なんでいま「令和の」なの?
中央教育審議会初等中等教育分科会は、10月7日に「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して ~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと, 協働的な学びの実現~(中間まとめ)」を発表しました。2021年1月には最終答申が提出されると予想されています。「最終答申」で「中間まとめ」に示された根幹がくつがえされることはまず考えられないことです。したがって、この「中間まとめ」の方向で施策が進められていくと受け止めて今後各方面で様々な準備がなされることになります。
今回の「中間まとめ」の発表で、「令和の日本型学校教育」という名称が話題になっています。「えっ、なんで「令和の」なの?」というのが、率直な感想でした。しかし、もう少し素直になれば、平成の教育から脱する意思を明確に示そうとしたと捉えるべきなのでしょうか。社会の変化が著しく将来の予測が困難な時代であるだけに、「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」(答申)のように20X0年を使うと、「20X0年時点での社会の変化をその程度にしかイメージできないの?」というような批判を浴びてしまいます。そうしないためには、「令和の」は賢明な選択だったいうことにしておきます。
「日本型学校教育」って、何?
さて、問題は「日本型学校教育」です。
実は、私の専門の環境教育の領域では、1992年に『日本型環境教育の「提案」』という書物が刊行されています。副題に付された「自然との共生をめざして」からある程度は書名の意図が推測されます。つまり、自然を人間が支配する対象と捉えがちな西欧的な、あるいはキリスト教的な世界観ではない、自然との共生を目指すところに「日本型」と名付けた所以がありそうです。では、「日本型学校教育」とはいったいどういうものなのでしょうか?「中間まとめ」には次のように書かれています(p.3)。
学校が学習指導のみならず,生徒指導等の面でも主要な役割を担い,様々な場面を通じて,児童生徒の状況を総合的に把握して教師が指導を行うことで,子供たちの知・徳・体を一体で育む「日本型学校教育」は、・・・・
つまり、徳育は家庭や教会が担い、体育は地域が担い、学校の先生はもっぱら知育に専念する欧米の学校と異なり、知育、徳育、体育をすべて学校が担うのが「日本型学校教育」であると捉えています。そして、続く・・・・の部分には、「全ての子供たちに一定水準の教育を保障する平等性の面,全人教育という面,卓越性という面などについて諸外国から高く評価されている。」と書かれています。日本の学校教育が抱えている様々な課題を深く知らない諸外国の方々からは、高い評価を受けるのかもしれません。
知・徳・体の一体は教育の本道、でもすべてを学校が担うの?
しかし、教育というものが本来あるべき姿を考えてみると、高い評価は案外的を射ているのかもしれません。なぜならば、子どもたちを大人にしていく教育という営みを、欧米のように知育、徳育、体育に分解して指導することが適切であるとは言えないからです。それぞれを専門とする人がその分野について最適の教育を別々に授けたからといって、全人的に優れた人間が形成されるわけではありません。要素に分解し、それらを集めてみても本当の姿とはかけ離れたものになりがちです。
近代教育は、効率を追求するために教えるべきことを教科に分解して教科教育を追究するやり方を150年続けてきました。その大きな弊害に気づいて、ようやく「総合的な学習」や教科横断的な学びを重視する「カリキュラム・マネジメント」を強調するようになってきています。同様に、全人教育を目指す場合、知育、徳育、体育を分解することなく一体として捉えるのは教育の本道であり、その価値が高く評価されるのは当然かもしれません。
しかし、子どもを大人にするには知育、徳育、体育を一体として捉える教育が適切であるという理想と、その知育、徳育、体育のすべてを今日の「学校」という制度が引き受けるという現実の間には大きな隔たりがあります。なぜならば、今日の学校という仕組みが知育、徳育、体育のすべてを引き受けるように設計されていないからです。
知育・徳育・体育の統合と「学校」の制度設計のギャップ
教員免許制度を例に挙げれば理解してもらえるはずです。1949年に作られた日本の教育職員免許法では、中学・高校の教員免許は教科ごとに発行されており、それは71年を経て社会が大きく変わった今も変わっていません。全教科を教えることが前提となっている初等教員免許についても、免許取得に必要な単位の多くは教科に関するものです。そして現在も教員養成系の大学の教員の8割以上が教科教育や教科内容の専門家で占められています。
また、教員の過剰労働も既存の制度が今の時代に合わなくなっていることを物語っています。「中間まとめ」は教員の過剰労働についてもその実態を次のように述べています(p.9)。
その一方で,教師の長時間勤務の状況は深刻であり,特に近年の大量退職・大量採用の影響等により,教師の世代交代が進み若手の教師が増えてきた結果,経験の少なさ等から,中堅・ベテラン教師と比べて勤務時間が長時間化してしまったことや,総授業時数の増加 部活動の時間の増加などにより平成 28( 2016 )年度の教員勤務実態調査によると平均すると小学校では月に約 59 時間,中学校では月に約 81 時間の時間外勤務がなされていると推計されている。
このような事態に対し、教職員定員改善の予算確保など文科省としてもしっかりと向き合ってきていますので、以下の記述(p.13)は肯定できるものと言えます。
文部科学省では 学校における働き方改革を強力に推進するため文部科学大臣を本部長とする「学校における働き方改革推進本部」を設置し 文部科学省が今後取り組むべき事項について工程表を作成し勤務時間管理の徹底や学校及び教師が担う業務の明確化・適正化,教職員定数の改善充実,専門スタッフや外部人材の配置拡充など,学校における働き方改革の推進に取り組んでいる。
地域や学外者との連携・協力が出来ているのはほんの一握り
しかし、現在の「学校」が抱えている問題は、「働き方改革」を進めることで解消できるようなものだけではありません。「中間まとめ」でも、教員の長時間労働以外にも様々な課題があることを、「(3) 変化する社会の中で 我が国の学校教育が直面している課題」として5ページ目から7ページにわたって縷々書き出しています。
そして、これらの課題を克服する具体的な方策として、「4.「令和の日本型学校教育」を構築する今後の方向性」では、「・・が必要である。」「・・が求められる。」「・・すべきである。」「・・が重要である。」などで締めくくられる項目が18ページ目からやはり7ページにわたって列挙されています。そこには次のような項目も掲げられています。
○また,コミュニティ・スクール 学校運営協議会制度の設置が努力義務であることを踏まえ,また,地域学校協働本部の整備により,保護者や地域住民等の学校運営への参加・参画を得ながら学校運営を行う体制の構築を図り,地域全体で子供たちの成長を支えていく環境を整えていくことが必要である。
○その他学校が家庭や地域社会と連携することで,社会とつながる協働的な学びを実現するとともに,働き方改革の観点からも,保護者やPTA,地域住民,児童相談所等の福祉機関,NPO,地域スポーツクラブ,図書館・公民館等の社会教育施設など地域の関係機関と学校との連携・協働を進め,学校・家庭・地域の役割分担を文部科学省が前面に立って強力に推進することで 多様性のあるチームによる学校とし,「自立」した学校実現する ことが必要である 。
さいわい私が関与している学校の場合は、優れた管理職の下で地域との連携や様々な学外者との協力関係の構築が比較的うまく進んでいます。しかし、上記のような連携・協力関係が実現できている学校はほんの一握りでしかありません。
そもそも、国民国家に忠実に奉仕する人材を大量に供給することを目的として成立した国民国家型の教育システムの下で成立した様々な仕組みを温存したまま、学校教育が新たな持続可能な社会の創り手を育むという重大な目標を達成することは可能なのでしょうか。
理想の実現には「学校教育」のシステムの根本的な変革が必要
知育、徳育、体育を一体として捉え、全人教育を追究する姿勢を維持しようという理想は間違っていないと思います。しかし、150年前と現在とでは社会が大きく変わっており、今後さらに急速に変わっていきます。また学校教育の目的も変わっています。そのような中で理想を維持していくには、学校という仕組みを根本的に変えなければ無理な話です。学校教育のシステムをすっかり変える「変革(transformation )」は不可欠です。それにもかかわらず、「中間まとめ」は次のように述べています(p.17)。
このためには「我が国の学校教育の在り方を根本から見直さなければならないのか」 という疑問が生まれ得るが,そうではない。むしろ,(中略)明治から続く我が国の学校教育の蓄積である「日本型学校教育」の良さを受け継ぎながら更に発展させ,学校における働き方改革とGIGA スクール構想を強力に推進しながら,新学習指導要領を着実に実施することが必要である。(この部分の記述は、「答申」では削除されました。2021年2月に追記)
教員の働き方改革とAIを駆使するGIGA スクール構想で乗り切れると言わんばかりの述べ方です。実際には、「中間まとめ」では、すでに言及してきたように外部人材の活用や地域との連携の重要性を指摘しており、その一層の推進が求められることを強調しています。しかし、「学校教育の在り方を根本から見直さなければならない」という厳しい決意なしに、「中間まとめ」が描く理想を追求していくことは、ひずみを拡大するばかりで、とんでもない「学校」を生み出していくことになりかねません。「無理を通せば道理が引っ込む」と言わんばかりの「・・が必要である。」「・・が求められる。」「・・すべきである。」が羅列された政策は持続可能ではなく、さらなる混乱を引き起こすことになります。
「学校教育の在り方を根本から見直す」方向に早く舵を切り替えてほしいものです。