活動報告

2021年2月27日

「個別最適」と「タテ社会」(その4)

「タテ社会」型の教科の構造とこれからの教員に求められる「ヨコ社会」型思考

教員養成大学にしても学校にしても、「我が〇〇大学」「わが校は」という意識のもとでのまとまりを重視する「タテ社会」の典型であることはあえて説明の必要はないと思います。150年間にわたって日本の学校教育の基本とされてきた教科の構造も、まさに第2図のXと同じ「タテ社会」の構造であることについて補足しておきます。

例えば小学校の場合、学習内容の全体が実技系教科と非実技系教科に分かれ、実技系教科は音楽、図画工作の芸術系教科と体育、家庭の非芸術系教科に分かれ、非実技系教科は文系の国語、社会と理系の算数、理科に分かれ、という「タテ社会」と同じ枝分かれ構造となっています。また、全科担当を原則とする小学校教員の養成においても、例えば東京学芸大学の初等教育教員養成課程では、国語選修、社会選修、数学選修、理科選修、音楽選修美術選修、保健体育選修、家庭選修等々と、それぞれの専門性を深める仕組みが導入されています。つまり、単に教科が「タテ社会」と同じ構造であるだけでなく、教員も専門教科によって「タテ社会」に組み込まれる仕組みとなっています。教科単位の教員免許制度となっている中学校や高等学校の教員が、どっぷりと「タテ社会」に組み込まれる構造となっていることは、言うまでもありません。今回の「令和の日本型学校教育」答申は、小学校に教科担任制を導入する方向を示しており、小学校教員の「タテ社会」化が一層強まる懸念があります。

では、どうすればよいのでしょうか。来るべき多文化共生社会を考えると、これからの社会の担い手を育む役割を持つ教員が、「タテ社会」にどっぷりと浸かっていることが、未来の多文化共生社会で生きる子どもたちに好ましからぬ影響を与えることに意識的であるべきでしょう。そのために二つのことを勧めたいと思います。

一つは、学校以外の活動に積極的に参加することです。特にぜひ勧めたいのが、NPOの活動への参加です。市民レベルでの国際交流を進めているNPO、環境問題に取り組んでいるNPO、子どもたちの貧困や学習支援に取り組んでいるNPO、地域の活性化に取り組んでいるNPO、安全な「食」と「農」を目指しているNPO、障がい者の支援を行っているNPO、音楽などの芸術活動の振興をサポートしているNPO、伝統文化の継承に取り組んでいるNPO等々。日本財団は、「NPOなどの公益活動を実施している団体に関する全国規模のデータベース」をネット上で公開していますが、そこに情報提供されているだけでも1万以上があがっています。

NPOは何らかの目的を持って活動しているので、その目的に深く関心を寄せているという点では同じ思いを抱いている人たちですが、自分の職場から一歩離れた立場で集まってきていることが多く、多様性に富む傾向があります。日常生活の大部分を過ごす学校から離れ、多様な人々が集まる場で活動することで、社会の様々な側面を知ることもできますし、学校以外の世の中の様々な仕組みを知ることもできます。

もう一つは、授業の中に極力「SDGsの学び」を取り入れることです。以下に述べるように、実はSDGs自身が「ヨコ社会」の構造をもつものであるので、授業の中に「SDGsの学び」を取り入れると、いつの間にか「ヨコ社会」的な思考が身についていくと思われます。

SDGsについては、17の目標のロゴを3段に並べた以下の図が最も基本的なものです。

しかし、SDGsのきわめて重要な点は、「2030アジェンダ」の前文の最終段落に書かれている「持続可能な開発目標の相互関連性及び統合された性質」にあります。そこで筆者は『学17のすべての目標が辺と対角線で結ばれた、以下の図を描いてみました。

SDGsの17の目標間のつながりを示した上図の正多角形は、中根氏が「ヨコ社会」の構造として示した図の各構成員を繋いだ図3の、構成員を17に増やしたものと一致しています。もちろん、図3の場合は「人々」の間の構造であるのに対して、上図は、SDGsの17の目標という「事柄」の間の構造であって、一律に論じることができるものではありません。しかし、「ヨコ社会」において新たな成員の参加が「全成員に影響する」のと同様に、SDGsの場合も、一つの目標への働きかけがほかのすべての目標に影響が及ぶという点でも、類似しています。

DNAから見た日本人

「そうはいっても、「タテ社会」は日本人のDNAにまで浸み込んだものなので、文科省が学校の在り方を変えようとしても、各教員が意識変革を図ろうと、おいそれと変わるものではないよ」という反論も出そうです。しかし、日本人のDNAは、今日もなお多様性に富んだ多文化共生タイプであることを最後に述べておきます。

ある地域に住む人々が、どのような来歴の集団によって構成されているかについては、1980年代以降のDNAの解析研究の進展によって、かなり断定できる状況になっています。女性から女性だけに継承されるミトコンドリアDNAと、男性から男性だけに継承されるY染色体のDNAについて、人類が世界各地に拡散する過程で生じた突然変異の痕跡をたどることで、アフリカで誕生した現生人類が、アラビア半島経由で南アジアから西アジアにわたり、その後新たな食料獲得手段を獲得しながらユーラシア大陸の各地へ移り住んでいった経路と年代がおおむね推定できています。そのようなDNA解析研究の結果、日本列島は、実は各地に移り住み、それぞれの場所で新たな食料獲得手段を発達させたいくつかの集団が再集合した、やや特異な場所であることがわかっています

日本人の男性については、下図のように古い時代に分化したCというタイプとDというタイプの遺伝子(古代遺伝子)を持つ人々が半分近くを占めているという大きな特色があり、その古代遺伝子を持つ人々も大きく3系統からなっています。森林の中で狩猟採集をしながら東に移動して日本列島に到着したDというタイプのY-DNAを持つ人々が約36%、南方からおそらく漁労生活をしながら北上してきた人々と、シベリア方面から南下してきた人々が合計で約7%です。残りの約50%以上は、稲作を始めたことで急拡大したと思われるOというタイプのY-DNAを持つ人々です。このように来歴や食料獲得手段の違う集団どうしは、最初のうちは住み分けをしていたはずです。しかし、長い歴史の中で多文化共生の段階を経て次第に文化的な融合が進み、単一民族的な様相を帯びるようになっていったと推定できます。

日本男性のY染色体DNAのタイプ別分布
(http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/ 中 の Y DNA県別調査 の データより作成)


一方、日本の女性は大きく分けると、南方系と北方系に分かれるのですが、下図に示されているように様々なタイプのミトコンドリアDNAを持つ人々から構成されています。ミトコンドリアDNAのタイプの多様性という点では、東アジアは世界でも突出していると言えます。そして興味深いことに、ミトコンドリアDNAのタイプ別の構成比率を見ると、日本から朝鮮半島、長江以北の中国、そしてチベット高原にまで続く帯状の地域では、同じような構成比率が見られます。日本の男性の場合と同様に、かつて各方面から集まってきた人々が同じような植生の下で長年共生してきた結果であろうと思われます。今日ではしばしば対立する異なった民族となっていますが、元をたどると、同じような由来と同じような食生活を持っていた集団同士であったと言えそうです。

日本人女性のミトコンドリアDNAのタイプ別分布
(篠田謙一2007 ,『日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造』、
NHK 出版, 219pp)

東アジアでは農耕段階に入って以来、男性が支配的な存在であったことが、上記のようなDNAレベルでの男女の違いになっています。特に島国である日本の場合、男性中心の社会の単一性が「タテ社会」を形作ることになっていったのですが、DNAレベルでは今日も多様なタイプの共生関係がみられます。今後、日本においても女性の活躍が進み、SDGsの目標5の「ジェンダー平等を実現しよう」が達成されるようになると、「タテ社会」から「ヨコ社会」への移行が急速に進むかもしれません。ただし、現時点ではジェンダー平等に対する自覚のない抵抗勢力(筆者もその一人かもしれませんが)が根強く、「ジェンダー平等を実現しよう」の目標達成度は、先進諸国では最低、途上国を含めても最低に近い位置にあります。

まとめ

中教審の「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」答申では、児童生徒の多様化に対応する「個別最適な学び」が強調されており、そこでは、主としてICTの活用によって実現させようとしているように受け取れます。しかし、「個別最適」という表現の源と目される「Society5.0 に向けた人材育成」は、ICTの活用の危険性にも言及し、学校が「ヨコ」の関係にある学校外の組織や人材などと協力して、未来社会の担い手を育む構想を打ち出しています。しかし、日本社会の根強い「タテ社会」は健在で、学校という組織ばかりでなく、教科を軸とする教育体制も、また教科の枠組みに組み込まれている教員も、「タテ社会」にどっぷりと浸かっているという実態があり、そこを解きほぐしていくことから取り組まねばなりません。日本人のDNAは、実は多文化共生タイプなので、「ヨコ社会」への移行も不可能ではありません。今回の答申においても、「外部人材」の活用などに触れていますが、様々な課題への言及と対応の膨大な記述の中に紛れてしまい、大きな比重を置かれているように感じることができません。また、活用する「外部人材」についても、限定的な印象を受け、「タテ社会」型の発想から抜け出ていないのではないかと疑わざるを得ません。社会の変化に対する的確かつ迅速な学校改革が求められていますが、まだまだ不十分というのが、今回の答申に対する率直な感想です。(おわり)

2021年2月27日

「個別最適」と「タテ社会」(その3)

根強い日本の「タテ社会」

東京オリンピック・パラリンピックの日本側組織委員会の会長が、女性蔑視発言の責任を取って辞任の意向を表明しました。しかもその後任会長としていわば身内の高齢者を指名しかけたこと、さらに、それを政府内で容認しかけたことには、唖然とさせられました。しかし、日本の社会では、このようなことがまだまだ当たり前のこととして通用していることも、認めざるをえません。

昨年末に、学校教育における共創型対話学習の重要性を指摘されてきた金沢学院大学の多田孝志先生からいただいたメールの中に、中根千枝氏が2019年に講談社現代新書として刊行した『タテ社会の現代社会』に触れた次のような一節がありました。

(『タテ社会の現代社会』)には『タテ社会の人間関係』(1967)以降、50余年たっても日本の社会の基調は変わっていないとの鋭い指摘が記されています。日本の社会、学校教育の根本を問い直し、多文化共存の新たな時代に向けて拓いていくことは緊要の課題と考えます。

多田先生は、『事典 持続可能な社会と教育』(教育出版、2019年)の「共創型対話」という項目の中で、グローバル時代、多文化共生社会における共創型対話の要点として「完全には分かり合えないかもしれない相手とも、できる限り合意形成をもとめての話し合いを継続していく粘り強さ」などをあげていますが、トップが決めたことに異論をはさまない「わきまえた」態度を求める風潮が、多くの日本の組織でまかり通っていたことが露呈されました。コロナ禍の中では、日本社会の中に強力な「同調圧力」が働き、ギスギスした人間関係を生み出し、「自粛警察」という言葉まで生まれました。今なお、このような共創型対話の対極にあるような姿や、派閥政治や縦割り行政が一向に改善されない日本の姿は、これからの本格的な多文化共生社会の到来を考えると、憂慮せざるをえません。

中根氏は、『タテ社会の人間関係』の中で「タテ社会」と「ヨコ社会」の構造の違いを、以下の2つの図を用いて説明しています。(p.114-115)

両集団とも同じ一定数の個人からなっている仮定で、その数を抽象したa・b・cの三点によって示すと第1図のようになる。すなわち、Yにおいては三点の関係が三角形を構成するのに対して、Xにおいては、底辺のない三角関係となる。

さらに、この両者の構成を複雑にすると第2図のようになり、その違いは一層明らかになるであろう。この両者の構造の違いは、・・・Xの成員はaを頂点としてのみ全員がつながっているのに対して、Yにおいては、すべての成員が互いにつながっていること。(一部略) すなわち、もしここに新たにhというものがはいってくる場合、Xにおいては、理論的にa・b・c・d・e・f・gのどれか一つにつながることによっての成員たりうる。しかるに、Yにおいては、hの参加は全成員に影響する。(p.114-115)

この文中の「ヨコ社会」の構造の説明にある「すべての成員が互いにつながっている」を生かしてより正確に図化すると、第2図の右側の七角形は以下のように書き表せます。

図3 各構成員がつながる「ヨコ社会」

つまり、個々の構成員が他のすべての構成員と繋がっている、あるいは繋がらざるを得ない「ヨコ社会」に対して、「タテ社会」では各構成員は「タテ」の関係では繋がっているが「ヨコ」の関係では繋がっていない、あるいは繋がらなくても済んでいる、といえます。中根氏はなぜ、「タテ社会」という日本的な社会構造が生まれたのかについて、「おわりに」で以下のように述べています。

日本社会の場合、この(=「タテ社会」を作った)条件を支えている一つの大きな特色が存在する。それはいうまでもなく、社会の「単一性」である。現在、世界で一つの国(すなわち「社会」)として、これほど強い単一性をもっている例は、ちょっとないのではないかと思われる。(中略)日本列島は圧倒的多数の同一民族によって占められ、基本的な文化を共有してきたことが明白である。(中略)この日本列島における基本的文化の共通性は、とくに江戸時代以降の中央集権的政治権力に基づく行政網の発達によって、いやが上にも助長され、強い社会的単一性が形成されてきたのである。さらに近代における徹底した学校教育の普及が人口の単一化に一層貢献し、とくに戦時の挙国一致体制、そして、戦後の民主主義、経済の発展は、中間層の増大拡大という形をとりながら、ますます日本社会の単一性を推進させてきたものといえよう。(p.187-188)

この日本社会の「単一性」は、多田先生が懸念するように、これから必然的に到来する多文化共生社会にとって、大きな問題をはらんでいると考えざるをえません。それゆえに、今日の日本の状況を考えると、持続可能な社会の構築や多文化共生社会の構築のための「全体最適」を実現するには、その前提として、持続可能な社会や多文化共生社会にふさわしい「個の確立」や「個人の自律」が求められており、そのためにも「個別最適」の追究は不可欠なのかもしれません。

ただし、ICTの活用まっしぐらの「個別最適」とは別のルートによる「個別最適化」がありうるのではないでしょうか。上述の「2.Society 5.0 において求められる人材像、学びの在り方」は、「(2)共通して求められる力」のあとに、「(3)Society 5.0 における学校」という節を設けています。その前半はAIやスタディ・ログの蓄積などの話題が中心ですが、中程で、「ただし、子供たちはデータから必ずしも読み取れない多様な可能性を秘めている。データに過度に依存することで、一人一人の成長や変化が正当に評価されない等の危険性も指摘されている。」と述べ、後半には以下のような記述がなされています。

Society 5.0 における学校は、一斉一律の授業スタイルの限界から抜け出し、読解力等の基盤的学力を確実に習得させつつ、個人の進度や能力、関心に応じた学びの場となることが可能となる。また、同一学年での学習に加えて、学習履歴や学習到達度、学習課題に応じた異年齢・異学年集団での協働学習も広げていくことができるだろう。さらに、学校の教室での学習のみならず、大学(アドバンスト・プレイスメントなど)、研究機関、企業、NPO、教育文化スポーツ施設、農山村の豊かな自然環境などの地域の様々な教育資源や社会関係資本を活用して、いつでも、どこでも学ぶことができるようになると予想される。(p.8)

学習指導要領といった枠組みに囚われない、自由度の高い構想が描かれており、前述の合田氏のスピーチにあった「学校が、・・・独占的に子供たちを教育するのではなく」という構想の一端をここに見ることができます。なお、「社会関係資本」とは、人々の信頼関係や社会的ネットワークのように、広く便益をもたらす人間関係を意味しています。

 中根千枝氏は、日本の「タテ社会」を生んだ要因として日本社会の「単一性」を挙げています。日本の学校制度もまた「単一性」を育み、「タテ社会」を強固なものにしているという見方をしています。それに対し、「Society5.0に向けた人材育成」ではSociety 5.0時代の学校の在り方として、学校外の様々な組織や豊かな自然環境に恵まれた空間などを活用した姿を構想しています。そこでは「ヨコ」の関係がふんだんに取り入れられる構想となっており、それは従来の学校の「単一性」を打破し、多文化共生社会にそぐわない強固な「タテ社会」から多様性が尊重される「ヨコ社会」への転換をもたらす可能性を秘めたものといえます。

 しかし、多様性が尊重される「ヨコ社会」への移行という点では、学校側の、特に教職員の意識変革も不可欠です。日本の学校の教員の多くは、教員養成系大学で養成されて、学校という組織に入り、しかも何らかの教科を専門とするという三重の「タテ社会」に組み込まれているといっても過言ではありません。この現状が変わらなければ、「Society5.0に向けた人材育成」に描かれた「Society 5.0 における学校」は実現できません。(続く)

2021年2月27日

「個別最適」と「タテ社会」(その2)

「個別最適」への違和感

違和感を持ったのは、「部分最適」の総和が「全体最適」にならないのと同様に、「個別最適」を追い求めていっても、「全体最適」には到達しないのではないかということもありました。つまり、直面する生態的・社会的な持続可能性の危機に対しては、社会の、そして地球の「全体最適」が求められているのであって、根本に個人の資質・能力の向上を据えた「個別最適」を求めるのは、これからの学校教育が依拠すべき「持続可能社会型教育システム」ではなく、学校教育2.0すなわち「資質・能力重視教育システム」の発想ではないかと感じたからです。

もちろん、子どもたちの多様化と子どもたちが抱える課題の多様化への対応が求められていることも、その対応で教員がますます多忙化を強いられることが適切でないことも理解しているつもりです。しかし、それがICT の活用と少人数化で実現できるものだろうか、ICT の活用と少人数化が学校教育の在り方として適切なのだろうかということに対する疑問もあります。特に、情報化の流れに乗ることの危険性について吟味が不十分なのではないかという不信感のようなものと言ってもよいかもしれません。

科学文明は確かに人類に多大な利便や恩恵をもたらしました。と同時に、様々な環境問題や格差をもたらし、今、生態的・社会的な持続可能性が人類の最大の課題となっています。同様に、情報化の進展によって大きな恩恵を受けているのですが、ビッグデータが一部の企業や組織に集積されることの危険性やスマホ中毒の蔓延など、以前から指摘されていた懸念材料は現実のものとなっています。「個別最適な学び」が学習者の個別最適を目指すものであることは百も承知ですが、それが情報関連企業や情報操作側にとっての「最適」にすり替わってしまう危険性も十分にあります。嘘で塗り固められた情報が大量に発信され、そのような情報を鵜吞みにする人が極めて多いという実態を見ると、情報化の進展がもたらすマイナス面に対する防御は現段階でも脆弱ですし、今後もその脆弱さは変わらないのではないかと思っています。

今回の中教審答申の「個別最適な学び」については、『教育展望』2021年1・2月合併号の新春座談会「WITHコロナ時代の教育の方向性」でも、安彦忠彦氏や石井英真氏が、「分断」や「序列化」につながる懸念を述べています。「持続可能社会型教育システム」にしても「持続可能な開発モデル」にしても、持続可能性を追求する上では、従来の「競争」を基調とする教育から「共創」を基調とする教育への転換が不可欠と筆者は考えていますので、安彦氏や石井氏の懸念についても同様の感想を持っています。蛇足ながら、拙著『学校教育3.0』では、現行の学習指導要領で重視されている「資質・能力重視」に対しても、持続可能な社会の構築に対して阻害要素となりかねない「競争」と直結しがちであることから、否定的な見方を取っています。

情報化の進展によって、子どもたちの姿が明らかに変わってきています。子どもたちの世界にスマホががっちりと根付いてきたことで、逆に、社会的な事象に対して自分自身で突き詰めて考えることが苦手になってきているようも感じます。そして、さらに、恣意的な情報操作に対する抵抗力も弱まってきていると考もえています。このような危険性に対して、学校や教育委員会レベルだけで的確に対応することは相当に無理があることです。子どもたちの生育にとってプラスにならない恣意的な情報操作をチェックするために、保護者や地域関係者などを巻き込んだ仕組み作りも、「個別最適な学び」を進めていく上では必要不可欠であろうと思っています。

「個別最適な学び」は懸念が多い、されど

以上述べてきたように、「個別最適な学び」には多くの懸念があります。しかし他方で、「Society5.0に向けた人材育成」で重視されている「新たな社会を牽引する人材」も必要とされている、と思わざるをえません。Society5.0は情報機器やAIと不可分の関係にあるので、「Society5.0に向けた人材育成」が目指す人材像の考え方に賛同するのは、上記の懸念と矛盾するのですが、これまでの教育論の偏狭な枠組みを取り払ったような、納得させられる記述も少なくありません。

「新たな社会を牽引する人材」は「2.Society 5.0 において求められる人材像、学びの在り方」として、まず「(1)新たな社会を牽引する人材」を挙げ、以下のように記述しています。

Society 5.0 を牽引するための鍵は、技術革新や価値創造の源となる飛躍知を発見・創造する人材と、それらの成果と社会課題をつなげ、プラットフォームをはじめとした新たなビジネスを創造する人材であると考えられる。異分野をつなげることでエコシステムを創造するプラットフォーム・ビジネスの形態は、巨大な規模を持たなくとも、発想次第で新たな価値を創造することができる。このようなプラットフォームを創造できる人材には、異分野をつなげる力と新たな物事にチャレンジするアントレプレナーシップが欠かせない。また、課題解決を指向するエンジニアリング、デザイン的発想に加えて、真理や美の追究を指向するサイエンス、アート的発想の両方を併せ持つ必要がある。これらの資質・能力に加えて、多くの人を巻き込み引っ張っていくための社会的スキルとリーダーシップが不可欠となろう。新たな価値を創造するリーダーであればこそ、他者を思いやり、多様性を尊重し、持続可能な社会を志向する倫理観、価値観が一層重要となる。

Society 5.0 の世界を仮定せずとも、今日の日本の状況を考えると「社会を牽引する人材」は必要であり、やや要求が多岐にわたりすぎという気がしないでもありませんが、確かにそのようなイメージを備えた社会の牽引者が求められている、と同意させられます。

ちなみに、その次に記されている「(2)共通して求められる力」(p.7)でも、要求過剰気味ですが、おおむね妥当な記述がなされていますので、一部省略して以下に引用します。

(冒頭略)どのような時代の変化を迎えるとしても、知識・技能、思考力・判断力・表現力をベースとして、 言葉や文化、時間や場所を超えながらも自己の主体性を軸にした学びに向かう一人一人の能力や人間性が問われることになる。特に、共通して求められる力として、①文章や情報を正確に読み解き、対話する力、②科学的に思考・吟味し活用する力、③価値を見つけ生み出す感性と力、 好奇心・探求力が必要であると整理した。まず、知識・技能としての語彙や数的感覚などの学力の基礎に加え、人間の強みを発揮するための基盤として、文章や情報を正確に理解し、論理的思考を行うための読解力や、他者と協働して思考・判断・表現を深める対話力等の社会的スキルなど、読み解き対話する力が決定的に重要である。また、人と機械が複雑かつ高度に関係し合う社会となっていく中、科学的に思考・吟味し活用する力が不可欠となる。機械を理解し使いこなすためのリテラシーや、その基盤となるサイエンスや数学、分析的・クリティカルに思考する力、全体をシステムとしてデザインする力がこれまで以上に必要な力となる。(以下、略)

この「Society 5.0 において求められる人材像」に対しておおむね同意するとなると、その実現と不可分なものと前提されている「個別最適化された学び」を否定しづらいのですが、「今日の日本の状況を考えると」という前提はつけておきたいと思います。この「今日の日本の状況」をどのように捉えているのかについて次に述べたいと思います。(続く)

2021年2月27日

「個別最適」と「タテ社会」(その1)

中教審答申のキーワード「個別最適な学び」

中央教育審議会答申「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」が1月末(2021年)に公表されました。この答申作成には、中教審の教育課程部会とともに教員養成部会も加わっており、これから文部科学省内で次の学習指導要領の作成に向けた作業が進むとともに、学校教育を支える学校外の体制と教員免許制度の在り方など、多様な側面での動きが活発化すると見込まれます。

新学習指導要領の全面実施が中学校ではこの春から、高等学校では来年度からというのに、その次の学習指導要領の話題では、少々早すぎと感じるかもしれません。しかし、それだけ社会の変化が速く、これまでのような10年に1回の改訂ペースでは急激な変化に対応できないということでしょう。今後、学習指導要領の改訂ペースはますます早まっていくものと思われます。

新学習指導要領の改訂の目玉は、中教審での審議過程で「主体的・対話的で深い学び」に変わりましたが、当初は「アクティブ・ラーニング」でした。それに対し、次期の学習指導要領における改訂の目玉は「ICTの活用」です。文科省では、すべての児童生徒に端末1台というICT環境を整備すべくGIGAスクール構想を進めてきました。しかし、コロナ禍で近隣諸国に比べて「ICTの活用」が立ち遅れていたことを思い知らされました。休校期間中に多くの公立学校では遠隔授業が成立しない実態が露呈してしまいました。したがって、今回、諮問段階でも「ICT環境や先端技術の活用」があがっていましたが、答申では「ICTの活用」がより一層強調されたように感じます。中教審答申の概要でも、1枚目の最上部、つまり最も力を入れた部分に「ICTの活用」が書かれています。

今回の中教審答申には「~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと, 協働的な学びの実現~」という副題がついています。ここに書かれている「個別最適な学び」は、2019年(平成31年)4月の諮問段階にはなかった言葉です。ただし、諮問事項の一つに「障害のある者を含む特別な配慮を要する児童生徒に対する指導及び支援の在り方など、児童生徒一人一人の能力、適性等に応じた指導の在り方」が挙げられており、前述の「ICT環境や先端技術の活用」との組み合わせから、これまでの一斉授業中心の授業から児童生徒一人一人に対応する「個別最適な学び」にたどり着く道筋は準備されていたとも言えます。

答申の「はじめに」に記載された文言を拾い出して、「個別最適な学び」を一文で表現すると、

「個別最適な学び」とは、多様な子供たちを誰一人取り残さないよう、ICT の活用と少人数によるきめ細かな指導体制の整備によって実現しようとするもので、「協働的な学び」と一体的に充実させることで、これからの子供たちに求められる資質・能力を育成しようとするもの

となるかと思います。

「Society 5.0 に向けた人材育成」

「個別最適」という表現は、10か月ほど遡った2018年6月に文科省が公表した「Society 5.0 に向けた人材育成 ~ 社会が変わる、学びが変わる ~」の中で「(公正に」個別最適化された学び」として何度か言及されています。2016年1月に閣議決定された「第5次科学技術基本計画」で、日本が目指すべき未来社会の姿として「Society 5.0 」が提唱されたのを受け、それを各省庁レベルで具体的な提案に落とし込むことが求められました。それに対して文科省としてまとめた構想が、「Society 5.0 に向けた人材育成 ~ 社会が変わる、学びが変わる ~」でした。文科省ではその構想取り纏めのために有識者からなる「Society 5.0 に向けた人材育成に係る大臣懇談会」と、文科省の課長職以上を構成員とする「新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース」の二つの検討組織を立ち上げて約半年間検討し、それらを合体させたのが「Society 5.0 に向けた人材育成」です。

「Society 5.0 に向けた人材育成」において、「個別最適」という言葉がどのような文脈の中で用いられているかを確認すると、「個別最適」が登場してきた意図は明らかです。

・児童生徒一人一人の能力や適性に応じて個別最適化された学びの実現に向けて、スタディ・ログ等を蓄積した学びのポートフォリオ活用しながら・・・・

・EdTech を活用し、個人の学習状況等のスタディ・ログを学びのポートフォリオとして電子化・蓄積し、指導と評価の一体化を加速・・・・

・ICT 環境の整備、ビッグデータ活用・・・さらに、デジタル教科書、デジタル教材、CBT 導入などを進める・・・・

 以上から十分に察しがつくように、ICTに関するハードとソフトを学校教育の場にこれまで以上に導入することで、児童生徒一人一人の能力や適性に応じた指導を進めようというものです。その背景には、子供の貧困や地域間格差の拡大、いじめ・不登校等の増加、外国籍の子供や障害のある子供の増加など、一人一人の個別のニーズに丁寧に対応することが求められるという、時代の要請があったことは間違いありません。子どもたちの多様化、子どもたちが抱える課題の多様化が進む中で、従来の画一的な学校教育では対応できなくなっているという認識とともに、ICTを活用したりAIの助けを得ることによって、このような多様性に対応できるのではないかという期待感があります。しかし同時に、情報関連企業の相当な売り込みがあったことも推測できます。

「Society 5.0 に向けた人材育成」は、今回の答申案を取りまとめた「新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会」の第1回目の会合(2019年6月27日)でも資料として、配布されています。つまり、「個別最適な学び」が今回の答申の最前面に位置づけられるレールは、諮問の10か月前に示された「Society 5.0 に向けた人材育成」によって敷かれていたといえます。

「個別最適化された学び」と「学校ver.3.0」

ところで、「Society 5.0 に向けた人材育成」には、参考資料として「Siciety5.0 に向けた学校ver.3.0」という表題のポンチ絵と、「Society5.0におけるEdTechを活用した教育ビジョンの策定に向けた方向性」という表題の2枚組PPTシートが付されています。後者については、「文部科学省新たな時代に対応するためのEdTechを活用した教育改革推進プロジェクトチーム」という作成者名が付されており、大臣懇談会やタスクフォース内での議論を受けて、今後のEdTech(教育現場にテクノロジーを取り入れて教育を支援する仕組みやサービス)の在り方を整理したもので、参考資料として付した意図は明確です。

それに対し、下に示した「Siciety5.0 に向けた学校ver.3.0」は、誰が作成したのかが明記されてないばかりでなく、「「K-12教育」から「K-16プログラム」へ」「ラーニング・オーガナイザー」「持続可能な開発モデル」など、「Society 5.0 に向けた人材育成」の本文には存在しないフレイズが散りばめられています。学校教育の未来像を描くという意味では「Society 5.0 に向けた人材育成」と方向を同じくするものですが、大臣懇談会等の議論のさらに先を行く構想が示されています。

 いったい誰が、どのような意図をもってこのポンチ絵を「Society 5.0 に向けた人材育成」の参考資料として紛れ込ませたのでしょうか? 

 この「Society 5.0 に向けた人材育成」が発表された当時、林芳正文科大臣の補佐官であり、しかも大臣懇談会の座長を務めていた鈴木寛氏(現:東京大学公共政策大学院教授 兼 慶應義塾大学政策・メディア研究科教授)が、2018年7月28日に行った「2030年に向けた日本の教育政策について」と題する講演の中で、このポンチ絵を分割し内容の一部捨象した2枚のPPTを示しています。上述の大臣懇談会やタスクフォースとは別に、林芳正文科大臣、鈴木寛補佐官を中心とする少人数の集まりができていて、社会経済的な枠組みの発展段階に対応した学校教育の在り方という観点から、未来の学校のあるべき姿を模索していたと想像できます。

http://基調講演2 (鈴木寛 文部科学大臣補佐官) (mext.go.jp)

鈴木氏の基調講演から約1年後の2019年8月8日、その時点では文科省初中局の財務課長で、その前には新学習指導要領の取り纏めの要である初中局教育課程課長を務めていた合田哲雄氏が、日本教育学会のシンポジウム「持続可能な社会と教育」でゲスト・スピーカーとして登壇し、以下のように語っています。

我が国の教育をどのようなビジョンをもって展開していくのか、ですが、その一つの方向性を示したのが、2018年6月に当時の林芳正大臣が発表した政策ビジョン「Society5.0に向けた人材育成」です。(一部略)工業化社会に対応した学校バージョン1.0における学習指導要領は知識の体系でした。学年別漢字配当表がその典型です。それに対し、2017年の学習指導要領の改訂は、知識は大事であるということを当然の前提にしながらも、資質・能力の体系に転換したもので、これが学校バージョン2.0です。2017年の改訂の時に参考にしたのは、学年という枠組がなく個々の子供たちに対応した学びを作り上げている特別支援教育であるとか、教科という枠組みなしに子供たちを育んでいる幼稚園教育でした。

今後、持続可能な開発モデルとして、コミュニティ・ソリューションですとか、Society5.0 という言葉がキーワードになる時代になると、学校バージョン3.0という議論になってくるわけで、そのポイントは二つあります。一つは、これまで以上に学年や教科といった垣根が相対的に低くなるということ。この林大臣のビジョンでは「K-12教育からK-16プログラム」ということで表現しています。二つ目は 学校がすべての知識を持っていて独占的に子供たちを教育するのではなくて、大学や研究機関、図書館、NPOなど様々な機関が、子供をアクティブ・ラーナーにするために連携する。このことが、二つ目のポイントだと思っています。

合田氏は、「林芳正大臣が発表した政策ビジョン」「この林大臣のビジョン」と2回も文科大臣の名前を挙げていますが、実は、このスピーチの冒頭で、「私は公教育と民主制の黒子ですので、・・」と述べて、シンポジウムなどで前面に出てくる立場ではないことを弁解されているのですが、逆に、ポンチ絵の構想をご自身がまとめ上げたことほのめかしてしまったのではないかと受け止めています。ポンチ絵の最下段には、学校ver.1.0を「国民国家モデル」、学校ver.2.0を「グローバル市場経済モデル」、学校ver.3.0を「持続可能な開発モデル」とする構想が描かれています。筆者は、この政策ビジョンが公表される約2か月前に「国民国家型教育システムから資質・能力重視教育システムを経て持続可能社会型教育システムへ」という副題を付した『学校教育3.0』(2018年4月、三恵社)を刊行しています。ほぼ同じような時期に、文科省の上層部でも社会や経済の発展段階に応じた学校教育の在り方があるという観点から、同じような将来構想を描いていたことを知り、心強く感じた次第です。

ではなぜ、「持続可能な開発モデル」の学校ver.3.0という構想を、作成者無記名のポンチ絵の形で「Society5.0に向けた人材育成」の中に紛れ込ませたのでしょうか。おそらく、学校関係者の中には、学校ver.1.0を「国民国家モデル」に固執する抵抗勢力が根強く存在するという実態を考慮した結果ではないかと想像しています。

ただし、ポンチ絵に示された学校er.3.0 の「持続可能な開発モデル」と、筆者が提示した「持続可能社会型教育システム」に基づく学校教育3.0が、同じような方向性を有するものと考えた場合、そこに「個別最適化された学び」が重要な位置を占めていることには、違和感がありました。(続く)

2021年1月27日

『教育展望』2021年1・2月合併号

『教育展望』2021年1・2月合併号の新春座談会

一般財団法人教育調査研究所が発行している『教育展望』の2021年1・2月合併号が刊行されました。今回の合併号は全64ページのうち38ページ分が「新春座談会 WITHコロナ時代の教育の方向性」に当てられています。この座談会について「あとがき」で「教育の将来を見据えた大変深い議論が展開されています。新春号にふさわしいものであるかと思います。」と書かれていますが、決して編集者の「我田引水」ではない、本当に素晴らしい議論がなされています。

名古屋大学名誉教授の安彦忠彦氏、京都大学大学院教育学研究科准教授の石井英真氏、文科省初中局教育課程企画室長の板倉寛氏、そしてコーディネーター役の教育調査研究所の寺崎千秋氏の4人の座談会で、それぞれが率直に、今後の日本の学校教育の在り方に対する示唆に富んだ発言をしています。特に、石井英真氏の「分断」、「縦軸と横軸」「未来の学校」についての発言は、筆者の最近の関心事と重なる部分があり、深く納得しながら読み進めることができました。石井氏の発言を数か所抜粋し、以下に転記します。

・・現代の世界的な問題の一つが分断の進行です。(中略)検索サイトや通販サイトのように、ネット上で知らず知らずのうちに、個々人の嗜好に応じて情報がレコメンドされていますから、見えている世界が違ってきてしまっているのですね。(中略)信念の違いが依拠する情報リソースの違いを生み出していて、それをレコメンドシステムや個別のマッチングシステムが増強しているという、見えている現実の風景の分断をどんどん進めているというのが現状だと思います。(中略)社会全体の分断が進んでいきますし、先生方の中でも分断が進んで、世代間での分断、学校の中での教職員間の考え方の違いによる分断、さらには、階層間格差も反映しながら、類似の生活背景や価値観をもつ者が選択的に集うことによっても加速する、学校間の分断にもつながっていく。」(p.13-14)

すでに多くの人が意識していると思いますが、自分の検索した事柄に関連した広告や、検索事項に好都合な情報が次々と現れてくるネット社会が、学校教育においても「分断」を助長しているという指摘は、しっかりと受け止めて対応をする必要があります。

今まさに学校が社会的分断の装置となっていないか注意が必要です。社会的分断の装置としての学校ではなく、それを是正していく、逆に、社会的な統合とか信頼を積極的に作っていくこと、公共性を構築していくことを立脚点として、公教育、学校の制度設計をしていくのが大事ではないかと思います。

そういう観点でみたときに、「個別最適化」について、孤立化や個別分化に至るかどうかが重要です。(中略)「令和の日本型学校教育」の中でも「個別最適な学び」の関係で、「指導の個別化と学習の個性化」という対概念が用いられていますが、本質は、指導か学習かということではなく、縦軸か横軸かということなんです。縦軸方向で、個の多様性を伸長するという方向性で、横軸でスキルを伸ばしていく、あるいは速い遅いといった垂直的個人差でみていくか。そうではなく、横軸で、多様性を尊重するという発想で、水平的な価値観で、その子一人一人のまるごとのよさを見ていくか。つまり、「伸長」とは伸ばしていくということなので際限のない序列化にもつながりかねませんが、「尊重」というのはそれぞれのかけがえのなさを認めていくということで、そちらのほうが個を生かしていくということになっていくと思うんです。」(p.17-18)

日本においては、垂直的な序列化や水平的な画一化とか一斉画一は強まっているけれど、水平的な多様性が弱い。自力主義と同調圧力がゆえにそうなってきたと私は考える私は考えるわけですけど、(中略)日本社会において、社会全体としても学校としても水平的な多様性を意識的に作っていくことが、生きやすい社会にしていくうえで重要だという現所鵜認識があります。」(p.30)

「縦軸か横軸か」は、まさに前回アップした中根千枝氏の「タテ社会」と「ヨコ社会」に通じる観点で、「多様性を尊重する」「水平的な価値観」をもたらすという意味の縦軸がいよいよ重要になると思われます。

日本の学校はよい意味でも悪い意味でも「共同体としての学校」であって、そこでは個人を析出する点、自立した個を生み出す点において弱さがあったと思うのです。個を育てると追う点でも本丸はどこかとうと、水平的多様性であり、多様化をどう捉えどう進めていくか、この点が一番のポイントになってくるだろうと思います。(中略)生きやすい日本の学校、成熟した日本社会の在り方を展望する学校こそが、真に目ざすべき本来の意味での未来の学校であろうと思います。」(p.30-31)

石井英真氏は、2020年9月に『未来の学校 ポスト・コロナの公教育のリデザイン』(日本標準)を刊行しており、その第5章「「日本の学校」の新しい形へ」で、日本の公立学校が今後目指すべき姿について、「インクルーシブで真正な学び」というビジョンを提示しています。そのビジョンに「全面的同意!」というわけではありませんが、学校教育関係者には本号の座談会と共に、是非一読してほしいきめ細かい観点が示されています。

「学校教育に自動詞の拡大を」

内容の濃い新春座談会のあとに紹介するのは、相当勇気が必要なのですが、同じ『教育展望』1・2月合併号に、筆者が寄稿した「提言」が掲載されましたので、その画像を以下に添付します。

2021年1月23日

「タテ社会」とSDGsの学び

中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』

昨年末の特別講演会の朝に多田孝志先生からメールが届き、その一部を講演会の登壇者討論で紹介したことは、12月24日のこの欄に寄稿した「「所有の文化」と「共有の社会」、そしてSDGs」に書きました。そのメールに書かれていた中根千枝著『タテ社会の人間関係』(1967年、講談社現代新書)について、特に「タテ社会」と「ヨコ社会」の構造の違いを示すために挿入されている図を取り上げて、SDGsとの関係を考えていきたいと思います。

手元にある1973年版の表紙には、「日本社会の人間関係は、個人主義・契約精神の根づいた欧米とは、大きな相違をみせている。「場」を強調し「ウチ」「ソト」を強く意識する日本的社会構造にはどのような条件が考えられるか。「単一社会の理論」によりその本質をとらえロングセラーを続ける。」と書かれています。また、多田先生はメールの中で「本著(『タテ社会の現代社会』)には『タテ社会の人間関係』(1967)以降、50余年たっても日本の社会の基調は変わっていないとの鋭い指摘が記されています。日本の社会、学校教育の根本を問い直し、多文化共存の新たな時代に向けて拓いていくことは緊要の課題と考えます。」と述べています。今なお、派閥政治や縦割り行政が一向に改善されない日本の姿は、これからの本格的な多文化共生社会の到来を考えると、憂慮せざるをえません。講演会の登壇者討論では、環境省の「地域循環共生圏」構想のように、縦割り行政を打破しようという動きがあることを紹介しましたが、多田先生のご指摘は、残念ながらその通りと肯定せざるをえません。

2019年に刊行された『タテ社会の現代社会』でも、『タテ社会の人間関係』のもとになった「日本的社会構造の発見―単一社会の理論―」(『中央公論』1964年5月号)が付録として掲載されていますが、『タテ社会の人間関係』の方が丁寧にわかりやすく説明されています。

ここで、その内容の詳細は紹介しませんが、なぜ、「タテ社会」という日本的な社会構造が生まれたのかについて、「おわりに」で以下のように述べています。

日本社会の場合、この(=「タテ社会」を作った)条件を支えている一つの大きな特色が存在する。それはいうまでもなく、社会の「単一性」である。現在、世界で一つの国(すなわち「社会」)として、これほど強い単一性をもっている例は、ちょっとないのではないかと思われる。(中略)日本列島は圧倒的多数の同一民族によって占められ、基本的な文化を共有してきたことが明白である。(中略)この日本列島における基本的文化の共通性は、とくに江戸時代以降の中央集権的政治権力に基づく行政網の発達によって、いやが上にも助長され、強い社会的単一性が形成されてきたのである。さらに近代における徹底した学校教育の普及が人口の単一化に一層貢献し、とくに戦時の挙国一致体制、そして、戦後の民主主義、経済の発展は、中間層の増大拡大という形をとりながら、ますます日本社会の単一性を推進させてきたものといえよう。(p.187-188)

「タテ社会」と「ヨコ社会」の構造の対比図

中根氏は、「タテ社会」と「ヨコ社会」の構造の違いを、以下の2つの図を用いて説明しています。(p.114-115)

両集団とも同じ一定数の個人からなっている仮定で、その数を抽象したa・b・cの三点によって示すと第1図のようになる。すなわち、Yにおいては三点の関係が三角形を構成するのに対して、Xにおいては、底辺のない三角関係となる。

さらに、この両者の構成を複雑にすると第2図のようになり、その違いは一層明らかになるであろう。この両者の構造の違いは、第一に、Xの成員はaを頂点としてのみ全員がつながっているのに対して、Yにおいては、すべての成員が互いにつながっていること。第二にXの構造は常に外に向かって開放されているのに対して、Yは封鎖されている。

すなわち、もしここに新たにhというものがはいってくる場合、Xにおいては、理論的にa・b・c・d・e・f・gのどれか一つにつながることによっての成員たりうる。しかるに、Yにおいては、hの参加は全成員に影響する。(p.114-115)

この文中の「ヨコ社会」の構造の説明にある「すべての成員が互いにつながっている」を生かしてより正確に図化すると、第2図の右側の七角形は以下のように書き表すべきでしょう。

そして、抽象した点の数をさらに増やして17にすると、以下のような「ヨコ社会」の構造図を描くことができます。

SDGsの構造は「ヨコ社会」型?

さて、拙著『学校3.0×SDGs』をお読みいただいた方、あるいはこのコーナーの「「流域治水」への参画とSDGs」を目にされた方の中には、ここまでの記述で、筆者がこのあとどのようにこじつけようとしているかを見破った方がいるかもしれませんが、気にせずに書き進めます。

17の目標からなるSDGsについては、17のロゴを3段に並べた以下の図が最も基本的なものです。

それに対し、健全な生物圏があってこそ健全な社会が成立し、健全な社会があってこそ健全な経済活動がなされ、それら3領域にわたる目標全体がパートナーシップによって実現されることを描いた下の図も時々見かけます。

しかし、SDGsのきわめて重要な点は、「2030アジェンダ」の前文の最終段落に書かれている「持続可能な開発目標の相互関連性及び統合された性質」にあることから、筆者は『学校3.0×SDGs』において、以下の図を提示しました。

つまり、SDGsの17の目標間のつながりは、中根氏が「ヨコ社会」の構造として示したものと一致しています。もちろん、「ヨコ社会」の場合は「人々」の間の構造であるのに対して、上の図は、SDGsの17の目標という「事柄」の間の構造であって、一律に論じるべきものではありません。しかし、「ヨコ社会」において新たな成員の参加が「全成員に影響する」のと同様に、SDGsの場合も、一つの目標への働きかけがほかのすべての目標に影響が及びます。

「タテ社会」型の教科の構造とこれからの教員に求められる「ヨコ社会」型思考

150年間にわたって日本の学校教育の基本とされてきた教科の構造は、まさに第2図のXと同じ構造です。例えば小学校の場合、学習内容の全体が実技系教科と非実技系教科に分かれ、実技系教科は音楽、図画工作の芸術系教科と体育、家庭の非芸術系教科に分かれ、非実技系教科は文系の国語、社会と理系の算数、理科に分かれ、という「タテ社会」と同じ枝分かれ構造で、それぞれが多角形の頂点に位置するわけではありません。(比較的最近誕生した「生活科」と「外国語」の位置づけはやや微妙です。)

そして、注目したい点は、全科担当を原則とする小学校教員の養成段階でも、例えば東京学芸大学の初等教育教員養成課程では、国語選修、社会選修、数学選修、理科選修、音楽選修、美術選修、保健体育選修、家庭選修等々と、それぞれの専門性を深める仕組みが導入されている点です。つまり、単に教科が「タテ社会」と同じ構造であるだけでなく、教員も専門とする教科によって「タテ社会」に組み込まれる仕組みとなっています。そして、間もなく発表される「令和の日本型学校教育」答申で、小学校に教科担任制が導入されることで、小学校教員の「タテ社会」化は一層強まると想像できます。教科単位の教員免許制度となっている中学校や高等学校の教員の場合、どっぷりと「タテ社会」に組み込まれる構造となっていることは、言うまでもありません。

しかし、多田先生が危惧されているように、やがて到来する多文化共生社会にあっては、「ウチ」の者を重視し、「ソト」の者を差別したり排除しがちな「タテ社会」的な思考は大きな妨げとなります。特に、未来の社会を支える子どもたちを指導する教員にとって、「タテ社会」の単一集団にどっぷりつかっていることは適当ではありません。しかし、60年以上前に中根氏が指摘した「タテ社会」の構造が、今もなお、いたって健在であることは、日本の国内で日々を過ごしている限り、「タテ社会」的な思考から抜け出すことが困難であることを示しています。意識的にみずから何らかの取り組みをしない限り変われないと言えるかもしれません。

では、どうすればよいのでしょうか。あくまでも読者が「タテ社会」的な思考が強い教員という前提でのことですが、そこから抜け出すのに有効であろうと感じている2つの「推し」(使い方、まちがっているかな?)を書きたいと思います。

一つは、学校以外の活動に積極的に参加することです。特にぜひ勧めたいのが、NPOの活動への参加です。市民レベルでの国際交流を進めているNPO、環境問題に取り組んでいるNPO、子どもたちの貧困や学習支援に取り組んでいるNPO、地域の活性化に取り組んでいるNPO、安全な「食」と「農」を目指しているNPO、障がい者の支援を行っているNPO、音楽などの芸術活動の振興をサポートしているNPO、伝統文化の継承に取り組んでいるNPO等々。日本財団は、「NPOなどの公益活動を実施している団体に関する全国規模のデータベース」をネット上で公開していますが、そこに情報提供されているだけでも8000以上があがっています。多種多様なNPOが存在しているので、自分にフィットするNPOも見つかるはずです。NPOは何らかの目的を持って活動しているので、その目的に深く関心を寄せているという点では同じ思いを抱いている人たちの集団でかもしれません。しかも、自分の会社や自分の学校から一歩離れた立場で集まってきていることが多く、多様性に富む傾向があります。日常生活の大部分を過ごす学校から離れて、多様な人々が集まる場で活動することで、社会の様々な側面を知ることもできますし、学校以外の世の中の様々な仕組みを知ることもできます。

もう一つは、授業の中に極力「SDGsの学び」を取り入れることです。「SDGsの学び」については、別途詳しく書きたいと思っていますが、まずは、授業の中にSDGsの17の目標のいずれかを取り入れてみるとよいでしょう。前述のように、SDGsの17の目標は相互に関連しているので、一つの目標を取り上げると必然的に他のいくつかの目標にも話題が及ぶことになります。ある教科のねらいに沿った授業を進めるつもりであっても、いつしか子どもたちとともに、特定の教科の枠を超えた世界に足を踏み出しているはずです。

最初の方で触れた環境省の「地域循環共生圏」構想は、環境省のホームページ(下図の上参照)に書かれているように、「地域でのSDGsの実践(ローカルSDGs)を目指すもの」です。ローカルSDGsを目指した結果、「タテ社会」を象徴する「縦割り行政」を軽々と乗り越える構想(下図の下:環境省の原図に加筆)になっています。同様に、授業の中に「SDGsの学び」を取り入れると、いつの間にか「タテ社会」的な思考から抜け出しているはずです。

http://環境省ローカルSDGs -地域循環共生圏づくり プラットフォーム- (env.go.jp)
http://環境省ローカルSDGs -地域循環共生圏づくり プラットフォーム- | しる (env.go.jp)
2021年1月4日

「新しいコモン」を活用した学び

「共有」と「コモン」

2020年の年末。コロナの拡大が収まらぬ中、沖縄を三泊四日で訪ねた以外は、人混みを避ける生活、人との会食や懇談を避けがちな生活となり、少しばかり読書時間が増加しました。もっとも、日中の暖かい時間は、運動不足を避けるためにも一番好きな活動を優先しました。白州の山から立ち枯れのクリの木を伐採して軽トラで自宅に運び込み薪小屋を完成させました。2年間十分に乾燥させた薪を確保しておくには、これまでの薪置き場では不足するという理由からです。

年末年始に新たに読んだり読み返したりした本のうち、ここでは「共有」と「コモン」に関わる部分を紹介しながら、「未来の学校教育」の構想に広げていきたいと思います。「共有」や「コモン」こだわったのは、12月12日の特別講演会「未来の学校教育を創造する」において多田孝志氏が「所有の文化=戦争の文化」と書かれたスライドを準備し、佐藤学氏がポスト・コロナの社会を「資源と資産を共有し合う社会」とされたことがきっかけです。(このことについては、12月24日にアップした「「所有の文化」と「共有の社会」、そしてSDGs」で詳しく触れています。)

まず、内田樹氏の『日本習合論』(ミシマ社、2020年9月)の一節を引用して「コモン」についての基本を確認しておきたいと思います。

イギリスの田園には「コモン(common)」と呼ばれる共有地がありました。自営農たちがそこで羊や牛を飼ったり、果樹を育てたり、野生獣を狩ったり、魚を釣ったりしていた。でも、コモンは十六世紀からしだいに私有化され、十九世紀には消滅しました。この私有化プロセスのことを「囲い込み(enclosure)」と呼びます。(中略)(コモンを私有化すれば責任の所在が明確になり希少資源の効率的な分配が実現するというのが)コモンを私有地化するときのロジックでした。そして、実際に資本家たちはコモンを買い集めて、大規模な農地にして、機械化・効率化を進めて農業革命を達成しました。でも、その一方で自営農たちは土地を失い、共同体のつながりを失い、没落して、農業労働者になり、あるいは都市プロレタリアになって産業革命の労働力を供給することになりました。(p.171-172)

私が立ち枯れのクリの木を伐採した白州の山には所有者がおり、所有者の許可を得て行った行為ですが、かつては日本の村落であれば、周辺にはコモンに相当する広々とした入会地が存在し、そこから必要な材料も持ち帰ったことでしょう。

内田氏がコモンを今の時期に取り上げたのは、「囲い込み」のロジックと、なんでも民営化を目指す新自由主義経済の両者に共通する自己利益の最大化が、社会をどんどん歪なものにしており、これからの社会では相互扶助的な共同体が重要な意味を持つようになる、したがって「新しいコモン」の再構築が求められていると考えているからと思われます。

斎藤幸平氏による晩期マルクスと「コモン」

「コモン」の説明は内田氏の文章の紹介で終えて、今回提案したい「「新しいコモン」を活用した学び」に進もうと思っていたのですが、2021年1月のNHKの「100分de名著」が『資本論』で、その第4回目のタイトルが「〈コモン〉の再生」となっていることを知ったので、やはりここでも広義の「コモン」について触れておくことにします。

『資本論』を取り上げた1月の「100分de名著」の指南役は、マルクス研究の新鋭・斎藤幸平氏で、2020年9月に集英社新書として『人新世の「資本論」』を刊行しています。佐藤優氏が毎日新聞の2020年の「今年の3冊」の1冊に選んでおり、書店で目次をぱらぱらと捲ると「〈コモン〉という第三の道」「地球を〈コモン〉として管理する」「コミュニズムは〈コモン〉を再建する」といった気になる節が並んでいたので、購入しました。

実は、斎藤氏は『人新世の「資本論」』の「はじめに」で、「政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。(中略)SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。」(p.4)と書いています。これからの学校教育にとってSDGsが極めて重要と考えている筆者は「SDGsに対する何たる浅い理解!」と憤慨したのですが、そこまで書くのなら何らかの対案を示しているのだろうと思い直して購入し、読み進めました。

残念ながら斎藤氏のSDGs批判は『人新世の「資本論」』にはその後ほとんど登場せず、ESG投資の急増によって企業の利益優先の経営に変化が生じていることや、合衆国で企業管理の原則を定期的に公表してきた“Business Roundtable”が、2019年8月に企業の目的を「株主優先から離れて、すべての利害関係者に献身する」と再定義し、それに181の大企業のCEOが署名したこと、そしてそれらの背景にSDGsが存在することを認識してないのではないかと疑わざるをえません。

http://Business Roundtable Redefines the Purpose of a Corporation to Promote ‘An Economy That Serves All Americans’ | Business Roundtable

また、斎藤氏が本書で提示している気候変動への対案は、「国家の力を前提にしながらも、〈コモン〉の領域を広げていく」ことを主軸にしており、「2050年までに世界全体の温室効果ガス排出量を森林や海洋などの吸収分を差し引いて実質ゼロにする」という時間的制約の中では実現不可能なものです。後述のように「コモン」を重視する筆者から見ても、〈コモン〉の領域を広げていくことの気候変動対策としての効果はわずか、と判断せざるを得ません。

しかし、これまで刊行されてなかった晩年のマルクスの手紙や研究ノートに対する斎藤氏らの研究によって、晩年のマルクスが環境問題に関心を寄せてエコロジー研究に力を注いだことや、資本主義以前の段階の共同体の研究を進め、共同体の人々によって民主的に共有され管理されてきた共有財産に関心を寄せていたことを知ることができました。また、斎藤氏が気候変動問題を最も重要な人類の課題と捉え、そのために脱成長に向かわねばならないとしている点は完全に同意できます。ただし、それを「コモン」の拡大で実現できるかというと別問題です。

問題は「コモン」ですが、もともとの「コモン」は、内田氏が書いているように「囲い込み」によって私有化されて消滅する以前のイギリスに存在していた農耕者たちの共有の土地を指していました。しかし、斎藤氏の著作では、「〈コモン〉とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富」(p.141)で、「〈コモン〉は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す。」(同)と書かれています。土地に限定しないだけでなく、公共財の管理システムというニュアンスにまで概念を広げています。そして「彼(=マルクス)にとっての「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段を〈コモン〉として、共同で管理・運営する社会のことだった」(p.142)と断定的に書いています。

以上のように、コモンは概念を広げて解釈するようになってきていますが、そのような公共財を利用できるのは、そのコモンの存在する地元の共同体構成員に限定されていると考えるべきなのでしょうか。これからの時代のコモンは、もっと幅広い人に開かれたものであるべきではないのでしょうか。

「新しいコモン」を子どもたちの学びの場として活用しよう

少々遠回りしましたが、ここで提案したいことは、今、どんどん拡大している耕作放棄地や管理者不在で荒廃している山林を、「新しいコモン」として地元の共同体構成員以外の人々にも利用してもらうようにしてはどうかということです。

たとえば、耕作放棄された農地を自治体が地元の農業法人に委託してブルーベリーやサクランボの果樹園にしてある時期には誰もが自由に摘み取りできるように開放するとか、管理者不在の荒廃した里山を自治体が地元林業関係者に委託してコナラ林に変えて、市民に暖房用の薪に年間2本の伐採権を与える、などのサービスを提供すれば、人口減少に直面している地域に関係人口を呼び込み、さらには転入者を増やすことも可能ではないかと考えています。

そして、実は一番願っていることは、耕作放棄地や荒廃した里山を小中学校に開放し、農作物を自由に作らせたり、自分たちで伐採した木で子どもたちに秘密基地を自由に作らせて宿泊体験をさせたり、シイタケを栽培させたり炭焼きをさせたりしてはどうでしょうか。

いやいや、利用の仕方は子どもたちに任せておけばよいのです。あれこれと斬新なアイディアを発見し、大人や教師が思いもよらなかったような活用法を次々と作り出していくはずです。その場合、「新しいコモン」で子どもたちを見守るという点では、学校の先生方以上に、地域の方々やNPO関係者が主役になることになるでしょう。

半分は農作業だったという戦後沖縄の小学校

耕作放棄や荒廃した里山を「新しいコモン」として子どもたちに開放したら面白いぞ、と考えるようになったのは、冒頭で少し触れた沖縄訪問に関係しています。新たな米軍基地として埋め立て工事が進んでいる辺野古からさらに北に車で十数分行ったところに「黙々100年塾 蔓草庵」という看板のかかった施設(建物+作業場+庭)があります。そこの主が1943年生まれの島袋正敏氏。名護市立博物館の元館長で、野生の植物の採集・利用などの日常生活に関わる沖縄の伝統文化を継承されている方です。その方の活動を映像に残してアーカイブズ化するプロジェクトに加えていただき、12月20日の午前中に島袋正敏氏にインタビューさせていただきました。軽妙洒脱な語りに魅せられて1時間の予定が30分もオーバーして同行者の顰蹙を買ったのですが、その分、面白い話をたくさん聞くことができました。

黙々100年塾蔓草庵
島袋正敏氏

その一つが戦後の沖縄の小学生の暮らし。印象的だったのは4年生までは子ども扱いされたが5年生になると一人前に扱われ、馬で畑を耕す作業なども任され、とても誇り高い日々を過ごしたという話。そして、思わず「それは素晴らしいですね!」と応じたのが、小学校に行っても授業は半分で、残りの半分は農作業だったという話。学校の所有する畑を耕してイモや野菜を作る作業、これこそ「真正の学び」そのものと感じました。島袋氏自身もその作業を通して多くのことを学んだと語られました。

昨年末に「小学生の異変」について書きましたが、耕作放棄地や荒廃した里山を「新しいコモン」として小中学生に開放して、そこで多くの時間をすごさせることが効果的なのではないかと思っています。時にはススキやセイタカアワダチソウを刈りはらって田畑に戻すことがイノシシやシカなどの獣害対策にもなることを学びながら、様々な学年の子どもたちが一緒に田畑の世話をし、時には雑木を伐って秘密基地を作ったり、枯れ木を集めて火を起こし、昼食を自分たちで作ったり、という時間を確保するための空間として、「新しいコモン」は絶好なのではないかと思っています。教育委員会がその気になり、地方自治体がそのために少し仲介すれば、実現可能なことだと思っています。

2020年12月24日

「所有の文化」と「共有の社会」、そしてSDGs

教育実践指導の両巨頭が登壇した特別講演会

12月12日午後、NPO法人八ヶ岳SDGsスクールと山梨共創型対話学習研究所共催の特別講演会を小淵沢のアルソア女神の森セントラルガーデン「メインホール」で開催しました。メインテーマとして「未来の学校教育を創造する」を掲げ、共創型対話学習の先導者である多田孝志先生と学びの共同体の先導者である佐藤学先生という、日本の教育実践指導の両巨頭に登壇していただきました。お二人が一緒に講演し、その後対談されるということは、これまでにもなかった初めての試みです。NPO法人八ヶ岳SDGsスクールとしても今年最大のイベントでしたが、コロナウイルスの第三波が着実に押し寄せている最中で、十分な宣伝ができない状態での開催となったことは残念でした。

配布資料作成用として事前に当日使用するPPTを送っていただきましたが、両先生にとっても久々の対面での講演だったこともあり、「あれも話しておきたい、これも話しておきたい」という思いが込められた、内容の豊富なPPTでした。そして、あらかじめ予想していた通り、お二人ともそれぞれ40分の持ち時間では話しきれず、最後を超特急で締めくくるという結果になりました。

そこで、最後の「登壇者間の意見交換」の時間を使って、是非とも補足してもらいたいというスライドを再度巨大スクリーンに投影して説明を求めました。それがこのコラムのタイトルにある「所有の文化」と「共有の社会」です。ご講演の骨子については、後日このコーナーで少し丁寧に紹介したいと思っていますが、お二人が結論として触れておかねばと思われていたことが、「行き過ぎた(私的)所有」で一致していたことに強く共感させられました。

所有の文化=戦争の文化

先に講演をされた多田先生の最後のスライドが以下のものです。

多田先生のご講演のテーマは「共創型対話が導く未来の学校と教師の役割」でした。様々なタイプの「対話」の中でも、グローバル化する社会の中で、異との共生に求められる共創型対話の重要性の指摘が前段。その共創型対話に導くうえで特に留意すべき、「間」や「ゆさぶり」や「ふりかえり」や「聞き合う関係」など、特に教師としての役割に関わる要点の解説がご講演の中心部分。

そして、上掲の最後の1枚のスライドに、こんにちの趨勢が進行することによる未来の学校教育の懸念材料が列挙されていました。「数字化・数量化」への懸念は、のちに触れる佐藤学先生のICT教育批判にも通じるものです。中央の「人間疎外」は最下段の「人間性喪失」に対応しており、それを「知性の劣化」と並列されている真意ももっと詳しく伺いたいところでした。そして3番目の「所有の文化」。経済のグローバリゼーションが「所有の文化」を世界中に拡散させ、さまざまなとんでもない弊害を生み出していることを指摘されたものと受け止めていますが、とりわけ「所有の文化=戦争の文化」という断定的な記述は強烈です。当日は時間の制約から、その真意を深く追究することは避けましたが、農耕社会が始まって富の蓄積が可能になると、より多くの富の所有を求めて他の集団との戦争が始まったことを思い起こせば、決して大げさすぎる表現とは言えません。世界中が経済的な利益の獲得・拡大に奔走している現代社会の着地点が、再度の大規模な戦争になる可能性は否定できません。そして、今日の「競争」を基調に据えた学校教育も、「所有の文化=戦争の文化」への流れの上に存在しているといえるかもしれません。

ポスト・コロナの社会は、資源と資産を共有し合う社会

多田先生のあとに講演された佐藤学先生の最後のスライドは、「結論2 これからの学校、これからの授業、これからの学び」のタイトルが付されたもので、①これからの<学び>は、「探究と協同」を核とする学びとなること、②これからの<授業>は、「デザイン」と「リフレクション」によって創造される授業となること、③ これからの<学校>は、民主的で先進的な専門家としての教師集団による学びの共同体としての学校となることが示されていました。そして最後から2枚目の「結論1」が以下のスライドです。

上のスライドの4項目のうち上の3項目は、ICT教育が誤った方向に進んでいることの指摘です。そして最後の4がここで取り上げたい部分です。ポスト・コロナの社会を“sharing, caring and learning community” として、「この社会に向けて、一人も独りにしない教育で子どもたちを守り育てる必要がある。」と書かれています。多田先生が未来の学校教育への懸念として「所有の文化」の危険性を指摘されたのに対し、佐藤学先生は「資源と資産を共有し合う社会」という未来の姿の具体的なイメージを提示しています。そして、それが単なる願望ではなく、実現可能なものであることを、対談の中で、私的所有の概念が人類社会に広がったのはつい最近のことであって、今でも世界の6000ほどの言語のうち、私的所有を意味する「持つ」という動詞のある言語は200ほどでしかないことを話されました。佐藤学先生が描いておられる「共有の社会」は、まだ大きな潮流にはなっていませんが、すでに芽生え始めています。若者の間にマイカー離れが進み、カー・シェアリングが急速に拡大しているのもその一つといえます。

「タテ社会」と「所有の文化」

実は、登壇者間の意見交換に向けて、当日話題にしたいことを準備していただきたい旨のメールを両先生にお送りしました。それに対して、多田先生から講演会当日の朝にメールが届き、対談の冒頭で核心部分を赤字にしたスライドを投影して紹介しました。それが以下のスライドです。

文中にある中根千枝先生は、筆者の大学在学中に「女性初の東大教授」になった方で、メールを受け取ってすぐにネットで検索し、94歳でご健在であることを確認しました。多田先生が「タテ社会」が変わっていないことを重視されているのは、これからの多文化共生時代において、日本社会が未だに「タテ社会」であることが大きな障害になると感じられたからであろうと思います。

集団への参加が「場」に基づいており、単一集団への一方的な帰属が求められる「タテ社会」においては、「場」を異にする外来者は排除されがちになります。日本の役所の悪弊とされる「タテ割行政」も、よそ者が越境して自分たちの領域(=場)に入ってくることを拒み、自分の本来の領域(=場)とは別の領域(=場)に立ち入ることを躊躇するのも、「タテ社会」の伝統が大いに関与しているといえるでしょう。このことは、多田先生が教師仲間の実感として紹介されている「過度に目立つことを厭い、(中略)自己表現を忌避する青少年たちが、むしろ増加している」ことや「スクールカーストにみられるように集団の中で、些細な差異を要因として序列化する」傾向にも当てはまります。また、「タテ社会」においては、役職や階級などの序列が重視されるため、その場の上位者にとっては、その集団全体を自分の思い通りに操れる「所有物」と見なす感覚も生まれます。まさに、「所有の文化」と通じる部分が少なくありません。場の上位者でなくとも、一つの場や集団へ執着することも、「所有の文化」から派生した意識といえるかもしれません。

「タテ割り行政」とSDGs

上記のように「タテ社会」が日本の社会に根強く残っていることは、役所の「タテ割行政」に端的に現れています。しかし、「登壇者間の意見交換」の場では、下のスライドを投影して、SDGsの浸透によって「タテ割行政」も徐々に変わろうとしていることを述べました。

http://環境省ローカルSDGs -地域循環共生圏づくり プラットフォーム- | しる (env.go.jp)

このスライドは、2018 年4 月に閣議決定された第五次環境基本計画に盛り込まれた「地域循環共生圏」をより具体的に示した図の中心部分の拡大図です。「環境省ローカルSDGs 地域循環共生圏づくりプラットフォーム」というホームページに掲載されており、「地域循環共生圏(日本発の脱炭素化・SDGs構想)」という表題がついています。上記のホームページでは「「地域循環共生圏」は、農山漁村も都市も活かす、我が国の地域の活力を最大限に発揮する構想であり、その創造によりSDGsやSociety5.0 の実現にもつながるものです。」と説明されています。

注目したい点は、地域循環共生圏を実現させるための5つの具体的な取り組みが5色の枠の中に示されている点です。右上から見ると、オレンジ色の枠の中には「健康で自然とのつながりを感じる「ライフスタイル」」、紫色の枠の中には「多様なビジネスの創出」、一番下の青色の枠の中には「自然分散型の「エネルギー」システム」、左の赤い枠の中には「災害に強い「まちづくり」」、そして左上の緑色の枠の中には「人に優しく魅力ある「交通・移動」システム」と記入されています。将来的に地域循環共生圏を実現させるには、これらの取り組みが不可欠であることは当然ですが、従来のタテ割り行政のもとでは、厚生労働省や経済産業省あるいは国土交通省の管轄と思われる事柄に、環境省が口出しすることはタブーといっても過言ではありませんでした。しかし、将来のあるべき姿を描き、そこからバックキャスティングして、今から何に取り組むべきか、というSDGsの観点に立てば、ほかの省庁が管轄する事柄かどうかは関係ありません。ある意味でSDGsというマジックがこの図を描かせたといえるかもしれません。ここには取り組むべき事柄を各省庁が「共有」しはじめた姿、タテ割り行政の枠を超えて共に取り組もうとする「共創」の姿を見ることができます。これまでの基調をなしていた「競争」を排して「共創」に向かおうとする姿は、学校教育の世界でも見習うべきことだと思います。

2020年12月5日

"地域循環共生圏"と教育

環境省の地域循環共生圏構想

地域循環共生圏は、2018年4月に環境省が公表した第五次環境基本計画に盛り込まれた、「各地域が自立・分散型の社会を形成し、地域資源等を補完し支え合う」という構想です。これからのSDGs時代に、地域社会が持続可能な活力を維持するために、地域内で資源や経済の自立した循環を目指すことは重要ですし、「自立・分散型」という考え方は、当NPOの将来構想に掲げた地域分散型低学費大学とも方向性を同じくするものです。

環境省が2019年9月に立ち上げたポータルサイト「環境省ローカルSDGs地域循環共生圏づくりプラットフォーム」では、"地域循環共生圏"とは、各地域が足もとにある地域資源を最大限活用しながら自立・分散型の社会を形成しつつ、地域の特性に応じて資源を補完し支え合うことにより、環境・経済・社会が統合的に循環し、地域の活力が最大限に発揮されることを目指す考え方であり、地域でのSDGsの実践(ローカルSDGs)を目指すものです、と説明しています。「地域でのSDGsの実践を目指す」という私たちのNPOと同じ目標を掲げた地域循環共生圏について、しっかり理解しておく必要があると感じた次第です。

"地域循環共生圏"は、第五次環境基本計画段階では下図のような都市と農山漁村の間の資源や資金・人材の循環に焦点があてられた図で説明されていました。

https://www.env.go.jp/press/files/jp/108981.pdf

しかし、1年数か月が経過してから立ち上がった地域循環共生圏づくりプラットフォームでは、説明図が詳細化し、環境省自身が「曼荼羅」と名づけるほどに進化しています。ぐちゃぐちゃしすぎていて一目見ただけでは読み取りにくい図ですが、よく見ると重要なポイントがかなり書き込まれています。そのいくつかについて、独断偏見を駆使した解説を試みます。

http://Society5.0により実現する地域循環共生圏_v25 (env.go.jp)

Society5.0と地域循環共生圏

この図のタイトルは、ポータルサイトの画面上では「地域循環共生圏(日本発の脱炭素化・SDGs構想)」となっていますが、そのネット検索アドレスをコピペすると「Society5.0により実現する地域循環共生圏」という別の名前に変換されます。Society5.0と深く関わる図であることは、最下段に“「Society5.0」と人の生産性向上が創る「地域循環共生圏」”と書かれていることからも明らかです。表題の副題の「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合」という表現も、「Society5.0」に対する内閣府による定義の「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」の前半がそのまま流用されています。また、拡大しないととても読み取れない黄色地に赤枠の具体的な取り組みの横や上に“IoT”、“AI”、”Big Data”の四角いロゴが並べられており、「Society5.0」を十分に意識した図であることを読み取れます。

ただし、この構想が発表された時期は、他のコラムで紹介した文科省の「Society5.0に向けた学校ver.3.0 」(2018年6月)や内閣府の「未来投資戦略―「Society 5.0」「データ駆動型社会」への変革 ─」(2018年6月)など、各省庁間で「将来構想には必ずSociety 5.0を入れましょう」という申し合わせがあったのではないかと疑いたくなるほどのSociety 5.0づくしですので、それほど重みのあるものと捉える必要はないように思います。

「自立分散」×「相互連携」×「循環共生」

より重要なのは、上から2番目の肌色の枠に書かれた「自立分散」×「相互連携」×「循環共生」=活力あふれる「地域循環共生圏」⇒「脱炭素化・SDGsの実現、そして世界へ」という考え方でしょう。

まず、「自立分散」について考えてみます。この言葉と深くかかわるのは、① 「東京一極集中」を是正する、 ② 若い世代の就労・結婚・子育ての希望を実現する、③ 地域の特性に即して地域課題を解決する、を掲げた「まち・ひと・しごと創生総合戦略」です。「地域循環共生圏」は、2014年に成立した「まち・ひと・しごと創生法」に基づいて、2015年から官邸主導で進められている「まち・ひと・しごと創生総合戦略」の一環として、環境省が脱炭素化を目指す循環社会の構築を視野に入れて構想したものです。したがって、「まち・ひと・しごと創生総合戦略」の基本的な考え方が前提となっています。

「まち・ひと・しごと創生総合戦略」では、当初から人口減少の克服と地方創生を実現するために5つの政策原則を設けています。

http://20141227siryou4.pdf (kantei.go.jp)

その冒頭に掲げられているのが ①自立性で、地方公共団体、民間事業者、個人等の自立につながる政策を進めることが謳われています。 ②将来性についても、地方が自主的かつ主体的に取り組むことを支援する方針が示されています。

東京への一極集中の是正は、言うまでもなく地方への分散ですので、「自立分散」には、前述のように「地域循環共生圏」構想が「まち・ひと・しごと創生総合戦略」の一環をなすものであることが示されているといえます。

次の「相互連携」はあらゆる政策に登場する常套用語であり、最重要概念であることだけ確認しておけばよいでしょう。環境省の独自性が現れているのが3番目の「循環共生」という言い方です。 2000年に成立した循環型社会形成推進基本法に基づいて環境省は2001年から「循環型社会白書」を刊行し、2007年版からは環境白書と合体させて「環境白書・循環型社会白書」に、さらに2009年版からは「環境白書・循環型社会白書・生物多様性白書」を毎年刊行しています。「循環」が環境省の最重要ワードであることは言うまでもありません。逆に、地域創生や地域の活性化に関わる構想を環境省が発信する上では、「循環」という言葉は必須といえます。"地域循環共生圏"に対して「地域の特性に応じて資源を補完し支え合うことにより、環境・経済・社会が統合的に循環し」という説明を付加することで、環境省も地域創生に「循環」という観点から貢献しますよ、という意思表示が読み取れます。

「地域循環共生圏」の「共生」の意味とは

ではなぜ「共生」という言葉が付加されているのでしょうか。多くの人が「共生」という言葉を知るのは、小学校の理科でアリとアブラムシ互いに助け合う共利関係を通してかもしれませんが、今、最も頻繁に使われるのは「多文化共生」、つまり、文化的な背景を異にする人々が地域社会の構成員として共に生きていく、という概念でしょう。そして「多文化共生社会」に深くかかわる省庁としては、総務省、厚生労働省、外務省、文科省、場合によっては農水省が連想できますが、環境省については「?」と思う方が多いのではないでしょうか? 実際に環境省が2012年に地方自治体に向けて提示したのは「地域循環圏形成推進ガイドライン」で、「共生」という言葉はありませんでした。

「地域循環共生圏」構想の中で「共生」がどのような概念として使われているのかを確認する必要があります。そのヒントは2020年3月に公表された「森里川海からはじめる地域づくり」と題された地域循環共生圏構築の手引きにありました。そこでは「自然共生社会」というフレーズが書かれていました。ただし、「自然共生社会」といわれても、イメージが湧きにくいのですが、「森里川海からはじめる地域づくり」のリーフレットの表紙を見てようやく「ああ、そういうことなのか」と理解できました。そこには副題として「~新時代の地域と自然の共生関係~」と書かれていました。要するに、地域と自然との「共生」ということです。理解はできたのですが、すっきりしたという感じはありません。自然は地域の基盤となっているものですので、あえて「共生」という言葉を使わなければならないものか、という釈然としない気持ちが残っています。

http://chiikijunkan.env.go.jp/pdf/tebiki_pamphlet.pdf

地域循環共生圏の取り組みの五本柱

さて、地域循環共生圏では具体的にどのような取り組みを行うのでしょうか。その柱となる取り組みは、中央の地域循環共生圏という文字を取り囲むように5つの色分けで示されています。上部右側のオレンジ色から時計回りに見ていくと、「健康で自然とのつながりを感じる「ライフスタイル」」、次の紫色は「多様なビジネスの創出」、一番下の青色が「自律分散型の「エネルギー」システム」、左の赤が「災害に強い「まちづくり」」、そして最後の緑が「人に優しく魅力ある「交通・移動」システム」です。

五本柱の項目を見て、「えっ、なぜこれが環境省主導の地域循環共生圏で取り組む項目なの?」と思う方が多いと思います。従来の省庁の縦割り行政から考えると、「健康」は厚労省、「ビジネス」は経産省、「災害に強いまちづくり」と「交通・移動システム」は国土交通省の管轄で、「エネルギーシステム」がかろうじて環境省の管轄かな、というのが普通の感覚でしょう。

実は、これこそがSDGsの魔力ともいえるものなのです。従来の縦割り行政の垣根を軽々と飛び越えて、「地域循環共生圏」の柱として不可欠な取り組みを取り入れてしまえるのがSDGsの理念に適った行政の在り方なのです。「環境」「経済」「社会」を統合すること相乗効果が発揮され、持続可能な社会の構築が可能になるという考え方です。

「自分たちの領分はこれですから、これについてだけは責任をもってやりますよ」という発想を一旦断ち切って、持続可能な未来の社会を作るには、今、どのような取り組みが必要かを洗い出す。そして、それらすべてをバランスよく成し遂げなければ、様々な不都合な事態が生じて本来の領分についても不都合が生じてしまうという、バックキャスティングによる自覚と統合的な視点を与えているのがSDGsにほかならないと思われます。

持続可能な未来につなぐ「教育」

それでは、5色の五本柱への取り組みで、「地域循環共生圏」が目指す「環境・経済・社会が統合的に循環し、地域の活力が最大限に発揮される」という状況は保証されるのでしょうか。もちろん不完全なものでしょうが、今よりも相当素晴らしい姿を描けるように感じます。内橋克人氏が主張し、多くの賛同を得ている「FEC自給圏」、すなわち、食(food)、エネルギー(energy)、相互扶助(care)の自給がなされる圏域という観点からは、食の自給が欠けています。しかし、現実の食料自給率の低さや食料輸入をめぐる日米関係を考慮すると、この図の中に食料自給までは書き込めなかったのは理解できないわけではありません。

地域循環共生圏の持続可能性という点で、欠けているのは「教育」であろうと思っています。一応、右端に「「知の源泉」となる大学・高専・研究機関」と書き込まれていますが、そのような「知の源泉」という意味での教育ではありません。今後の変化の激しい社会では、新たな地域課題も次々と生まれてきます。そのような新たに生まれる地域課題に対して、常に対応する体制が必要です。そこに求められるのは、新たな共創社会を維持・革新していくために、あらゆる世代の人が学び続けることです。まさに、学校に限定されない「学びの共同体(Learning Community)」という教育システムの存在が、持続可能な地域循環共生圏には必要であろうと考えています。

2020年11月22日

小学生の異変(その4)

これからの学校教育が目指すべきこと

「ダイヤモンド・ランキング・・小学生の異変の原因は?」で回答者の6割以上が、社会や家庭におけるストレスの増大を最大の要因と捉えています。佐藤学氏がポスト・コロナのあるべき社会を、資源と資産を共有し合うsharingの社会、人々が相互に助け合い支え合うcaringの社会と捉えていることを紹介しましたが、そのような社会が実現されれば今よりもはるかにストレスの少ないものとなることは間違いありません。家庭においても、そして子どもたちにとってもストレスは大きく軽減されるでしょう。このような社会の実現を目指すことは、「誰一人取り残さない」ことを宣言したSDGs(持続可能な開発目標)の理念に通じるものです。そしてその実現を可能にするカギとして佐藤学氏は「未来に向かって学び続けるlearningの社会」構想しています。筆者の曲解かもしれませんが、「未来に向かって学び続けるlearningの社会」の実現がsharing社会やcaring社会というSDGsの理念に通じる「共創」の社会を実現するうえで不可欠であり、その実現を確実かつスピードアップさせるものと佐藤学氏は捉えていると理解しています。

国民国家型の教育システムが主軸であった1970年代以前の学校教育1.0の時代には競争と試験を柱とする学校教育が行われましたが、その根底にあったのは国家間の競争でした。しかし、戦後の荒廃から立ち直り、日本が先進国家の仲間入りした1975年ごろ以降は、国家主義に代わって産業社会と市民社会が台頭し、双方が青少年の資質・能力の向上を求め、学校もそれを目指すという学校教育2.0の段階に移行しました。しかもそのころから新自由主義が資本主義国家全体を覆うようになり、社会にとっても家庭にとっても、そして児童生徒にとっても「競争」を基調とするトレスの多い時代になっていきます。情報化の進展によって、大量の情報に囲まれた状況もストレスの増加に拍車をかけたように感じています。「小学生の異変」にこのストレスの増大が関与していないとは考えにくいことです。

それではこれからの学校教育がどのような方向に進めばよいのでしょうか。この問いに対する私なりの答えが、『学校教育3.0』(三恵社、2018年)で述べたように持続可能な社会の構築を目指す学校教育3.0を指すべきであるということになります。より具体的に言うと、「誰一人取り残さない」ことを宣言したSDGsの理念と原則を学校教育の主軸に据えることです。

「SDGsの学び」の具体的なイメージ

「SDGsの学び」について、筆者は『学校3.0×SDGs』の第1章に以下のように書きました。

SDGsの学び」とは「2030アジェンダ」に記された野心的な理念を含むSDGs全体を学習対象の中核に据えた学びのことである。

〇学習目標

SDGsの学び」の目標は、持続可能な世界、持続可能な社会の創り手の育成という面で、新学習指導要領において新たに明記された「持続可能な社会の創り手」を育むとした教育目標と同じである。しかし、将来の創り手を育成するレベルにとどまらず、進行中の学びそのものが17の目標の達成に何らかの貢献をすることも目標となる。つまり、将来の貢献の準備のための学びという段階にとどまらず、具体的な活動に参画して実際に貢献することをも視野に入れた学びと言える。(以下、略)

〇学習内容

学習内容は、SDGs17の目標と169のターゲットだけでなく、「2030アジェンダ」に記された理念などのすべてが含まれる。さらに言えば、SDGsの目標やターゲットには盛り込まれていなくても、持続可能な社会にとって重要な事柄は、学習の対象に加わる。例えば、「難民」「ゲノム編集」「ビッグデータの独占」「放射性廃棄物」「核兵器」などは、人類社会を不安定にさせたり、将来世代にとって負の遺産となったりする事柄であるが、国連加盟国の様々な利害関係が絡むため、SDGsでは触れられていない。しかし、「SDGsの学び」の学習内容に追加されるべきであろう。つまり、持続可能な世界、持続可能な社会に関わるすべての事柄が対象となる。

重要な点は、SDGsがこれから目指すべき世界を包括的にとらえたものであるので、従来の学校教育における学習と異なり、教科ごとに分かれた学習ではなく、取り上げるテーマに関連する学習内容を総合的、統合的に学ぶことになる。(以下、略)

〇学習方法

教育方法においても、従来の知識を注入する方法は影を潜め、SDGsの目標を達成するために求められる課題の解決が中心となる。そのため、学習者主体の学びとなるのは言うまでもなく、学習者同士が協力し合うことが不可欠となる。各グループが取り組む課題も多様なものになるので、指導者があらかじめ道筋を示すことは困難となり、卓越した一人の指導者よりも、共に課題の解決に取り組むメンター的な高学年の助言者や地域のサポーターなどの存在が重要な役割を果たすようになる。

学習の評価

グループでの取り組みが中心となるので、学習の評価においても、個人間の競争を前提とした、学習成果に基づく評価ではなく、課題解決に向けてどのように取り組みを行ったか、課題解決のために協力者をどのように巻き込んだか、そして、活動を通して具体的にどのような貢献がなされたかが重視されることになる。ただし、評価すること自身の相対的な意味は、今日の教科中心の学校教育と比べると大幅に縮小し、むしろ、次の課題への取り組みに向けた、ふりかえり、省察がより重視されるようになる。

このように、「SDGsの学び」は、従来の学校教育の主流であった教科中心の学びとは一線を画す新しい学びである。

上記のように目標、内容、方法、評価という「学び」そのものに焦点を当てた記述をしたのですが、学校教育の制度や枠組みといった側面も重要と考えています。

近代公教育制度における「分断」による効率化とその見直し

SDGsの17の目標が盛り込まれた「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の前文の最終段落には「持続可能な開発目標の相互関連性及び統合された性質は、この新たなアジェンダの目的が実現されることを確保する上で極めて重要である。」と書かれています。そのことから、SDGsの17の目標を表現するには、以下のように正17角形の各頂点にそれぞれの目標を置き、それらを互いに結んだ以下の図が最もふさわしいと思い、『学校3.0×SDGs』の中で提示しました。

SDGsの17目標の相互関連を正17角形の対角線で表現

この「相互関連」と「統合」は、学校教育を見直すうえではとても重要です。なぜならば、「相互関連」や「統合」の反意語である「分断」が学校教育をめぐるストレスに深く関わってきたと考えるからです。

学校教育制度ではあまりに当たり前になっていたので、何ら疑問を感じなかった「分断」が今、文科省が先陣を切って変えようとしています。かつては学校と地域社会の間には高い壁があって「分断」されているのが当たり前でした。しかし、新しい学習指導要領のキャッチコピーは「社会に開かれた教育課程」ですし、学校運営協議会を軸とする「地域とともにある学校」の推進や、地域と学校がパートナーとして連携協力して「地域学校協働活動」を進めることで「学校を核とした地域づくり」の推進が図られるようになっています。学校と地域の「分断」は、文科省主導で解消されようとしています。

新学習指導要領ではカリキュラム・マネジメントという名称のもとで、すべての教育課程において「教科等横断的な学び」を進めることが求められています。これは見方を変えると教科に分断されていた学習内容を統合しようという動きです。今日の社会が直面している様々な課題を解決するには、あらゆる分野を統合した視点が不可欠ということから、教科ごとに分断されていた学びを、これも文科省が率先して解消しようとしています。

実は「小学生の異変」(その1)で紹介した文科省の合田哲雄氏のシンポジウムにおける発言の中に、「これまで以上に学年や教科といった垣根が相対的に低くなる」という言葉がありました。教科の垣根が低くなるという点については、上述のカリキュラム・マネジメントにも現れていますが、学年の垣根が低くなるとはどのようなことでしょうか。6歳の4月に入学して、1年が経過するたびに学年が上がっていくのがあまりにも「当たり前」だったのですが、どれほどの必然性があるのかと問われると、返答に窮しかねません。春夏秋冬が一巡した1年前を振り返ると、子どもの成長を確かに確認できます。地球の公転周期である1年を基準に学年を区切る根拠としては、発達段階の違いがあり、同じような発達段階の子どもたちをひとまとめにして指導する方が効率が良い、ということでしょうか。知識を詰め込むことが中心である学校教育では、学年ごとに分断する方が好ましかったかもしれません。しかし、様々な立場の様々な個性を持った人々が協力して課題を解決していく、あるいは何かを作り上げていく上では、学年ごとの分断はむしろマイナスといえます。低年齢の子どもが少し年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちから学ぶ機会を奪っているともいえます。

小学校、中学校、高等学校、大学という学校段階を分けることも「分断」の一種です。教員免許を取得した人だけが学校の中で子どもたちを指導するというのも「分断」といえます。これからは、学校以外の様々な組織が子どもたちを「アクティブラーナー」にしていく姿は、(その2)に転載した文科省のタスクフォースによる「Society5.0に向けた学校ver.3.0 」にはっきりと描かれています。

文科省「Society5.0 に向けた学校verr.3.0」の一部

「SDGsの学び」で分断とストレスの削減を

上記のように、分断によって効率を追求してきた日本の学校教育の在り方を、実は文科省が率先してその解消の方向に舵を切り替え始めています。これからの学校が地域においてどのような役割を果たす必要があるのか、とか、生態的・社会的な持続可能性が課題となっているこれからの社会に生きる子どもたちはどのような力を身につける必要があるのか、といった議論の結果として、「効率を追求する分断」から「共創を生み出す統合」への転換がはじまったと言ってもよいでしょう。このような学校教育の制度や枠組みの方向転換は、「SDGsの学び」を実施する上では好都合で、「SDGsの学び」が広がっていく素地が準備されつつあると受け止めています。

制度や枠組みの方向転換によって「SDGsの学び」が広がる可能性は高まっています。そして「SDGsの学び」を受けて育った人々が社会に次々と送り出されていけば、「小学生の異変」の原因として最重要と見なされた「社会や家庭内のストレス」も軽減されていくものと期待しています。

しかし、全体の趨勢を変えるという点では、もっともっと変わらなければならない部分もありそうです。今回、コロナ休校が終了し、学校が再開された途端に、「2か月分の遅れを取り戻せ」と「お教え込みが復活した」という嘆きが各方面から聞こえてきました。文科省レベルでは、「効率を追求する分断」から「共創を生み出す統合」への転換を進めているにも関わらず、教育委員会レベルや各学校レベルでは、まだまだ分断をベースとした古い学校教育観から抜け出せてない層が大きな力を有していると感じています。大学入試制度を頂点とする入試選抜制度が残る限り、「競争から共創」への転換は容易ではないことも率直に認めざるをえません。しかし、大学の在り方もこれから10年ぐらいのうちに大きく変化し、18歳人口の減少もあって、競争的な大学入試は徐々に少なくなっていくと予想しています。(そのように変えていく構想を膨らませて、目下、賛同者を増やしているとことです。)

SDGsの認知度が社会全体で急速に高まっています。ポスト・コロナ社会の在り方として佐藤学氏が構想している「Share社会」「Care社会」、そして真の「Learning社会」が一体となって進行すれば、社会や家庭内の分断が統合に向かい、ストレスも着実に緩和されていくでしょう。

様々な予防原則の適用も含め、あらゆる方策を講じて、現在進行している「小学生の異変」をストップさせなければ、将来の持続可能な社会は怪しげなものになりかねません。私たちのNPO法人八ヶ岳SDGsスクールとしても、よりよい方向に進むようにいろいろな試みをしたいと思っています。(完)

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