活動報告

2020年11月22日

小学生の異変(その3)

予防原則の適用を!

黒田洋一郎氏らは、前述の論文の末尾を以下の文章で締めくくっています。

シナプス・レベルの病理診断ができない現時点で、科学的に確定した厳密で完全な検証は困難だが、環境化学物質の毒性・危険性を示すデータは既に蓄積しており、ことに将来を担う子どもの健康に関わることなので、予防原則を適用して毒性化学物質の曝露を減らす具体策が緊急に必要と考える。

予防原則とは、環境保全や化学物質の安全性などに関し、環境や人への影響及び被害の因果関係を科学的に証明されていない場合においても、予防のための政策的決定を行う考え方である。この考え方は、1992年に「国連環境開発会議(地球サミット)」で採択された「環境と開発に関するリオ宣言」の第15原則としても採用されています。

http://www.ne.jp/asahi/chemicals/precautionary/kouen/sld004.htm

ネオニコチノイド系農薬については、EUがEUが2013年から規制を開始し、2018年には屋内での使用を禁止するようになるなど、世界各国でこの予防原則に基づく規制が始まっています。「小学生の異変」(その2)に転載した2008年時点での単位面積当たりの農薬使用量のグラフで日本とともに突出していた韓国でも、2014年にEUに準じた使用禁止措置が取られています。しかし、日本では、逆に数種類のネオニコチノイド系農薬に対する残留基準値を緩和するなどと予防原則に逆行する対応を進めています。ネオニコチノイド系農薬に限らず、多くの農薬や食品添加物に対する日本の規制が弱く、しかも海外で使用禁止となっていったものを大量に輸入しているのが現実の姿です。「国産の食品は安全」というのは過去の神話でしかなくなっているといえるかもしれません。

http://www.nouminren.ne.jp/newspaper.php?fname=dat/201908/2019081201.htm

なぜ予防原則に反する危険な農薬が放置されたり、逆に規制緩和が行われたりしているのでしょうか。実際に米や野菜を育ててみると、無残な虫食いを何とか減らせないものか、害虫を駆除して収穫を増やしたいということから農薬使用の誘惑に駆られます。農業の担い手が減少し、高齢化が進む中で、農薬の助けなしには農業生産を維持できない、という思いも強まっているはずです。だからこそ、危険な農薬や食品添加物に対する規制を国がしっかりと進めてもらう必要があります。しかし、そうなっていないのは、農薬や食品添加物を生産する国内外の化学薬品会社からの圧力や、それらの流通業者からの要望などが政治に強く反映されているからと考えられます。そうであるならば、子どもたちの健康や正常な発育に人一倍関心を寄せている私たち教育関係者は、危険性が指摘されている農薬や食品添加物に対して、予防原則の徹底を国や関係機関にしっかりと求めていくべきなのではないでしょうか。

ICTの発展の負の側面

以前にこのコーナーで中教審初等中等教育分科会が提示した「「令和の日本型学校教育」の構築に向けて」(中間まとめ)を取り上げましたが、そこではもっぱら「知育」「徳育」「体育」のすべてを学校が担うという日本型学校教育は理想かもしれないが、その実現には課題が多いことを述べました。しかし、答申案で最も強調されているのはICT教育の強化です。今回のコロナ禍で、日本の学校における遠隔授業体制やICT機器の普及が近隣諸国に比べて大きく立ち遅れていたことを自覚させられたことから、どうしてもそこに議論が集中した結果かとも思われます。しかし、2018年6月に文科省のタスクフォースが公表した「Society5.0に向けた人材育成」の表題にも、またそこでこれからの学校教育の在り方として示された「個別最適化」でも、AIを学校教育に取り込む方向性が顕著に表れていますので、今回の答申案におけるICT教育の強化は既定の路線と考えるべきでしょう。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/002/siryo/__icsFiles/afieldfile/2018/06/20/1406021_17.pdf

しかし、ICTの負の部分といえるインターネット依存やスマホ依存、SNSを使った陰湿ないじめについての言及は「中間まとめ」にはまったくありません。内閣府は平成30年の11月から12月に「平成30年度 青少年のインターネット利用環境実態調査」を実施しています。そこでは「低年齢層の子供のインターネットの利用状況」も調査されており、2歳児、3歳児の45%ほどがスマホやタブレットでインターネットを利用している実態を明らかにしています。もちろん親との共有が大部分ですが、幼少時からのインターネット依存の種がしっかりと撒かれている事実を文科省は把握しているのです。しかし、「中間まとめ」には、インターネット依存についての記述はありません。

ネット依存とスマホ依存

ここでインターネット依存とスマホ依存の違いを少し述べておきます。インターネット依存の90%はインターネットを通じたゲームへの熱中といわれており、「ゲーム障害」は、2019年に世界保健機構(WHO)が国際疾病分類に追加しています。つまり「れっきとした「病気」と認定されるようになっているということです、「小学生の異変」(その1)で岡田尊司氏の『脳内汚染』を取り上げ、ゲームへの依存がギャンブル依存と同様に、脳に対して麻薬のような影響を与える可能性が指摘されていることを紹介しました。その後の研究の進展で、「ゲーム障害」は、人間の知性や論理性を司る前頭前野の働きを弱める働きをしていることも明らかになっています。

一方、スマホ依存は、動画閲覧やスマホゲームが長時間に及ぶというもの含まれますが、特に、SNSやメールでの友達とのコミュニケーションに関わるものが中心となっています。メッセージが届くとすぐに返信しなければという強迫観念にかられて四六時中スマホを手放せなかったり、スマホが手元にないと不安になったりイライラしたり、というものです。

『ネット依存・ゲーム依存がよくわかる本』樋口 進 (監修)、2018年、講談社の一部一部

前掲の「小中高生のスマホ利用時間」のグラフからも小学生の使用時間の長時間化は明らかです。もちろん中学生、高校生に比べれば使用時間は短いといえますが、脳の発達過程から低年齢ほど影響が大きいことは各方面で指摘されています。前述の予防原則という観点からも、様々な弊害が指摘されているインターネットやスマホの使用の長時間化を防ぐ手立てが求められているといってよいでしょう。しかし、このことに対しては、一日の使用時間を決めるなど、家庭内での対応に期待せざるを得ないのが現状でしょう。

とはいえ、平日の相当時間を過ごす学校としても、インターネットやスマホの普及による弊害を考慮した教育活動がもとめられているといえます。それは、外遊びの時間をたっぷりとったり、本物との出会いや体験を豊富にしたりすることです。文科省が「令和の日本型学校教育」で重視しているICT教育推進に素直に従って、ICT機器との接触時間を増やすことではありません。

言うまでもなくこれからの時代はAIが大活躍する時代です。ICT機器の基本的な操作やマナーを修得しておくことは必須という時代になっています。学校がICT機器を整備して今回のコロナ禍のような緊急事態に備えたり、ICTの基礎基本の指導は必要です。また、探究的な学びのためにタブレットを活用することは適切なことです。しかし、学校外でのインターネットやスマホ使用の長時間化を考慮すると、児童のICT機器との接触時間を極力減らし、安易な利用に流されないようにすることが大事であろうと思います。(続く)

2020年11月16日

小学生の異変(その2)

社会や家庭のストレス増大と子どもたちのストレス

「ダイヤモンド・ランキング・・小学生の異変の原因は?」で回答者の6割以上がBの「社会や家庭内のストレスの増大が、子どもたちのストレス増加をもたらしている」を最も重要と回答しました。非正規雇用比率の上昇、シングルマザーの増加や相対貧困率の上昇など、じわじわと生き辛さが押し寄せてきていることは、否定しがたい事実です。そのような社会や家庭のストレスが子どもたちの心身に影響を与えていることは間違いありません。

元同僚の佐藤学氏から、11月14日に開催された学習院大学教育学科教育学研究会の講演で用いたパワーポイントが送られてきました。その最後の結論の一つとして「ポスト・コロナの社会は、資源と資産を共有し合う社会、人々が相互に助け合い支え合う社会、未来に向かって学び続ける社会、すなわち sharing, caring and learning community である。この社会に向けて、一人も独りにしない教育で子どもたちを守り育てる必要がある。」と書かれていました。今日の社会が「資源と資産を共有し合う社会」でも「人々が相互に助け合い支え合う社会」でもないからこそ、ポスト・コロナの社会はそういう社会にしなければならない、という強い思いが込められていると感じました。

「所有」から「共有」への転換は、徐々にですが、すでに気配が出てきています。若者の自動車所有意欲の低下とカー・シェアリングの急増などが顕著になってきています。人口減少・過疎化・高齢化で耕作放棄地が増え、日本の経済観念の基本をなしてきた田畑の所有に対するこだわりも低下してきています。しかし、現実の社会を見た場合、ポスト・コロナ社会になっても、「人々が相互に助け合い支え合う」ことと同様に、「資源と資産を共有し合う」ことが社会の基調となるのはまだ相当先のことと思わざるをえません。早急な対応が求められている「小学生の異変」に有効かつ即効的な効果を発揮することは期待できそうにありません。

では、「共有(sharing)」と「支え合い(caring)」を基調とする社会の到来を早めることはできないのでしょうか。佐藤学氏が提示した3つ目の「未来に向かって学び続ける社会(=learning community)」こそが、地道ではありますがそのスピードを速め、しかも転換への確度を高める可能性を秘めていると思っていいます。このことについては、最後の「これからの学校教育が目指すべきこと」で述べることにします。

農薬や添加物の影響

Cの「子どもたちの暴力行為等を学校がきっちりと教育員会に報告するようになった」からを重要な原因と捉えた方は少数で、「小学生の異常」はそのレベルの問題ではない、という認識が参加者のほぼ共通の認識といえるものでした。

同様に、Dの「食品添加物等の有害物質の体内蓄積が、敏感な子どもたちに影響し始めた」も、多くの参加者は重要の原因とは捉えていないようでした。しかし、ごく一部の参加者はこのDを最重要と考えており、実は、遺伝子の変異に関心を寄せている筆者も、このDは相当重要な要因と捉えています。この数年間で顕著になってきた「小学生の異常」は、ほかの様々な要因と複合的に作用した結果であろうと考えていますが、有害な化学物質が体内に取り込まれることで、大きな問題が引き起こされている可能性は高いとみています。

まず、次のグラフを見ていただきたいと思います。


https://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/h30hakusho/zenbun/h1_03_01_01.html

このグラフは、「通級による特別支援の指導を受けている児童生徒数の推移」を示しています。発達障害の3つのカテゴリ―(ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如・多動症)、LD(学習障害)だけに注目すると、過去10年で3倍以上に増えています。発達障害についての認定が進んだ結果という部分も否定できません。しかし、10年以上小学校の教員として児童の変化を見てきた方であれば、発達障害児の増加はほぼ共通の認識になっているはずです。そして、発達障害児の増加は文科省が「問題行動・不登校等」として常に取り上げている「暴力行為」「いじめ」「不登校」の小学生の急増と驚くほど類似した傾向を示しています。もちろん、絶対数では「暴力行為」「いじめ」「不登校」の合計と「発達障害」とされる児童数には大きな差があります。しかし、軽度の発達障害がカウントされてないことを考慮すれば、「暴力行為」「いじめ」「不登校」の増加を引き起こしている重要な要因の一つが発達障害の増加であると推定できますし、発達障害が遺伝よりも有害化学物質による可能性が高いことを示す研究は相当数に上っています。教育界にはまだ十分に浸透していないようですが、目をそらすことのできない問題です。

有害化学物質、特にネオニコチノイド系農薬と神経発達障害

2013年の第22回日本臨床環境医学会集会では特別企画として国際シンポジウム「有機リン・ネオニコチノイド系農薬のヒトへの影響―特に子どもの発達障害と急性・亜急性中毒被害の現状―」が開催され、そのシンポジウムを受け、木村‐黒田純子、黒田洋一郎の両名が『臨床環境医学』(第23巻第1号)に「自閉症・ADHD など発達障害の原因としての環境化学物質― 遺伝と環境の相互作用と農薬などの曝露による脳神経系、免疫系の撹乱―」と題する論文を寄稿しています。以下はその論文に記載された「要約」です。

日米韓における自閉症、ADHD など発達障害児の急増は、遺伝要因でなく環境要因が主な原因であることが確定的となってきた。自閉症関連遺伝子は最近までに数百も見つかり、これらの変異の組み合わせにより、個人毎に異なる「発症しやすさ」を決める遺伝子背景を構成している。増加の環境要因は多様だが,発達障害の増加に先行する農薬など環境化学物質汚染が疑われる。農薬やPCB など環境化学物質の発達障害との因果関係を示す論文や、疫学報告も数多く蓄積している。胎児期、小児期における多種類の環境化学物質の曝露は、脳発達に重要な神経情報伝達系、ホルモン系、免疫系の撹乱や新規(de novo)のDNA突然変異を介して、特定の神経回路(シナプス)が形成異常を起こし発達障害を発症すると考えられる。日本人全員が各種環境化学物質に常時多重複合曝露している最新データもあり、放射能汚染も合わせ、感受性の高い子どもへの影響が懸念される。

その論文に掲載された注目に値する図・グラフを以下に転載します。

この図はヒトの脳のシナプスが胎児期と乳児期に著しく発達するが、その時期に環境科学物質が母体や母乳から侵入することを概念的に示しています。

この図は、自閉症や広汎性発達障害(アスペルガー症候群を含む自閉症スペクトラム)の有病率の高い日本と韓国で単位面積当たりの農薬使用量がずば抜けて高いことを示しています。

同論文で特に筆者が注目したのは以下の文章でした。

米国社会アーミッシュという特殊なオランダ系民族集団の健康度で、彼らは移民当時の生活スタイルを堅持して、近代文明を拒否している。驚くべきことに、彼らの自閉症の発症率は、平均の米国人の十分の一くらい、ここ数十年で年数人しか発症せず、自閉症児は著しく少ないままだ。環境要因のうち、近代文明に浸っている一般米国人が曝露し、アーミッシュの人たちが曝露していないものが、自閉症の原因となっていると思われる。

同論文以降も、特にネオニコチノイド農薬が発達障害を引き起こしている可能性を示唆する研究は多数に上っています。例えば、PLOS ONEという英文学術誌の2019年7月号に掲載されたGo Ichikawaらの論文“LC-ESI/MS/MS analysis of neonicotinoids in urine of very low birth weight infants at birth”は、生後間もない新生児の用からネオニコチノイド系農薬の代謝物を検出しており、ネオニコチノイド系農薬が母親から胎児に胎盤を通過して移行したものとして注目されています。

ネオニコチノイド系農薬の生産増加と不登校児童生徒数の増加

日本では1988年に開発、1992年に農薬登録され、最初はミツバチの大量失踪や赤とんぼの減少の原因として注目されたネオニコチノイド系農薬ですが、ヒトへの影響が顕著でないと判断されたこともあって、その後は下のグラフのように1990年代から2000年代半ばにかけて増産され、現在は高止まりという状態です。

http://organic-newsclip.info/nouyaku/neonico-data.html

「小学生の異変」(その1)の冒頭で紹介した3つのグラフのうち、不登校児童生徒数のグラフは平成10年(1998年)以降しか描かれていませんが、文科省の調査結果には平成3年(1991年)から記載されています。そこでは不登校児童生徒数が平成6年(1994年)ごろから増加しはじめ、平成13年(2001年)にかけて第一次の不登校急増期を経験しています。2000年代になると不登校児童生徒を減らすべく様々な取り組みがなされましたが、その後15年間ほどの高止まり期を経て、現在第二次の不登校急増期に入っています。

https://www.mext.go.jp/content/20201015-mext_jidou02-100002753_01.pdf

第二次の不登校急増の原因追及はこれからの課題でしょうが、第一次の不登校急増については、ネオニコチノイド系農薬の生産増と類似した傾向が見られます。

なお、加工食品への依存度の高まった食事によって、摂取するミネラルが不足していることが発達障害の原因であるとの指摘もあります。ただ、この点については、筆者自身も勉強不足ですので、現時点では一時保留とさせていただきます。(続く)

2020年11月15日

小学生の異変(その1)

増え続ける小学生の問題行動・不登校等

「令和元年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」が2020年11月13日に文科省から公表されました。10月下旬には報道資料が教育委員会やマスコミに流されてテレビや新聞で報道されましたが、学術会議の学術会議の任命拒否問題、アメリカ大統領選挙、そしてコロナの第3波が大きく取り上げられる中で、あまり大きく取り上げられなかったように感じています。しかし、以下の3つのグラフを見れば、特に小学生について状況がいよいよ深刻になっていることは一目瞭然でしょう。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201022/k10012676031000.html

「小学生の異変」に対する文科省の受け止め方

このような「小学生の異変」について、文科省では、2013年度(平成25年度)ごろから異変が顕在化したと捉えています。2019年8月の日本教育学会大会のシンポジウム「持続可能な社会と教育」に登壇した合田哲雄氏(当時:文科省初等中等教育局財務課長)は、このことに関連して次のように述べています。

今、子供たちや学校を取り巻く社会的な環境の激変が我々の予想を超えた規模とスピードで進行しています。子供たちの語彙や読解力のばらつきが生じたり、小学生の暴力行為が2013年以降急増したりしている現実があります。(中略)小学校高学年の子供たちの心身の発達や指導内容の高度化で、一人の学級担任がすべてを受け持つことが難しくなっているのではないか、あるいは、少子化・過疎化による少人数学校は子供たちが切磋琢磨して協働する環境として適切か、という声も生じています。

また、中教審初等中等教育分科会が10月に示した「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」(中間まとめ)でも、以下のように重大な問題であることは認識しています。

様々な生徒指導上の課題も生じている。平成 30(2018)年度の小・中・高等学校におけるいじめの認知件数や重大事態の発生件数,暴力行為の発生件数,不登校児童生徒数はいずれも増加傾向にあり,過去最多となっている。加えて,平成 30(2018)年の小・中・高等学校における児童生徒の自殺者数も減少するに至っていない。いじめの認知件数の増加は,いじめを初期段階のものも含めて積極的に認知し,その解消に向けた取組のスタートラインに立っているとも評価できるが,特に,いじめの重大事態の発生件数や児童生徒の自殺者数の増加は,憂慮すべき状況である。また,児童相談所における児童虐待相談対応件数についても増加傾向にある。(p.8)

しかし、特別支援学校(学級)在籍者の増加、外国籍児童生徒数の増加、子供の相対的貧困率の上昇などと並列して、「子供の多様化」と矮小化して捉えており、その他の教職員の長時間労働による疲弊などの問題を指摘しながらも、以前にこの欄で紹介したように、「このためには「我が国の学校教育の在り方を根本から見直さなければならないのか」 という疑問が生まれ得るが,そうではない。(p.13)」と断言しています。

また、具体的な対応について列記した各論においても、

〇不登校児童生徒,障害のある児童生徒,日本語指導が必要な児童生徒について,学 校間,保護者,関係機関と児童生徒の状況を共有し,支援しやすい環境を構築するた め,統合型校務支援システムの活用や帳票の共通化などを通じ,個別の支援計画等の 作成及び電子化を進めることが必要である。(p.61)

と、述べるにとどまり、有効な対応を打ち出せていない状況です。

「最終講義」でのダイヤモンド・ランキング

筆者は2020年1月下旬の「最終講義」でこの問題を取り上げ、1年前のグラフをパワーポイントで示したあと、以下のような「ダイヤモンド・ランキング・・小学生の異変の原因は?」というワークシートに原因の順序付けをするアクティビティを実施しました。

このアクティビティでは、この個人作業の後に、周りの人たちと互いにワークシートを見せ合いながら、意見の交換してもらいました。最終講義の間に挟んだアクティビティだったので、意見交換の時間は5~6分ほどしか取れませんでしたが、教育に関わる参加者が多かったこともあって、真剣に意見を交わしていました。

返却してもらった106人分のワークシートを集計すると、Bを一番上に持ってきた人が64人、Aを一番上に持ってきた人が23人でした。それとは別に、上記のワークシートの下に「そのほかの理由」という空欄も設けておきましたが、驚きだったのは、そこに記入した方が8割以上を占め、空欄の枠の外にまで記述した方が多数に上ったことです。自由記述では多くの方が少子化や核家族を挙げていましたが、ほかにも例えば以下のような、「なるほど」と思わせる意見が多数寄せられ、「小学生の異変」に対する関心の深さが伺われました。

・祖父母の過保護、あるいは幅広い年代と触れ合う機会がない。

・「さん付け」の強要など、教員と子供が社会的に距離感を置くようになった。

・子どもの学校教育システムへの異議申し立て

・「今だけ、金だけ、時間だけ」「自己責任論」による大人社会の歪みの反映

・片親家庭、貧困家庭の増加、地域で支える仕組みがない

・親の愛情がフルタイムで注がれている時間が減ったこと

・子どもたちにも保護者にも、学校・教員に対して「消費者」のマインドで臨む場面が多くなっている

・責任を取らない大人の、とくに「リーダーたち」の姿勢も

・子ども期に関わる人の数が、人類史上最も少なくなっている

・集団生活に適応させる訓練を家庭(大人)がしていない。子供より大人の考え方、行動に問題があるのでは?

・同一年齢、同質の集団による一斉授業に大きな原因があるように思います

・SNSの普及により、他人を攻撃することに感覚が慣れてしまっている

ゲーム機器やスマホの普及と外遊び時間の減少

A(ゲーム機器やスマホの普及で外遊びの時間が減った)については、上記のように最重要と考えた参加者は2割強でしたが、欄外の書き込みからA以外を最重要としながらも、Aも大いに関係していると感じておられる方も多数でした。「最終講義」では、アクティビティ終了後に以下の3枚のスライドを示して、Aも少なからず関与している可能性が高いことを話しました。

ゲーム機器に長時間接することの危険性については、2005年に精神科医として医療少年院に勤務していた岡田尊司氏が『脳内汚染』(文藝春秋)の中で、仮想と現実を混同させ、中毒性があり、脳の発達を妨げるという警告を発しています。ゲーム機器やスマホが子どもたちの世界にどんどんと進出することで、「ホンモノ」と出会う機会が減少していることも大いに気がかりです。子どもを静かな「いい子」にさせるために、タブレットで動画を見せ続けている親も見かけます。「ホンモノ」と出会う機会をしっかりと設けることも、学校に期待されているのかもしれません。(続く)

2020年11月3日

「地域連携プラットフォーム」と未来の高等教育

Platform≒Plateau(台地)≒Plate(皿、板)

「ホームの端を歩かないでください」というアナウンスや、「酔っぱらってホームから転落!」というニュースを聞きながら、「プラットフォーム」はすでに死語になったのかと感じたのは20年以上も前のことです。小学生の頃、といってももう60年以上前のことですが、駅で列車に乗る場所は「ホーム」ではなく「プラットフォーム」と言っていました。

その「プラットフォーム」という言い方を数年前にどこかのNPOが使っていて、「??」と反応した記憶はありますが、改めてその意味を確認しようとは思いませんでした。しかし、2018年11月に「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン」答申が発表され、そこで、「地域連携プラットフォーム(仮称)」構想が打ち出されたことで、プラットフォームという言葉が甦っていることを思い知りました。

もっともそれはコンピュータ音痴(あるいはデジタル拒否症候群)の私の特殊事情であって、コンピュータの世界では、ずいぶん前から「アプリケーションが作動する土台となる環境」のことをプラットフォームと言っており、死語にはなってなかったようです。

ここで「プラットフォーム」のことを取り上げるのは、これからの高等教育の基本的な姿の一つが間違いなくプラットフォームという概念と不可分のものとなると予測されるからです。

駅のプラットフォームは中国語では「平台pingtai」と言っています(「月台」とも言います)。「平ら」であるということは、その上に立つ人や組織はランク分けされず平等であるということです。それでいて「台」ですから周りより一段高くて広い場所でもあります。

「地域連携プラットフォーム」と「ガイドライン」

「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン」(答申)では、「関係する産業界、地方公共団体などと連携し、必要とされる教育研究分野、求人の状況、教員や学生の相互交流などについて、恒常的に意思疎通を図る」場を「地域連携プラットフォーム(仮称)」とし、これからの地域の高等教育機関にとっては、「学外の教員や実務家など多様な人的資源を活用し、多様な年齢層の多様なニーズを持つ学生を受け入れていくために必要」な体制と捉えています。「プラットフォーム」の原義を生かして言い換えると、「地域連携プラットフォーム」とは産官学が対等の立場で連携協力し、地域の活性化に取り組むための「場」ないし「体制」といえるかと思います。同答申には「地域連携プラットフォーム(仮称)」が十数回も登場しており、「地域連携プラットフォーム(仮称)」において議論すべき事項等について、国による「ガイドライン」を策定する」とも書かれています。

上記の答申段階では「策定する」と書かれていた「ガイドライン」は、2020年8月に<案>「地域連携プラットフォーム構築に関するガイドライン ~地域に貢献し、地域に支持される高等教育へ~」が示されて、パブリックコメントの応募がありました。

この<案>には従来のコンソーシアムやネットワークでは連携の範囲が限定的であったり効果が不十分であったことの指摘に続いて、p.5には「地域連携プラットフォーム」が必要とされる根拠などが、以下のように書かれています。

・・・地域課題の解決に向けた連携協力の抜本的な強化を図るとともに、地域の大学等の活性化やグランドデザインの策定、高等教育機会の確保や地域人材の確保、大学等を含めた地域社会の維持発展を図るための仕組みが「プラットフォーム」です。

プラットフォームの構築により、大学等が、地域において欠くことのできない重要な存在であるという位置づけを確立することが期待されます。そして、地域において欠かすことのできない存在だからこそ、地方公共団体や産業界等が、地域課題の解決に向けてのみ大学等と連携するのではなく、大学等の教育研究活動そのものを支える存在になるといったことも期待されます。

最後の一文などから、入学者減で存続の危機に直面している地方大学の延命策と見なす向きもあります。しかし、高等教育機関を軸とするプラットフォームは、これからの地域の活性化にとって不可欠な存在となることが書かれています。

文科省は、2020年9月に発足させた「地方創生に資する魅力ある地方大学の実現に向けた検討会議」の第1回検討会議に「魅力ある地方大学の実現に向けて」という資料を提出していますが、そこには上記ガイドラインの概略紹介ともいえる2枚のシートが付されていますので転載します。

「魅力ある地方大学の実現に向けて」の一部

上のシートでは、「地方自治体×大学等×産業界」が地域人材育成の基本形であることが示されており、それを実現するための方策が「地域連携プラットフォーム」と「ガイドライン」であることが下のシートの左側で示しています。

「SDGs未来都市」とプラットフォーム

ところで、「プラットフォーム」という言葉は、「SDGs未来都市」のプレゼン資料にも頻繁に登場しています。「SDGs未来都市」で重視されている様々な団体や組織の連携協力を図り、事業を円滑に進める土台としてプラットフォームの構築を掲げたものは、2020年度に選定された33自治体の約4割に及んでいます。その代表的なものを転載します。また、「プラットフォーム」という名称は使っていなくても、SDGs推進協議会や官民連携推進会議といったプラットフォームに相当する組織の構築を謳っている自治体を加えると7割には達しています。

相模原市のプレゼンより

「地域連携プラットフォーム」に高等教育機関は不可欠

上記の「SDGs未来都市」におけるプラットフォームの多くは、そこに高等教育機関が関与したものとなっていますが、中には川崎市のように、高等教育機関の関与が明確でないものもあります。一方、文科省高等教育局が示した「地域連携プラットフォーム構築に関するガイドライン ~地域に貢献し、地域に支持される高等教育へ~」は、地方の大学の関与を前提としたプラットフォームです。

それでは、地方創生を目的として様々な組織・団体の連携・協力するための体制として構築されるプラットフォームに高等教育機関は必要でしょうか?それとも、無くても構わないものでしょうか?

川崎市のようにすでに先端企業がひしめき合っている自治体はともかく、地域の活性化が切実な地方都市では、プラットフォームの中に高等教育機関が加わるのは必要不可欠であると考えています。もし、そのような高等教育機関が近隣にも存在してないのであれば、小規模なものでもよいので設立すべきであると思っています。その理由は、上に転載した「魅力ある地方大学の実現に向けて」の「地方大学の目指す方向性」にある文章を少し変えてみれば明らかです。

・地域のニーズに応えるという観点からも充実し、知の拠点として地域ならではの人材を育成・定着させ、地域経済・社会を支える基盤となること(⇒地方の大学)が必要

・地域特性・ニーズを踏まえた人材育成やイノベーションの創出・社会実装に取り組む地方大学の(存在とその)機能強化、活性化が重要

・地方公共団体、地域の産業界等と密に連携し、文理の枠にとらわれないSTEAM人材の育成や地元企業へのインターンシップ・リカレント教育の拡充(には地方に大学が不可欠)

・Society5.0社会の実現にとって不可欠な数理・データサイエンス・AI教育の推進やオンライン教育の活用により、地域において新たな産業や雇用を創出し、地方創生の中核となることを目指す(地域に密着した大学が必要)

要するに、地方創生や地域の活性化には、高等教育機関が不可欠ということです。

地方大学の危機を克服し、新たな高等教育機関を設立するために

しかし、現実には下の表にあるように、地方の中小規模大学の半分近くがすでに帰属収支差額比率がマイナス、つまり赤字状態で存続が危ぶまれている状態です。今後、18歳人口の減少により、閉校を余儀なくされていくことは目に見えています。

私立大学の帰属収支差額比率
(出典:日本私立学校振興・共済事業団「今日の私学財政(H27年度版)」

では、一体どうすればよいのでしょうか。その答えの一つが前述の「地方公共団体や産業界等が、大学等の教育研究活動そのものを支える存在になる」ということです。しかし、そもそも赤字になる理由の根本には、文科省の一元的な管理の下で、硬直的で時代遅れの大学設置基準や、質保証という名目の規制強化があります。もっともっと低学費でも収支のバランスが取れる高等教育機関をつくることは可能です。

いずれにせよ、地域の活性化に求められている大学は、現在の大学とは大きく異なった姿をしています。高校卒業生が入学して学ぶだけでなく、地域に関わるすべての人が受講でき、フィールドワークに参加し、プロジェクトにも参画できるような大学です。そこに関わる教職員者のイメージもまったく今の大学とは違ったものです。

この「学校教育とSDGs」のコーナーでも、「小規模分散型低学費大学設置の必要性」というコラムを書きましたが、まだ、ほんの一端しか書いていません。どうすれば低学費大学を作れるのか、その時の大学はどのような姿をしているのかについて、改めて書きたいと思います。

2020年10月29日

2040年の日本の高等教育-「競争」から「共創」へ-

前回の寄稿の最後に「「学校教育の在り方を根本から見直す」方向に早く舵切りを」と書きました。ではどのような「見直し」が求められるかについて、少しずつ書いていこうと思っています。その第1回目は「大学改革」です。大学を最初に取り上げるのは、今日の日本の大学の在り方が、特に「競争」から抜け出せない大学入試が、初等中等教育にまで大きなゆがみをもたらしていると考えているからです。そこで今回は、SDGs時代にあって「競争」から「共創」への転換が求められているにもかかわらず、従来の大学の在り方を固守しようとしている大学教育政策を取り上げます。

大学教員の大量失業を招きかねないMOOCsの普及

コロナウイルスの感染拡大でZOOMを使った遠隔授業を強いられた大学の元同僚の多くから、

「諏訪さんは本当にいい時に定年退職できてよかったですね。目の前に学生のいない授業は大変。倍は疲れる。世間話もなかなか挟めないし、伝わったかどうかの確認もできないし、・・・」

という嘆きをZOOM飲み会で聞かされました。そして、夏の免許更新講習の打ち合わせで、ある大学教員はこんな感想を漏らしました。

「ZOOMでの講義が当たり前になると大量の大学教員が失業するんじゃない?だって、同じような内容で分かりやすくて面白い授業がネット上にアップされていって、それを選択しても単位になるとなったら、みんなそっちに流れるでしょ。『あの先生の授業って退屈、時間の無駄』といった情報はすぐに学生の間に流れるから」

大学側も、卒業に必要な単位の何割かはネット上の講座の受講で代替OKとした方が、人件費の節約になるので、大学教員の大量失業はありうることなのです。

オンラインで誰もが無料で受講できてしまうMOOCs(Massive Open Online Courses:大規模無料公開オンライン講座)がすでにアメリカでは爆発的に増加しており、日本でも今回のコロナ禍で急増しそうな気配です。

https://www.stoodnt.com/blog/most-popular-online-courses-2018/

MOOCsは、インターネットで配信され、無料でアクセスでき、誰でもが登録でき、入学手続きも不要な講座です。講座を修了し、合格と評価された受講者は修了証明を取得することができます。ただし、修了証明の入手については有料のものもあります。

MOOCsの多くは大学が作成し、大手のプロバイダーが配信しています。スタンフォード、MIT、ハーバードといった超一流の大学も活発にMOOCsを作成しています。このMOOCsは、高等教育へのアクセスが困難な国や地域、低所得階層にとっては福音ともいえるもので、SDGsの目標4「高い教育をみんなに」の実現に貢献するものともみなされています。

MOOCsが日本の大学の在り方を根底からくつがえす?

MOOCs の爆発的な普及は、ある特定の大学に入学し、その大学が開設する講義をセットで受講しないと卒業に必要な単位そろえることができない、という日本の大学制度の根幹を崩壊させるかもしれません。そしてそれは10年以内に起きるかもしれません。

もしも、様々な大学が提供したMOOCsの修了証明を相当数取得し、相応の力量を獲得した人が次々と誕生したら、そして、そのような人を企業が大卒者と同等に採用することとなったら、「大卒」の資格を取るために高額の授業料を払う人は激減することになります。

初等中等教育の新学習指導要領では「何ができるようになるか」を「何を学ぶか」「どのように学ぶか」以上に重視しています。同様に高等教育においても、どの大学を卒業したかよりも、「何を身につけることができたか」への転換が示唆されています。

本当に「何を身につけているか」で評価される時代になったら、大学のパッケージされた講義で卒業単位をそろえる必要はなくなります。MOOCsの豊富な品ぞろえの中から受講者が選択して受講し、大卒者と同等のものを身につけることができれば授業料の負担はなくなりますし、わざわざ東京で下宿したりアパートを借りる必要もなくなります。

しかし、文科省や中教審の、少なくとも高等教育関係者はそのような時代が10年後にやってくるかもしれないなどとは、夢にも思っていないようです。それともそのような悪夢を決して実現させないぞ、という固い決意で臨んでいるのかもしれません。

「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン」答申

2018年11月に中央教育審議会から「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン」(答申)が出されました。

https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2018/12/17/1411360_7_1.pdf

その答申では、

世界の高等教育においては、国内の教育機会の提供の段階から、近隣諸国を含めた域内の教育機会の提供の段階を経て、高等教育がまだ充実していない地域での教育機会の提供の段階、そして、MOOC(Massive Open Online Course:大規模公開オンライン講座)をはじめとするオンラインでの教育機会の提供の段階へと在り方の多様化が進み、広がりを見せている。この変化を踏まえれば、高等教育システムは、国、地域を越えて展開される「オープン」な時代を迎えていると言える。

とMOOCに触れてはいますが、その書き方には危機感は感じられません。

そして、相変わらず効果が乏しい「質保証」に多くのページを割いています。1991年の大学設置基準の大綱化以降、大学に改革を促す答申は7回出されていますが、そのたびに「質保証」という名目の規制強化打ち出されました。しかし、それがほとんど効果を発揮していないことと、「質保証」にこだわる真の理由についての推測を『学校3.0×SDGs』(2020年2月、キーステージ21)に書いたことがありますので、以下に該当部分を転載します。

大学の開設について様々な条件を定めたものに大学設置基準がある。大学設置基準は、1991年に大幅な規制緩和と言ってよい大綱化が行われた。しかし、それ以降、表1に示したように、「自己点検評価」「第三者評価」「3ポリシー導入」「成績評価基準導入」「GAP」設定」「シラバス記述の厳格化」というように、目まぐるしく規制を強化していった。

では何のために規制を強化するのかというと、これまでの大学の質保証に関する中教審答申に書かれたことを一言で言うならば、「今の大学生の学修時間が短すぎるので、改める必要がある」ということであった。それでは、規制強化によって大学生の学修時間が改善されたかというとそうではない。2018年11月に出された「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」を答申においても、「学生の授業出席時間の平均が1週間当たり約 20 時間、予習・復習の時間の平均は約5時間にとどまっており、授業以外の学修時間が非常に短い」と記述されており、過去の規制が何ら効果を発揮しなかったことを自ら認めてしまっている。では本当は何のために規制を強化しているのかというと、学齢人口減少下で、既存の大学の経営基盤を危うくさせる新構想の大学の新規参入を困難にするためと疑わざるをえない。既存の大学の既得権の擁護に真の目的があって、「大学生の学修時間の向上⇒大学生の質の向上」は、二の次であったと思われる。

表1 大学設置基準大綱化以降の質保証に関わる規制強化

上の表中の1998年の「21世紀答申」の正式な名称は、「21 世紀の大学像と今後の改革方針について―競争的環境の中で個性が輝く大学―」です。まさに新自由主義的な発想で、競い合わせれば活力が生み出されるという「競争」のプラス面ばかりが強調されたものでした。「競争」を基調とする政策の強要が大学教育にどれほどのマイナスの影響を与えるか、そして「競争」を当たり前とする大学入試制度が、高等学校以下の教育どれほどゆがめてきたか、にまったく頓着していません。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/006/gijiroku/011001/011001d3.htm「21世紀答申」の骨子の説明(文部省作成資料の抜粋)

「グランドデザイン答申」の評価すべき点と物足りなさ

大学に関する答申の基調は、その後も大きく変えられることはなく、今回の「グランドデザイン答申」でも、「国際競争」「経済競争」「大学間競争」などの文字が散りばめられています。ただし、今回の「グランドデザイン答申」では、トーンが若干変化しており、「既に人類が抱える課題は国境を越えたものとなっており、人類の普遍の価値を常に生み出し、提供し続ける高等教育を維持・発展させるためには、質を向上させるための切磋琢磨は必要であるが、国内外で機関ごとにただ「競争」するのではなく、課題解決等に協力して当たるための人的、物的資源の共有化による「共創」「協創」という考え方により比重を置いていく必要がある。(p.5-6)」といった記述も登場しています。

また、「2040 年頃の社会変化の方向」では、(SDGs が目指す社会)を、(Society5.0、第4次産業革命が目指す社会)や(人生100 年時代を迎える社会)、(グローバル化が進んだ社会)よりも前に位置づけて記述しています。

さらに、地方創生という観点から、地域の高等教育機関が中核となる「地域連携プラットフォーム(仮称)」の構想を打ち出し、2020年3月にはそのガイドライン案が公表されています。この「地域連携プラットフォーム(仮称)」構想については、稿を改めて述べたいと思っています。

以上のように、「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン」答申では、評価すべき点もあります。しかし、大学入学制度が2040年にはどのような姿になっているべきか、ということについても、また、そもそも2040年の時点で日本の高等教育がどのような姿になっているのかについてもまったく語られていません。現在の高等教育の抱える課題を克服していく方向性は示されていますが、あくまでも現行の制度の延長線上のものでしかありません。これから20年後の社会の大変化をほとんど想像できていない、まさに「貧困な想像力」を露呈してしまったものと言わざるをえません。

20年後の初等中等教育が依然として大学入試によってゆがめられている、という事態を避けるためには、文科省や中教審の描いている姿ではない、場合によっては、文科省の認可や学校教育法第1条校ではない高等教育機関が今後続々と誕生し、それが主流になっている必要があるかもしれません。

2020年10月22日

「令和の日本型学校教育」が描く理想と現実のギャップ

なんでいま「令和の」なの?

中央教育審議会初等中等教育分科会は、10月7日に「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して ~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと, 協働的な学びの実現~(中間まとめ)」を発表しました。2021年1月には最終答申が提出されると予想されています。「最終答申」で「中間まとめ」に示された根幹がくつがえされることはまず考えられないことです。したがって、この「中間まとめ」の方向で施策が進められていくと受け止めて今後各方面で様々な準備がなされることになります。

文科省「令和の日本型学校教育」の構築を目指して、中間まとめ | 教育 ...
https://www.mext.go.jp/content/20201007-mxt_syoto02-000010320_1.pdf

今回の「中間まとめ」の発表で、「令和の日本型学校教育」という名称が話題になっています。「えっ、なんで「令和の」なの?」というのが、率直な感想でした。しかし、もう少し素直になれば、平成の教育から脱する意思を明確に示そうとしたと捉えるべきなのでしょうか。社会の変化が著しく将来の予測が困難な時代であるだけに、「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」(答申)のように20X0年を使うと、「20X0年時点での社会の変化をその程度にしかイメージできないの?」というような批判を浴びてしまいます。そうしないためには、「令和の」は賢明な選択だったいうことにしておきます。

「日本型学校教育」って、何?

さて、問題は「日本型学校教育」です。

実は、私の専門の環境教育の領域では、1992年に『日本型環境教育の「提案」』という書物が刊行されています。副題に付された「自然との共生をめざして」からある程度は書名の意図が推測されます。つまり、自然を人間が支配する対象と捉えがちな西欧的な、あるいはキリスト教的な世界観ではない、自然との共生を目指すところに「日本型」と名付けた所以がありそうです。では、「日本型学校教育」とはいったいどういうものなのでしょうか?「中間まとめ」には次のように書かれています(p.3)。

学校が学習指導のみならず,生徒指導等の面でも主要な役割を担い,様々な場面を通じて,児童生徒の状況を総合的に把握して教師が指導を行うことで,子供たちの知・徳・体を一体で育む「日本型学校教育」は、・・・・

つまり、徳育は家庭や教会が担い、体育は地域が担い、学校の先生はもっぱら知育に専念する欧米の学校と異なり、知育、徳育、体育をすべて学校が担うのが「日本型学校教育」であると捉えています。そして、続く・・・・の部分には、「全ての子供たちに一定水準の教育を保障する平等性の面,全人教育という面,卓越性という面などについて諸外国から高く評価されている。」と書かれています。日本の学校教育が抱えている様々な課題を深く知らない諸外国の方々からは、高い評価を受けるのかもしれません。

知・徳・体の一体は教育の本道、でもすべてを学校が担うの?

しかし、教育というものが本来あるべき姿を考えてみると、高い評価は案外的を射ているのかもしれません。なぜならば、子どもたちを大人にしていく教育という営みを、欧米のように知育、徳育、体育に分解して指導することが適切であるとは言えないからです。それぞれを専門とする人がその分野について最適の教育を別々に授けたからといって、全人的に優れた人間が形成されるわけではありません。要素に分解し、それらを集めてみても本当の姿とはかけ離れたものになりがちです。

近代教育は、効率を追求するために教えるべきことを教科に分解して教科教育を追究するやり方を150年続けてきました。その大きな弊害に気づいて、ようやく「総合的な学習」や教科横断的な学びを重視する「カリキュラム・マネジメント」を強調するようになってきています。同様に、全人教育を目指す場合、知育、徳育、体育を分解することなく一体として捉えるのは教育の本道であり、その価値が高く評価されるのは当然かもしれません。

しかし、子どもを大人にするには知育、徳育、体育を一体として捉える教育が適切であるという理想と、その知育、徳育、体育のすべてを今日の「学校」という制度が引き受けるという現実の間には大きな隔たりがあります。なぜならば、今日の学校という仕組みが知育、徳育、体育のすべてを引き受けるように設計されていないからです。

知育・徳育・体育の統合と「学校」の制度設計のギャップ

教員免許制度を例に挙げれば理解してもらえるはずです。1949年に作られた日本の教育職員免許法では、中学・高校の教員免許は教科ごとに発行されており、それは71年を経て社会が大きく変わった今も変わっていません。全教科を教えることが前提となっている初等教員免許についても、免許取得に必要な単位の多くは教科に関するものです。そして現在も教員養成系の大学の教員の8割以上が教科教育や教科内容の専門家で占められています。

また、教員の過剰労働も既存の制度が今の時代に合わなくなっていることを物語っています。「中間まとめ」は教員の過剰労働についてもその実態を次のように述べています(p.9)。

その一方で,教師の長時間勤務の状況は深刻であり,特に近年の大量退職・大量採用の影響等により,教師の世代交代が進み若手の教師が増えてきた結果,経験の少なさ等から,中堅・ベテラン教師と比べて勤務時間が長時間化してしまったことや,総授業時数の増加 部活動の時間の増加などにより平成 28( 2016 )年度の教員勤務実態調査によると平均すると小学校では月に約 59 時間,中学校では月に約 81 時間の時間外勤務がなされていると推計されている。

このような事態に対し、教職員定員改善の予算確保など文科省としてもしっかりと向き合ってきていますので、以下の記述(p.13)は肯定できるものと言えます。

文部科学省では 学校における働き方改革を強力に推進するため文部科学大臣を本部長とする「学校における働き方改革推進本部」を設置し 文部科学省が今後取り組むべき事項について工程表を作成し勤務時間管理の徹底や学校及び教師が担う業務の明確化・適正化,教職員定数の改善充実,専門スタッフや外部人材の配置拡充など,学校における働き方改革の推進に取り組んでいる。

地域や学外者との連携・協力が出来ているのはほんの一握り

しかし、現在の「学校」が抱えている問題は、「働き方改革」を進めることで解消できるようなものだけではありません。「中間まとめ」でも、教員の長時間労働以外にも様々な課題があることを、「(3) 変化する社会の中で 我が国の学校教育が直面している課題」として5ページ目から7ページにわたって縷々書き出しています。

そして、これらの課題を克服する具体的な方策として、「4.「令和の日本型学校教育」を構築する今後の方向性」では、「・・が必要である。」「・・が求められる。」「・・すべきである。」「・・が重要である。」などで締めくくられる項目が18ページ目からやはり7ページにわたって列挙されています。そこには次のような項目も掲げられています。

○また,コミュニティ・スクール 学校運営協議会制度の設置が努力義務であることを踏まえ,また,地域学校協働本部の整備により,保護者や地域住民等の学校運営への参加・参画を得ながら学校運営を行う体制の構築を図り,地域全体で子供たちの成長を支えていく環境を整えていくことが必要である。

○その他学校が家庭や地域社会と連携することで,社会とつながる協働的な学びを実現するとともに,働き方改革の観点からも,保護者やPTA,地域住民,児童相談所等の福祉機関,NPO,地域スポーツクラブ,図書館・公民館等の社会教育施設など地域の関係機関と学校との連携・協働を進め,学校・家庭・地域の役割分担を文部科学省が前面に立って強力に推進することで 多様性のあるチームによる学校とし,「自立」した学校実現する ことが必要である 。

さいわい私が関与している学校の場合は、優れた管理職の下で地域との連携や様々な学外者との協力関係の構築が比較的うまく進んでいます。しかし、上記のような連携・協力関係が実現できている学校はほんの一握りでしかありません。

そもそも、国民国家に忠実に奉仕する人材を大量に供給することを目的として成立した国民国家型の教育システムの下で成立した様々な仕組みを温存したまま、学校教育が新たな持続可能な社会の創り手を育むという重大な目標を達成することは可能なのでしょうか。

理想の実現には「学校教育」のシステムの根本的な変革が必要

知育、徳育、体育を一体として捉え、全人教育を追究する姿勢を維持しようという理想は間違っていないと思います。しかし、150年前と現在とでは社会が大きく変わっており、今後さらに急速に変わっていきます。また学校教育の目的も変わっています。そのような中で理想を維持していくには、学校という仕組みを根本的に変えなければ無理な話です。学校教育のシステムをすっかり変える「変革(transformation )」は不可欠です。それにもかかわらず、「中間まとめ」は次のように述べています(p.17)。

このためには「我が国の学校教育の在り方を根本から見直さなければならないのか」 という疑問が生まれ得るが,そうではない。むしろ,(中略)明治から続く我が国の学校教育の蓄積である「日本型学校教育」の良さを受け継ぎながら更に発展させ,学校における働き方改革とGIGA スクール構想を強力に推進しながら,新学習指導要領を着実に実施することが必要である。(この部分の記述は、「答申」では削除されました。2021年2月に追記)

教員の働き方改革とAIを駆使するGIGA スクール構想で乗り切れると言わんばかりの述べ方です。実際には、「中間まとめ」では、すでに言及してきたように外部人材の活用や地域との連携の重要性を指摘しており、その一層の推進が求められることを強調しています。しかし、「学校教育の在り方を根本から見直さなければならない」という厳しい決意なしに、「中間まとめ」が描く理想を追求していくことは、ひずみを拡大するばかりで、とんでもない「学校」を生み出していくことになりかねません。「無理を通せば道理が引っ込む」と言わんばかりの「・・が必要である。」「・・が求められる。」「・・すべきである。」が羅列された政策は持続可能ではなく、さらなる混乱を引き起こすことになります。

「学校教育の在り方を根本から見直す」方向に早く舵を切り替えてほしいものです。

2020年10月4日

「人類史の潮流を変えはじめたSDGs」

甲府市倫理法人会の経営者モーニングセミナー

9月30日の早朝、甲府市倫理法人会の経営者モーニングセミナーにおいて、「人類史の潮流を変えはじめたSDGs」というテーマで約40分間話をしました。

参加者は30人弱でしたが、会場は甲府市商工会議所の5階大会議室。コロナを配慮して大きな会場に分散して着席するよう配慮されていました。演台には中秋の名月をあしらった花が生けられ、その下には紅色のカラスウリが4個。季節感たっぷりの環境を準備されていました。さすがに倫理法人会の皆様、終始姿勢正しく、集中して聞いていただき、気持ちよく話をすることができました。

SDGsの現状と課題

話の前半では、SDGsの概略の説明で、目標1から目標17までのすべてについて、近年の推移を示すグラフや図を付したスライドを使って説明しました。そのうえで、SDGsの現状と課題として、

1.社会的な状況は、大きく改善されている。MDGs(ミレニアム開発目標:2001~2015)により、途上国での改善は著しい。

2.経済的な状況は、予断を許さない。格差は着実に拡大しており、AIの進展による労働環境の変化が幸せをもたらすかどうかは不透明。

3.生態的な環境は、一層悪化している。地球温暖化や生物多様性の減少は深刻な事態にあるが、事態を好転させる動きは不十分。

4.平和や公正に向けた取り組みや、様々なパートナーシップは着実に進展している。

とまとめてみました。

下のスライドは、目標11「住み続けられるまちづくりを」の説明で用いた図です。社会インフラの老朽化が進む図を示しながら、人口減少社会に入った日本では、新たな利便を求める公共事業からの勇気ある撤退も、SDGsに貢献することであると述べました。

人類史の潮流の変化に主体的参画を

後半では、以下の3つの事例を紹介し、そこからの類推として、下のスライドを用いて、利便・欲望・利益追求と中央主権・大都市集中に向かっていた人類史の潮流が、社会や環境を重視し、地方への分権や還流へと大きく変化し始めており、そこには「SDGsの理念」や「SDGsの価値観」の広がりが大きな影響を及ぼしていると述べました。

①経済界では、これまでの利益一辺倒から「社会や環境が正常に機能してこその経済活動」と認識をかえはじめており、その背後には環境、社会、企業管理を重視する企業に限定して投資するESG投資が拡大している。

②コロナ禍の中で中央政府より地方自治体の存在感が増している例挙げながら、特に「SDGs未来都市」のプレゼンテーションを見ていると、地方自治体が中心となって地方創生に向けて積極的に取り組み始めている。

③学校教育においても、文部科学省が学校以外の様々な機関や団体が、子どもたちをアクティブラーナーに育てるという将来構想を描いているが、個々の学校ではそれを先取りした実践が試みられており、杉並区立西田小学校の「NISHITA未来の学校」では、大人と子どもが同じ立場で発表・質疑・応答をする双方向の学びが展開されていた。

そして、最後に「これからのSDGs時代にあっては自ら参画すること、そして周りの人たちに参画を促すことが、持続可能な社会を構築するためには最も重要なのではないか」と述べて締めくくりました。

モーニングセミナー終了後の朝食会にも招かれましたが、そこではほぼ全員の方から講演に対する好意的な感想をいただきました。また、何人かの方々からは、SDGsの何らかの目標につながる取り組みの実践事例の紹介もありました。

2020年9月19日

「流域治水」への参画とSDGs

荒川下流河川事務所での所内勉強会

9月17日に荒川下流河川事務所での所内勉強会で「SDGsが開く新しい時代」というタイトルで話題提供を行いました。その骨子については、これから何回かに分けて、考えを整理しながら書いていきたいと思っています。

最初に、荒川下流河川事務所での所内勉強会に招かれた経緯を紹介しておきます。荒川下流河川事務所の早川潤所長が、6月に開催された国際フォーラムで、諏訪が『学校3.0×SDGs』に掲載したSDGsの17目標の相互関連性を強調した図(下図)を用いたことを、第3者を介して連絡されてきました。

諏訪が『学校3.0×SDGs』に掲載した
SDGsの17目標の相互関連性を強調した図

そこには国際フォーラムで使用したPPTをPDF化した添付ファイルも付されていました。一方、諏訪の方はそのPPTに描かれていた河川法の3段階の進展に目が止まりました。『学校教育3.0』を刊行して以来、3段階の進展に対してすぐに反応してしまう癖がついていたからでしょう。

日本の河川法の3段階の進展
早川潤氏が国際フォーラムで発表したPPTより

しかしそのシートをよく見ると、1896年に制定された河川法は「洪水」対策に焦点が当てられていたが、1964年の改訂で「水利用」という視点が加わり、さらに1997年の改訂で「環境」保全という視点が加わるという3段階の進展があった、しかし、これからの河川行政ではさらに進展した「流域治水」という観点が不可欠で、そこで重要になってくるのが、SDGsで強調されている様々なステークホルダーの連携であり、「参画」と「統合」である、という指摘でした。


マルチステークホルダーのパートナーシップを伴う流域治水の理解
早川潤氏が国際フォーラムで発表したPPTより

「流域治水」をSDGsという枠組みで捉える早川所長の観点に惹かれるところがあり、お訪ねしてより詳しいお話を伺いたいと申し出たところ、逆に、「河川事務所に来てもらえるなら、所内勉強会でSDGsについての話をしてもらいたい」ということになった次第です。

これまでに依頼された講演等の対象者は、ほとんどが教育関係者でしたが、今回は治水の現場を背負っている方々で、話題提供後の質疑では、現場で直面している課題に関連したものが多く、十分な返答ができなかったと申し訳なく思っています。その分、教育関係者がこれからなすべき課題について多くのことを教えられました。

「流域治水」という現実の課題解決への参画と学び合い

今回どのようなことを教えられたのかを整理すると、以下のようなことです。

これからの治水事業を進めていくには、これまでの「流域関係者の理解・協力」というレベルから、「流域関係者の参画」という新たな展開が求められるようになっている。つまり事業者側が計画を策定し、その実施に対して関係者に理解・協力を仰ぐというこれまでの進め方では不十分で、経済・社会・環境・文化等々の様々な領域にわたる様々な関係者(ステークホルダー)の思いや懸念、知見が統合された「納得解」としての事業計画を策定し、遂行していく必要が生まれている。その「納得解」が導き出されるには、関係者が相互に学び合って理解を深め、そのような過程の中で新たなアイディアが誕生し、そのアイディアの具体化についても関係者とともに検討を重ねていく必要がある。なぜならば、本当に求められている事業を実施し、それが有効に機能するには、計画段階はもとより実施段階においても、事業終了後においても、関係者の「参画」が不可欠だからである。しかし、関係者間の学び合いの場の設定や進め方、さらに「納得解」に到達する道筋がまだ見えていない。また、そのような場を設定して学びを進める際の評価をどのようにすればよいのかも見えてこない。

当日の質疑応答を振り返ってみると、「学校教育や社会教育の世界では、すでに多くの実践に基づく蓄積があるであろう。ぜひ、その成果を自分たちに提供してほしい」という思いからの質問が多くを占めていたように感じています。それらの質問に十分に答えることができなかったことに対する「言い訳がましい」言い訳をすると、以下のようになります。

教育の世界でも、「学び合い」の歴史は浅く、課題解決型の学習も今急速に実践が増えているという状態です。学習者主体の学びを活発にさせるには、教師は従来の指導者という役割に加えてファシリテーターであることが求められる、と言われていますが、どのようなファシリテーションが有効であるかについても、未だ試行錯誤の段階と言えます。「評価」についても、学習者主体の学びでは自己評価が有効だとか、ルーブリック評価は使いやすいけど準備が大変だなどといわれていますが、これだという定説はないように感じています。「評価」という発想自身を否定する考え方もあり、そもそも定説が生まれるのかどうかも定かでありません。

とはいえ、教育界以外での「学び合い」が活発化するSDGs時代。かねてより教育に関わってきたものが、新しい教育方法の進展をしっかりとフォローし整理して、実際の課題に直面している方々の要望に少しでも応えることができるようにしなければ、と強く感じた意義深い所内勉強会でした。

2020年9月14日

「SDGs未来都市」選定の4つのポイント+α

SDGs未来都市」のプラン作りの核心

9月13日に八ヶ岳中腹のサンメドウズ清里スキー場で開催された野外フェス「ハイライフ八ヶ岳」のトークステージでお話しする機会をいただきました。テーマは「北杜市に大学を!」でしたが、前半では、当NPOで構想を膨らませている「SDGs未来都市」にエントリーするためのプラン作りについて話しました。しかし、限られた時間でしたので、その場では「SDGs未来都市に選定されるための4つのポイント+α」については、項目を挙げるにとどめました。今後、「SDGs未来都市」のプランを練り上げる上では重要ですので、少し補足いたします。

どのようなプランを練り上げれば、SDGs未来都市に選定されるのかについては、「2020 年度SDGs未来都市等募集要領」や、「ヒアリングを踏まえた委員のコメント例(令和 2 年度SDGs未来都市選定自治体)」をみると、様々な観点からのプラン作りが求められていることがわかります。それらの中で、「これだけは絶対に外せない」と感じた4つについて、北杜市を例に挙げながら独善的な見解を述べていきたいと思います。

1.その地域が直面している地域固有の課題は何か?

日本のどの地域にも当てはまる「少子高齢化」や「人口減少」に伴う活力低下といった課題もさることながら、その地域ならではの課題を取り上げて、その課題にどのように取り組むのかが問われています。

例えば北杜市には、日照時間の長さを利用して太陽光発電施設の建設をさらに促進すべきか、それとも美しい景観の保全を優先させるべきか、という市民の意見を二分する難題があります。また、年々増加する耕作放棄地対策として、基盤整備整備事業を行って大型農業用ハウスを誘致すべきか、それとも若年人口減少対策として優良田園住宅建設促進法などを活用した移住促進を優先させるべきか、という課題もあります。

2.その地域が2030年にどのような姿になっていることが望ましいか?

つまり、これから10年後にこうなっているといいな、という姿を描き、そのために今からどのような手立てを講じていけば、それを実現できるのか、についてのイメージをしっかりと描く必要があります。将来のある時点から時間を逆にたどることで、現時点でどのような行動に着手すべきかを考えるバックキャスティングという手法です。

北杜市の場合、2020年時点の年少人口(0~14歳)が約3800人。現在の趨勢が続くことを前提とした国立社会保障・人口問題研究所の試算では、2030年には年少人口が2900人弱と約4分の3に減少すると見込まれています。仮に、2030年時点でも、現在の約3800人を維持したい、というのであれば、これからどのような事業を展開すればそれが可能になるかを考えねばなりません。ハイライフ八ヶ岳のトークステージの後半で、私たちのNPOが将来構想として提案した「北杜市に大学を!」は、その一つの解答です。

3.経済・社会・環境の3側面の自律的好循環

SDGsの17の目標は、おおむね経済・社会・環境の3側面に分けて捉えることができます。そして、それらが相乗作用を発揮するように推進することが、世界の持続可能性を確保するうえで極めて重要とされています。同様に地域課題の解決においても経済・社会・環境の3側面からのアプローチが統合されて好循環を生み出すことが求められています。

仮に北杜市が、環境という視点から2030年にCO2排出ゼロという目標を掲げた場合、バイオマスエネルギー施設の設置や水素社会を視野に入れた水素ステーションの開設といった経済的なアプローチが不可欠となります。また、脱化石燃料に向けた消費者サイドでの受け入れ態勢を整えるという社会的なアプローチも不可欠となります。それら3つの側面が統合されて自律的な好循環を生み出すには、非常に綿密なプランを練らなければなりません。

4.多様な組織・団体の連携

1から3で述べたような要求を充足させるプラン作りは、自治体の一つの部署でできることではありません。縦割り意識を払しょくして、各部署が密な連携をする必要があります。また、「SDGs未来都市」の申請主体は自治体ですが、自治体だけでできるものでもありません。企業や商店街、NPO、社会教育施設などの多くの組織や団体の総力を結集して、プラン作りをしなければ、算定されるプランを作り上げることはできません。

実は、この「SDGs未来都市」にエントリーするだけでも、様々な組織や団体の連携・協力関係を強固にするという大きな効果が生まれます。利害の対立する組織や団体同士がプラン作りという共同作業を進める中で互いに対する理解を深め、折り合いをつけるという過程が必ず生じます。このような協同作業こそが、その後の地域にとって大きなプラスになることは言うまでもありません。

選定を決定づける+α

上記の4点は、どれが欠けても選定の対象から外れると断言できる項目です。しかし、これまでに選定された自治体のプレゼンをじっくり見ていると、「ふーん、なるほど、そうきたか」という、斬新で魅力的な+αのアイディアが盛り込まれています。

北杜市がエントリーする際にも、二番煎じでない斬新で魅力的な+αのアイディアを盛り込むことが求められますが、それは一体何でしょうか。

すぐに思い浮かんだのが「子どもたちの参画」です。

ロジャー・ハートの『子どもの参画』からのパクリであることは、率直に認めなければなりません。しかし、これまでに選定された自治体のどのプレゼンをみても、プランニング段階や事業遂行段階で「未来都市」の主役である子どもたちが登場しているものはほとんどありません。

北杜市のエントリーに当たっての斬新で魅力的な+αは「子どもたちの参画」で決まりです。

「子どもたちの参画」が斬新で魅力的な+αになりうる理由はいくつかあります。まず、子どもたちといえども大人たちに負けないほどの斬新で柔軟なアイディアを発信できるからです。2030年やそれ以降の生態系や社会の持続可能性は、まさに自分たちの問題ですので、プランニングにおいても事業の遂行においても真剣に取り組みます。2番目の理由は、大人たちもいつも目の前に「未来都市」の主役である子どもたちがいれば、本気になって子どもたちのためにもいい町を作らなければと思うからです。子どもたちが見つめていれば、みっともない利権争いを繰り広げて足を引っ張り合うようなことはなくなるはずです。

「秘密兵器のはずの斬新で魅力的な+αを事前にホームページで公開してしまっては、秘密兵器にならないよ」「ほかの自治体も真似するじゃない」というご心配は無用。北杜市が「SDGs未来都市」に選定されるよりも、選定される5番目の必要条件として「子どもたちの参画」が位置づけられることの方がはるかに重要だからです。

2020年9月6日

未来の学校とは

皆さんは「未来の学校」はどんな姿だと思っているでしょうか?

ひょっとすると、文科省では皆さんが考えているよりももっと大胆な構想を描いているのかもしれません。昨年の8月に学習院大学で日本教育学会第78回大会が開催された際に、「持続可能な社会と教育」というシンポジウムに合田哲雄氏(現在:文科省科学技術・学術総括官)を招き、今後の学校教育について語っていただきました。合田氏は新学習指導要領の取り纏め責任者だった方です。そのシンポジウムで合田氏が今後の学校教育の方向性として挙げたのが、これまで以上に学年や教科といった垣根が相対的に低くなるということ、と、学校がすべての知識を持っていて独占的に子供たちを教育するのではなくて、大学や研究機関、図書館、NPOなど様々な機関が、子供をアクティブ・ラーナーにするために連携する、という二つのポイントでした。

少し前置きが長くなりましたが、8月4日に東京市ヶ谷の私学会館で教育調査研究所主催の教育展望WEBセミナーの収録が行われました。そこで約30分間、これからの学校教育においてSDGsがますます重視されることを話しました。また、とりわけ注目できる実践事例として紹介したのが、昨年のESD大賞の小学校賞を受賞した杉並区立西田小学校で2月に開催した「NISHITA未来の学校」です。そこでは下の写真のように、体育館でポスターセッションが行われたのですが、大人も子どもも同じ立場で発表し、質問していました。

文科省が未来の学校の在り方として描いたのは「様々な機関が、子供をアクティブ・ラーナーにする」という子どもたちに向かう一方通行の矢印でしたが、「NISHITA未来の学校」で展開されたのは双方通行であったことを、下の図で示しました。

また、参加者からの質問への回答として、これからの学校教育では、「〇〇を教育する」「△△を指導する」「□□を育成する」「☆☆を評価する」といった「他動詞の世界」に替わって「自動詞の世界」の拡大が求められることを述べました。なお、同セミナーの私が参加したセッションについては、教育ジャーナリストの渡辺敦司氏が教育情報誌『内外教育』で1ページ余りのスペースで概要を紹介しています。

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