学校教育とSDGs

2021年5月9日

新自由主義と学校教育

新自由主義とその信奉者集団

過去半世紀の日本の学校教育改革を振り返ると、いくつかの大きな勢力をもつ集団が、自分たちの信念を通しやすくするために、あるいは自分たちに都合のよいようにするために、場合によっては欧米諸国における動向をいち早く取り入れることが正しいものと思い込んで、主役である児童生徒や教員の想いをほとんど無視するような形で影響力を発揮し、本当に望ましい姿とは違う方向に学校教育を捻じ曲げてきたように思います。その一つとして、前回は、特に教員養成を停滞させてきた旧師範系大学関係の守旧派集団を取り上げました。そして最後に、「守旧勢力以上に、日本の学校教育を覆う大きな問題が存在」していると、あたかも今回、最大の問題を取り上げるような書き方で終わりました。

しかし、最大の問題について述べる前に、もう一つの大きな影響力を与えている考え方、つまり今回のタイトルにもある「新自由主義」について触れておきたいと思います。集団という捉え方をすると、「新自由主義信奉者集団」と言えるかもしれません。

新自由主義とは、1970年代初頭のドル・ショック(米ドル紙幣と金との兌換停止)や石油ショック(原油価格の高騰)によって国家財政状態が悪化したのに対して、公共的な政策についても民間の市場競争の原理を導入したり、中央で一括して掌握していた権限を分割して地方に移譲したりすることで、中央政府の経済的な役割を縮小しようとした考え方です。1980年代イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根政権が採用した施策がその典型で、その後も影響力が続いています。日本における具体例としては、国営であった国鉄が分割民営化されて今日のJR各社になったことが挙げられます。

この新自由主義の考え方が学校教育にも適用されたのが「新自由主義的教育改革」です。以前は、教育政策に対して政治が直接介入することを遠慮する傾向がありましたが、1980年代の臨時教育審議会以後、教育に関する首相直属の会議体が置かれ、そこから様々な改革が提案され、実行されていきました。まず、この40年ほどの間に実際に試みられた事例から見ていきたいと思います。

①学校選択制

中曽根総理の諮問機関として設けられた臨時教育審議会は、1985年から87年にかけて教育改革に関する4回の答申を行っています。そのうちの第三次答申に「学校選択の機会を漸進的に拡大する」という提言が盛り込まれ、それから10年後に文部省が「通学区域制度の弾力的運用について」という通達を出したことで許容されたのが学校選択制です。従来、公立の小中学校には一つの学校に対応した通学区域が設定され、その通学区域内に居住する児童生徒が通学する学校は決まっていました。越境入学というこの原則に反する行為もありましたが、極一部でした。しかし、この制度の導入することにした自治体では、近隣のいくつかの学校から選択して通学できるようになりました。

この学校選択制導入の根底にあったのが「競争原理の導入による活性化」でした。荒れた学校やレベルの低い学校は忌避されて通学する児童生徒数が減少する、それを避けるために各学校は子どもたちのニーズに応える魅力づくりに学校が取り組み、レベルが向上する、という発想です。児童生徒数の減少に対して学校の統廃合をしやすくするために導入したのではないかと疑いたくなる自治体もありました。一時は学校選択制を導入したり検討したりする自治体が急増して、通学区域制度が形骸化するかと思わせるほどでした。しかし、地域コミュニティの崩壊や学校間の序列化や格差の深刻化、あるいは保護者や子どもたちの受ける軋轢など、弊害が大きいということから導入を検討したけれども断念したり、一旦導入したけれども見直しをしたりする自治体が増えています。この学校選択制は減少傾向にありますが、今も一部の自治体では存続しています。そのように自治体で近隣の子どもたちが選択しなくなる学校に勤務する教職員のストレスは非常に大きなものと想像できます。

公立の中高一貫教育・中等教育学校についてもここで触れておきます。臨時教育審議会の提言の中核に位置した「個性重視」や「多様化・弾力化」の一環として提起された公立の中高一貫教育や中等教育学校については、中学校段階からの序列化などに対する懸念から、文部省も慎重な対応姿勢を保っていました。しかし、1999年から開設が徐々に進み、カリキュラム上の中高の連携に留まる連携型ではない、併設型の公立中高一貫校と中等教育学校の合計はすでに130校ほどに増えています。大学入試競争において、私立の中高一貫校が好結果を示す中で、公立も負けてはいられないという心理が多分に働いたものと思われます。これらは中学入試を経ての入学ですので、学校側に選択権があり、入学者に選択権のある典型的な学校選択制度とは異質ですが、競争の原理が中学校に持ち込まれたという点では同じ範疇に含まれます。

ついでに、私立小学校にも触れておきます。全国の私立小学校の児童数は8万人弱で、40年前の6万人から3割ほど増加しています。少子化の流れの中で、小学生の総数が40年前の約1200万人から約600万人に半減していますので、私立小学校に通う児童の比率はかなり増加しています。

②習熟度別授業

1980年代以降の「ゆとり教育」は、詰め込み教育批判に応えるものでしたが、一方で「自己決定、自己責任」という自己管理を求めるものでした。1年前のコロナ休校で、家庭で学習を続けた子どもたちと、ゲームやSNSに明け暮れた子どもたちの間に大きな学力格差が生まれたように、「ゆとり教育」も、ゆとりの出た時間を有意義に過ごすか無為に過ごすかは「自己決定、自己責任」と見なされたため、結果的には、学力格差を拡大させました。この学力格差に大きく影響したのが家庭の経済的・文化的格差であったことを示す調査結果もあります。

そのような背景の中で、学力に応じた効率的な授業を行うために、習熟度別授業が拡大していきました。この習熟度別授業については賛否両論があり、今も決着はついていないと感じています。保護者の理解などの周到な準備をし、なおかつ適切な指導が行われている場合はうまくいっているようです。逆に、単純に成績上位者と下位者を分けた結果、学級の分断が生じ、上位グループでも下位グループでも学習意欲が低下したという報告もあります。全体として、一部の教科に限定された、きめ細かな配慮のなされた習熟度別授業は徐々に拡大しているようですが、全体がその方向に向かっているわけではありません。

一方で、国際化の進展で、日本語を母語としない子どもたちも増えており、在籍する学級を離れて日本語指導や教科指導を受ける「取り出し授業」は着実に増加してきています。

③自律的公設学校と公設民営学校

日本の公立学校の場合、地方自治体が設置し、文科省や各教育委員会の指導に基づき、学習指導要領という枠組みの中で画一的な教育がなされてきました。それに対し、臨時教育審議会は、様々な側面における「個性重視の原則」を打ち出し、それが従来の公立学校の在り方にもじわじわと影響を及ぼしました。

その一つの在り方が、「自律的公設学校」で、公立学校でありながら、特色あるカリキュラムを編成・実施したり、独自の入学者選抜方法を設けたりといった自律性をもつ学校です。アメリカでこの30年ほどに間に徐々に増加してきたチャーター・スクールがこれに該当します。チャーター・スクールの場合、地域の人々が希望するタイプの学校設立を申請し、公的な資金援助を得て設立されます。日本でもある種の特別な能力を身に付けることを目的として、特色あるカリキュラム編成をもつ公立高校が増えており、高校教育の多様化をもたらしています。理数コースや外国語コース、あるいは探究科など、多様化は着実に進んでいます。しかし、地方自治体の教育行政の一環として特色を付与したものがほとんどで、地域の人々が主導して設立するチャーター・スクールとは異質といえます。

似たようでありながら、少し違ったものに「公設民営学校」があります。日本ではこの春(2021年4月)に開校した大阪市立水都国際中・高等学校が初めての事例で、この学校の場合、公立校でありながらその運営を民間の「学校法人大阪YMCA」に委託しています。これは国家戦略特区の特例が適用されて認められたものです。特区による特例としては、学校法人ではなく株式会社が設立した学校が、2004年以降いくつか誕生していますが、大部分は通信制の学校です。多様性の一つと捉えることもできますが、大きな影響力を持つ存在にまではなっていません。

日本比較教育学会は機関誌『比較教育学研究』第61号(2020年7月)で、「自律的公設学校の国際比較」という特集を組んでいます。その冒頭で、特集のコーディネートをした中島千恵氏(京都文教大学)が、「調査を通して公立学校運営ビジネスの動きが想像以上に進展して」おり、「欧米で教育モデルが創造され、アジアがそのモデルを受容・購入するという構造が形成されつつある」(p.7)と述べています。まさに、新自由主義による市場原理が教育の世界に拡大しており、それゆえに特集が組まれたのだろうと思いますが、日本の場合、潜在的な拡大の可能性はありますが、今のところ大きな流れを引き起こす気配は感じられません。

なお、新自由主義のもう一つの側面である「地方への権限移譲」という点では、例えば、小泉政権の下で、2002年に①国庫補助金等の削減、②国から地方への財源移譲、③地方交付税改革、という「三位一体の改革」が推進されました。その結果として、学校教育関係でも、国の補助金が廃止されたり縮小されたりして、その一部が地方交付税で賄われるようになるということがありました。そのことも地方行政関係者や教育委員会関係者にとっては大問題だったかもしれませんが、学校の教員や保護者にとっては、あまり利害にかかわらないものと捉えられたようで、大きな反対運動も起こっていません。

なお、学校教育における「競争」という点では、「席次」や「受験競争」、「学校の序列化」といった、百年以上前から存在していた問題などもあり、それらを含めて根本から議論をする必要があると思っています。競争には、確かに学びへのインセンティブという要素もありますが、競争での勝ち負けへのこだわりは、学ぶことの本当の意味を見失わせることになりかねません。社会の変化が著しい中で、青少年期だけではなく、生涯を通して学び続けることが求められる生涯学習時代に移行しつつあります。そういった中での学びは、充実した「生」を重視する方向へと進むはずで、勝ち負けにこだわる「競争」は、学びへのインセンティブとしての役割は薄れていくのではないでしょうか。

新自由主義と「規制強化」

これまで述べたことからは、1980年代以降の主要国に蔓延し、様々な政策に大きな影響を及ぼしてきた新自由主義も、日本の学校教育にはそれほどの影響を与えなかったと受け取られるかもしれません。新自由主義的な教育改革とは異なった、学習者の主体性を重視する新たな教育改革の方向に歩み出しているようにも感じています。

しかし、実は、今回のテーマである「教育改革と教員の多忙・疲弊」という点では、新自由主義を基調とする国政の運営が大いに関わっていると見ています。そのことを理解していただくには、「新自由主義の本質」に立ち返る必要がありますので、少しお付き合いください。

新自由主義は市場原理を最優先する考え方で、それまで政府が担っていた役割を民間に委ねたりすることで無駄な支出を削減して国家財政のバランスの取れた「小さな国家」を目指すもの、と教えられてきました。また、市場が活発に機能するには「規制緩和」が不可欠とも言われてきました。そのためか「小さな国家」であれば、国家の果たす役割も小さくなり、予算規模も膨張しないで済むし、様々な規制が緩和されて誰もが自由度の拡大による恩恵を受けることができるようになる思い込みたくなりますが、現実にはまったく違った姿が展開されています。

下のグラフから明らかなように、平成2年すなわち1990年頃から、つまり新自由主義的な政策が本格化する頃から日本の一般会計は税収が伸び悩み、歳出はどんどん膨張し、その差を赤字国債の発行で補填するという姿になっています。この30年間の歴代政権は財政健全化を謳いながら税収を大幅に上回る支出を続けてきました。その結果、借金総額を人口一人当たりで割るとほぼ1000万円にまでに膨らんでいます。到底「小さな国家」とは言えません。

http://財政に関する資料 : 財務省 (mof.go.jp)

また、教育学者の藤田英典氏は、主要新聞に掲載された「政治主導」に関する記事の件数を調べ、新自由主義政権の活動が活発化する1990年以降、「政治主導」についての記事が急増していることを明らかにしています。教育行政においても、臨時教育審議会以降も、教育改革国民会議、教育再生会議、教育再生実行会議といった首相直属の会議体が、教育改革を促す様々な提案をし、その方針に沿った具体案が中教審、文科省から発出されるスタイルが定着しています。しかし、それらの基本的な方向性は新自由主義の基本をされる「規制緩和」ではなくむしろ「規制強化」であって、しかも様々な提案が矢継ぎ早に繰り出されるために、それらが教職員の多忙や疲弊の一因となっていると思われます。

ではなぜ、新自由主義政権の下で、教育行政に対する政治主導や政治介入が強まり、規制強化が進むのでしょうか。新自由主義の根本をなす「市場原理主義」において何が重視されているのかを探っていくと少しずつ謎が解けていきます。

「市場原理主義」において、最優先で優遇され、保護される対象は、市場での取引の可能な私有財産であって、社会が共有する財産や社会全体にとって価値を持つものは、仮に貨幣価値で表すことができたとしても、基本的には除外されます。また、市場での取引が妨害されたり機能不全に陥ったりしないようにしなければならないという名目から、政府はより強い力を行使する権限を求めます。その結果として、場合によっては高圧的な行政指導や「規制強化」がなされたりします。

例えば、農地や山林が持つ環境面での価値、あるいは保水機能による防災的な価値のように社会全体が享受している価値などは見過ごされがちです。市場で貨幣に換算できる価値ばかりを重視して農地や山林の価値は低いとみなされて、結果的に農村の疲弊をもたらすような農産物の自由化が、消費者に安価なものを低居できるという名目のもとで推進されています。

学校教育という次の世代を育むという社会全体にとって不可欠な制度も、教育の果たす深い役割や子どもたちを育てることの難しさに対する理解が不十分なまま、市場原理主義最優先によって、「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」と捻じ曲げられてきました。

この30年間で、事務的な作業も精神的な重圧感も増大した、というのが長年教職を担ってきた先生方の共通の感想であろうと思います。「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」という新自由主義的な要求が、政権から文科省経由で教育委員会へ、教育委員会から学校へ、そして教職員へと降りてくるようになったことが、その大きな原因と感じていますが、そこには、学校が次世代を育んで社会を持続可能なものにするという社会全体にとって価値に対する尊重する意識が欠落しています。

宇沢弘文氏の「社会的共通資本」と学校

前述の「社会が共有する財産や社会全体にとって価値を持つもの」のことを、経済学者の故宇沢弘文氏は「社会的共通資本」と言っています。宇沢氏は多くの著作でこの「社会的共通資本」の重要性を述べていますが、以下に重要な著作を集成した『宇沢弘文傑作論文全ファイル』(東洋経済、2016年)から数か所を引用します。

社会的共通資本は、一つの国ないし社会が、自然環境と調和し,すぐれた文化的水準を維持しながら、持続的なかたちで経済的な活動を営み、安定的な社会を具現するための社会的安定化装置といってもよいと思います。(p.54)

社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる。大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー、そして教育、医療、司法、金融制度などの制度資本が社会的共通資本の重要な構成要素である。(p.412)

・・日本社会はいま、戦後60年を通じて最大の危機を迎えている。日本では、市場原理主義が、経済の分野だけでなく、医療や教育という社会的共通資本の核心にまで、その悪魔の手を伸ばしつつあるからである。市場原理主義の精神に則って、医療、教育の規制緩和、効率化の名のもとに、実質的には官僚的管理を極端な形に推し進めてきた結果、現場の医療関係者や教師たちはいま極限的な状況に追いつめられている。(p.38)

宇沢氏の指摘は的を射ており、新自由主義的政権によって進められた政策の中には、この「社会的共通資本」の重要性が考慮されてないものが少なくありません。今回のコロナ禍でも、「社会的共通資本」としての医療に対する軽視がまかり通っています。医療の崩壊の危機が迫っていても、経済活動を抑制するような対応に躊躇して結局感染拡大を引き起こしたり、感性拡大の危険が当然視されている中でオリンピックを決行しようとしたりしています。

同様に、教育に対する前述の「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」という過剰な介入が、教員の多忙や疲弊を引き起こし、子どもたちに様々な異変を引き起こしたりしています。

「いやいや、自分たちの教育への介入は決して不適切なものではない。世界の主要先進諸国も同様の教育改革に取り組んでいる」と抗弁するかもしれません。教育においても「質保証と評価」が何より重要で、「成果・説明責任・エビデンス」を迫ることがよいパフォーマンスを生み出すと本気で信じ込んでいるのかもしれません。しかし、1990年以降、世界的に新自由主義的な教育改革が進められたのに対して、PISA調査でも常に好成績を示してきたフィンランドがそれとは正反対の教育実践を続けてきたことが、Finnish Lessonsという本に描出されています。そこで展開されている指摘は説得力に富み、教育という社会的共通資本に対する新自由主義的な介入を正当とする主張こそが、エビデンスに欠ける思い込みと確信させるものがあります。

教育を社会的共通資本と捉えた場合に、学校教育はどのようなものであるべきか、という視点は、「未来の学校教育」の姿を描くうえで非常に重要ですので、次回に改めて話題に挙げるつもりです。

Finnish Lessonsが示す新自由主義的教育改革とフィンランドの教育の対比

Finnish Lessonsを著したPasi Sahlberg(パシ・サールベリ)氏は、フィンランドで教職に携わる傍ら教育省の専門能力開発戦略を統率したりしており、その後、フィンランドを離れて世界銀行で要職に就いて、世界各国の教育事情を熟知するにいたった人です。いわばフィンランドの内側と外側の両方の世界の教育事情に熟知しているSahlber氏が2011年に刊行したFinnish Lessonsでは、世界的に進められていた教育改革を“Global educational reform movement (=GERM:英語の”germ”には「病原菌」という意味もあります)と呼び、フィンランドが進めてきた教育とどのように違っているかを明快に示しています。両者の違いはFinnish Lessonsの中でも対照表の形で簡略に示しており、それを澤野由紀子氏(聖心女子大学)が『改訂版 海外の教育改革』(坂野慎二、藤田晃之編、放送大学教育振興会、2021年3月)の中で日本語に訳出して紹介しています。

ただし、澤野氏が訳出したのは、2011年に刊行されたFinnish Lessonsに掲載された対照表で、2015年に刊行された改訂版Finnish Lessons 2.0では、項目数としては5つで変わっていませんが、取り上げている中身が一部差し替えられたり、順番がかえられたりしています。そこで、以下では、Finnish Lessons 2.0に掲載された対照表を訳出し、本文の記述に基づいて若干の補足説明を加えたいと思います。なお、2021年1月にはLessons 3.0が刊行されており、発注しているのですが、まだ入手できていません。入手できましたら改めて少し丁寧に紹介してみたいと思っています。

グローバル教育改革運動 (GERM)フィンランド・モデル
学校間の競争 根底にある仮説は、競争が市場メカニズムとして機能し、最終的には質と生産性とサービスの向上をもたらすということ。公立学校についてもチャーター・スクール、フリースクール、インデペンデント・スクール、私立学校と入学者獲得で競い合うことで、最終的に教育と学習も改善すると想定。学校間のコラボレーション 根底にある仮説は、人々を教育するということは協働的なプロセスであり、学校間での協力、ネットワーク、アイデアの共有は、最終的には教育の質を高めるということ。したがって学校が協力し合うことで、互いに助け合い、教師が教室で協力の文化を創造するのを助けることになると想定。
スタンダード化された学習 すべての学校、教師、および生徒の質と公平性の向上のために、明確かつ高度で、一元的に規定されたパフォーマンス目標を設定する。 このことが、外部で設計されたカリキュラムを通して、測定とデータの一貫した共通の基準を確保しうる、スタンダード化された教育に導くことになる。個人に対応した学び 学校をベースとするカリキュラム策定のために、明確ではあるが柔軟な全国的枠組みを設定する。 すべての人に対応した学習機会を創出する最良の方法を見つけるために、国の目標に対する学校をベースとした個別の解決策を奨励する。 特別な教育ニーズのある人には個別の学習計画を使用する。
リテラシーと計算能力に焦点を当てる 読み書き、数学、自然科学の基本的な知識とスキルが、教育改革の主要なターゲットとなる。 通常、これらの科目の指導時間は、(芸術や音楽などの)他の科目の時間を削って増加させる。全体としての子どもに焦点を当てる 教育と学習は、個人の人格、道徳的特性、創造性、知識、倫理、スキルの成長のすべての側面に平等な価値を与えるような、深く幅広い学びに焦点を当てる。 学校教育の目的は、それぞれの児童生徒の生来の能力(talent)を見つけることにある。
テストベースの説明責任 学校の成績と生徒の成績の向上は、昇進、検査、そして最終的には学校や教師に対する報酬のプロセスと密接に関係する。 教師の給与と学校の予算は、生徒のテストの点数によって決まる。 制裁措置には、多くの場合、解雇や学校の閉鎖が含まれる。 国勢調査に基づく児童生徒の評価とデータは、政策立案に情報を提供するために使用される。信頼に基づく責任 生徒にとって何が最善かを判断する際に、教師と校長の専門性を尊重するという、責任と信頼の文化を教育システム内に徐々に構築している。 失敗したり取り残されたりするリスクのある学校や生徒に、資源と支援が提供される。政策策定に情報を提供するために、標本調査に基づいた学生評価とテーマ別の調査が使用される。
学校選択 基本的な前提は、家族のニーズにより良く応えるために学校間の健全な競争を奨励しつつも、子どもの教育を選択する自由が保護者に与えられなければならないということ。理想的には、公立であろうと私立であろうと、保護者は子供の教育のために確保された公的資金を使用して、自分に最適な学校を選択できるべきである。  結果の公平性 基本的な前提は、すべての子どもが学校での教育の成功について平等な見通しを持つべきであるということ。学校での学習は子どもの家庭の背景と、関連する要因に強く影響されるので、不平等に対処するための実際のニーズに応じた資金が学校に提供されることが、結果の公平には必要である。学校の選択はしばしば結果の不公平を増大させる分離を引き起こす。
表4-1 グローバル教育改革運動とフィンランドの教育改革モデル(Pasi SahlbergのFinnish Lessons 2.0、p.149-150に掲載された対照表を訳出)

澤野氏が訳出したFinnish Lessonsの最初のバージョンと上記の第2のバージョンで大きく変わったのは、一番上の「学校間の競争」と「学校間のコラボレーション」の対比が加わった点で、最初のバージョンで4番目に取り上げられていた「市場原理による改革理念の借用」と「過去から学びイノベーションを主導する」が削除されています。参考までに、削除された部分の澤野氏の訳出(『改訂版 海外の教育改革』、p.126)を以下に引用します。

市場原理による改革理念の借用
・教育の変化の源泉は、法律や国のプログラムを通して学校にもたらされた企業の世界の経営と管理のモデルである。このような借用は学校と地方の教育システムを私企業の操業の論理に導く。
過去から学びイノベーションを主導する
・教育においては、教師の専門的役割や生徒との関係のような伝統的教育学的価値を高く評価する。 ・学校改善の主な源泉は、良いことが証明されている過去の教育実践である。

まず、この差し替えられた部分について考えてみたいと思います。「市場原理」という言葉は、新しく加わった「学校間の競争」にも書かれています。あくまでも推測ですが、文中にある「企業の世界の経営と管理のモデル」や「私企業の操業の論理」が変質してきていることをSahlberg氏が自覚し、そのままの記述では誤解を招くと感じたからではないでしょうか。かつての製造業中心の経済から情報・流通が大きなウエイトを占める経済へ転換していること、また2006年にアナン国連事務総長が金融業界に「投資責任原則」を提唱し、それに呼応するかのようにヨーロッパを中心に「ESG投資(環境・社会・企業統治に責任を持つ企業への投資)」が広がり始めたことなどから、企業の経営モデルは競争や効率一辺倒からに変容しはじめています。環境や社会への貢献を重視したり、SDGsに協力する態度を鮮明にしている企業が急増しています。この差し替えは、そのようなことを敏感に感知した結果であろうと推測しています。第2バージョンの本文中には「政府は、学校間の競争、教育と学習のスタンダード化、懲罰的なテストベースの説明責任、情報不足のパフォーマンスベースの支払いなど、企業の世界からしばしば時代遅れで悪い管理モデル(outdated and bad management models from the corporate world)を採用しています。」(p.143)という、そのことを裏付けるような記述もみられます。

また「過去から学びイノベーションを主導する」については、過去の学校教育制度や教育方法などにも大きな欠点があり、特に「知識重視」の教育と決別して学習者の主体的な学びに移行する動きを適切なものと捉え、過去の教育を重視するのは適切ではないと考えるようになったのではないでしょうか。

一方、新たに加えた第一段目の「学校間の競争」は、Sahlberg氏が一貫して不適切としている市場原理による競争を、学校間の入学者獲得競争に焦点をあてたものです。本文中の説明個所では、Finnish Lessonsの最初のバージョン出版後の2013年にOECDが公表したPISA 2012 results: What makes schools successful? Resources, policies and practices (Vol. 4) が数か所で参考文献として挙げられています。このレポートを通して、ほかの国々で入学者獲得を巡って熾烈な学校間競争が展開されていることをより強く認識することになったことから加えられたと想像しています。

そのような世界的な潮流に対して、フィンランドでは、The National Board of Educationが1998年に示した「フィンランドの教育成果を評価するためのフレームワーク」と、 1998年に成立した教育に関する国内法によって、「現在の教育政策が学校間の協力を奨励 (current education policies encourage cooperation)」(p.176)していることにも言及していますが、学校間の協力がごく普通になされていることから、「学校間の競争」との対比で「学校間のコラボレーション」を第1段目に加えたと推測しています。

2段目の「スタンダード化された学習」について、Sahlberg氏は、結果に対する評価に基づく教育改革が1980年代に普及し、1990年代にスタンダードに基づく教育政策が各国で実施されていったことについて、「結果的には、学校、教師、学生に明確で十分に高いパフォーマンス基準を設定することで、望ましい結果の質が必然的に向上するというbeliefが政策立案者や教育改革者の間で広く疑問の余地のないものと受け入れられた。」(p.145)と述べています。ここで用いられているのはbelief(=信仰、信念)であって、決してエビデンスではありません。ちなみに、残念ながら日本でも、「授業スタンダード」が特に2012年以降に各都道府県教育委員会から続々と発行されています。このスタンダード化については、根深いものがあると感じていますので、また別の機会に整理してみるつもりです。

3段目の「リテラシーと計算能力に焦点を当てる」教育について、OECDのPISA、IEAのTIMSS、PIRLSなどの国際的な学生評価が、各国の教育政策においてコア科目重視を促していると指摘するとともに、このことに触れた節の最後で、「人生と雇用で成功するには、好奇心が強く、他の人と協働する方法を知っており、困難な問題を解決でき、リーダーシップをマスターしている若者が求められている(to be successful in life and employment requires young people who are curious, who know how to work with other people, who can solve difficult problems, and who master leadership)」(p.146)と書いています。何となく、新自由主義的教育改革推進者に対する著者の「わかっていないなあ!」という溜息が伝わってきます。

この「リテラシーと計算能力に焦点を当てる」に対応したフィンランド・モデルの「全体としての子どもに焦点を当てる」欄の最後に、「学校教育の目的は、それぞれの児童生徒の生来の能力(talent)を見つけることにある。」と書かれています。この文に相当する記述は、最初のバージョンにはありませんでした。”talent”と書かれているので「英才教育?」と早とちりしかねません。しかし、この点については、1994年のナショナル・カリキュラムが、ハワード・ガードナーの多重知能理論の影響を受けてたことで、「学校教育がすべての生徒に精神のあらゆる側面を発達させる機会を提供しなければならないことを強調している」(p.168)と述べて、フィンランドの教育システムでは、”talent”をより広い定義で捉えていることを述べています。

4段目の「テストベースの説明責任」と「信頼に基づく責任」の対比は、新自由主義の「成果・説明責任・エビデンス」を振りかざす学校教育介入が顕著に現れている部分で、当然ながらSahlberg氏は随所で批判を展開しています。そして、教育学や教育理論の最先進国であるアメリカ合衆国で、フィンランドで実践されているような教育が大規模に展開されてない理由として「合衆国の学校の業務は官僚機構、テストベースの説明責任、および競争によって大いに操られているため、学校はこの厄介な状況のもとで、強制されていることを単に行っている可能性がある」(p.170)という推測を述べています。

5段目に書かれている「学校選択」と「結果の公平性」は、一見すると対応してないような印象を受けます。学校選択は不公平を拡大するものであるのに対して、フィンランドは結果の公平を目指してきたことを強調したかったのであろうと思います。学校選択を進めることが様々な弊害を生み出すことは明白ですが、教育の需要者がより優れた学校への入学を求め、それをビジネスチャンスとして需要者の希望に沿うような学校を提供しようとする動きはどのようにすれば制御できるのでしょうか。

上記の表に書かれた「グローバル教育改革運動とフィンランドの教育改革モデルの対比」は、表層に現れたわかりやすい顕著な違いが列挙されています。しかし、Finnish Lessons2.0全体を通して読んでいくと、よりよい学校教育の構築に向けて長年、地道な努力を積み重ねるとともに、市場メカニズムに基づく安易な誘惑に対して、その都度、聡明な判断がなされてきたことを示す事例が多数盛り込まれています。フィンランド人の思慮深い国民性にも感心させられた次第です。

今回のまとめ

教員の多忙と疲弊の原因を探るために、今回は新自由主義に焦点を当てて検討してみました。最初の方でも述べたように、社会の変化がスピードアップしている今日、社会の変化に適切に対応する教育改革は必要なことです。Sahlberg氏がFinnish Lessons 2.0において最初のバージョンの記述の一部を削除したように、伝統的な教育にも様々な欠点があり、それらと決別するための教育改革は必要です。今回の学習指導要領に盛られた「持続可能な社会の創り手」や「主体的・対話的で深い学び」、あるいは教科横断的な取り組みを促す「カリキュラムマネジメント」の実現は、未来の社会に生きる子どもたちを育む学校教育に相応しいものと捉えています。

首相直属の会議体から矢継ぎ早に繰り出される改革の提案も、社会の変化のスピードを考えると、決して早すぎるとは言えないかもしれません。また、改革の方向性についても、妥当と感じるものは少なくありません。ただし、良かれと思っての提案だったかもしれませんが、不適切なものも確実に存在してきました。多分に新自由主義的教育改革が内包されており、Sahlberg氏が子どもたちにとって決してプラスになっていないと指摘する「世界的な教育改革運動(GERM)」に当てはまる提案もなされてきました。また、宇沢弘文氏が重視する社会的共通資本としての教育という視点が希薄な提案も混じっています。

総体として、日本の学校教育改革を振り返ると、学校選択や民営化に突っ走ろうとする動きに対して文科省や自治体自身は、かなり抑制的な判断・態度を示してきたと思います。しかしながら、市場経済以外の側面に対してはむしろ「規制強化」を推し進めるという新自由主義信奉者集団の介入に対しては、抑制機能はあまり働いているとは言えません。新自由主義信奉者集団の学校教育への介入が、学校や教員への「成果を示せ」「説明責任を果たせ」「エビデンスを明らかにせよ」という圧力となり、教員の多忙や疲弊をもたらす大きな要因になっています。

では、どうすればよいのでしょうか。次回は、少し巨視的な、大げさに言えば人類史的な観点から学校教育のあるべき姿を構想してみるつもりです。

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