や教員養成ついての著作等を紹介します。今、日本の教員養成制度が抜本的大改革が求められていると感じ始めているからです。

教師についての社会人類学的研究

ダン・ローティが1975年に著したSCHOOL TEACHER : A Sociological Studyの日本語訳が、2021年11月に『スクールティーチャー 教職の社会学的考察』として学文社から刊行されました。アメリカ合衆国の約50年前の教員を対象にした社会人類学的手法を用いた研究ですが、そこに描き出された教員の姿の相当部分は、今日の日本の教員の姿そのものと言っても過言ではありません。

本書は、冒頭で監訳者の佐藤学が11ページにわたる行き届いた解説をしています。「著者と学風」に続いて解説の第2節で「教師研究としての意義―ウォーラーとの比較」を書いていますので、ここでも、まず佐藤学の解説を手掛かりに、ローティからさらに40年以上遡った、ウォーラーの捉えたアメリカの教員の姿を少し見ておきます。

ウィラード・W・ウォーラー(1899–1945)は、1932年に、The Sociology of Teaching(教職の社会学、1957年の日訳は『学校集団』(明治図書))を刊行しています。同書を、教師研究の草分けとなった古典的名著とする佐藤学は、「ウォーラーの研究の主たる関心は、教師の偽善、欺瞞、卑屈、権力性、権威性などの「非人間性(impersonality)」が、学校という制度のなかでどのように形成されるのかにあった。」「何よりも同書が、教師には特有のものの見方や考え方や行動の仕方があるという教師文化の存在を明示したことは、ウォーラーの最大の功績であった。」述べています。

ウォーラーは短い生涯でしたが、軍事アカデミーで自らが6年間携わった教師についての著作以外に、「離婚と法廷」「戦争と退役軍人」に関する著作があります。ローティが修士論文で医師の研究、博士論文で弁護士の研究を行っているのと同様に、他の職業についての研究や経験を踏まえて、教職や教師を外から(ないしは斜めから)捉えています。

ウォーラーは、学校の基本的な性質についてほとんどの政策立案者が理解しておらず、教師が内外の圧力に対して脆弱性を強く感じていることが、偽善、欺瞞、威圧的態度といった教師の非人間性を生み出しているということを、多くの事例をあげて説明しています。The Sociology of Teachingの最後の節で、「学校の改革は教師から始めなければならず、教師の個人的なリハビリテーションを含まないプログラムでは、教師の古い秩序に対する受動的な抵抗を克服することはできない。」(p.458)、「教師のトレーニングの中心的な要点は、学校という社会の現実の性質に対して深い洞察を試みることであるべきである。」(p.459)と述べています。

観察の徒弟制

ウォーラーが、自身の経験と様々な見聞を集約して社会学的に考察して教師の特質を描き出したのに対し、ローティは自身が行った質問紙を用いたインタビュー調査と全米教育協会による大規模調査データにもとづいて、教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」の形成要因を探究しています。ローティの重要な分析概念となっている「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造」「精神的報酬」「風土病的不確実性」について以下で順に説明を加えていきます。

 「観察の徒弟制」とは、教師は、職業としての教職というものを、自らが学校での授業を長年経験する過程で観察し、あたかも「徒弟制度」のように、教職についての文化や価値、規範などを身に付けているという意味です。その結果、教師はその参入過程で、他の専門職のような専門的な職業教育を軽視していると指摘しています。ローティの指摘する「観察の徒弟制」が教職の伝統的で直感的なアプローチの基礎を築くことについて、佐藤学は「教職を志望する学生は、大学に入る前から教職について「わかったつもり」になっており、他の専門職(医師や弁護士)のように専門家教育を受ける必要を感じていないし、教師になって以降は自分が教わった授業を再生産することになる。」(p.iv)とわかりやすく説明しています。

 ローティは、「観察の徒弟制」がもたらす不利益について、「ある職業が専門職として認識される理由の一つは、そのメンバーが極めて重要な公的事項についての奥義的(arcane)知識を共同で保有していると信じられているからである。」「教師たちの個人主義が自分の立場を強調したがらないことの基底にあると私は見ている。」と述べ、「成果(パフォーマンス)に関する考えが個人主義的であるがゆえに、教師たちは集団の達成レベルを向上させる戦略を発展させることが困難であると感じている。教師たちは専門文化の潜在力を向上させる方法を知らない。集団として要求に応答する能力がないことが、教職の地位を脅かしているのである。」(p.124 )と結論づけています。

卵のパッケージ構造

2番目の「卵のパッケージ構造」については、本文では、「細胞構造」と表現され、しかも様々な項目に分散して書かれています。卵のパッケージにしても細胞にしても、一まとまりの形状をしていながら、それぞれが分断されている学校の教室の姿、あるいはそのことに由来する各教員の孤立した姿を象徴した表現といえます。本書の第1章の「歴史的概観」に描かれた「卵のパッケージ構造」の成立過程には「なるほど」と納得させられます。

アメリカの場合、広大で人口の少ない土地に開拓地が分散していたため、それぞれの教師たちも互いに分散・隔絶された単細胞状態でした。しかし、都市の規模が大きくなるにつれて、学校のパターンが変化し、「それまで分離していた細胞は1つの屋根の下に結合され、生徒は年齢に応じて別々の教室に割り当てられた。」と述べています。重要な点は、一つの屋根のもとで複数の教員が集まることになって相互依存性が高まったわけではない点です。「なぜなら、個々の教師は、特定のグループに全教科を一年にわたって教えるか、のちに高学年で展開するように、単一教科を同じ集団に所定の期間教えるかのいずれかだったからである。」とローティは書いています。1950年代後半から、チーム・ティーチングや学校内部の壁の除去などの主張が現れて変化が生じていますが、教師間の分離と職務の相互依存の低さが長年続いています。そのもう一つの要因として、若い女性に依存しながらも既婚女性の雇用を認めない教育委員会の方針もあって、教職が離職率の高い職業で、「平均在任期間が短い場合、緊密に連携した分業体制を構築することはむつかしい」と指摘しています。

この学校の細胞構造が学校と教師に様々な不合理・不具合を引き起こしていることを、ローティは以下のような例で示しています。

・初任教師は同僚から物理的に離れて多くの時間を過ごす。初任者は校長やその他の教職員から指導的な関心を向けられるが、そうした最善の支援を提供できる学校システムにおいてさえ、1ヶ月に合計2,3時間以上に達することはまれである。(p.115)

・学校は細胞化された構造であるため、教師は閉ざされたドアを背にして、生徒以外の誰にも見られず、(おそらく)自分の成果を誰からも称賛されないことが容易に想像できる。(p.184)

・教師は互いの仕事をみることがほとんどなく、同僚からの監視から免れることを好むのである。(p.330)

精神的報酬

この「精神的報酬」は、本書の充実した「索引」を信用すると、29ものページに登場する本書における最頻出フレーズです。他の専門職に比べて決して高くない給与、長く勤めても低下するばかりの昇給比率といった経済的な報酬、あるいは名声や他者に対する権力という点でも満たされることの少ない教職に、多くの人が参入し、留まっている理由の追究が、社会学者としてのローティには大きな関心であったことが伺われます。このことは、以下のインタビュー項目の39番目にも、はっきりと表れています。

39 今日では教師が抱える問題を耳にすることが多いのですが、アメリカ合衆国では150万人が教職で働いています。公立学校の教職の何が人々を引きつけているから、教職にとどまるのだと思いますか?

 大雑把にまとめると、教師の文化では、上記のような外発的報酬の獲得を重視していない、ということになります。ローティは「教師の報酬構造は、精神的報酬を重視している。教室の文化が奉仕を重んじることを思い出せば、教師の労働生活における精神的報酬の重要性を強調するデータがあったとしても驚くことはない。」(p.156)と述べています。

ローティが、教師の得る報酬をどのように分類していたかは、以下に転載した質問紙インタビュー調査で用いた質問項目(巻末p.352-353に付録として掲載)を確認するとわかりやすいと思います。

外発的報酬に関する質問項目

T8 学校教師を「特権階級」と呼ぶことはまずありませんが、教師はお金を稼ぎ、ある程度は他者から尊敬され、何らかの影響を及ぼす立場にあります。あなたに最も満足をもたらすのは、これら3つのうちのどれですか?

 専門職として稼ぐ給料

 他者からの尊敬

 何らかの影響を及ぼす機会

 いずれも満足をもたらさない

精神的報酬に関する質問項目

T9 教師は自分の仕事で多様なことを楽しむことができます。あなたにとって最も重要な満足の源泉は、次のうちのどれですか?

授業の勉強をし、読書をし、計画する機会

規律と教室経営の習得ために与えられる機会

生徒(集団)の「心に届き」、生徒が学んだことが分かるとき

子供たち(少年たち)と交流して関係を築くための機会

付帯的報酬に関する質問項目

T10 教職について最も好きなのは、次のうちのどれですか?

収入と地位の総体的な安定性

旅行や家族活動などが認められる時間(特に夏季)

多くの競争相手や他者との競争なしに生計を立てるための機私のような人間にとっての特別な適切さ

いずれも満足とはならない。 

ローティは、実際に収集したデータの集計結果として「とくに教職から得られる満足を尋ねる質問に対する回答では、職務に関連する成果への言及が圧倒的に多かった。たとえば、ある質問項目では、125件が精神的報酬としてコード化されたのに対し、11件が付帯的報酬、9件が外発的報酬であった。」「質問に対する回答で最も強調されたのは、満足が生徒に関する望ましい結果に付随して生じることであった。」(p.156)ことを明らかにしています。

本書には、この精神的報酬に触れたインタビューへの回答事例が多く掲載されていますが、以下に一つだけ転載します。

卒業生が学校にやってきて話をしても、彼らは何の得もしてないし、握手することもないのですが、自分に大きな影響を与えてくれたことを話して、感謝の気持ちを伝えたいと思っているのです。これはいかなる教師生活のなかで何物にも代えがたい瞬間だと思います(以下略)。(p.182 )

風土病的不確実性

一方で、教師の仕事に対する評価の困難さなどが、教師の安心感ややりがいの喪失につながると、精神的報酬を脅かすことになります。教師の仕事に対する評価における不確実性の度合いの高さなどが、ローティが取り上げた4番目の特質「風土病的不確実性」です。この「風土病的」という用語の説明は本文中には見当たりませんが、佐藤学は「職業病的」という意味であると解説しています。

 第6章の「風土病的不確実性」の最初の方で、ローティは、他の職業の場合との比較で、以下のように教職の不確実性を多方面から例示しています。

「有形の分野における職人は、作業モデル、青写真、計画、詳細仕様を活用する。教師は、この種の物質的な標準(スタンダード)を何も保持していない。」

「職人は、特定の製品のどの部分に責任を負うかを把握しており、その段階にあるステップを統制するのが通例である。(中略)しかし、通常、教師は子どもに影響を及ぼす意義深い大人の一人にすぎない。教師の影響力の評価は、自己と他者との関係しあう影響力についての困難な判断を必要とする。」

「弁護士は訴訟に勝つか負けるか、技術者の橋は所定の重量に耐えるか否かである。しかし教職の行為は、同時に採用される多様な基準(クライテリア)の観点から評価される。クラスを魅了する教師が、内容の正確さを批難される場合がある。特定の子どもを叱責することは、残りの生徒たちを静かにさせるだろうが、その被疑者から不平等の申し立てを招くこともある。」(以上すべてp.199 )

 ローティは、以上のような模範にする具体的なモデルの不在、不明確な一連の影響力、多元的で論争的な基準、に加え、教師の成果を評価するための適切な時間やタイミングが曖昧であること、対象である子どもたちは教えられた後の成熟過程で変化し続けること、等の不確定性を上げています。

 そしてさらに、教師は教える対象を選択する権利を持ってないことや、教師の役割義務が「規則遵守を確保するだけでなく、「学習する仕事」への関心や努力を高めるような絆を築くことが期待されている」こと、教師は教室での一般的なルールを確立し、それらのルールからの逸脱を罰するが、「一人の子供に対して行われる行為は、他の子どもたちにも見えてしまうため、生徒たちは不公平だと思う扱いを受けるとすぐに反発する」ことなど、教職の不確実性の要因にも言及しています。

 この「不確実性」が教師の不安感や繊細な感情などを生み出していることを、ローティは豊富な事例を交えて丁寧に説明していますが、佐藤学は「教師たちは「不確実性」によって絶えず不安に陥り。教育学の専門的知識に不信感を抱き、自らの経験を絶対化し、教育の理念においても理論においても知識においても集団的合意を形成せず、それぞれが悩みながら孤立している。」(p.vi)と、見事に要点を手短にまとめた解説をしています。

 また、佐藤学は、本書のインパクトとして、ローティがこの「不確実性」を「専門家として克服しなければならないと提起したことが、その後の教職の専門性の開発研究を促し、1980年代半ば以降の教師教育改革を準備したとしています。この点については、そこから導かれる「同僚性」にも関わることで、是非、本書の佐藤学の解説を直接設参照してほしいと思います。

教育改革と教師の「個人主義・現状主義・保守主義」

ローティは、主に「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造」「精神的報酬」「風土病的不確実性」の4つの分析概念に基づいて、教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」が形成され、保持され続ける所以を本書で解明していますが、その研究の意図は、最終章の「変革についての総合的な思案」で明らかになります。

 ローティは「近年、何百万ドルもの費用が教育開発に費やされてきたにもかかわらず、学校の実情についての報告が質量ともに著しく不十分なのは逆説的である。学校への大規模な介入が意図せざる帰結をもたらすのは明らかである。(p.301)」と学校や教職や教師の実態についての研究が不足していることを訴えています。

 そのうえで、3つのシナリオを提示して、教師のエートスとなっている「個人主義」「現状主義」「保守主義」を克服しなければ、教師や教職の置かれる状況は一層悪くなることを予言しています。3つのシナリオのうち、2番目、3番目は約50年前の、しかも、アメリカ合衆国の実態を出発点としたシナリオという性格が多分にあるので、ここでは1番目のシナリオの要点を紹介します。ただし、2番目、3番目のシナリオは、進行しつつあった新自由主義的な改革に公立学校の教育現場が適切に対応できずに、悪化し続ける事態を招いているので、何をしなければならなかったのかを理解する意味では重要です。

 「伝統の侵食」というタイトルのついたシナリオ1は、教員文化の変化に焦点を当てたものです。今後、教育上の選択肢が急増する結果として、教師の保守主義に対する疑念の眼差しが高まり、教師たちが順応しなければならなくなるというシナリオです。教師たちは提示されたすべての選択肢を受け入れなければならないわけではないが、頑固な執着が功を奏することはないからです。 高度に構造化された事業プログラムが開発され、効果が高いと宣伝された場合、教師はそうした変革にどのように立ち向かうのか、そうしたプログラムに反撃するために、教師はどのように知的資源を持たなければならないのか、という問いに対して、納得いく回答を見いだすためには、協同するとともに、教師は自前の専門家を必要とすることになる、というシナリオです。

2022年3月18日

持続可能な社会の構築に向けた教育改革の円滑な推進のために

持続可能な社会の構築に向けた教育改革がいよいよ本格化しはじめています。しかし、改革案が明確になるとともに、その推進を阻むことになりそうな要素も明らかになってきていると感じています。その一つが学校と学校の外の世界の文化の違いです。この1年ほど、世界の教育改革の潮流や日本の教育改革の動向を私なりに整理して、この「SDGsと学校教育」欄に書いてきました。今回は、世界と日本の教育改革の潮流と動向を簡単に振り返るとともに、「学校文化」「教員文化」とも呼ばれる学校内の文化と、学校の外の世界の文化の溝が教育改革を阻むのではないかという懸念を述べ、その解消にための一つの提案をしたいと思います。

近年の国際的な教育改革の潮流

地球環境問題の深刻化や貧困・格差の拡大を背景に、持続可能な社会を目指す動きは、特に1992年の国連環境開発会議(リオ・サミット)以降、活発化してきました。また、2005年から始まった「国連持続可能な開発のための教育の10年(DESD)」によって、持続可能な社会の構築には、教育が大きな役割を果たす必要があるという認識も世界的に広まっています。

2015年の国連持続可能サミットにおいて、SDGs(持続可能な開発目標)を中心に据えた「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択されました。SDGsは、「私たちの世界を変革する(Transforming our World)」ために、それまで別々に議論されがちであった環境、社会、経済に関わる問題を統合したもので、17の目標についても「相互関連性と統合」が重視されています。また、同じ2015年に、OECD(経済協力開発機構)もEducation 2030プロジェクトを発足させて、持続可能な社会の構築に向けた教育のあり方について本格的に検討を始めました。そして2019年に、これからの世界の学校教育の潮流を大きく変える可能性を秘めたラーニング・コンパス2030を提示しました。

OECDは、2000年から国際的な学力比較調査PISAを実施してきましたが、2001年には「キー・コンピテンシー」という概念を提示して、それまでの「何を学ぶか」が中心であった世界の学校教育を、「何ができるか」に重点を移行させる役割を果たしています。近年の日本の学習指導要領でも「何ができるか」というコンピテンシーが重視されています。しかし、Education 2030プロジェクトでは、「社会の変化に対応する力を育む」という、それまでのOECDのスタンスでは、「持続可能な社会の構築」といった人類が直面する課題に対応した教育としては不十分なのではないか、という認識に基づいて、Well-beingを実現するための「変革をもたらすコンピテシー(transformative competencies)」を求めています。ラーニング・コンパス2030では、「新たな価値の創造」「対立やジレンマへの対処」「責任ある行動」の3つが変革的をもたらすコンピテンシーとして示されています。

これらのコンピテンシーは、従来から重視されてきた「知識・態度・価値観」に付加されるものですので、学校にとっても児童生徒にとっても、オーバーロード(過負荷)問題をもたらす可能性があり、その対応に向けた教育の変革もこれから求められることになります。

近年の日本の教育改革の動向

一方、日本では、新学習指導要領の前文で、児童生徒が「持続可能な社会の創り手となる」ことを求めています。これはまさに、持続可能な社会の構築を目指す世界の潮流に対応しようとしたものです。また、この持続可能な社会の構築に向けた教育を実質化するためには新たな学校教育の枠組みが必要という認識と、科学技術やイノベーションの立ち遅れが日本の国際的な地位低下をもたらしているという認識が重なって、2021年度から内閣府主導による教育行政への強力なテコ入れがはじまっています。

2021年4月に、内閣府の管轄する科学技術基本計画を科学技術イノベーション基本計画と改め、その3本柱の一つに「教育・人材育成」を位置づけ、内閣府の総合科学技術・イノベーション会議のもとに「教育・人材育成ワーキンググループ」を発足させました。同ワーキンググループでは9月以降、急ピッチで教育・人材育成についての検討を進め、2022年3月に取りまとめの提案がなされました。そこでは「学年・学校種を超える学び」「教科の枠組みを超えた実社会に活きる学び」「多様な人材・協働体制」というように、これまで分断されていたものを統合することで学校教育を変革しようという姿勢が強く打ち出されています。従来の学校の姿を大きく変える大胆な提案で、日本中の学校に激震をもたらす可能性もあります。

とりわけ、強調されているのが「協働体制」です。様々な新たな教育課題が学校に押し寄せている一方で、教員の過剰労働の解消が大きな課題となっていることから、これまで学校においてもっぱら教職員が担ってきていたものを教職員以外の学外の「よそ者」にも協力して担ってもらおう、というものです。「協働体制」を構築する必要があるという観点から、下図のような協働体制への移行が示されています。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/5kai/siryo2.pdf

このような日本のこれからの教育改革の方向性は、持続可能な社会の構築を目指す、「統合」による「変革」という世界の潮流にも一致したものであり、その着実な実施と学校教育への浸透が望まれます。

教育改革に伴う様々な軋轢・葛藤

しかし、これまでの学校教育の改革の経験から、国から示される改革が学校現場ですんなりと受け入れられ難いことは明らかです。授業や児童生徒・保護者への対応に加え、教育委員会などからも様々な報告等が求められ、多忙な日々の連続であって、将来の学校の在り方をじっくり考える余裕のない教員が多いのが実態でしょう。それだけではありません。従来の学校は社会から切り離された存在であったために独特の「学校文化」「教員文化」が存在しており、外からもたらされる変革も、できることなら避けて済ませ、現状を維持しようとする傾向が存在します。20世紀末のカリキュラム改革で導入された「総合的な学習の時間」についても、教科担任制が採られ、教科別の教員免許制度となっている中学校や高等学校の多くでは、その定着に10年以上の時間が必要でした。

しかしながら、教職員が「よそ者」とともに「協働体制」を構築すべきであるという教育・人材育成ワーキンググループの提案は、持続可能な社会の構築に求められる「変革をもたらすコンピテンシー」を育むためにも、また、児童生徒の多様化が進み、様々な新たな教育課題が押し寄せてきている現状に対応するためにも、大変重要な学校改革です。しかも、常態化しつつある教員の「過剰労働」が教員志望者を減少させ、教員の全体的なレベル低下を招くのではないかと懸念され始めている現在、「協働体制」の構築は、避けて通れないものと思われます。

学校教育に学外者の協力を求める姿勢は、以前から徐々に進行してきました。いじめの深刻化や不登校児童生徒の増加を受けてスクール・カウンセラー制度や、発達障害児の増加への対応として特別支援教育支援員制度などを導入してきました。また「チームとしての学校」という構想の下で、スクール・カウンセラー以外にもICT支援員、部活動支援員などを学校に配置されるようになってきました。

また、各学校に学校運営協議会を設置することを教育委員会の努力義務と課し、それまでの「地域に開かれた学校」から「地域とともに歩む学校」への転換を促してきました。そこでは「学校における地域との連携・協働体制を組織的・継続的に確立する」というように「協働体制」という言葉が使われています。しかし、約5年半、学校運営協議会の会長を務めてきた経験からも、学校運営協議会は学校の外側から学校運営に参画するというイメージで、学校の教職員との密な接触は限定的です。多くの学校に設けられ始めている学校支援地域本部にしても、それをさらに発展させる構想と思われる地域学校協働本部にしても、そこで展開される活動は、学校の外の「社会教育」のフィールドでの活動が中心で、学校内では「授業補助」「教員補助」「部活動指導補助」という補助的な位置づけの活動に留まっています。いわば、外堀に関わる活動といえます。

しかし、今回の教育・人材育成ワーキンググループが提示している「協働体制」は、従来から学校が担ってきた学習活動や特別活動、あるいは児童生徒指導という本丸に「よそ者」が入っていって役割分担をし、またある時は協力し合って協働活動をしよう、という提案です。この実施は「よそ者」を受け入れる学校側にとっても、「よそ者」として学校に乗り込む学外協力者にとっても、大きな、しかも多様な軋轢・葛藤を生み出す可能性が大きいと思われます。

地ならしのための双方の主体的学習

大胆な教育改革の提案が様々な軋轢や葛藤をもたらし、構想通りにすんなりと進行しないであろうという懸念には、根拠があります。アメリカの社会学者D.C.ローティによる『スクールティーチャー』(原著は1975年刊、織田泰幸らによる全訳は2021年)は、社会学的な調査研究に基づいて、教師という職業の特性として「風土病的不確定性(endemic uncertainty)」や保守主義、個人主義、現状主義をあげています。「風土病的不確定性」とは、一般的な物資の生産活動のようにマニュアル化し難く、次々と変化する子どもの反応に対して常に臨機応変の対応が求められるという意味です。そして、上記のような特性の結果として、「教師たちの提案は、ラディカルというよりは保守的であり、集団主義者というよりは個人主義的であり、未来志向と言うよりは現状維持志向になる。」「それらの提案は、革命よりは修繕に近く、要するに、要求の厳しい改革ではなく、軽微な調整で構成される。」(p.259 )と述べています。

このような教師の姿のままでは、社会の急速な変化の中で、次世代をしっかりと育むことができないということから、アメリカのハーグリーブス氏や日本の佐藤学氏は、同僚との協働の重視や、授業を互いにオープンにして研鑽を諮る「レッスン・スタディ(授業研究)を通した「専門職としての教師」という、新たな教師の在り方を追求していく必要があると主張してきました。しかし、教師の保守主義、個人主義、現状主義は今日も根強く残っています。しかも、これまでにもこの欄で書いてきたように、日本の教員社会は、日本の社会全般以上に、今もなお「タテ社会」の傾向が顕著です。したがって、そもそも教育改革自身にも消極的であるばかりでなく、「よそ者」が入ってく来ることに対して拒絶反応ないしアレルギー反応を起こす可能性が他の国々以上に大きいと思われます。

他方で、学校教育に協力しようという学外の組織団体のメンバーが学校に入って協働活動を進めようとした場合、独特の学校文化・教員文化に大いに戸惑うことになります。例えば、教員同士が同僚と密接に連携しているように見えながら、学校全体としてではなく、教科や学年といった特定の集団に留まっている「バルカナイゼーション(バルカン半島の国や民族に見られる敵対的な小集団に分割されている現象)」と名付けられた実態に接すると、国境を超えたサプライ・チェーンが当たり前の世界にいる人々には、学校の時代遅れを感じさせられるに違いないでしょう。

では、どのようにすれば無理のない「協働体制」を確立し、役割を分担して双方の力を存分に発揮できるのであろうか。以下に、具体的な提案を述べていきます。

教育改革の円滑な推進のための具体的方策

まずは、以下の事柄について、双方が当事者としてより正確な共通認識を持つことが、「協働体制」を創るうえでの前提になると思います。

(1)生態的・社会的な持続可能性の危機が、人類が解決すべき最優先課題となっており、それに対して教育が大きな役割を果たす必要が生じている。

(2)社会の急速な進展に伴い、学校が担うことが求められている新たな教育課題が急増している。

(3)児童生徒の多様性が拡大しており、これまでのような教室に30人以上を集めて一人の教員が一斉授業を行うことが困難になっている。

(4)また、上記のような課題に加え、保護者への対応や様々な事務作業の増大もあって、教員の過剰労働は、看過できない段階になっている。

(5)このような学校教育を取り巻く環境の変化の中で、文部科学省は、「地域とともにある学校」という、地域と学校との密な連携を重視してきた。しかし、地域との連携だけで乗り越えることができるレベルではないという判断から、さらに一歩踏み込んだ「よそ者」との「協働体制」が不可欠と考えるに至っている。

(6)しかし、長年培われてきた学校文化、教員文化について、学校側の教職員も自覚し、また学校教育に参画する「よそ者」もそれらが生まれてきた背景を理解しておくべきである。

 このような共通認識を持つには、双方が出会い、対話を重ねるのが最も有効でしょうが、そのような機会を度々設定することは現実的ではないでしょう。そこで、以下のような簡略化したアクティブ・ブック・ダイアローグ(以下、簡略版ABD)を中心とした勉強会をそれぞれが2回ほど事前に実施してはどうかと提案する次第です。

 なお、簡略版ABDに用いる資料は、A4版4ページ×5,6章を2回分で、新たに書き起こす必要があります。しかし、以下の項目の相当部分は、すでにこの「学校教育とSDGs」欄にアップしていますので、それほど多くの作業量にはならないと見込んでいます。

第1回目の勉強会案

世界の教育の潮流と日本の教育改革の動向に関する簡略版ABD

第1章 1990年以降の世界の教育の潮流と持続可能な社会

第2章 新自由主義的教育改革と『Finnish Lessons』

第3章 OECDのEducation2030 とラーニング・コンパス2030

第4章 戦後日本の教育改革を振り返る

第5章 内閣府教育・人材育成ワーキンググループの改革案(前半)社会と子供たちの変化

第6章 内閣府教育・人材育成ワーキンググループの改革案(後半)改革案の骨子

第2回目の勉強会案

学校文化・教員文化を理解し、未来の学校を考える簡略版ABD

第1章 ダン・ローティ『スクールティーチャー』の概要

第2章 アンディ・ハーグリーブス『専門職としての教師の資本』の概要

第3章 日本の学校と「タテ社会」

第4章 日本の教員養成制度とその特質

第5章 教師の専門性追求か、多様性追求か

第6章 2050年の学校の姿を予測する

簡略版ABDの進め方(合計時間150分)

1.【ガイダンス、教材配布】簡略版ABDについての手順や意図の説明し、参加者を5~6人のグループに分け、各グループのメンバーにそれぞれ1章分の教材を配布する。(5人の場合、第1回目、第2回目とも第4章を使用しない)【5分】

2.【資料読み込み】各メンバーは、自分が担当する章の資料を読み込む。(読み進める過程で、重要と思った部分にサインペン等で下線を引くことがお勧め)【30分】

3.【要旨書き込み】配布されたB6用紙6枚に、マーカーで要旨を書き込む。用紙は横長で用い、4行以内に収める、マーカーは太字を用いる。【30分】

 (休憩【10分】:この間に書き終えなかったメンバーは書き終えるようにする)

4.【説明】第1章分担者から順に、B6判用紙を1枚ずつ机に並べながら説明を加えて発表していく。一人4分以内。【25分】

5.【対話】全員分のB6判用紙を眺めながら、質問をしたり意見を交換したりする。【25分】

6.【ギャラリー・ウォーク】他のグループの机に並んだ36枚の用紙を見て回る。【10分】

7.【ふりかえり】ふりかえり用紙に感想等を記入し、グループ内で順に読み上げる。【15分】

《参考》

簡略版ABDを実施した2018年夏の免許更新講習(日本環境教育フォーラム主催、学習院大学協力、講師:川嶋直氏(日本環境教育フォーラム理事長)、中野民夫氏(東京工業大学教授)、諏訪)の記録写真を添付します。使用した教材は、拙著『学校教育3.0』(2018年4月刊、三恵社)の各章でした。

2022年2月16日

内閣府 教育・人材育成ワーキンググループの〈中間まとめ〉に対する雑感(後半)

3本の政策と実現に向けたロードマップ

政策パッケージの中心は、以下で概略を紹介する「3.3本の政策と実現に向けたロードマップ」です。この部分は、12月末に公表された〈中間まとめ〉段階では、ポンチ絵を用いたPPTが示されており、提示する政策の具体性が見えにくい感じがありました。しかし、2022年2月9日の会議資料で具体的な政策(案)が多数提示されています。しかし、それぞれの具体的な政策について、「課題・ボトルネック」「必要な施策・方向性」「具体の検討・実施体制」が文章化されて列記されており、個別の政策に関心のある方は、これらをご覧になることをお勧めいたします。しかし、それら全体の大きな方向性については、むしろ12月末時点で提示されていたPPTのポンチ絵に沿ってみていく方が適切と判断し、以下ではそのように記述していきます。なお、そのほかに、3つの大分類の政策ごとに今後いつどのように取り組んでいくかのロードマップも付されています。それを一覧するだけでも、2022年度から教育改革が加速されることは間違いないと断言できます。

<政策1>子供の特性を重視した学びの「時間」と「空間」の多様化

表題は、「時間」と「空間」の多様化と抽象的に書かれていますが、各スライドに書き込まれた内容をよく見ると、大転換なしには済ませないものが並んでおり、事実、先ごろ示された政策(案)でもこれからの大転換をもたらす可能性のある案が列挙されています。<目指すイメージ①>で示されたスライドの図(下図)を、「“これまで”を“これから”に変えねばならないので、この左側から右側への移動を政策として実行に移しますよ」と捉えると、関係する組織や部門に激震をもたらすことになります。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

例えば、2段目の「同一学年」を「学年に関係なく」とすると、教科書会社からは、「じゃあ、一体どんな教科書を作ればいいんだ!」という声が上がるでしょう。4段目の「教科ごと」に替わって「教科の枠組みを超えた実社会に生きる学び」が学校の中心になると、これまでの教科を軸に据えた教員養成制度の大手術が必要でしし、教科中心の人員構成となっている教員養成系の大学関係者の相当数は、「自分たちの出番がなくなる!」と大騒ぎするに違いありません。

しかし、その左右に配された子どもたちの多様性を示す図を改めて見せつけられると、「主体」から「教職員組織」に至るまで、これまでの姿を大幅に変える政策が、実際に次々と繰り出されても反論する理屈を見い出しにくくなります。どのような紆余曲折があるかはともかく、あと数年後にはこれまでの左側の姿が右側の姿に移行していることは、かなり高い確度の近未来像と思われます。

では、このような激震が伴う変革を肯定するのか否定するのかと問われれば、筆者は全面的に肯定します。なぜならば、このような学校教育制度の変革(Transformation)がなければ、新学習指導要領が前文ではっきりと断言した、児童生徒が「持続可能な社会の創り手になる」教育を実現できないと考えるからです。さらに言えば、未来社会の主役である小中学生が「「持続可能な社会の創り手」になれないような学校は、存在意義がなくなる時代に間もなく入っていくと考えるからです。

「学年に関係なく」をめぐって

上図では、6段にわたってこれからの姿が描かれていますが、このうち最上段の「子供主体の学び」や最下段の「多様な人材・協働体制」は、すでに以前から話題に上がっています。また、5段目のTeachingからCoachingは、授業ではなじみが薄いかもしれませんが、部活動の領域では、あれこれ指示するのではなく、子どもたちに寄り添って「伴走者」として見守るほうが子供たちの意欲を引き出すと、以前から認識されてきました。子供たちが多様化する中で、画一的な教え込みや一律の指示が通じなくなっていることは、すでに大方の教員は自覚しているはずです。

4段目の「教科等横断・探究・STEAM」は次の政策2の中心テーマですので、ここではそれ以外の「学年に関係なく」「教室以外の選択肢」を中心に見ていきます。

小学校教育関係者以外の方々にとっては、学校教育に学年があり、1年ごとに学年が上がって上級生になっていくのが、「学校の当たり前」の一つとなっていることでしょう。小学校の場合、1998(平成10)年度改訂(2002(平成14)年度実施)の学習指導要領から、各教科の目標と内容が、〔第1学年及び第2学年〕というように2学年をまとめて表記されるようになっています。

4月になると上の学年に上がるのがあまりにも普通のこととなっているため、一年ごとに進級する以外の学校の姿を想像しにくいかもしれませんが、一年ごとに進級させるのは、まさにSupply Sideの都合です。年齢を重ねるとだいたい同じように成長するので、誕生時から6年目の春に小学校に入学させ、同時に各学年の子どもたちは1学年進級し、6年生は3月末に卒業させてしまうのはシステムとしては実に合理的ですが、必然性はありません。子どもたちの成長発達の多様性が進む中で、1年ごとの進級に対する疑問が、小学校の学習指導要領における2学年ごとの目標と内容の表記となったといえます。それをさらに進めようというのが「学年に関係なく」です。イエナプラン教育では、通常4~6歳・6~9歳・9~12歳の3つのグループに分かれて活動しており、あるグループで3年間の活動を終えると次の年上のグループに移行することになっています。

しかし、「学年に関係なく」の説明文を見ると、学年だけでなく学校種も視野に入っています。つまり、小学校も中学校も一緒に、いやいや高校も関係なく、という考えです。例えば、マイクロプラスチックを削減するという課題の解決方法については、例えば、ドキュメンタリー映画『マイクロプラスチックストーリー』を小学生も中学生も高校生も一緒に見て、それぞれが考え、みんなの前で感じたこと・考えたことを発表しあうことは可能です。さらに、みんなで取り組んでどこかに働きかけなければ十分に効果が現れないものが多いことに気付いたころに、そのタイミングで大人の伴走者が、「みんなで解決方法を探究してみたら」と促す効果的です。学年も学校種も関係ない異年齢集団でプロジェクトが実際に動き始めることでしょう。小中高生が一緒になって、川を流れて海に向かうプラ製品や海岸に漂着するペットボトルなどの収集・調査をすると、学校種を越えて、次にどのように行動するべきかという議論になっていきます。このようなプロジェクトを経験すると、子どもたちは異年齢集団の中でこれまで経験したことのないような多様で深い学びを味わうことになるはずです。

筆者自身、杉並区立西田小学校の「NISHITA未来の学校~大人も子供も一緒に考えよう」という催しで、小学生、教職員、保護者、学校支援員、卒業生、地域関係者などがそれぞれのポスターの前で発表し、子どもも大人も質問し答えるという活動を企画したことがあります。大成功をおさめ、子どもにとっても大人にとってもどれほど大きな学びとなるかを自分の目で確認することができました。NPO法人八ヶ岳SDGsスクールが他の団体とともに毎月1回開催してきた「八ヶ岳SDGsコミュニティ」でも、大人に混じって小学生も高校生も発表し、質問して感想を述べています。大人にとっても大きな刺激を受けるイベントです。 「NISHITA未来の学校」にしても「八ヶ岳SDGsコミュニティ」にしても、現段階では単発的なイベントです。しかし、かつて拙著『学校教育3.0』の「付録 未来の教育ショートストーリー」で述べたように、学校に行くのを週4日に減らし、週1日は、例えば異年齢集団で地域を探究する学びの日としてそれを可能にする体制を整備すれば、まさに学校種に関係のない豊かな学びを実現することができます。「学年に関係なく」は言うまでもなく、学校種を超えた学びが新たな「当たり前」になるのも、まんざら夢物語ではない、実現可能なことです。

「教室以外の選択肢」とレイヤー構造

上図の3段目の「空間」のこれからの姿として「教室以外の選択肢」が書かれています。そこでの説明では、「教室になじめない子供が教室以外の空間でも」と書かれているので、不登校・不登校気味の子供たちのためのフリースクールやコロナ禍でインターネットを利用した自宅学習などを連想しがちです。もちろんそのような想定も含まれていますが、その次のスライドにおけるこれからの姿として、下図のようなレイヤー構造が示されているので、もっと大規模な「教室以外の選択肢」が構想されていると考えてよさそうです。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

これまでは、学校が子どもたちの教育のすべての分野・機能を担ってきましたが、これからは分野や機能ごとに、多様な担い手に委ねる構想が描かれています。部活動の大部分が学校の枠外に置かれるだけでなく、学習活動についても学校外の場で、社会や民間の力に委ねる姿が描かれています。

それではこの図と、2021年1月の中教審答申「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」において、「日本型学校教育」を「子供たちの状況を総合的に把握して教師が指導を行うことで, 子供たちの知・徳・体を一体で育む」としていることとの間に矛盾はないのでしょうか。この図では、「知」の半分は学校外、「体」の相当部分を占める部活動は大部分が学校外です。そもそも教員の過剰労働が明らかになり、地域社会の支援が求められて「地域とともにある学校」を打ちだしている中で、「子供たちの知・徳・体を一体で育む」学校像を目指すというのは大きな無理があったと反省し、本来の路線に戻ることにしようということなのでしょうか。

いや、そうではないでしょう。全人的な成長を考えたときに知・徳・体を一体で育むことは適切なことです。19世紀、20世紀は要素を分解して効率を上げることに汲々としてきました。その結果として生態系や社会的な持続可能性の危機が発生してしまっています。その反省に基づいてSDGsなどでは、様々な要素を統合して、総合的な観点から課題を解決しようとしています。いわば、21世紀は「統合・総合」によってこれまでの破壊を修復し直す時代ともいえます。したがって、「令和の日本型学校教育」という「知・徳・体を一体で育む」考え方が不適切なのではなく、問題なのは、現在の学校の体制の中で、現在の教職員の体制の中で追求していくような印象をもたらしている点でしょう。外部の人材や資源を活用していく方向性が示されていますが、それらを誰がどのように束ねていくのかについて具体的な提示がなされなかったこと、現在の教育に大きな負担がかかるという不安を抱かせないような丁寧な構想が十分に提示されなかったことが問題だと感じています。

いずれにせよ、これまで学校教育が一手に引き受けてきたものを領域・機能に分解して社会や民間に委ねるのが適切、という考えが本ワーキンググループの結論といえるかと思います。となると、学びの場として「教室以外の選択肢」が用意されるのも必然です。問題は「餅は餅屋」というようにレイヤーごとに別の組織や団体が役割を引き受けた場合、レイヤー間をどのようにつないで子どもたちの全人的な成長を確認していくか、ということです。つまり、各レイヤーがばらばらになって、それぞれが独自の路線を歩んでは、全人的な育みを達成するどころか、トンデモナイことになってしまいます。

「それこそ教員の仕事でしょう!」ということになると、教員に新たな負担がかかることになります。しかも「タテ社会」的な傾向の強い学校社会になじんできた教員にとっては、「ヨコ」の関係にある人々との周到な連携が求められる業務は大きなストレスをともなうものです。上図の下には、レイヤー構造の課題も以下のように書かれています。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

×印のついた学びの時間的・空間的な多様化による教育機能の低下という懸念に対して、①子供の学びを教師が把握し、伴走する、②協働的な学びの場を確保する、という2つの対応策が書かれていいます。また、学びや活動などの実施主体や責任の所在が不明確になる懸念も示されており、これには「学びの全体(を)学校が把握・支援する」とされています。いずれに対しても、「スタディログ等」を活用することが示されていますが、「スタディログ等」はあくまでもツールであって、中心になるのは教職員や学校です。しかし、前にも触れたように「伴走」を急に求められても、教科指導中心の「教え込み」重視の教員養成の下で育っている教員が、急に「伴走者」に変身できるわけではありませんし、学校が学びの全体を把握・支援するように求められると、実際に各レイヤーからの情報を収集し、整理し、さらに各レイヤーに発信するという業務が新たに学校、教職員に加わることになります。

これまでの学校の枠組みや、これまでの教員が教員養成や研修で学んできたものとはまったく異なるものが求められているように感じますが、その点についての具体的な言及は現段階ではみあたりません。この「教室以外の選択肢とレイヤー構造」の構想を進める以上、同時に各レイヤーと密接な連携を図ったり、各レイヤーを束ねたりするプロフェッショナルなコーディネーターは不可欠です。そのようなコーディネーターの養成こそ最優先で取り組むべき課題であろうと思われます。

<政策2>探究・STEAM教育を社会全体で支えるエコシステムの確立

この政策2では、探究とSTEAM教育は併記されていますが、探究についてはこれまでも中教審答申や学習指導要領の改訂で度々言及されてきたので説明する必要もないかと思います。STEAM教育については、まだなじみが薄いので少し補足しておきます。

STEAM教育については、2021年1月の中教審答申「「令和の日本型学校教育」の構築に向けて」の本文の56ページでかなり詳細に説明がなされています。そこでは、「教育再生実行会議第11次提言において,幅広い分野で新しい価値を提供できる人材を養成することができるよう,新学習指導要領において充実されたプログラミングやデータサイエンスに関する教育,統計教育に加え,STEAM教育の推進が提言された」とあります。2019年1月に示された教育再生実行会議第11次提言の中間まとめにも、一か所STEAM教育に触れた記述があるので、2018年には教育再生実行会議内でSTEAM教育に関する議論が活発化していたと推定できます。

筆者がSTEAM教育を初めて知ったのは、2011年12月にソウルの梨花大学で開催された韓国環境教育学会の下半期学術大会でした。「緑色成長と環境教育」というテーマで開催された学術大会の第1部では、開会式に先だち9件の口頭発表が行われました。そこで筆者が注目したのが、3件の発表に「STEAM教育」「STEAM授業」という用語があったことです。昼食時に韓国におけるSTEAM教育の提唱者であった金ジンス氏(韓国教員大学技術教育科教授、韓国技術教育学会会長)に声をかけてSTEAM教育を広めようとする理由を訊ねると、理数系忌避の傾向のある韓国の青少年を新たな教育手法で理数系に引き戻す意図があるという返答でした。通訳をしてもらった元鍾彬氏(学習院大学非常勤講師)によると、当時、STEAM教育についての研究を支援していたのは、教育府の外郭団体である「韓国科学創意財団」で、STEAM教育に関心を高めていたグループは科学教育(理科教育)のグループだったとのことでした。

STEAM教育は、以前からあったSTEM教育にArtのAが付加されたものですが、Artについては、「芸術」と捉える見方と「リベラルアーツ」(≒教養科目群)と捉える見方があります。「リベラルアーツ」には幅広く色々な分野をカバーするイメージがあるのに対し、「芸術」というと何か一つのこと究めるというイメージです。前述の中島さち子氏の場合、ジャズピアニストとして音楽というArt(芸術)を究めることが数学的な創造力にむすびついたのかと想像したくなります。しかし、中島氏が立ち上げたsteAmのホームページでは「アート・リベラルアーツ(Art/Arts)」と双方を併記しています。キックオフ・ミーティングで資料として示された「経済界から見たSociety5.0に求められる人材の能力」(下図参照:ただし、簡略化された図ではなく、原図を転載)では、「論理的思考力」や「規範的判断力」を涵養するという意味を持つものとしてリベラルアーツ教育が書き込まれています。

経済団体連合会 http://分科会の中間とりまとめ (keidanren.or.jp)

〈中間まとめ〉では、このArtについて 「問いを立て、デザインする力を軸にした、芸術、文化、生活、経済、法律、政治、倫理等を含めた広い範囲」と定義しています。この定義は、STEAM教育を最初に提唱したとされるジョーゼット・ヤクマン(Georgette Yakman)の“ST∑@M Education: an overview of creating a model of integrative education“(2008)という論文で示されたArtsの概念とほぼ一致しています。ヤクマンが概念的に示したSTEAM教育のピラミッド構造図(下図左)を細かく見ると(下図右)、リベラルアーツよりもさらに広く捉えている。しかし、ヤクマンの論文では、STEAMを「科学、技術、工学、芸術、数学の伝統的な学問分野(サイロ)を、統合的なカリキュラムにするために、いかに一つのフレームワークに構造化できるか、という開発中の教育モデル( a developing educational model of how the traditional academic subjects (silos) of science, technology, engineering, arts and mathematics can be structured into a framework by which to plan integrative curricula.)」と説明しており、Artsの内容が何であるかよりも、学問領域や教科が個別の教育内容となっている姿を、統合的なカリキュラムにすることにより大きな関心を向けていることがわかります。ヤクマンのピラミッド構造図の加筆されたバージョンではピラミッドの左側にContent Specific(個々の内容)→Discipline Specific(個々の学問領域)→Multidisciplinary(学際的)→Integrative(統合的)と書き込まれています。頂上付近には、当初から“Life-long” ”Holistic”と書き込まれており、社会の進展と共により上位に移行する必要があることを示しています。

STEAMについてのヤクマンのピラミッド構造図
上図の一部拡大図

となると、文部科学省が、「STEAM教育等の教科等横断的な学習の推進について」(令和3年?)の中でヤクマンの図を示しているのも、STEAM教育の推進を通して「教科の壁を低くする」という方向へ進めようとしているとも受け取れます。〈政策1〉の「時間」と「空間」の多様化を示した図の「教科」の欄の右側には、「教科等横断・探究・STEAM」という表題が掲げられ、その説明欄には、「教科の本質の学びとともに、教科の枠組みを超えた実社会に活きる学びを」と書かれています。「教科の本質の学びとともに」とは書かれていますが、これまでも言われてきた教科等横断・探究に、さらにSTEAMを加えることで、理系重視の印象を与えるとともに、教科の持つ比重を減らして教科の壁を低くする方向を意図しているようにも思われます。

この政策の表題にある「エコシステム」についても、筆者の専門領域に近い概念であるので補足しておきます。エコシステムは、エコロジカル・システム(ecological system)の短縮形で、日本語では生態系と訳されています。ある範囲に生息するすべての生物が、それらを取り巻く大気や水、土壌などの環境あるいは生物同士が相互に複雑に影響し合っているシステムを指すのが本来の意味です。様々な生物同士の食物連鎖/食物網(food chain/food web)などを連想してもらえるとよいでしょう。生態系が安定していることが望ましいという考え方から「エコロジカル」に「生態系に好ましい」⇒「環境に悪影響を与えない」という意味が派生し、いわゆる「エコ=環境にやさしい」が定着していきました。

近年「人新世(じんしんせい、ひとしんせい)」という用語が一般化してきているように、人類の活動が他の生物や環境に及ぼす影響が巨大となり、また、人類集団同士の相互関係が重大な関心事になると、Human Ecological System(人文生態系)という言葉も使われ始め、それを短縮したHuman Ecosystemという概念も生まれました。しかし、この概念がビジネスを中心とする一世界に広がると、Humanが付されずともエコシステムがもっぱら人類集団、特に企業や団体同士の相互関係に用いられるようになり、しかも、それらが相互依存の関係にあり、さらには協力関係の構築によって相乗効果が発揮される状況を指す用語として定着してきています。

ややエコシステムの説明が長くなりましたが、この政策2の「探究・STEAM教育を社会全体で支えるエコシステムの確立」の<目指すイメージ①>に描かれたエコシステムの構成母体を列記した図(下図)に書かれた説明を見ると、コーディネートや「つなぐ」が散見されるだけでなく、つなぐ人材≒コーディネーターの存在が前提となっているものが少なくありません。繰り返しになりますが、エコシステムの確立に不可欠やつなぎ役・コーディネーターの早急な養成が望まれます。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

【政策3】文理分断からの脱却・理数系の学びに関するジェンダーギャップの解消

〈政策3〉は「文理分断からの脱却」と「理数系の学びに関するジェンダーギャップの解消」の2項目からなっていますが、この政策に当てられたスライドは1枚のみで、しかも添えられた図は、学校段階が上がるにしたがって理系の比率が減少し、大学院への進学者が極めて少なくなることを示した下図のみです。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf
http://B章 教育への支出と人的資源:文部科学省 (mext.go.jp)

修士課程進学者も博士課程進学者も文系の大学卒業者では比率が低いので、学部段階での文系学生比率が高いことと、理系であっても大学院進学後の経済的な不安等が重なってこのような姿になっており、このことが冒頭に掲げた博士号取得者の伸び悩みや研究開発力の低下に結びついています。

このような結果になった理由は多々あるであるでしょうが、このスライドの「現状・課題」では触れられていない重要な理由があると考えています。それは、高等教育機関に対する教育支出に占める私費負担の割合が過去20数年にわたってOECD諸国中でも最低に近い水準であったことです。高等教育の教育費に対する公財政負担は2000年以降さらに低下し、2003年の国立大学の大学法人化以降、国立大学法人に対する運営費交付金は以後10年間毎年1%以上減額されました。そして、2015年には、大学教育への公財政負担がGDPに占める割合はOECD諸国平均の3分の1以下の0.5%にまで落ち込んでいます。OECD諸国では最低です。

日本の私費による教育費負担としては、小中学生の塾通いなどもあります。しかし、より大きな教育費の私費負担は、大学進学に伴う学費等の負担です。大学教育の相当部分が公的支出ではなく、学生あるいはその家庭の負担となっています。その結果、とりわけ収容学生比率で8割を占める私立大学では、マスプロ授業が可能で低い授業料を設定できる人文社会系の学部の入学定員を増やして収益の増加を図っていきました。大学の授業料を無償とする国は少なくありません。そのような国の場合、国家にとって必要な人材を考慮し、分野ごとの入学定員を決めることが可能です。これからは熾烈な理数系のイノベーション競争が展開され、それが国力や国民の豊かさを左右すると認識すれば、理数系の大学入学者比率を増やすことができます。しかし、日本のような大学進学にかかる費用の大部分を私費負担とすると、そして私立大学の営利優先を容認すると、学費が割安で済み、かつ大学としては収益の大きい人文社会系の入学者比率はじわじわと上昇することになっていきます。そして大学設置基準が新構想大学の新規参入を阻むことで、既存私立大学の既得権益を保護し、生き残りを助けているのが実態です。

ほかにも国際競争力低下の大きな要因となっている理系人材の先細りの理由は色々あるが、何よりも、国が高等教育を軽視してきたことが、今になって大きなしっぺ返しを受けているように思われます。

まとめ

教育・人材育成ワーキンググループの〈中間まとめ〉の記述内容を繰り返し確認し、補足的な説明を書きながら、提出された政策パッケージを実現するうえで何が最も重要で、今からすぐにでも着手すべきことは何かを考えてきました。これまでの記述でもかなり触れてきましたが、以下にまとめると

①学校と学外の様々なレイヤーをつなぐコーディネーターを相当規模で養成する仕組みづくりと早期の稼働、そしてコーディネーターに対する十分な報酬の確保

②72年以上にわたってマイナーチェンジで済ませてきた教科中心に構成された教育職員免許法の抜本的改革と、その際に求められる新たな領域に関連する人材の緊急育成

③中教審答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」(2018年11月)に掲げられた「大学設置基準の抜本的改訂」として本当に求められている事柄の早期実施

の3点です。

①については、全国の教職課程設置大学に潤沢な助成金を準備して「教育コーディネーター養成コース」設置を促すとともに、コースのカリキュラム開発を同時に進め、まさにアジャイルに(機敏に)かつ柔軟により効果的なカリキュラムにブラッシュアップさせていくべきでしょう。この①に関連することとして心配なことは、既存の教職員集団が、それまでの学校にいなかった教職員以外のメンバーの加入に前向きでない姿勢が現れることです。「タテ社会」と言われる日本の社会の中でも、学校は「タテ社会」色が濃い傾向があります。新規加入者をしっかりと自分たちの仲間として受け入れるためには、既存の教職員集団に日ごろからヨコの関係を広げるように促すことが有効ではないかと思っています。長期休暇期間中は、なるべく学校外での活動を奨励するのも大事だと思っています。また、コーディネーターという立場を理解するために、教員免許取得要件に、介護等の体験の義務化と同様に、コーディネーター等の体験を組み入れることも有効かもしれません。このような措置も同時に組み入れた制度設計が求められると思っています。

②については、2021年3月に文科大臣より中教審に対して「「令和の日本型学校教育」を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について」が諮問され、目下、中教審初等中等教育分科会教員養成部会を中心に議論がなされています。ただ残念ながら、下図のように「③教員免許の在り方・教員免許更新制の抜本的な見直し」が諮問されているのですが、これまでの経緯のしがらみにとらわれており、現時点では、抜本的な改訂の議論が進んでいるようには思われません。

https://www.mext.go.jp/content/20210312-mxt_kyoikujinzai01-000013426-2.pdf


例えば、教員養成部会が公開している最新の「配布資料」(2021年6月開催分)では、廃止が決まった免許更新講習や教員養成フラッグシップ大学構想あるいは教職課程コアカリキュラム(案)などの資料が並んでおり、その後の会議での議事録を眺めても、この教員・人材育成ワーキンググループでの議論との大きなギャップを感じさせられます。

③の高等教育改革についても、地域の活性化に資する大学が求められているにもかかわらず、文科省や中教審主導の改革は活発ではありません。中教審の高等教育分科会や文科省の高等教育局での「大学設置基準の抜本的改訂」に関する議論が進展しないことに業を煮やしたのか、内閣府が2021年8月に「地域中核・特色ある研究大学総合振興パッケージ」構想を打ち出しています。

このような府省庁に置かれる審議会等の会議体では、いわゆる学識経験者が相当部分を占めます。文部科学省に関わる会議体の場合は、そのような学識経験者が利害関係の当事者であったり、利害関係のある組織からの被推薦者であったりする比率が高くなります。となると、そのような会議体からの答申や報告等には、利益誘導的であったり守旧的な要素が多くなります。この構造的な問題は、社会の変化が著しく、早急かつ的確な対応が求められる現代社会にとってはかなり深刻なことです。内閣府が今後とも教育・人材育成政策の主導権を握るのはやむをえないことと思わざるをえません。

しかし、その際も会議等の方向付けの準備をする事務局側の未来社会に対する確かな見通しが求められることになります。また、内閣府が教育・人材育成政策の大きな方向性を定めた後の、「具体の検討・実施体制」は関連省庁が中心になって進めることになります。今回提示されたロードマップでは複数の省庁の連携の下で進められるものもありますが、特に文科省単体で進めるものも半分ほどあります。既存の政策との調整が求められるものもありますし、新たな会議体を設けて議論を深め、制度改正を目指すものもあります。

そのような中で注目したいのは、中央教育審議会初等中等教育分科会の下に、「個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実に向けた学校教育の在り方に関する特別部会」が設けられ、今月(2022年2月)から「教育課程の在り方の見直し」や「学校の役割、教職員配置や勤務の在り方の見直し」、「子供の状況に応じた多様な学びの場の確保」という、とりわけ大きな課題の具体施策の策定に関わることになった点です。しかも、その特別部会の委員11名のうち5名が、教育・人材育成ワーキンググループの中心メンバーであることです。もともと中教審側から教育・人材育成ワーキンググループに入ったメンバーですので、不思議でも何でもありませんが、政策をぶれることなくしっかりと進めていくという意気込みを感じさせられます。引き続き内閣府主導の教育・人材育成改革に期待するとともに、改革の実行ぶりを見まもりつつ応援していきたいと思っています。

(いったん完了)

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