活動報告

2023年6月15日

小学校若手教員の教職への意欲や使命感

『若手教師の悩みに応える』掲載グラフより

教育調査研究所研究紀要第102号『若手教師の悩みに応える』(2023年6月5日刊行)が同研究所のご厚意で送付されてきました。そこに掲載されていた調査結果で気になるものがありましたので、いくつか紹介していきたいと思います。この調査は、同研究所が2022年度に実施した質問紙調査に対して全国の小学校224校、中学校79校から得た回答を集計したものです。

同書のP.35には以下の二つのグラフが対比して掲載されています。いずれも初任から6年間に「教職に意欲や使命感が持てない教師の割合がどのように調査したかを示したものです。

中学校では2年目に意欲や使命感がもてない教師の割合が10%を超えていますが、以後減少を続けています。それに対して、小学校の場合は、3年目で一旦わずかに減少しますが、4年目以降どんどんと増加しています。極端に異なる傾向が現れていますが、一体なぜこのような変化が生じているのでしょうか。

教職に対する意欲・使命感の経年変化の小中比較

私立大学に対する初等教員免許課程認定の規制緩和

研究紀要をいただいたお礼として、このグラフについて、以下のような感想と独断的分析を教育調査研究所にお送りしました。

「教職に意欲や使命感がもてない教師の割合」について

P.35の「教職に意欲や使命感がもてない教師の割合」を示した小学校と中学校のグラフの対比は衝撃的でした。解説では、あえて小学校で4年目以降に「意欲や使命感」が持てなくなる理由を深く追及していないようですが、私は(あまり表立って言えないのですが)小学校教員の中に潜在的な力量の低い人が相当数混じるようになったことが、このような傾向を導いているのではないかと疑っています。

この十数年で初等教員免許の課程認定を百数十という私立大学が取得しています。その大多数は入試の偏差値が40以下あるいは偏差値ナシです。小学校教員免許の取得過程および教員採用段階である程度選別されるとは思いますが、高校時代にほとんど勉強しない、佐藤学先生の言葉でいえば「学びの偽装」で通した人や、大学生になっても読書の習慣が全くついてない人が相当数小学校教員になっています。

そのような人にとっては、新任当初は様々な支援を得ることで、また子どもたちと楽しい時間を過ごすこと、自分の適性や能力に疑問をもつことはあまりないかもしれません。しかし、4,5年経過するうちに独り立ちすることが求められるようになると、小学校の学習内容であっても大きな負担になっているのではないかと思われます。保護者との良好なコミュニケーションも、交わす話題を豊富に持ち合わせていないと苦痛に感じることと思います、

P26に「若手教師自身の課題」が列挙されていますが、上記のことと符合する事柄がいくつか見当たります。また、P50 で若手教師の状況で管理職が困っていることとして「子どものトラブルの調整」「保護者との関係」が高い数値になっています。それに対して、若手教師が「子どものトラブルの調整」や「保護者との関係」をあまり重視していないという対比が示されています。このギャップからは、若手教師に見受けられる感受性、感性の未成熟を感じさせられます。

「若手教師自身の課題」と若手教師の自己認識

上記のP.26には、小学校の管理職からの若手教師に対する辛辣な記述が列記されていますが、「ここまで書くか」という感想を持った2つを紹介します。

・資質能力が著しく低い若手教師が配置されつつある。頭数が揃っていればよいという問題ではない。特に理数系に弱い。

・自ら本を読んだり研究会に参加したりして学ぼうとする意欲が見られない。

「特に理数系が弱い」については、かつての小学校教員の多くが5教科入試の国立大学卒であったのに対し、近年増加している私立大学卒の小学校教員は、文系中心の3教科入試で大学に入学しているので、当然の帰結と言えます。小学校の理科や算数で教科専任が増えている背後にはこのような事情もあります。

他にもp.23には以下のような管理職の記述があります。

・自分は頑張っている、自分のやり方はまちがっていないという人はいくら指導しても変わらない。

次の二つのグラフの上は、管理職が「若手教師の状況で困っていること」、下は3年目から5年目の若手教師が「教師として一人前になるために重視していること」です。「授業をする力」や「学級をまとめる力」がともに高い数値になっているのは、当然でしょうが、「子供のトラブルの調整」や「保護者との関係」で管理職が困っているにもかかわらず、若手教師はそれらを重視していません。上記の「このギャップからは、若手教師に見受けられる感受性、感性の未成熟を感じさせられます。」と書きましたが、このような外部評価と自己認識の食い違いの背後には、教員になるまでの段階で、感受性、感性を十分に発達させるような諸体験の不足があるのではないかと思っています。

管理職から見た若手教員の状況で困っていること
若手教員が教師として一人前になるために重視していること

小学校教員の年代別出身大学の難易度

教育調査研究所へ送った感想・独断的分析に対して、本研究紀要の企画・編集を担当した同研究所研究部長から「諏訪先生のご指摘と分析は全くその通りです」と全面同意があった旨の文面とともに、その裏付けとなる資料も送られてきました。届いた資料は、龍谷大学の松岡亮二教授が2022年秋の中央教育審議会「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会基本問題小委員会に提示した資料でした。以下の表はその「『教員の資質能力の育成等に関する全国調査』の基礎分析」の中でも注目せざるを得なかったものです。出身大学の「一般的な入学の難しさ」で「あまり難しくない/難しくない」の割合が、30代に比べて20代で大幅に増えています。正規任用教員については30代の14.8%から20代は26.7%に、臨時的任用講師も30代の17.0%から20代は31.9%に急増しています。

学齢人口の減少によって大学入学の難易度が低くなっていることはありますが、中学校で「あまり難しくない/難しくない」の割合が30代と20代で極端な増加が見られないことから、前述の初等教員免許の課程認定を多くの私立大学に認可した結果が大きく関与しているとほぼ断定できます。

下表の出典:

松岡亮二(2022)『教員の資質能力の育成等に関する全国調査』の基礎分析

(中央教育審議会「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会基本問題小委員会提示資料)

教員の出身大学の入試難易度の年代別、小中別比較

では、どうしてこのような事態が、引き起こされたのでしょうか。初等教員免許の課程認定の私立大学に対する規制緩和を進める時点で、ある程度予想された事態だったにも関わらず、国立大学の教員養成系学部・学科への運営費交付金の削減を求めた財務省、それを容認した政権に大きな責任があるように思われます。しかし、それ以外にも追及するに値する問題がありそうです。

次回は『若手教師の悩みに応える』に掲載された別のグラフを取り上げて、もう少し別の側面から教育行政の問題点を探ってみたいと思います。そして、いくつかの視点からの問題を総合的に捉える中で、このような若手小学校教員に関わる課題に対してどのように対応していけばよいのかについての提案もしていくつもりです。

2022年11月23日

デジタルブックレット『「学校週4日(+地域学校1日)」の可能性』を刊行

ブックレット執筆のきっかけ

教育調査研究所のホームページに拙著『「学校週4日(+地域学校1日)」の可能性』がデジタルブックレットとしてアップされました。有償(650円)ですが、ダウンロードして読んでいただければ幸いです。

以下、そのブックレットにどんなことを書いたのかを掻い摘んで紹介したいと思います。

一言でいうと、現在の日本の学校教育には様々な課題が押し寄せており、それらの解決策として、「学校週4日(+「地域学校」週1日)」はどうだろうか、という提案です。つまり、子どもたちは従来型の学校に週4日だけ通い、地域社会が運営母体となる新たな「地域学校」に週1日に通うというもので、この構想の原形は、拙著『学校教育3.0』の付録で提示しています。しかし、原形に肉付けして再度持ち出ことになったきっかけは、2022年4月に内閣府内の教育・人材育成ワーキンググループが取りまとめた「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」です。そこにはこれまでの学校の姿から懸け離れた大胆な改革構想が示されています。例えば、小中高の垣根を超えた学びや多様な人材が子どもたちの学びに参画する姿です。今日の日本の学校教育が直面する大きな課題に立ち向かうには、このような大胆な改革構想が求められていると受け取りました。しかし、それらを実現するには、従来の学校教育のシステムを温存したままでは混乱を生じさせるばかりで、実際の有効な改革に結びつかない、これまでとは異なる新しいシステムの「地域学校」のようなものを導入する必要があると判断したことが、本書執筆のきっかけです。

日本の学校教育に求められている3つの改革

現在の日本の学校教育は、①教員の長時間労働、②世界的な学校教育の高度化、③児童生徒の多様化、という3つの大きな課題に直面しています。そして、それらに対応するために、3つの改革、すなわち「教員の働き方改革」「21世紀型学校教育システムへの改革」「子どもたちのWell-being改革」が求められています。しかし、今日の学校教育システムの根幹維持を前提とした改善策の積み重ねでは、対応しきれない、という懸念から想起したものが、「学校週4日(+「地域学校」週1日)」という構想です。

「学校週4日(+「地域学校」週1日)」構想の大枠を図示すると、以下のようになります。

「学校週4日(+「地域学校」週1日)」構想

「教員の働き方改革」が求められているのは、広く認識されていると思います。そして教員に押し寄せた結果として、教員の長時間労働が恒常化してしまっています。教員の多忙は、教員志望者を減少させるというような悪循環をもたらしていますが、教員の専門性開発に時間がどんどん減少しているという問題が生じていることなども、本ブックレットは重視して取り上げました。児童生徒が学校に通う日を週4日に削減することで、教員が夜遅くまで学校で過ごしたり、専門性開発に時間が取れないという問題を解消させるのが学校週4日の提案です。

そこで削減された週1日をどうするかということに対して、地域社会が中心となって運営する「地域学校」の開設を本ブックレットでは提案しています。しかし、地域社会という新たなシステムは、単なる子どもたちの週1日の居場所づくりだけのものではありません。前述の内閣府の教育・人材育成政策パッケージの改革構想や、2019年にOECDのEducation2030 プロジェクトが提示した「ラーニング・コンパス2030」の核心といえる「変革をもたらすコンピテンシー(transformative competencies)」を獲得したりするための、既存のシステムから解放された新たな学びの場という役割を果たすことができます。また、現在の学校教育システムでは対応の困難な「子どもたちの多様化」に柔軟に対応して、「子どもたちのWell-being改革」を実現するにも役立つはずです。

デジタルブックレット『「学校週4日(+地域学校1日)」の可能性』の構成

本ブックレットでは第1章で上記の事柄をもう少し丁寧に説明した後、第2章では、教員の長時間労働について、長時間労働の実態とその要因、時間労働がもたらす悪循環、専門性開発の衰退を中心に詳しく説明しています。第3章では、世界の学校教育の高度化と求められる教師の新たな専門性について、前述のラーニング・コンパス2030、社会のデジタル化、イノベーションとSTEAM教育などを例に挙げて記述しています。

 上に掲げた「学校週4日(+地域学校1日)」の構想図に即して詳しく記述していくと、次の章は、「子どもたちの多様化とウェルビーイング」というような章にすべきでしょうが、これについては、書きたいことが膨大ですので、次のブックレットに譲ることにしました。

 第4章では、「地域学校週1日」の可能性について検討しています。地域と学校の関係を歴史的に振り返ったのち、「地域学校」で展開される活動候補例を示すことで、地域関係者も十分参画できるものであることを強調しています。そして最後に、この「地域学校」は、将来的には「地域の学習共同体」という、宇沢弘文氏が提起した「社会的共通資本」としての学校の姿への展開が見込まれるものであることを述べています。

なお、付録として、『学校教育3.0』で提示した「未来の教育ショートストーリー:20X0 年の日本の社会と教育」の抄録を加えています

以上の紹介を読まれて、「学校週4日なんて夢物語」とか、「今の地域社会にはそれだけの余力がないよ」と思われた方にこそ、ぜひ、本ブックレットをダウンロードしてじっくりと読んでいただきたいと思っています。

2022年7月18日

『専門職としての教師の資本』

『教育展望』2022年5月号の書評

教育調査研究所から『教育展望』の「展望らいぶらりい」欄へ『専門職としての教師の資本

―21世紀を革新する教師・学校・教育政策のグランドデザイン』(アンディ・ハーグリーブス、マイケル・フラン著、木村優、篠原岳司、秋田喜代美監訳、金子書房、2022年1月)に対する書評の依頼があり、以下の書評をまとめました。しかし、同書についてはもっと詳しく紹介しておいた方がよいと思い、少し補足しておきたいと思います。

本書は、著名な教育社会学者2名の共著Professional Capitalの完訳である。原著の刊行は2012年であるが、約十年を経て今年日本語訳が刊行されたことは、絶妙なタイミングであったとさえ感じている。

タイトルに付された「資本」は、ビジネス資本が1970年代以降、教育の世界に猛威を振るい、大きな弊害をもたらしていることに対して、今こそ、充実した教育を通して社会を豊かにする専門職としての教師に投資すべきである、という思いが込められている。

重視されている専門職としての資本は、人的資本、社会関係資本、意思決定資本の三つ。人的資本は、教師個人の知識・スキル等の力量、社会関係資本は教師としての同僚性やネットワークなどである。三番目に意思決定資本をあげているのが本書のユニークな点で、明白なエビデンスが存在せずマニュアルが通用しない中で「自由裁量の判断を実行する能力」である。

これら三つの専門職としての資本について、いずれも集団として獲得することが有効であることと、歳月をかけた経験の蓄積が不可欠であることを、豊富かつ説得力のある事例を通して著者は強調している。

しかし、後者の歳月をかけた経験の蓄積と、今まさに日本で進められようとしている教育改革が目指す教育関与者の拡大との間には、丁寧に埋めるべき溝がある。

この三月に内閣府の教育・人材育成ワーキンググループから「Society5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」が提示された。そこでは、子供たちを取り巻く環境の変化や児童生徒の多様性の拡大に対して、学校外の「よそ者」との協働体制が構想されている。教職の専門職としての資本のない人々が学校教育に深く関与することとなるが、教員の過剰労働や新たな教育課題の増加を考えれば、必然の方向といえよう。

学外協力者は不慣れな学校文化に大いに戸惑うと予測されるし、学校側では学校教育に理解の乏しい学外者に対するアレルギーが生じるであろう。そこで、学外者が教職や教師、学校文化を深く理解でき、また学校側も自らを省察するのに最適な本書が両者の溝を埋めてくれると期待している。絶妙のタイミングと感じたゆえんである。

ビジネス資本への対抗としての専門職への投資

ダン・ローティがSCHOOL TEACHER : A Sociological Study を刊行した1975年から、このハーグリーブスらによる『専門職としての教師の資本』が刊行された2012年までの間、アメリカ合衆国の教師は、新自由主義的な教育改革の猛威でさらされまし。レーガン政権の下で進められた新自由主義政策の一環として、アメリカでは「新自由主義的教育改革」が進められ、公教育に対してビジネス資本が次々と参入したり、達成目標に到達しない学校や教師に厳しい説明責任(アカウンタビリティ)を求めたりするようになりました。

本書の原題はProfessional Capitalです。Capital=資本は、投資されることで価値が増える資産です。新自由主義政策の下で教育の世界に続々と参入したビジネス資本への対抗概念として、「教育をよくするためは(教師という)専門職にこそ、投資すべき」という思いが込められた書名です。ただし、直訳の『専門職の資本』ではどんなジャンルの本かわからないということから、監訳者がハーグリーブスと協議して『専門職としての教師の資本』とすることにした経緯が、「監訳者あとがき」に書かれています。逆にいうと、Andy Hargreaves, Michael Fullanという著者名を見ただけで教育の分野の書籍と理解されるほど、二人の著者はアメリカでは名の知られた教育学者ということです。

では、その「専門職としての教師の資本」とは具体的には何なのか。第1章「資本というアイデア」でハーグリーブスらが挙げている専門職としての資本は、書評にも書いたように、人的資本、社会関係資本、意思決定資本の三つです。

その資本に対して誰が投資すべきかについて、序文では、「政治のリーダーたちは、教師の専門職の資本への期待、激励、後押し、そして投資を行う必要がある。ただし専門職の資本は真っ先に、個人的にも協働的にも教師たち自身によって獲得され、広げられ、再投資される必要がある。」(p.11)と書いています。

そして、専門職としての教師の資本を豊かにすることの意義について、第1章の締めくくりでは、新自由主義的教育改革を念頭に置いて、「専門職の資本の開発は、教職を苦しませるもの、責め立てるもの、そして全体として社会を苦しませるものに対する、いわゆる新たな「ソーシャル・キュア」の探究である。」(p.42)としています。

アメリカと高パフォーマンスの国々の違い

ハーグリーブスらは、第2章の「教職への相反する二つの考え方」で、PISAのような国際的な学力比較調査で好成績を示すの国々(高パフォーマンスの国々)が、教職にとってより良い労働条件を整えることに投資しているのに対し、アメリカは教育への投資を減らして私立学校に依存したり、安直な教員養成を行ったり、成果に対して特別な報酬を支払うメリットペイを導入したりして、短期的な利益追求に走っている、と指摘し、専門職の資本への投資する必要があることを主張しています。

しかし、本書の大きな価値は、著者らが、そのためには、何を変革せねばならないかを知る必要があるので、教職について多くの人が抱いているステレオタイプを乗り越えて、教職の本質を徹底的に掘り下げてみる必要がある、と考えて、様々な視点からの考察によって教職と教師の本質を浮き彫りにしている点です。その結果として本書は、学校関係者以外の者が教職や教師、学校文化を深く理解する上でも、また学校関係者自身も自らを省察するのに最適な書籍となっています。

本書では、第2章以降、高パフォーマンスの国々とアメリカの対比がしばしば登場します。しかも、高パフォーマンス国の代表としてフィンランドへの言及が多くなされています。2003年にハーグリーブスの単著として刊行された『知識社会の学校と教師』では、もっぱら自身が滞在し、調査を行ったカナダのオンタリオ州の事例が中心でした。最初のPISA調査の結果が示され、フィンランドの好成績が明らかになったのは2001年です。『知識社会の学校と教師』の刊行以降、フィンランドの教育に対する様々な情報を得る中で、アメリカとの対比がより鮮明になってきたことが、本書に反映されています。

アメリカでは、共和党ブッシュ(子) 政権時代の2002年1月に立法化された「どの子も置き去りにしない法(No Child Left Behind Act of 2002:NCLB)」による、全国一律の到達基準の設定と基準未達に対する制裁措置を軸とする教育政策が打ち出されました。その後オバマ政権になって、その方向転換が期待されましたが、2009年7月に「頂点への競争(Race to the Top:RTTT)」という「競争と結果」を重視する教育政策が実施され、しかもNCLB法が継続されている、という時点で本書は執筆されています。そのような「競争と結果」重視の教育行政が進められ、しかも情報化の進展を好機と捉えたビジネス資本が教育産業への進出を進める中で、教師と学校が疲弊していくことへの対抗として、「専門職の資本」への投資こそ重要であることを、高パフォーマンスの国々の教育政策との対比を軸に主張したのが本書です。

PISA調査は、高パフォーマンスの国々とアメリカ、イギリスを対比させるという点で、ハーグリーブスは随所で利用していますが、PISA調査はリテラシー(読解力)と数学・科学に限定されたものである。その影響で、多くの国々がリテラシーと数学中心のカリキュラムを設定し、そこにビジネス資本が目をつけて「数値データやテスト結果といった狭小なエビデンス」を利用して教育産業として勢力を拡大していくことにも、ハーグリーブスは強く警鐘を鳴らしています。

教職へのステレオタイプ視による歪み

第3章の「教職のステレオタイプ」で、ハーグリーブスらは、私たちの教師に対する記憶と感覚が現在の教職に対する人々の見方や期待に大きく影響しており、選択された記憶によるステレオタイプの多くは、部分的には正しく、部分的には虚構であり、様々な視点から「作られたもの」であることを多くの事例で示しています。そして、ステレオタイプによる虚構が不適切な教職批判を招いている例として以下のようなものを挙げています。

・ケアを大切にする教師は子どもたちを過保護にして、子どもたちの挑戦にブレーキをかけやすい。(p.85 )

・教える中で自分自身を表現したり、情熱に突き動かされて教えたりするのでは、効果的な成果は必ずしも保障されない。(p.86 )

ハーグリーブスらは、従来のステレオタイプ的な見方を取り上げて、そう単純なものではないが、ステレオタイプ的な教師や教職像は、学校現場に度々足を踏み入れた研究者でも抱きがちであることも指摘しています。例示されたステレオタイプ的な見方の記述からも、著者らが、いかに教師と教職の過去と現状を熟知しているかが伝わってきます。ハーグリーブスらは、単に外から観察するだけでなく、プロジェクトを組んで教師へのインタビュー調査を重ね、また、多くの研究者と意見を交わして、今の教師の実態と、教師として教えることがどんなに大変なことであるかを十分に理解したうえで、解決の道筋をその後の章で展開しています。

エビデンスの限界と協働による新たな創造

1990年代以降、エビデンスに基づく教育実践運動が盛んになっています。しかし、測定可能なエビデンスは、しばしば意図的な選択や政治的な意図で歪曲されて学校や教師になげかけられがちです。第4章の「潜在能力とかかわりに投資する」の前半は、このようなエビデンスに対してハーグリーブスらは、限界を見極めて警戒すべきで、教師はエビデンスに過度に頼ることなく、経験を省察的に活用することでよりよい方法を獲得すべきことを勧めています。

この「よりよい方法」に関連して、ハーグリーブスらはここでもフィンランドを例に挙げて「協働での創造」の重要性を指摘しています。その骨子をまとめると以下のようになります。

「フィンランドでは、カリキュラムと教授法を教師が協働で創造していくことは専門職組織の責任と認識されている。効果的な授業実践は、見られ、観察され、経験され、解釈され、探究され、試行されることで初めて実現される。今、求められているのは、専門職の知を絶えず組織として打ち立てていける教師である。そこで必要になるのは、現時点で最良の教育実践と近未来を形作る新しい教育実践をともに用いる教師たちのコミュニティという専門職の資本である。(中略)フィンランドの教師たちが教室で過ごす時間は、他の先進諸国の教師たちよりも短い。フィンランドの教師たちは自らの実践を省察し、探究する時間を豊かに持っているが、アメリカでは正反対である。」

また、社会の急速な変化によって教育自身も大きく変化しつつある中、従来エビデンスにもとづく適切な判断とされていたものも、前提条件が変わることで有効でなくなっていることをハーグリーブスらは、ジョン・ハッティが準備段階、開始時、学習段階、フィードバック段階、終了時という一連の教えと学びを可視化してメタ分析をすることの重要性を指摘したことに一定の評価を示しつつも、以下のように述べています。

「ハッティが教育実践や学校教育の標準時間として採用した授業の単位は、1世紀以上古いものであった。授業という単位は、教師がその場で教える時間だけではない。また、現在、そして近い未来には、教師が教える時間は授業という単位の中で、ますます少なくなることであろう。それは、例えば自然の実地調査、ドラマ制作、午後に行われる総合的な社会研究プロジェクト、協同的なグループワークにおける子どもたち主体の学びへの没頭、地元にある河川汚染の科学的調査、学習障害を抱えた子どもたちを支えるテクノロジーの学び等である。(p.131)」

この記述からも、ハーグリーブスらは、未来の学校における学びが大きく変わることをしっかりと視野に入れていることを読み取ることができます。

教職の継続と同僚の支援

第4章の後半では、教職という仕事の継続にとって同僚との良好な関わり、すなわち社会関係資本がきわめて重要であることに力点が置かれています。

クリストファー・デイらが、「教師の質を改善するための様々な方略を3年目から5年目の若く熱意のある教師たちに対して行い経過を見たとしても費やしたお金や時間の投資に見合う最高のリターンを得ることは望めない」(p.142)としながらも、「教職への意欲を維持し続けた教師のうち、その63%は同僚の存在が決定的に大事だと感じていた。特に、小学校の教師たちはチームワーク、うまくいかなかったときに話せる人の存在、みんな同じ方向に向かおうとしているという感覚といったものに、高い価値を置いていた。」(p.142-143)とする報告や、マイケル・ヒューバーマンが、教職への意欲や情熱についてキャリア・ステージごとに分析した研究を紹介し、ハーグリーブスらは、「第4章のまとめ」の冒頭で以下のように書いています。

「もしも、あなたがプロとして教えることを望むならば、教職に長く留まる必要がある。ただし、永遠に留まりつづける必要はない。求められるのは、あなた自身の中で燃える情熱の火を探し当て、知識やスキルを研ぎ澄ますことである。また、もしもプロとして教えたいと願うならば、勇敢な一匹狼を目指すことは避けて、逆にオープンの助けを―リーダーから、同僚から、そしてあなたの専門性それ自体から―求める必要もある。(p.170 -171)」

専門職としての資本を高めるための要点

以下では、第5章「専門家の資本」と第6章「専門職の文化とコミュニティ」の中から、これは外せないと思ったパラグラフのみを転載します。

「国際学力テストの成績でトップクラスの国々のように、教職はどこでも専門職である必要があり、また専門職として改善し続ける必要がある。そのように私たちは信じている。教師の仕事である教えるという実践は、他の職業に就く前にちょっと試してみるような類の単純な行為ではなく、また、よりよい仕事が何もない時に頼るしかない行為でもない。効果的な教えとはよく準備され、繰り返し実践されなければならない。しかし、教えるという実践の熟達の高みへと完全に至るまでには、複数年の歳月が必要となるのも事実である。」(p.184)

「人的資本と社会関係資本だけでは不十分である。まだ何か見落としている資本がある。それは私たちが意思決定資本と呼ぶものである。専門職の本質は自由裁量の判断を実行する能力である。もしもあなたが被雇用者に対して難しい質問をしたとき、彼が「主任と相談するので、ちょっと待ってくれ」と答えたならば、その人は自由裁量をまったく実行できない専門職ではないと思うだろう。もしも教師がいつもマニュアルばかり参照していたら、あるいは授業が計画どおりにただ、一直線に進むなら、そのような教師もまた専門職でないと思うだろう。なぜならそのような教師はどのように判断していいのか分からないか、あるいは判断することを許されていないとみなされるためである。」(p.208)

「個人主義とは、単なる態度や見せかけても、ましてや教師たちが抱える心理的な苦悩でもない。時間、建物、フィードバックシステムなど、教師の仕事上の文脈や状況に根ざしたものである。しかし、これらの状況、あるいは伝統は、21世紀の初頭に著しい変化を経験してきた。ピア・コーチング、メンタリング、専門職の学び合うコミュニティ、データ・チームは、教師たちをより協働へと導くようになり、新たな可能性を教師たち自身に、教職そのものに、そして教師の専門職性に開拓した。教師たちが協働すれば専門職の資本を育むための機会もはっきりと増えていく。」(p.244)

「協働の文化と社会関係資本について学んだことは何であったか。傑出していたのは二つの基本的な教訓である。第一に、協働の文化を構築する多くの作業がインフォーマルであることだ。つまりは信頼と関係性を育むことが肝心で、それには時間を要する。しかし、もし協働に向けた努力が自発性や偶然性に完全に任されるなら、たいていは消え去り、誰にも理解をもたらすことはないだろう。第二に、同僚間の共同作業に見られる力強い協働は、会議、チーム、構造、規定等の計画的調整から利益を得られるかもしれないが、もしもこれらの調整が急がされたり、押しつけられたり、強制されたりしたならば、あるいは人間関係をより良くするために働きかけを欠いたままに用いられたならば。それらはまたもや効果を生み出さないだろう。」(p.269)

最後のパラグラフにある「調整が急がされたり、押しつけられたり、強制されたりしたならば」について補足しておきます。このような作為的な上からの協働や同僚性に対しては、「画策された同僚性」と表現されており、本書の重要なキー・フレーズです。

なお、第7章「変化を生み出すために歩みを進める」では、変化を起こすためにアクション・ガイドラインが、教師へ、学校と学区のリーダーへ、州や国、国際組織のリーダーへ、と3つに分けて書かれている。若干マニュアル本的な記述となっていますが、著者が様々な立場から教職や教師を俯瞰できる証ともいえます。

2022年5月9日

ダン・ローティの『スクールティーチャー』

これから数回、教員や教員養成ついての著作等を紹介します。今、日本の教員養成制度が抜本的大改革が求められていると感じ始めているからです。

教師についての社会人類学的研究

ダン・ローティが1975年に著したSCHOOL TEACHER : A Sociological Studyの日本語訳が、2021年11月に『スクールティーチャー 教職の社会学的考察』として学文社から刊行されました。アメリカ合衆国の約50年前の教員を対象にした社会人類学的手法を用いた研究ですが、そこに描き出された教員の姿の相当部分は、今日の日本の教員の姿そのものと言っても過言ではありません。

本書は、冒頭で監訳者の佐藤学が11ページにわたる行き届いた解説をしています。「著者と学風」に続いて解説の第2節で「教師研究としての意義―ウォーラーとの比較」を書いていますので、ここでも、まず佐藤学の解説を手掛かりに、ローティからさらに40年以上遡った、ウォーラーの捉えたアメリカの教員の姿を少し見ておきます。

ウィラード・W・ウォーラー(1899–1945)は、1932年に、The Sociology of Teaching(教職の社会学、1957年の日訳は『学校集団』(明治図書))を刊行しています。同書を、教師研究の草分けとなった古典的名著とする佐藤学は、「ウォーラーの研究の主たる関心は、教師の偽善、欺瞞、卑屈、権力性、権威性などの「非人間性(impersonality)」が、学校という制度のなかでどのように形成されるのかにあった。」「何よりも同書が、教師には特有のものの見方や考え方や行動の仕方があるという教師文化の存在を明示したことは、ウォーラーの最大の功績であった。」述べています。

ウォーラーは短い生涯でしたが、軍事アカデミーで自らが6年間携わった教師についての著作以外に、「離婚と法廷」「戦争と退役軍人」に関する著作があります。ローティが修士論文で医師の研究、博士論文で弁護士の研究を行っているのと同様に、他の職業についての研究や経験を踏まえて、教職や教師を外から(ないしは斜めから)捉えています。

ウォーラーは、学校の基本的な性質についてほとんどの政策立案者が理解しておらず、教師が内外の圧力に対して脆弱性を強く感じていることが、偽善、欺瞞、威圧的態度といった教師の非人間性を生み出しているということを、多くの事例をあげて説明しています。The Sociology of Teachingの最後の節で、「学校の改革は教師から始めなければならず、教師の個人的なリハビリテーションを含まないプログラムでは、教師の古い秩序に対する受動的な抵抗を克服することはできない。」(p.458)、「教師のトレーニングの中心的な要点は、学校という社会の現実の性質に対して深い洞察を試みることであるべきである。」(p.459)と述べています。

観察の徒弟制

ウォーラーが、自身の経験と様々な見聞を集約して社会学的に考察して教師の特質を描き出したのに対し、ローティは自身が行った質問紙を用いたインタビュー調査と全米教育協会による大規模調査データにもとづいて、教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」の形成要因を探究しています。ローティの重要な分析概念となっている「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造」「精神的報酬」「風土病的不確実性」について以下で順に説明を加えていきます。

 「観察の徒弟制」とは、教師は、職業としての教職というものを、自らが学校での授業を長年経験する過程で観察し、あたかも「徒弟制度」のように、教職についての文化や価値、規範などを身に付けているという意味です。その結果、教師はその参入過程で、他の専門職のような専門的な職業教育を軽視していると指摘しています。ローティの指摘する「観察の徒弟制」が教職の伝統的で直感的なアプローチの基礎を築くことについて、佐藤学は「教職を志望する学生は、大学に入る前から教職について「わかったつもり」になっており、他の専門職(医師や弁護士)のように専門家教育を受ける必要を感じていないし、教師になって以降は自分が教わった授業を再生産することになる。」(p.iv)とわかりやすく説明しています。

 ローティは、「観察の徒弟制」がもたらす不利益について、「ある職業が専門職として認識される理由の一つは、そのメンバーが極めて重要な公的事項についての奥義的(arcane)知識を共同で保有していると信じられているからである。」「教師たちの個人主義が自分の立場を強調したがらないことの基底にあると私は見ている。」と述べ、「成果(パフォーマンス)に関する考えが個人主義的であるがゆえに、教師たちは集団の達成レベルを向上させる戦略を発展させることが困難であると感じている。教師たちは専門文化の潜在力を向上させる方法を知らない。集団として要求に応答する能力がないことが、教職の地位を脅かしているのである。」(p.124 )と結論づけています。

卵のパッケージ構造

2番目の「卵のパッケージ構造」については、本文では、「細胞構造」と表現され、しかも様々な項目に分散して書かれています。卵のパッケージにしても細胞にしても、一まとまりの形状をしていながら、それぞれが分断されている学校の教室の姿、あるいはそのことに由来する各教員の孤立した姿を象徴した表現といえます。本書の第1章の「歴史的概観」に描かれた「卵のパッケージ構造」の成立過程には「なるほど」と納得させられます。

アメリカの場合、広大で人口の少ない土地に開拓地が分散していたため、それぞれの教師たちも互いに分散・隔絶された単細胞状態でした。しかし、都市の規模が大きくなるにつれて、学校のパターンが変化し、「それまで分離していた細胞は1つの屋根の下に結合され、生徒は年齢に応じて別々の教室に割り当てられた。」と述べています。重要な点は、一つの屋根のもとで複数の教員が集まることになって相互依存性が高まったわけではない点です。「なぜなら、個々の教師は、特定のグループに全教科を一年にわたって教えるか、のちに高学年で展開するように、単一教科を同じ集団に所定の期間教えるかのいずれかだったからである。」とローティは書いています。1950年代後半から、チーム・ティーチングや学校内部の壁の除去などの主張が現れて変化が生じていますが、教師間の分離と職務の相互依存の低さが長年続いています。そのもう一つの要因として、若い女性に依存しながらも既婚女性の雇用を認めない教育委員会の方針もあって、教職が離職率の高い職業で、「平均在任期間が短い場合、緊密に連携した分業体制を構築することはむつかしい」と指摘しています。

この学校の細胞構造が学校と教師に様々な不合理・不具合を引き起こしていることを、ローティは以下のような例で示しています。

・初任教師は同僚から物理的に離れて多くの時間を過ごす。初任者は校長やその他の教職員から指導的な関心を向けられるが、そうした最善の支援を提供できる学校システムにおいてさえ、1ヶ月に合計2,3時間以上に達することはまれである。(p.115)

・学校は細胞化された構造であるため、教師は閉ざされたドアを背にして、生徒以外の誰にも見られず、(おそらく)自分の成果を誰からも称賛されないことが容易に想像できる。(p.184)

・教師は互いの仕事をみることがほとんどなく、同僚からの監視から免れることを好むのである。(p.330)

精神的報酬

この「精神的報酬」は、本書の充実した「索引」を信用すると、29ものページに登場する本書における最頻出フレーズです。他の専門職に比べて決して高くない給与、長く勤めても低下するばかりの昇給比率といった経済的な報酬、あるいは名声や他者に対する権力という点でも満たされることの少ない教職に、多くの人が参入し、留まっている理由の追究が、社会学者としてのローティには大きな関心であったことが伺われます。このことは、以下のインタビュー項目の39番目にも、はっきりと表れています。

39 今日では教師が抱える問題を耳にすることが多いのですが、アメリカ合衆国では150万人が教職で働いています。公立学校の教職の何が人々を引きつけているから、教職にとどまるのだと思いますか?

 大雑把にまとめると、教師の文化では、上記のような外発的報酬の獲得を重視していない、ということになります。ローティは「教師の報酬構造は、精神的報酬を重視している。教室の文化が奉仕を重んじることを思い出せば、教師の労働生活における精神的報酬の重要性を強調するデータがあったとしても驚くことはない。」(p.156)と述べています。

ローティが、教師の得る報酬をどのように分類していたかは、以下に転載した質問紙インタビュー調査で用いた質問項目(巻末p.352-353に付録として掲載)を確認するとわかりやすいと思います。

外発的報酬に関する質問項目

T8 学校教師を「特権階級」と呼ぶことはまずありませんが、教師はお金を稼ぎ、ある程度は他者から尊敬され、何らかの影響を及ぼす立場にあります。あなたに最も満足をもたらすのは、これら3つのうちのどれですか?

 専門職として稼ぐ給料

 他者からの尊敬

 何らかの影響を及ぼす機会

 いずれも満足をもたらさない

精神的報酬に関する質問項目

T9 教師は自分の仕事で多様なことを楽しむことができます。あなたにとって最も重要な満足の源泉は、次のうちのどれですか?

授業の勉強をし、読書をし、計画する機会

規律と教室経営の習得ために与えられる機会

生徒(集団)の「心に届き」、生徒が学んだことが分かるとき

子供たち(少年たち)と交流して関係を築くための機会

付帯的報酬に関する質問項目

T10 教職について最も好きなのは、次のうちのどれですか?

収入と地位の総体的な安定性

旅行や家族活動などが認められる時間(特に夏季)

多くの競争相手や他者との競争なしに生計を立てるための機私のような人間にとっての特別な適切さ

いずれも満足とはならない。 

ローティは、実際に収集したデータの集計結果として「とくに教職から得られる満足を尋ねる質問に対する回答では、職務に関連する成果への言及が圧倒的に多かった。たとえば、ある質問項目では、125件が精神的報酬としてコード化されたのに対し、11件が付帯的報酬、9件が外発的報酬であった。」「質問に対する回答で最も強調されたのは、満足が生徒に関する望ましい結果に付随して生じることであった。」(p.156)ことを明らかにしています。

本書には、この精神的報酬に触れたインタビューへの回答事例が多く掲載されていますが、以下に一つだけ転載します。

卒業生が学校にやってきて話をしても、彼らは何の得もしてないし、握手することもないのですが、自分に大きな影響を与えてくれたことを話して、感謝の気持ちを伝えたいと思っているのです。これはいかなる教師生活のなかで何物にも代えがたい瞬間だと思います(以下略)。(p.182 )

風土病的不確実性

一方で、教師の仕事に対する評価の困難さなどが、教師の安心感ややりがいの喪失につながると、精神的報酬を脅かすことになります。教師の仕事に対する評価における不確実性の度合いの高さなどが、ローティが取り上げた4番目の特質「風土病的不確実性」です。この「風土病的」という用語の説明は本文中には見当たりませんが、佐藤学は「職業病的」という意味であると解説しています。

 第6章の「風土病的不確実性」の最初の方で、ローティは、他の職業の場合との比較で、以下のように教職の不確実性を多方面から例示しています。

「有形の分野における職人は、作業モデル、青写真、計画、詳細仕様を活用する。教師は、この種の物質的な標準(スタンダード)を何も保持していない。」

「職人は、特定の製品のどの部分に責任を負うかを把握しており、その段階にあるステップを統制するのが通例である。(中略)しかし、通常、教師は子どもに影響を及ぼす意義深い大人の一人にすぎない。教師の影響力の評価は、自己と他者との関係しあう影響力についての困難な判断を必要とする。」

「弁護士は訴訟に勝つか負けるか、技術者の橋は所定の重量に耐えるか否かである。しかし教職の行為は、同時に採用される多様な基準(クライテリア)の観点から評価される。クラスを魅了する教師が、内容の正確さを批難される場合がある。特定の子どもを叱責することは、残りの生徒たちを静かにさせるだろうが、その被疑者から不平等の申し立てを招くこともある。」(以上すべてp.199 )

 ローティは、以上のような模範にする具体的なモデルの不在、不明確な一連の影響力、多元的で論争的な基準、に加え、教師の成果を評価するための適切な時間やタイミングが曖昧であること、対象である子どもたちは教えられた後の成熟過程で変化し続けること、等の不確定性を上げています。

 そしてさらに、教師は教える対象を選択する権利を持ってないことや、教師の役割義務が「規則遵守を確保するだけでなく、「学習する仕事」への関心や努力を高めるような絆を築くことが期待されている」こと、教師は教室での一般的なルールを確立し、それらのルールからの逸脱を罰するが、「一人の子供に対して行われる行為は、他の子どもたちにも見えてしまうため、生徒たちは不公平だと思う扱いを受けるとすぐに反発する」ことなど、教職の不確実性の要因にも言及しています。

 この「不確実性」が教師の不安感や繊細な感情などを生み出していることを、ローティは豊富な事例を交えて丁寧に説明していますが、佐藤学は「教師たちは「不確実性」によって絶えず不安に陥り。教育学の専門的知識に不信感を抱き、自らの経験を絶対化し、教育の理念においても理論においても知識においても集団的合意を形成せず、それぞれが悩みながら孤立している。」(p.vi)と、見事に要点を手短にまとめた解説をしています。

 また、佐藤学は、本書のインパクトとして、ローティがこの「不確実性」を「専門家として克服しなければならないと提起したことが、その後の教職の専門性の開発研究を促し、1980年代半ば以降の教師教育改革を準備したとしています。この点については、そこから導かれる「同僚性」にも関わることで、是非、本書の佐藤学の解説を直接設参照してほしいと思います。

教育改革と教師の「個人主義・現状主義・保守主義」

ローティは、主に「観察の徒弟制」「卵のパッケージ構造」「精神的報酬」「風土病的不確実性」の4つの分析概念に基づいて、教師の「個人主義」「現状主義」「保守主義」が形成され、保持され続ける所以を本書で解明していますが、その研究の意図は、最終章の「変革についての総合的な思案」で明らかになります。

 ローティは「近年、何百万ドルもの費用が教育開発に費やされてきたにもかかわらず、学校の実情についての報告が質量ともに著しく不十分なのは逆説的である。学校への大規模な介入が意図せざる帰結をもたらすのは明らかである。(p.301)」と学校や教職や教師の実態についての研究が不足していることを訴えています。

 そのうえで、3つのシナリオを提示して、教師のエートスとなっている「個人主義」「現状主義」「保守主義」を克服しなければ、教師や教職の置かれる状況は一層悪くなることを予言しています。3つのシナリオのうち、2番目、3番目は約50年前の、しかも、アメリカ合衆国の実態を出発点としたシナリオという性格が多分にあるので、ここでは1番目のシナリオの要点を紹介します。ただし、2番目、3番目のシナリオは、進行しつつあった新自由主義的な改革に公立学校の教育現場が適切に対応できずに、悪化し続ける事態を招いているので、何をしなければならなかったのかを理解する意味では重要です。

 「伝統の侵食」というタイトルのついたシナリオ1は、教員文化の変化に焦点を当てたものです。今後、教育上の選択肢が急増する結果として、教師の保守主義に対する疑念の眼差しが高まり、教師たちが順応しなければならなくなるというシナリオです。教師たちは提示されたすべての選択肢を受け入れなければならないわけではないが、頑固な執着が功を奏することはないからです。 高度に構造化された事業プログラムが開発され、効果が高いと宣伝された場合、教師はそうした変革にどのように立ち向かうのか、そうしたプログラムに反撃するために、教師はどのように知的資源を持たなければならないのか、という問いに対して、納得いく回答を見いだすためには、協同するとともに、教師は自前の専門家を必要とすることになる、というシナリオです。

2022年3月18日

持続可能な社会の構築に向けた教育改革の円滑な推進のために

持続可能な社会の構築に向けた教育改革がいよいよ本格化しはじめています。しかし、改革案が明確になるとともに、その推進を阻むことになりそうな要素も明らかになってきていると感じています。その一つが学校と学校の外の世界の文化の違いです。この1年ほど、世界の教育改革の潮流や日本の教育改革の動向を私なりに整理して、この「SDGsと学校教育」欄に書いてきました。今回は、世界と日本の教育改革の潮流と動向を簡単に振り返るとともに、「学校文化」「教員文化」とも呼ばれる学校内の文化と、学校の外の世界の文化の溝が教育改革を阻むのではないかという懸念を述べ、その解消にための一つの提案をしたいと思います。

近年の国際的な教育改革の潮流

地球環境問題の深刻化や貧困・格差の拡大を背景に、持続可能な社会を目指す動きは、特に1992年の国連環境開発会議(リオ・サミット)以降、活発化してきました。また、2005年から始まった「国連持続可能な開発のための教育の10年(DESD)」によって、持続可能な社会の構築には、教育が大きな役割を果たす必要があるという認識も世界的に広まっています。

2015年の国連持続可能サミットにおいて、SDGs(持続可能な開発目標)を中心に据えた「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択されました。SDGsは、「私たちの世界を変革する(Transforming our World)」ために、それまで別々に議論されがちであった環境、社会、経済に関わる問題を統合したもので、17の目標についても「相互関連性と統合」が重視されています。また、同じ2015年に、OECD(経済協力開発機構)もEducation 2030プロジェクトを発足させて、持続可能な社会の構築に向けた教育のあり方について本格的に検討を始めました。そして2019年に、これからの世界の学校教育の潮流を大きく変える可能性を秘めたラーニング・コンパス2030を提示しました。

OECDは、2000年から国際的な学力比較調査PISAを実施してきましたが、2001年には「キー・コンピテンシー」という概念を提示して、それまでの「何を学ぶか」が中心であった世界の学校教育を、「何ができるか」に重点を移行させる役割を果たしています。近年の日本の学習指導要領でも「何ができるか」というコンピテンシーが重視されています。しかし、Education 2030プロジェクトでは、「社会の変化に対応する力を育む」という、それまでのOECDのスタンスでは、「持続可能な社会の構築」といった人類が直面する課題に対応した教育としては不十分なのではないか、という認識に基づいて、Well-beingを実現するための「変革をもたらすコンピテシー(transformative competencies)」を求めています。ラーニング・コンパス2030では、「新たな価値の創造」「対立やジレンマへの対処」「責任ある行動」の3つが変革的をもたらすコンピテンシーとして示されています。

これらのコンピテンシーは、従来から重視されてきた「知識・態度・価値観」に付加されるものですので、学校にとっても児童生徒にとっても、オーバーロード(過負荷)問題をもたらす可能性があり、その対応に向けた教育の変革もこれから求められることになります。

近年の日本の教育改革の動向

一方、日本では、新学習指導要領の前文で、児童生徒が「持続可能な社会の創り手となる」ことを求めています。これはまさに、持続可能な社会の構築を目指す世界の潮流に対応しようとしたものです。また、この持続可能な社会の構築に向けた教育を実質化するためには新たな学校教育の枠組みが必要という認識と、科学技術やイノベーションの立ち遅れが日本の国際的な地位低下をもたらしているという認識が重なって、2021年度から内閣府主導による教育行政への強力なテコ入れがはじまっています。

2021年4月に、内閣府の管轄する科学技術基本計画を科学技術イノベーション基本計画と改め、その3本柱の一つに「教育・人材育成」を位置づけ、内閣府の総合科学技術・イノベーション会議のもとに「教育・人材育成ワーキンググループ」を発足させました。同ワーキンググループでは9月以降、急ピッチで教育・人材育成についての検討を進め、2022年3月に取りまとめの提案がなされました。そこでは「学年・学校種を超える学び」「教科の枠組みを超えた実社会に活きる学び」「多様な人材・協働体制」というように、これまで分断されていたものを統合することで学校教育を変革しようという姿勢が強く打ち出されています。従来の学校の姿を大きく変える大胆な提案で、日本中の学校に激震をもたらす可能性もあります。

とりわけ、強調されているのが「協働体制」です。様々な新たな教育課題が学校に押し寄せている一方で、教員の過剰労働の解消が大きな課題となっていることから、これまで学校においてもっぱら教職員が担ってきていたものを教職員以外の学外の「よそ者」にも協力して担ってもらおう、というものです。「協働体制」を構築する必要があるという観点から、下図のような協働体制への移行が示されています。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/5kai/siryo2.pdf

このような日本のこれからの教育改革の方向性は、持続可能な社会の構築を目指す、「統合」による「変革」という世界の潮流にも一致したものであり、その着実な実施と学校教育への浸透が望まれます。

教育改革に伴う様々な軋轢・葛藤

しかし、これまでの学校教育の改革の経験から、国から示される改革が学校現場ですんなりと受け入れられ難いことは明らかです。授業や児童生徒・保護者への対応に加え、教育委員会などからも様々な報告等が求められ、多忙な日々の連続であって、将来の学校の在り方をじっくり考える余裕のない教員が多いのが実態でしょう。それだけではありません。従来の学校は社会から切り離された存在であったために独特の「学校文化」「教員文化」が存在しており、外からもたらされる変革も、できることなら避けて済ませ、現状を維持しようとする傾向が存在します。20世紀末のカリキュラム改革で導入された「総合的な学習の時間」についても、教科担任制が採られ、教科別の教員免許制度となっている中学校や高等学校の多くでは、その定着に10年以上の時間が必要でした。

しかしながら、教職員が「よそ者」とともに「協働体制」を構築すべきであるという教育・人材育成ワーキンググループの提案は、持続可能な社会の構築に求められる「変革をもたらすコンピテンシー」を育むためにも、また、児童生徒の多様化が進み、様々な新たな教育課題が押し寄せてきている現状に対応するためにも、大変重要な学校改革です。しかも、常態化しつつある教員の「過剰労働」が教員志望者を減少させ、教員の全体的なレベル低下を招くのではないかと懸念され始めている現在、「協働体制」の構築は、避けて通れないものと思われます。

学校教育に学外者の協力を求める姿勢は、以前から徐々に進行してきました。いじめの深刻化や不登校児童生徒の増加を受けてスクール・カウンセラー制度や、発達障害児の増加への対応として特別支援教育支援員制度などを導入してきました。また「チームとしての学校」という構想の下で、スクール・カウンセラー以外にもICT支援員、部活動支援員などを学校に配置されるようになってきました。

また、各学校に学校運営協議会を設置することを教育委員会の努力義務と課し、それまでの「地域に開かれた学校」から「地域とともに歩む学校」への転換を促してきました。そこでは「学校における地域との連携・協働体制を組織的・継続的に確立する」というように「協働体制」という言葉が使われています。しかし、約5年半、学校運営協議会の会長を務めてきた経験からも、学校運営協議会は学校の外側から学校運営に参画するというイメージで、学校の教職員との密な接触は限定的です。多くの学校に設けられ始めている学校支援地域本部にしても、それをさらに発展させる構想と思われる地域学校協働本部にしても、そこで展開される活動は、学校の外の「社会教育」のフィールドでの活動が中心で、学校内では「授業補助」「教員補助」「部活動指導補助」という補助的な位置づけの活動に留まっています。いわば、外堀に関わる活動といえます。

しかし、今回の教育・人材育成ワーキンググループが提示している「協働体制」は、従来から学校が担ってきた学習活動や特別活動、あるいは児童生徒指導という本丸に「よそ者」が入っていって役割分担をし、またある時は協力し合って協働活動をしよう、という提案です。この実施は「よそ者」を受け入れる学校側にとっても、「よそ者」として学校に乗り込む学外協力者にとっても、大きな、しかも多様な軋轢・葛藤を生み出す可能性が大きいと思われます。

地ならしのための双方の主体的学習

大胆な教育改革の提案が様々な軋轢や葛藤をもたらし、構想通りにすんなりと進行しないであろうという懸念には、根拠があります。アメリカの社会学者D.C.ローティによる『スクールティーチャー』(原著は1975年刊、織田泰幸らによる全訳は2021年)は、社会学的な調査研究に基づいて、教師という職業の特性として「風土病的不確定性(endemic uncertainty)」や保守主義、個人主義、現状主義をあげています。「風土病的不確定性」とは、一般的な物資の生産活動のようにマニュアル化し難く、次々と変化する子どもの反応に対して常に臨機応変の対応が求められるという意味です。そして、上記のような特性の結果として、「教師たちの提案は、ラディカルというよりは保守的であり、集団主義者というよりは個人主義的であり、未来志向と言うよりは現状維持志向になる。」「それらの提案は、革命よりは修繕に近く、要するに、要求の厳しい改革ではなく、軽微な調整で構成される。」(p.259 )と述べています。

このような教師の姿のままでは、社会の急速な変化の中で、次世代をしっかりと育むことができないということから、アメリカのハーグリーブス氏や日本の佐藤学氏は、同僚との協働の重視や、授業を互いにオープンにして研鑽を諮る「レッスン・スタディ(授業研究)を通した「専門職としての教師」という、新たな教師の在り方を追求していく必要があると主張してきました。しかし、教師の保守主義、個人主義、現状主義は今日も根強く残っています。しかも、これまでにもこの欄で書いてきたように、日本の教員社会は、日本の社会全般以上に、今もなお「タテ社会」の傾向が顕著です。したがって、そもそも教育改革自身にも消極的であるばかりでなく、「よそ者」が入ってく来ることに対して拒絶反応ないしアレルギー反応を起こす可能性が他の国々以上に大きいと思われます。

他方で、学校教育に協力しようという学外の組織団体のメンバーが学校に入って協働活動を進めようとした場合、独特の学校文化・教員文化に大いに戸惑うことになります。例えば、教員同士が同僚と密接に連携しているように見えながら、学校全体としてではなく、教科や学年といった特定の集団に留まっている「バルカナイゼーション(バルカン半島の国や民族に見られる敵対的な小集団に分割されている現象)」と名付けられた実態に接すると、国境を超えたサプライ・チェーンが当たり前の世界にいる人々には、学校の時代遅れを感じさせられるに違いないでしょう。

では、どのようにすれば無理のない「協働体制」を確立し、役割を分担して双方の力を存分に発揮できるのであろうか。以下に、具体的な提案を述べていきます。

教育改革の円滑な推進のための具体的方策

まずは、以下の事柄について、双方が当事者としてより正確な共通認識を持つことが、「協働体制」を創るうえでの前提になると思います。

(1)生態的・社会的な持続可能性の危機が、人類が解決すべき最優先課題となっており、それに対して教育が大きな役割を果たす必要が生じている。

(2)社会の急速な進展に伴い、学校が担うことが求められている新たな教育課題が急増している。

(3)児童生徒の多様性が拡大しており、これまでのような教室に30人以上を集めて一人の教員が一斉授業を行うことが困難になっている。

(4)また、上記のような課題に加え、保護者への対応や様々な事務作業の増大もあって、教員の過剰労働は、看過できない段階になっている。

(5)このような学校教育を取り巻く環境の変化の中で、文部科学省は、「地域とともにある学校」という、地域と学校との密な連携を重視してきた。しかし、地域との連携だけで乗り越えることができるレベルではないという判断から、さらに一歩踏み込んだ「よそ者」との「協働体制」が不可欠と考えるに至っている。

(6)しかし、長年培われてきた学校文化、教員文化について、学校側の教職員も自覚し、また学校教育に参画する「よそ者」もそれらが生まれてきた背景を理解しておくべきである。

 このような共通認識を持つには、双方が出会い、対話を重ねるのが最も有効でしょうが、そのような機会を度々設定することは現実的ではないでしょう。そこで、以下のような簡略化したアクティブ・ブック・ダイアローグ(以下、簡略版ABD)を中心とした勉強会をそれぞれが2回ほど事前に実施してはどうかと提案する次第です。

 なお、簡略版ABDに用いる資料は、A4版4ページ×5,6章を2回分で、新たに書き起こす必要があります。しかし、以下の項目の相当部分は、すでにこの「学校教育とSDGs」欄にアップしていますので、それほど多くの作業量にはならないと見込んでいます。

第1回目の勉強会案

世界の教育の潮流と日本の教育改革の動向に関する簡略版ABD

第1章 1990年以降の世界の教育の潮流と持続可能な社会

第2章 新自由主義的教育改革と『Finnish Lessons』

第3章 OECDのEducation2030 とラーニング・コンパス2030

第4章 戦後日本の教育改革を振り返る

第5章 内閣府教育・人材育成ワーキンググループの改革案(前半)社会と子供たちの変化

第6章 内閣府教育・人材育成ワーキンググループの改革案(後半)改革案の骨子

第2回目の勉強会案

学校文化・教員文化を理解し、未来の学校を考える簡略版ABD

第1章 ダン・ローティ『スクールティーチャー』の概要

第2章 アンディ・ハーグリーブス『専門職としての教師の資本』の概要

第3章 日本の学校と「タテ社会」

第4章 日本の教員養成制度とその特質

第5章 教師の専門性追求か、多様性追求か

第6章 2050年の学校の姿を予測する

簡略版ABDの進め方(合計時間150分)

1.【ガイダンス、教材配布】簡略版ABDについての手順や意図の説明し、参加者を5~6人のグループに分け、各グループのメンバーにそれぞれ1章分の教材を配布する。(5人の場合、第1回目、第2回目とも第4章を使用しない)【5分】

2.【資料読み込み】各メンバーは、自分が担当する章の資料を読み込む。(読み進める過程で、重要と思った部分にサインペン等で下線を引くことがお勧め)【30分】

3.【要旨書き込み】配布されたB6用紙6枚に、マーカーで要旨を書き込む。用紙は横長で用い、4行以内に収める、マーカーは太字を用いる。【30分】

 (休憩【10分】:この間に書き終えなかったメンバーは書き終えるようにする)

4.【説明】第1章分担者から順に、B6判用紙を1枚ずつ机に並べながら説明を加えて発表していく。一人4分以内。【25分】

5.【対話】全員分のB6判用紙を眺めながら、質問をしたり意見を交換したりする。【25分】

6.【ギャラリー・ウォーク】他のグループの机に並んだ36枚の用紙を見て回る。【10分】

7.【ふりかえり】ふりかえり用紙に感想等を記入し、グループ内で順に読み上げる。【15分】

《参考》

簡略版ABDを実施した2018年夏の免許更新講習(日本環境教育フォーラム主催、学習院大学協力、講師:川嶋直氏(日本環境教育フォーラム理事長)、中野民夫氏(東京工業大学教授)、諏訪)の記録写真を添付します。使用した教材は、拙著『学校教育3.0』(2018年4月刊、三恵社)の各章でした。

2022年2月16日

内閣府 教育・人材育成ワーキンググループの〈中間まとめ〉に対する雑感(後半)

3本の政策と実現に向けたロードマップ

政策パッケージの中心は、以下で概略を紹介する「3.3本の政策と実現に向けたロードマップ」です。この部分は、12月末に公表された〈中間まとめ〉段階では、ポンチ絵を用いたPPTが示されており、提示する政策の具体性が見えにくい感じがありました。しかし、2022年2月9日の会議資料で具体的な政策(案)が多数提示されています。しかし、それぞれの具体的な政策について、「課題・ボトルネック」「必要な施策・方向性」「具体の検討・実施体制」が文章化されて列記されており、個別の政策に関心のある方は、これらをご覧になることをお勧めいたします。しかし、それら全体の大きな方向性については、むしろ12月末時点で提示されていたPPTのポンチ絵に沿ってみていく方が適切と判断し、以下ではそのように記述していきます。なお、そのほかに、3つの大分類の政策ごとに今後いつどのように取り組んでいくかのロードマップも付されています。それを一覧するだけでも、2022年度から教育改革が加速されることは間違いないと断言できます。

<政策1>子供の特性を重視した学びの「時間」と「空間」の多様化

表題は、「時間」と「空間」の多様化と抽象的に書かれていますが、各スライドに書き込まれた内容をよく見ると、大転換なしには済ませないものが並んでおり、事実、先ごろ示された政策(案)でもこれからの大転換をもたらす可能性のある案が列挙されています。<目指すイメージ①>で示されたスライドの図(下図)を、「“これまで”を“これから”に変えねばならないので、この左側から右側への移動を政策として実行に移しますよ」と捉えると、関係する組織や部門に激震をもたらすことになります。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

例えば、2段目の「同一学年」を「学年に関係なく」とすると、教科書会社からは、「じゃあ、一体どんな教科書を作ればいいんだ!」という声が上がるでしょう。4段目の「教科ごと」に替わって「教科の枠組みを超えた実社会に生きる学び」が学校の中心になると、これまでの教科を軸に据えた教員養成制度の大手術が必要でしし、教科中心の人員構成となっている教員養成系の大学関係者の相当数は、「自分たちの出番がなくなる!」と大騒ぎするに違いありません。

しかし、その左右に配された子どもたちの多様性を示す図を改めて見せつけられると、「主体」から「教職員組織」に至るまで、これまでの姿を大幅に変える政策が、実際に次々と繰り出されても反論する理屈を見い出しにくくなります。どのような紆余曲折があるかはともかく、あと数年後にはこれまでの左側の姿が右側の姿に移行していることは、かなり高い確度の近未来像と思われます。

では、このような激震が伴う変革を肯定するのか否定するのかと問われれば、筆者は全面的に肯定します。なぜならば、このような学校教育制度の変革(Transformation)がなければ、新学習指導要領が前文ではっきりと断言した、児童生徒が「持続可能な社会の創り手になる」教育を実現できないと考えるからです。さらに言えば、未来社会の主役である小中学生が「「持続可能な社会の創り手」になれないような学校は、存在意義がなくなる時代に間もなく入っていくと考えるからです。

「学年に関係なく」をめぐって

上図では、6段にわたってこれからの姿が描かれていますが、このうち最上段の「子供主体の学び」や最下段の「多様な人材・協働体制」は、すでに以前から話題に上がっています。また、5段目のTeachingからCoachingは、授業ではなじみが薄いかもしれませんが、部活動の領域では、あれこれ指示するのではなく、子どもたちに寄り添って「伴走者」として見守るほうが子供たちの意欲を引き出すと、以前から認識されてきました。子供たちが多様化する中で、画一的な教え込みや一律の指示が通じなくなっていることは、すでに大方の教員は自覚しているはずです。

4段目の「教科等横断・探究・STEAM」は次の政策2の中心テーマですので、ここではそれ以外の「学年に関係なく」「教室以外の選択肢」を中心に見ていきます。

小学校教育関係者以外の方々にとっては、学校教育に学年があり、1年ごとに学年が上がって上級生になっていくのが、「学校の当たり前」の一つとなっていることでしょう。小学校の場合、1998(平成10)年度改訂(2002(平成14)年度実施)の学習指導要領から、各教科の目標と内容が、〔第1学年及び第2学年〕というように2学年をまとめて表記されるようになっています。

4月になると上の学年に上がるのがあまりにも普通のこととなっているため、一年ごとに進級する以外の学校の姿を想像しにくいかもしれませんが、一年ごとに進級させるのは、まさにSupply Sideの都合です。年齢を重ねるとだいたい同じように成長するので、誕生時から6年目の春に小学校に入学させ、同時に各学年の子どもたちは1学年進級し、6年生は3月末に卒業させてしまうのはシステムとしては実に合理的ですが、必然性はありません。子どもたちの成長発達の多様性が進む中で、1年ごとの進級に対する疑問が、小学校の学習指導要領における2学年ごとの目標と内容の表記となったといえます。それをさらに進めようというのが「学年に関係なく」です。イエナプラン教育では、通常4~6歳・6~9歳・9~12歳の3つのグループに分かれて活動しており、あるグループで3年間の活動を終えると次の年上のグループに移行することになっています。

しかし、「学年に関係なく」の説明文を見ると、学年だけでなく学校種も視野に入っています。つまり、小学校も中学校も一緒に、いやいや高校も関係なく、という考えです。例えば、マイクロプラスチックを削減するという課題の解決方法については、例えば、ドキュメンタリー映画『マイクロプラスチックストーリー』を小学生も中学生も高校生も一緒に見て、それぞれが考え、みんなの前で感じたこと・考えたことを発表しあうことは可能です。さらに、みんなで取り組んでどこかに働きかけなければ十分に効果が現れないものが多いことに気付いたころに、そのタイミングで大人の伴走者が、「みんなで解決方法を探究してみたら」と促す効果的です。学年も学校種も関係ない異年齢集団でプロジェクトが実際に動き始めることでしょう。小中高生が一緒になって、川を流れて海に向かうプラ製品や海岸に漂着するペットボトルなどの収集・調査をすると、学校種を越えて、次にどのように行動するべきかという議論になっていきます。このようなプロジェクトを経験すると、子どもたちは異年齢集団の中でこれまで経験したことのないような多様で深い学びを味わうことになるはずです。

筆者自身、杉並区立西田小学校の「NISHITA未来の学校~大人も子供も一緒に考えよう」という催しで、小学生、教職員、保護者、学校支援員、卒業生、地域関係者などがそれぞれのポスターの前で発表し、子どもも大人も質問し答えるという活動を企画したことがあります。大成功をおさめ、子どもにとっても大人にとってもどれほど大きな学びとなるかを自分の目で確認することができました。NPO法人八ヶ岳SDGsスクールが他の団体とともに毎月1回開催してきた「八ヶ岳SDGsコミュニティ」でも、大人に混じって小学生も高校生も発表し、質問して感想を述べています。大人にとっても大きな刺激を受けるイベントです。 「NISHITA未来の学校」にしても「八ヶ岳SDGsコミュニティ」にしても、現段階では単発的なイベントです。しかし、かつて拙著『学校教育3.0』の「付録 未来の教育ショートストーリー」で述べたように、学校に行くのを週4日に減らし、週1日は、例えば異年齢集団で地域を探究する学びの日としてそれを可能にする体制を整備すれば、まさに学校種に関係のない豊かな学びを実現することができます。「学年に関係なく」は言うまでもなく、学校種を超えた学びが新たな「当たり前」になるのも、まんざら夢物語ではない、実現可能なことです。

「教室以外の選択肢」とレイヤー構造

上図の3段目の「空間」のこれからの姿として「教室以外の選択肢」が書かれています。そこでの説明では、「教室になじめない子供が教室以外の空間でも」と書かれているので、不登校・不登校気味の子供たちのためのフリースクールやコロナ禍でインターネットを利用した自宅学習などを連想しがちです。もちろんそのような想定も含まれていますが、その次のスライドにおけるこれからの姿として、下図のようなレイヤー構造が示されているので、もっと大規模な「教室以外の選択肢」が構想されていると考えてよさそうです。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

これまでは、学校が子どもたちの教育のすべての分野・機能を担ってきましたが、これからは分野や機能ごとに、多様な担い手に委ねる構想が描かれています。部活動の大部分が学校の枠外に置かれるだけでなく、学習活動についても学校外の場で、社会や民間の力に委ねる姿が描かれています。

それではこの図と、2021年1月の中教審答申「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」において、「日本型学校教育」を「子供たちの状況を総合的に把握して教師が指導を行うことで, 子供たちの知・徳・体を一体で育む」としていることとの間に矛盾はないのでしょうか。この図では、「知」の半分は学校外、「体」の相当部分を占める部活動は大部分が学校外です。そもそも教員の過剰労働が明らかになり、地域社会の支援が求められて「地域とともにある学校」を打ちだしている中で、「子供たちの知・徳・体を一体で育む」学校像を目指すというのは大きな無理があったと反省し、本来の路線に戻ることにしようということなのでしょうか。

いや、そうではないでしょう。全人的な成長を考えたときに知・徳・体を一体で育むことは適切なことです。19世紀、20世紀は要素を分解して効率を上げることに汲々としてきました。その結果として生態系や社会的な持続可能性の危機が発生してしまっています。その反省に基づいてSDGsなどでは、様々な要素を統合して、総合的な観点から課題を解決しようとしています。いわば、21世紀は「統合・総合」によってこれまでの破壊を修復し直す時代ともいえます。したがって、「令和の日本型学校教育」という「知・徳・体を一体で育む」考え方が不適切なのではなく、問題なのは、現在の学校の体制の中で、現在の教職員の体制の中で追求していくような印象をもたらしている点でしょう。外部の人材や資源を活用していく方向性が示されていますが、それらを誰がどのように束ねていくのかについて具体的な提示がなされなかったこと、現在の教育に大きな負担がかかるという不安を抱かせないような丁寧な構想が十分に提示されなかったことが問題だと感じています。

いずれにせよ、これまで学校教育が一手に引き受けてきたものを領域・機能に分解して社会や民間に委ねるのが適切、という考えが本ワーキンググループの結論といえるかと思います。となると、学びの場として「教室以外の選択肢」が用意されるのも必然です。問題は「餅は餅屋」というようにレイヤーごとに別の組織や団体が役割を引き受けた場合、レイヤー間をどのようにつないで子どもたちの全人的な成長を確認していくか、ということです。つまり、各レイヤーがばらばらになって、それぞれが独自の路線を歩んでは、全人的な育みを達成するどころか、トンデモナイことになってしまいます。

「それこそ教員の仕事でしょう!」ということになると、教員に新たな負担がかかることになります。しかも「タテ社会」的な傾向の強い学校社会になじんできた教員にとっては、「ヨコ」の関係にある人々との周到な連携が求められる業務は大きなストレスをともなうものです。上図の下には、レイヤー構造の課題も以下のように書かれています。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

×印のついた学びの時間的・空間的な多様化による教育機能の低下という懸念に対して、①子供の学びを教師が把握し、伴走する、②協働的な学びの場を確保する、という2つの対応策が書かれていいます。また、学びや活動などの実施主体や責任の所在が不明確になる懸念も示されており、これには「学びの全体(を)学校が把握・支援する」とされています。いずれに対しても、「スタディログ等」を活用することが示されていますが、「スタディログ等」はあくまでもツールであって、中心になるのは教職員や学校です。しかし、前にも触れたように「伴走」を急に求められても、教科指導中心の「教え込み」重視の教員養成の下で育っている教員が、急に「伴走者」に変身できるわけではありませんし、学校が学びの全体を把握・支援するように求められると、実際に各レイヤーからの情報を収集し、整理し、さらに各レイヤーに発信するという業務が新たに学校、教職員に加わることになります。

これまでの学校の枠組みや、これまでの教員が教員養成や研修で学んできたものとはまったく異なるものが求められているように感じますが、その点についての具体的な言及は現段階ではみあたりません。この「教室以外の選択肢とレイヤー構造」の構想を進める以上、同時に各レイヤーと密接な連携を図ったり、各レイヤーを束ねたりするプロフェッショナルなコーディネーターは不可欠です。そのようなコーディネーターの養成こそ最優先で取り組むべき課題であろうと思われます。

<政策2>探究・STEAM教育を社会全体で支えるエコシステムの確立

この政策2では、探究とSTEAM教育は併記されていますが、探究についてはこれまでも中教審答申や学習指導要領の改訂で度々言及されてきたので説明する必要もないかと思います。STEAM教育については、まだなじみが薄いので少し補足しておきます。

STEAM教育については、2021年1月の中教審答申「「令和の日本型学校教育」の構築に向けて」の本文の56ページでかなり詳細に説明がなされています。そこでは、「教育再生実行会議第11次提言において,幅広い分野で新しい価値を提供できる人材を養成することができるよう,新学習指導要領において充実されたプログラミングやデータサイエンスに関する教育,統計教育に加え,STEAM教育の推進が提言された」とあります。2019年1月に示された教育再生実行会議第11次提言の中間まとめにも、一か所STEAM教育に触れた記述があるので、2018年には教育再生実行会議内でSTEAM教育に関する議論が活発化していたと推定できます。

筆者がSTEAM教育を初めて知ったのは、2011年12月にソウルの梨花大学で開催された韓国環境教育学会の下半期学術大会でした。「緑色成長と環境教育」というテーマで開催された学術大会の第1部では、開会式に先だち9件の口頭発表が行われました。そこで筆者が注目したのが、3件の発表に「STEAM教育」「STEAM授業」という用語があったことです。昼食時に韓国におけるSTEAM教育の提唱者であった金ジンス氏(韓国教員大学技術教育科教授、韓国技術教育学会会長)に声をかけてSTEAM教育を広めようとする理由を訊ねると、理数系忌避の傾向のある韓国の青少年を新たな教育手法で理数系に引き戻す意図があるという返答でした。通訳をしてもらった元鍾彬氏(学習院大学非常勤講師)によると、当時、STEAM教育についての研究を支援していたのは、教育府の外郭団体である「韓国科学創意財団」で、STEAM教育に関心を高めていたグループは科学教育(理科教育)のグループだったとのことでした。

STEAM教育は、以前からあったSTEM教育にArtのAが付加されたものですが、Artについては、「芸術」と捉える見方と「リベラルアーツ」(≒教養科目群)と捉える見方があります。「リベラルアーツ」には幅広く色々な分野をカバーするイメージがあるのに対し、「芸術」というと何か一つのこと究めるというイメージです。前述の中島さち子氏の場合、ジャズピアニストとして音楽というArt(芸術)を究めることが数学的な創造力にむすびついたのかと想像したくなります。しかし、中島氏が立ち上げたsteAmのホームページでは「アート・リベラルアーツ(Art/Arts)」と双方を併記しています。キックオフ・ミーティングで資料として示された「経済界から見たSociety5.0に求められる人材の能力」(下図参照:ただし、簡略化された図ではなく、原図を転載)では、「論理的思考力」や「規範的判断力」を涵養するという意味を持つものとしてリベラルアーツ教育が書き込まれています。

経済団体連合会 http://分科会の中間とりまとめ (keidanren.or.jp)

〈中間まとめ〉では、このArtについて 「問いを立て、デザインする力を軸にした、芸術、文化、生活、経済、法律、政治、倫理等を含めた広い範囲」と定義しています。この定義は、STEAM教育を最初に提唱したとされるジョーゼット・ヤクマン(Georgette Yakman)の“ST∑@M Education: an overview of creating a model of integrative education“(2008)という論文で示されたArtsの概念とほぼ一致しています。ヤクマンが概念的に示したSTEAM教育のピラミッド構造図(下図左)を細かく見ると(下図右)、リベラルアーツよりもさらに広く捉えている。しかし、ヤクマンの論文では、STEAMを「科学、技術、工学、芸術、数学の伝統的な学問分野(サイロ)を、統合的なカリキュラムにするために、いかに一つのフレームワークに構造化できるか、という開発中の教育モデル( a developing educational model of how the traditional academic subjects (silos) of science, technology, engineering, arts and mathematics can be structured into a framework by which to plan integrative curricula.)」と説明しており、Artsの内容が何であるかよりも、学問領域や教科が個別の教育内容となっている姿を、統合的なカリキュラムにすることにより大きな関心を向けていることがわかります。ヤクマンのピラミッド構造図の加筆されたバージョンではピラミッドの左側にContent Specific(個々の内容)→Discipline Specific(個々の学問領域)→Multidisciplinary(学際的)→Integrative(統合的)と書き込まれています。頂上付近には、当初から“Life-long” ”Holistic”と書き込まれており、社会の進展と共により上位に移行する必要があることを示しています。

STEAMについてのヤクマンのピラミッド構造図
上図の一部拡大図

となると、文部科学省が、「STEAM教育等の教科等横断的な学習の推進について」(令和3年?)の中でヤクマンの図を示しているのも、STEAM教育の推進を通して「教科の壁を低くする」という方向へ進めようとしているとも受け取れます。〈政策1〉の「時間」と「空間」の多様化を示した図の「教科」の欄の右側には、「教科等横断・探究・STEAM」という表題が掲げられ、その説明欄には、「教科の本質の学びとともに、教科の枠組みを超えた実社会に活きる学びを」と書かれています。「教科の本質の学びとともに」とは書かれていますが、これまでも言われてきた教科等横断・探究に、さらにSTEAMを加えることで、理系重視の印象を与えるとともに、教科の持つ比重を減らして教科の壁を低くする方向を意図しているようにも思われます。

この政策の表題にある「エコシステム」についても、筆者の専門領域に近い概念であるので補足しておきます。エコシステムは、エコロジカル・システム(ecological system)の短縮形で、日本語では生態系と訳されています。ある範囲に生息するすべての生物が、それらを取り巻く大気や水、土壌などの環境あるいは生物同士が相互に複雑に影響し合っているシステムを指すのが本来の意味です。様々な生物同士の食物連鎖/食物網(food chain/food web)などを連想してもらえるとよいでしょう。生態系が安定していることが望ましいという考え方から「エコロジカル」に「生態系に好ましい」⇒「環境に悪影響を与えない」という意味が派生し、いわゆる「エコ=環境にやさしい」が定着していきました。

近年「人新世(じんしんせい、ひとしんせい)」という用語が一般化してきているように、人類の活動が他の生物や環境に及ぼす影響が巨大となり、また、人類集団同士の相互関係が重大な関心事になると、Human Ecological System(人文生態系)という言葉も使われ始め、それを短縮したHuman Ecosystemという概念も生まれました。しかし、この概念がビジネスを中心とする一世界に広がると、Humanが付されずともエコシステムがもっぱら人類集団、特に企業や団体同士の相互関係に用いられるようになり、しかも、それらが相互依存の関係にあり、さらには協力関係の構築によって相乗効果が発揮される状況を指す用語として定着してきています。

ややエコシステムの説明が長くなりましたが、この政策2の「探究・STEAM教育を社会全体で支えるエコシステムの確立」の<目指すイメージ①>に描かれたエコシステムの構成母体を列記した図(下図)に書かれた説明を見ると、コーディネートや「つなぐ」が散見されるだけでなく、つなぐ人材≒コーディネーターの存在が前提となっているものが少なくありません。繰り返しになりますが、エコシステムの確立に不可欠やつなぎ役・コーディネーターの早急な養成が望まれます。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

【政策3】文理分断からの脱却・理数系の学びに関するジェンダーギャップの解消

〈政策3〉は「文理分断からの脱却」と「理数系の学びに関するジェンダーギャップの解消」の2項目からなっていますが、この政策に当てられたスライドは1枚のみで、しかも添えられた図は、学校段階が上がるにしたがって理系の比率が減少し、大学院への進学者が極めて少なくなることを示した下図のみです。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf
http://B章 教育への支出と人的資源:文部科学省 (mext.go.jp)

修士課程進学者も博士課程進学者も文系の大学卒業者では比率が低いので、学部段階での文系学生比率が高いことと、理系であっても大学院進学後の経済的な不安等が重なってこのような姿になっており、このことが冒頭に掲げた博士号取得者の伸び悩みや研究開発力の低下に結びついています。

このような結果になった理由は多々あるであるでしょうが、このスライドの「現状・課題」では触れられていない重要な理由があると考えています。それは、高等教育機関に対する教育支出に占める私費負担の割合が過去20数年にわたってOECD諸国中でも最低に近い水準であったことです。高等教育の教育費に対する公財政負担は2000年以降さらに低下し、2003年の国立大学の大学法人化以降、国立大学法人に対する運営費交付金は以後10年間毎年1%以上減額されました。そして、2015年には、大学教育への公財政負担がGDPに占める割合はOECD諸国平均の3分の1以下の0.5%にまで落ち込んでいます。OECD諸国では最低です。

日本の私費による教育費負担としては、小中学生の塾通いなどもあります。しかし、より大きな教育費の私費負担は、大学進学に伴う学費等の負担です。大学教育の相当部分が公的支出ではなく、学生あるいはその家庭の負担となっています。その結果、とりわけ収容学生比率で8割を占める私立大学では、マスプロ授業が可能で低い授業料を設定できる人文社会系の学部の入学定員を増やして収益の増加を図っていきました。大学の授業料を無償とする国は少なくありません。そのような国の場合、国家にとって必要な人材を考慮し、分野ごとの入学定員を決めることが可能です。これからは熾烈な理数系のイノベーション競争が展開され、それが国力や国民の豊かさを左右すると認識すれば、理数系の大学入学者比率を増やすことができます。しかし、日本のような大学進学にかかる費用の大部分を私費負担とすると、そして私立大学の営利優先を容認すると、学費が割安で済み、かつ大学としては収益の大きい人文社会系の入学者比率はじわじわと上昇することになっていきます。そして大学設置基準が新構想大学の新規参入を阻むことで、既存私立大学の既得権益を保護し、生き残りを助けているのが実態です。

ほかにも国際競争力低下の大きな要因となっている理系人材の先細りの理由は色々あるが、何よりも、国が高等教育を軽視してきたことが、今になって大きなしっぺ返しを受けているように思われます。

まとめ

教育・人材育成ワーキンググループの〈中間まとめ〉の記述内容を繰り返し確認し、補足的な説明を書きながら、提出された政策パッケージを実現するうえで何が最も重要で、今からすぐにでも着手すべきことは何かを考えてきました。これまでの記述でもかなり触れてきましたが、以下にまとめると

①学校と学外の様々なレイヤーをつなぐコーディネーターを相当規模で養成する仕組みづくりと早期の稼働、そしてコーディネーターに対する十分な報酬の確保

②72年以上にわたってマイナーチェンジで済ませてきた教科中心に構成された教育職員免許法の抜本的改革と、その際に求められる新たな領域に関連する人材の緊急育成

③中教審答申「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」(2018年11月)に掲げられた「大学設置基準の抜本的改訂」として本当に求められている事柄の早期実施

の3点です。

①については、全国の教職課程設置大学に潤沢な助成金を準備して「教育コーディネーター養成コース」設置を促すとともに、コースのカリキュラム開発を同時に進め、まさにアジャイルに(機敏に)かつ柔軟により効果的なカリキュラムにブラッシュアップさせていくべきでしょう。この①に関連することとして心配なことは、既存の教職員集団が、それまでの学校にいなかった教職員以外のメンバーの加入に前向きでない姿勢が現れることです。「タテ社会」と言われる日本の社会の中でも、学校は「タテ社会」色が濃い傾向があります。新規加入者をしっかりと自分たちの仲間として受け入れるためには、既存の教職員集団に日ごろからヨコの関係を広げるように促すことが有効ではないかと思っています。長期休暇期間中は、なるべく学校外での活動を奨励するのも大事だと思っています。また、コーディネーターという立場を理解するために、教員免許取得要件に、介護等の体験の義務化と同様に、コーディネーター等の体験を組み入れることも有効かもしれません。このような措置も同時に組み入れた制度設計が求められると思っています。

②については、2021年3月に文科大臣より中教審に対して「「令和の日本型学校教育」を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について」が諮問され、目下、中教審初等中等教育分科会教員養成部会を中心に議論がなされています。ただ残念ながら、下図のように「③教員免許の在り方・教員免許更新制の抜本的な見直し」が諮問されているのですが、これまでの経緯のしがらみにとらわれており、現時点では、抜本的な改訂の議論が進んでいるようには思われません。

https://www.mext.go.jp/content/20210312-mxt_kyoikujinzai01-000013426-2.pdf


例えば、教員養成部会が公開している最新の「配布資料」(2021年6月開催分)では、廃止が決まった免許更新講習や教員養成フラッグシップ大学構想あるいは教職課程コアカリキュラム(案)などの資料が並んでおり、その後の会議での議事録を眺めても、この教員・人材育成ワーキンググループでの議論との大きなギャップを感じさせられます。

③の高等教育改革についても、地域の活性化に資する大学が求められているにもかかわらず、文科省や中教審主導の改革は活発ではありません。中教審の高等教育分科会や文科省の高等教育局での「大学設置基準の抜本的改訂」に関する議論が進展しないことに業を煮やしたのか、内閣府が2021年8月に「地域中核・特色ある研究大学総合振興パッケージ」構想を打ち出しています。

このような府省庁に置かれる審議会等の会議体では、いわゆる学識経験者が相当部分を占めます。文部科学省に関わる会議体の場合は、そのような学識経験者が利害関係の当事者であったり、利害関係のある組織からの被推薦者であったりする比率が高くなります。となると、そのような会議体からの答申や報告等には、利益誘導的であったり守旧的な要素が多くなります。この構造的な問題は、社会の変化が著しく、早急かつ的確な対応が求められる現代社会にとってはかなり深刻なことです。内閣府が今後とも教育・人材育成政策の主導権を握るのはやむをえないことと思わざるをえません。

しかし、その際も会議等の方向付けの準備をする事務局側の未来社会に対する確かな見通しが求められることになります。また、内閣府が教育・人材育成政策の大きな方向性を定めた後の、「具体の検討・実施体制」は関連省庁が中心になって進めることになります。今回提示されたロードマップでは複数の省庁の連携の下で進められるものもありますが、特に文科省単体で進めるものも半分ほどあります。既存の政策との調整が求められるものもありますし、新たな会議体を設けて議論を深め、制度改正を目指すものもあります。

そのような中で注目したいのは、中央教育審議会初等中等教育分科会の下に、「個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実に向けた学校教育の在り方に関する特別部会」が設けられ、今月(2022年2月)から「教育課程の在り方の見直し」や「学校の役割、教職員配置や勤務の在り方の見直し」、「子供の状況に応じた多様な学びの場の確保」という、とりわけ大きな課題の具体施策の策定に関わることになった点です。しかも、その特別部会の委員11名のうち5名が、教育・人材育成ワーキンググループの中心メンバーであることです。もともと中教審側から教育・人材育成ワーキンググループに入ったメンバーですので、不思議でも何でもありませんが、政策をぶれることなくしっかりと進めていくという意気込みを感じさせられます。引き続き内閣府主導の教育・人材育成改革に期待するとともに、改革の実行ぶりを見まもりつつ応援していきたいと思っています。

(いったん完了)

2022年2月15日

内閣府 教育・人材育成ワーキンググループの〈中間まとめ〉に対する雑感(前半)

教育・人材育成政策の主導権が文科省から内閣府に

内閣府の「総合科学技術・イノベーション会議」の下に2021年8月に設置された教育・人材育成ワーキンググループが、2021年末に「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」と題する〈中間まとめ〉を公表しました。3月に〈最終まとめ(案)〉を取り纏め、4月には総合科学技術・イノベーション会議に諮るスケジュールとなっています。そこでの議論を経て、この政策パッケージに描かれた「教育・人材育成」に関する施策が、ロードマップに基づいて推進されていく見込みです。

「教育・人材育成」というと文部科学省の専管事項を思われがちですが、2021年の春ごろから様相が変わってきています。一言でいえば、初等中等教育にも及ぶ教育政策の主導権が文科省から内閣府に移動しつつあるという印象を受けます。この流れは、内閣府に設置されていた「総合科学技術会議」が2014年に「総合科学技術・イノベーション会議」と改称されたころから水面下では進行していたのでしょうが、内閣府が教育・人材育成政策の策定の主役として表舞台に出てきたのは、2021年の春からです。Society5.0 で注目を集めた「第5期科学技術基本計画」(2016年度~2020年度)が終了し、2021年度以降の後継基本計画は、「第6期科学技術・イノベーション基本計画」と名称が変えられました。それとともに、それまでの科学技術基本計画の基本に据えられていた大学や研究機関、企業における科学技術の振興・発展に加えて、「一人ひとりの多様な幸せと課題への挑戦を実現する教育・人材育成」が科学技術・イノベーション政策の三本柱の一つに加えられました。そこでは、「探究力と学び続ける姿勢を強化する教育・人材育成システムへの転換」を図ることで、「初等中等教育段階からのSTEAM教育やGIGAスクール構想の推進、教師の負担軽減」などを実現するという目標が設定されています。

「府省庁の連携」、すなわち内閣府と関連省庁の連携を前提としていますが、新たな教育・人材育成システムの確立と移行は、文部科学省ではなく内閣府が主導することが、「第6期科学技術・イノベーション基本計画」の閣議決定(2021年3月末)によって、政府内の了解事項となったと言えます。そのような流れの中で、内閣府の総合科学技術・イノベーション会議の下に教育・人材育成ワーキンググループが設けられ、8月のキックオフ・ミーティングの後に9月から延5回の会議を経て、〈中間まとめ〉の公表にいたっています。 では一体なぜ、教育・人材育成政策の主導権が文部科学省から内閣府に移ったのでしょうか。一言でいえば、教育・人材育成政策をこれまで通り文部科学省に任せていたのでは、世界の熾烈なイノベーション競争から完全に取り残されてしまう、という危機感があったからでしょう。下図は、第6期科学技術・イノベーション基本計画の発足時に内閣府が参考指標として提示したもので、主要国の博士号取得者比率が右肩上がりを示す中で、日本の博士号取得者比率が低迷していることがはっきりと表れています。配布予算の「選択と集中」や、短期的な成果とアカウンタビリティ(説明責任)を求める短絡的な評価制度の下で、過去30年間、大部分の博士課程の院生やポスドクにとって、待遇や研究職就職可能性などの広い意味での研究環境が悪化の一途を辿った結果といえます。文科省の高等教育政策の責任だけではなく、教育や人材育成に関する長期的な展望を持ちえなかった国全体の政策の責任も大きいと言わざるをえません。

第6期科学技術・イノベーション基本計画 主要指標・参考指標データ集(2021年3月時点)

この下図も同じ参考指標集に収められたものですが、よほど強調しておきたかったのでしょうか同じ図が2回も提示されています。根拠となっている多岐にわたる指標が「経済状況」「政府効率性」「ビジネス効率性」「インフラ」の4つに大きく分類されていることからもわかるように、経済的な競争力という意味は、経済に関わる統計の数値と経営層へのアンケートを総合した順位です。従来は日本の強みとされてきた研究開発力はインフラの範疇に含まれますが、近年はその評価も、特に、経営層へのアンケート結果では急速に下がってきています。(参照:IMD「世界競争力年鑑2020」からみる日本の競争力 第3回:統計と経営層の意識の乖離から競争力改善ポイントを探るIMD世界競争力ランキングの特徴 | IMD「世界競争力年鑑」からみる日本の競争力 | 三菱総合研究所(MRI)

IMD「世界競争力年鑑」日本の競争力の推移(第6期科学技術・イノベーション基本計画 主要指標・参考指標データ集(2021年3月時点)より)

教育・人材育成ワーキンググループの役割

この〈中間まとめ〉の全体についての紹介に先立って、このワーキンググループの役割について確認しておきたます。ワーキンググループのキックオフ・ミーティング時の「共通認識」(案)には以下のように書かれています。

「求められる⼈材像や資質・能⼒等についての議論」の蓄積を踏まえ、あるべき論を語るフェーズを脱し、⼦供の学びを確実に変えていく「実⾏フェーズ」に本格的に突⼊するための「具体策」を検討⇒提案」

つまり、「あるべき論」ではなく、⼦供の学びを確実に変えていくには何をどう「実行」すればよいのかを検討し提案することがこのワーキンググループの役割です。そのために、さらに「今後5〜10年の制度の改善やリソースの確保・ 再配置といった政策的な⽅向性を整理」し、「府省等や関係者が確実に取り組むための⾒取り図を提⽰することを⽬指す。(改⾰の理念ではなく、関係者の⾏動変容に確実に結び付く仕掛けの構築を⽬指す)」と書かれています。

改善のためのリソース(予算や人員などの資源)を確保し、関係者が確実に取り組む仕掛けを構築する(下線部は筆者)、という記述は、従来の政府関係の「あるべき論」に終始する検討委員会とは異なる意気込みを感じさせるものです。そして、実際に9月から11月にかけて開催されたワーキンググループの会議では、実行に不可欠な「時間」「人材」「財源」にそれぞれテーマを絞って検討を進めています。

この従来にない「意気込み」の源泉は一体何に由来するのでしょうか。前述の国際的な競争力低下に対する危機感が背後にあることは間違いありません。それとともに、内閣府の持つ〇兆円という潤沢な裁量可能予算と、各省庁の過去のしがらみにとらわれる必要のない自由度も、「意気込み」に反映されているように感じます。

ワーキンググループの未来志向と若手メンバー

新たな教育・人材育成システムの在り方の検討を託された教育・人材育成ワーキンググループが取りまとめた政策パッケージ案自身の特記すべき点についてはあとで述べますが、全体を通して、従来の教育行政に関わる審議会や検討会の報告や提案に見え隠れする「利益誘導くささ」や「利権固守姿勢」が希薄で、未来志向が前面に出ている印象を受けます。その理由の一つは若手メンバーの登用と言ってよいでしょう。そこで、まずこのワーキンググループのメンバーについて述べておきます。

教育・人材育成ワーキンググループは、母体である総合科学技術・イノベーション会議のメンバーから8人、中央教育審議会と産業構造審議会から9人の計17人で構成されていますが、この間の議論を主導してきたのは後者の9人です。その9人のうち5人が45歳未満の、広い意味での教育に関わる世界ですでに大きな実績を示している若手、言い換えると、現実の世界でどのような仕掛けを設ければ着実な成果に結びつくのかについて、経験を通して会得している若手です。

この5人のうち、今村久美氏と岩本悠氏の二人は、拙著『学校教育3.0』(2018年、三恵社)で、持続可能社会型教育システムをすでに具体化し始めている事例として取り上げた一般財団法人「地域・教育魅力化プラットフォーム」(2017年設立)の共同代表者です。今村氏は、認定NPO法人カタリバの代表理事で、カタリバという名称は、ボランティアの学生とともに高校に出向いて、高校生たちとの「本音の対話」を生み出す活動を「カタリバ」と称したことに由来しています。その後、東日本大震災の被災地などで、中高生に対する様々な学習支援活動を行っており、本ワーキンググループの会議でも、各地の中高生の実態に即した施策の必要性を述べています。

岩本悠氏は廃校寸前の島根県隠岐島前高校に島留学制度などを導入することで入学者のVカーブ増を実現した立役者で、島根県教育魅力化特命官として地域の学校の新しい在り方を提案してきています。特に地方の高校が探究的な学びを深めていく上では、学校と地域と地域を繋ぐコーディネーターが不可欠として自治体に働きかけ、島根県では30数校に50人以上のコーディネーターを配置するに至っています。

他の3人も簡単に紹介すると、木村健太氏は広尾学園中学校・高等学校の医進・サイエンスコース統括長として、広尾学園の知名度と偏差値を一挙に高め、隠岐島前高校と同様に志願者のVカーブ増を実現させています。中高の探究型の授業で大学・大学院レベルの「研究」を課すことで、生徒自身の学びに向かう意欲が格段に高まることを自らの実践・実績に基づいて主張しています。ちなみに、2013年4月から6年間同校の校長を務め、『奇跡の学校―広尾学園の挑戦』を2019年3月の退任時に刊行した田邉裕氏は、約50年前の筆者の修士課程時代の指導教官です。

中島さち子氏は、本ワーキンググループが提示する政策パッケージの一つの柱のSTEAM(Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Art(芸術・リベラルアーツ)、Mathematics(数学))教育に関わるワークショップや講演、研修、コンサル、プログラム開発を手掛ける株式会社steAmの代表です。数学者でありジャズピアニストでもあるので、自らがSTEAM教育の有効性を実証していると言えそうです。社名のAを大文字にしているのは、中でもとりわけArtが重要ですよ、というメッセージなのでしょう。

最年少の松田悠介氏は、独自の研修を受けた教師(フェロー)を学校に2年間赴任させるフェローシップ・プログラムを運営する認定 NPO 法人 Teach For Japan の創業者です。Teach For Japanの基本的なアイディアは、アメリカで20年以上の実績を持つTeach For Americaに由来しています。2年間の学校赴任を経験したフェローのうち6割近くは教職を続けていますが、4割以上は学校以外の職に転身しているとのことです。アラムナイ(同窓生)が「教育現場のみならず、行政機関、企業など、社会の様々な分野に広く輩出することでネットワークを構築し、社会全体で教育課題を解決する仕組みを創造」する、という同NPO法人の狙いに沿った活動をしていると言えます。社会の変化に取り残された感のある硬直した教員養成制度、教員免許制度の下で、未来志向の教員を教育界に送り出すだけでなく、「社会に開かれた教育課程」の実現に不可欠な社会側の体制づくりという点でも新しい興味深い活動と思います。

多くの審議会等では、おおむね50歳以上の何らかの組織や団体の代表者に学識経験者が加わるという傾向がありますが30年後、40年後も持続可能な社会でなければ困る当事者である40歳台前半以下のメンバーを登用したことは十分に評価できます。また、教育関係の審議会等で重用され、これまでの教育政策に大きな影響力を発揮した教員養成系大学の関係者が参加していない点も、このワーキンググループの大きな特色と言えます。

政策パッケージの構成と、目的および作成方針

教育・人材育成ワーキンググループが提示した本〈中間まとめ〉は、今年の1月の意見聴取によって若干の修正がありえますが、今後大きく変更されることはないという前提で、これ以降は「政策パッケージ」という記述で進めていきます。

政策パッケージは、

0.政策パッケージの位置付け

1.社会構造と子供たちを取り巻く環境の変化

2.教育・人材育成システムの転換の方向性

3.3本の政策と実現に向けたロードマップ

で構成されています。

中心をなすのは、以下の3つのテーマに関する政策を提示した「3.3本の政策と実現に向けたロードマップ」です。

<政策1>子供の特性を重視した学びの「時間」と「空間」の多様化

<政策2>探究・STEAM教育を社会全体で支えるエコシステムの確立

<政策3>文理分断からの脱却・理数系の学びに関するジェンダーギャップの解消

ただし、この3つの政策で必要十分というわけではないので、同様の大きなテーマに沿った政策が今後も打ち出されてくると考えるべきでしょう。そう考えると、「3.3本の政策と実現に向けたロードマップ」とともに、「0.政策パッケージの位置付け」の中で前置き的に書かれた作成方針や未来社会像、そして「1.社会構造と子供たちを取り巻く環境の変化」に書き込まれた認識が重要な意味を持つので、その部分も少し丁寧に見ておきます。 「0.政策パッケージの位置付け」では、冒頭で、策定目的を、「今後5年程度という時間軸のなかで子供たちの学習環境をどのように整えていくのか、各府省を超えて政府全体としてどのように政策を展開していくのか、そのロードマップの作成を目指すこと」とし、その部分にアンダーラインを付して明示しています。興味深いのは、同じPPTシートの最下段に(本パッケージの作成方針)として、以下のように5つの方針をロゴマーク付きで掲げている点です。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

「Demand side(需要者側)」「スキーム(枠組み)」「アジャイルに(機敏に)」といった、一般社会ではまだまだ認知度の低い用語が散見されるものの、全体としては、文字の羅列ではなく、PPT方式でポンチ絵やグラフをふんだんに使っており、視覚的にも「わかりやすく」を意識したものであることは間違いありません。

作成方針として特に重要なのは最初の3つでしょう。

最初の「Supply Side行政から脱却し、Demand Side行政への転換を」は、マーケティングなどの世界では50年以上も前に、生産者本位の製品アピールから消費者の満足重視への転換(F.コトラーの用語ではマーケティング2.0)がはじまっています。遅まきながら教育行政でもようやく本気でDemand Sideに立たねばないことに気付いたということでしょう。2021年9月に『環境教育』誌の編集委員として、文科省の白井俊教育制度改革室長にインタビューした際に、次期学習指導要領の策定に当たっては、子どもたちの意見も十分にくみ取る予定との発言がありました。Demand Sideへの転換が文科省内に浸透し始めていることの証と受け取りました。ただし、こと教育に関しては、製品の売買以上に、消費者の自己中心的な要望が過激に押し寄せがちですので、Demand Side 一辺倒では足元を掬われる可能性もあります。Supply SideとDemand Sideの両者が納得する解を見い出すことは難しいことです。しかも現実にはVUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)が増大する時代です。長期的な視点からも限りなく「正解」に近いものを準備しておくことは至難の業で、そこで、アジャイル(機敏)な軌道修正を前提として政策を発出していくことが現実的となります。

2番目の「既存スキームに囚われない」で注目すべき点は、説明文中にある「府省庁横断的・オールジャパンな視点で」でしょう。「従来から指摘されてきた省庁間の縦割り行政を打破するためにも内閣府主導で政策パッケージを提示するのですよ!」という予防線的なニュアンスもありますが、政策パッケージの本体を見ていくと、確かに文部科学省単独ではこういう発想にはならないだろうというものがいくつか登場しています。

3番目の「社会構造全体を俯瞰して」の説明文には、「初等中等教育~高等教育、その後の社会」という文言があります。教育行政を内閣府主導にする必要があった背景がここに凝縮されています。文部科学省内では、初等中等教育局、高等教育局、生涯学習局と分断され、互いの風通しが悪いようです。しかし、探究的な学習やSTEAM教育を充実したものにするには、幼少時からの一貫した教育体制が求められます。また、実りある生涯学習社会を構築するには、高等教育との連携は欠かせません。少子化による空き教室の活用を考えると、初等中等教育と生涯学習との連携も欠かせません。このように学校種の切れ目をなくし、学校教育と社会教育や生涯学習の有機的な連携を進めるには、文部科学省だけでは困難です。少子高齢化も社会全体の情報化や国際化も視野に入れた連携体制が求められています。

筆者は、これからの地域社会における教育体系のあるべき姿を「地域の学習共同体」と捉え、NPO法人八ヶ岳SDGsスクールのHPに「「地域の学習共同体」への道」というブログを2021年9月13日にアップしました。そこで示した図を以下に再掲します。地域の様々な人々や組織に支えられた生涯にわたる学習体系を表現したつもりです。このような視点からも学校種による分断の解消が求められていますし、地域の経済界その他からの支援も不可欠な時代になっていると感じています。

(原図:諏訪哲郎)

政策パッケージ案が目指す未来社会像

政策パッケージは、目指す未来社会像として以下のポンチ絵を示しています。キャッチコピーと簡潔な説明で示しているので、作成方針に示された「わかりやすさ」があります。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/5kai/siryo2.pdf

その反面、もう少し丁寧に説明してもらわないと混乱するという面もあります。例えば、▼印の下の「3本の政策の柱」は、政策パッケージが提示する3本の政策ではなく、第6期科学技術・イノベーション基本計画が掲げた3本の政策の柱で、大きなフォントで表した右側が、このワーキンググループが検討する主な対象です。

ここでまず注目したいのは、Well-beingが3回も書かれている点です。Well-beingは、具体性が曖昧である分、使い勝手の良い、国際的な流行語的な印象がありますが、従来の経済的な価値ばかりを重視する考え方とは違いますよ、というニュアンスもあり、一概に否定しがたいと感じています。

Well-beingはOECDのラーニング・コンパス2030の最終ゴールにも設定されています。OECDによる解説文書では、個人の幸せ(≒心身ともに健康で充実した生)としてのWell-being以上に、社会的なWell-being(≒持続可能で公平・公正な社会)の重要性が強調されている印象を受けましたが、上図左側のグレー枠のキャッチコピーにある「持続可能で強靭な社会」は、まさに社会的なWell-beingの必須要件とも言えます。

Sustainable Development概念の変遷をフォローしてきた立場から少しばかり突っ込みを入れたくなるのが、【持続可能性の確保】の2番目に書かれいる「現世代のニーズを満たし、将来の世代が豊かに生きていける社会の実現」です。この文言は、1987年のブルントラント委員会報告書『我ら共有の未来』(Our Common Future)が提示したSustainable Developmentに対する定義「将来世代のニーズを損なうことなく現在の世代のニーズを満たす開発」を踏襲していると思われます。しかし、その時代のDevelopmentは資源の開発が強く意識されていました。その後の世界のSustainable Developmentに関する議論の中で、資源の「開発」のニュアンスは薄くなり、各主体が連携協力してよりよい姿に変えていく社会的な「発展」がより重要との認識に変わっていきました。そのような変化を踏まえて、中国や韓国では2000年頃からSustainable Developmentに対する訳語は「持続可能な発展」がもっぱら使われるようになって、「持続可能な開発」とは言わなくなっています。また、「現世代のニーズを満たし、将来の世代が豊かに生きていける社会の実現」という表現は、Our Common Futureの原文以上に「現代の世代のニーズを満たす」ことに対する許容度が高い記述となっています。SDGsの達成が世界の共通の目標となり、国連IPCCの「第6次評価報告書」が地球温暖化の原因を「人間の活動によるもの」と断定し、ラトゥーシュの『脱成長論』などによって、「現代の世代のニーズを満たす」ことを続けていては、持続可能な未来は描けない、という見方が世界的にも広がってきています。そういう中での「現世代のニーズを満たし、将来の世代が豊かに生きていける社会の実現」は、「現代の世代」中心の表現と言わざるを得ません。

その一方で、評価したい部分もあります。ピンク色で表示した「一人ひとりの多様な幸せ(Well-being)」という表題に、「多様な」が付加されている点と、その枠の最後で「コミュニティにおける自らの存在を常に肯定し・・・」と、あえて「コミュニティ」を書き込んでいる点です。「多様な」については、これまでの学校教育の「画一性」が多様な個性に対応できていないことに対する反省が込められています。また、「コミュニティ」には「地域とともにある学校」に通じるものがあります。「一人ひとりの多様な幸せ」を実現するには、健全に機能するコミュニティ、すなわち地域社会のWell-beingも不可欠という認識に基づくのであろうと受け取っています。Society5.0 というと、とかくAIやロボットが大活躍することで便利さと物質的な豊かさがもたらされる世界と受け止められがちです。しかし、図の下の2行で、「多様性」「公正や個人の尊厳」「多様な幸せ(Well-being)」の価値をSociety5.0の中核と言い切っていることは、特に注目べきでしょう。

1.社会構造と子供たちを取り巻く環境の変化

政策パッケージは、以上のような前置き的な記述に続いて、「1.社会構造と子供たちを取り巻く環境の変化」として、いくつかの事柄を11枚のスライドで説明しています。ただしその3分の2は、具体的な3つの政策の必然性を示す説明資料的なもので、特にここで取り上げたいのは最初の3枚です。

1枚目の「社会構造の変化 必要となる思考・発想の変化」では、これまでの工業化社会を特徴づけていた「大量生産・大量消費」「縦割り」「自前主義」「新卒一括採用・年功序列」に代わって、DX(デジタルトランスフォーメーション)が進行するこれからの時代には「新たな価値の創造」「レイヤー構造」「分野・業界を超えた連携」「人材の流動化」が求められる、との認識を示しています。この冒頭の「新たな価値の創造」は、OECDのラーニング・コンパス2030で示された3つの「変革をもたらすコンピテンシー(transformative competencies)」の一つです。「レイヤー構造」については、後述します。

1枚目で興味深いの上記のような社会構造の変化に伴って思考・発想の変化が起こる(求められる?)としている点です。これまでとこれからについて、以下のような対照を示しています。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

このうち、下段の「身内で」から「よそ者と」については、政策パッケージ全体を通して、繰り返し強調されていることです。これからの学校教育の世界では、この「よそ者と」協働することが非常に重要になるため、随所で言及していますが、日本の教育界にしっかりと根を張っている「タテ社会」が大きな障害になるのではないかと危惧しています。

次に取り上げられているのが、「デジタル社会における子供たちを取り巻く環境」です。中高生のみならず、小学生もスマホを持ち、毎日何時間もスマホの画面に目を向けているのが当たり前の時代となっています。そのような社会の変化の中で、経済産業省サイドでは「未来の教室 ラーニング・イノベーション」というサイトを立ち上げ、またEducation(教育)とTechnology(技術)を組み合わせたEdTech(エドテック)の名のもとに、デジタル社会へ一目散に進もうという姿勢が顕著です。文部科学省もコロナ禍の中で遠隔授業がスムーズに進まなかったことから、タブレット端末を一人1台確保する「GIGAスクール構想」の前倒し実施を進めてきました。しかし、この政策パッケージでは、ICTの基盤の整備は不可欠であるが、同時に負の側面への警戒も怠っていません。デジタル機器の爆発的普及の影の部分に対して、以下のように「フィルターバブル現象」やSNSを介した「同調圧力」にも言及しています。ただし、有効な具体的な対応策については触れていません。

Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ<中間まとめ> (cao.go.jp)

3番目に取り上げているのが子どもの多様化です。下に転載したポンチ絵に示された「発達障害の可能性のある子供」「特異な才能のある子供」「不登校・不登校傾向の子供」「家にある本が少ない子供」「家で日本語をあまり話さない子供」の数を合計すると、35人学級で延18.4人になります。さらに小さな字で「このほかにも、学校には、病気療養で学校に通えない子供やいわゆるヤングケアラー等、多様な背景や困難さを抱える子供が存在している」と書かれています。これがまさに日本の学校の実態ですが、近年、「発達障害の可能性のある子供」「不登校・不登校傾向の子供」「家で日本語をあまり話さない子供」、ヤングケアラーの比率は増加の一途を辿っています。今の学校が、そして今の先生方が直面している課題は大きすぎると言わざるをえません。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

一方、右下には、「子供たちの特性や関心・意欲は様々」と、得意分野等での多様性も拡大していることが書き込まれています。ハワード・ガードナーの多重知能理論の浸透もあって、従来の画一的な学力評価基準を改める動きも出てきています。ただし、学校や教師による評価基準の主体的な見直しも、今日の枠組みの中ではきわめて困難と言わざるをえません。

「デジタルの力」の強調と相対視

このような課題に対する対応の一つとして期待されているのが「デジタルの力」で、「社会構造と子供たちを取り巻く環境の変化」の4番目に、「(4)「時間」「空間」「地域」「地方格差」の壁を越えるデジタルの力」というスライドを設け、「デジタル基盤の徹底した整備が必要不可欠」としています。コロナ禍の中で、多くの人が「インターネットやZOOMなどのデジタル基盤がなかったら、一体どうなっていたことだろう」と感じたはずです。

しかし、政策パッケージは、学校におけるICTの活用を前面に出しているスタディ・ログや「未来の教室」、「EdTech」とは異なるトーンを感じさせます。一人一台の端末やオンライン環境の整備は情報化社会において「必要不可欠」なものですが、それらはあくまでもツールとしての環境であって、それによって様々な課題が解決に向けて大きく前進するに違いない、というような安直さは見られません。様々な課題を総合的・統合的に俯瞰し、解決のための糸口を色々と組み合わせてよりよい方向を模索しようとしています。

ここで注目したいのは、「新しい資本主義の主役は地方であり、・・・」という記述です。岸田内閣の「新しい資本主義」を引き合いに出しながら、「主役」を「地方」と述べて、東京への一極集中と地方の衰退も同時に解決していかねばならない課題と捉えています。このような情報社会と地域社会の双方を視野に入れた記述は、両者の「二項往還」を提唱している岩本悠氏の考え方が反映されているのではないかと推定しています。参考までに、2020年7月の中教審初等中等教育分科会で岩本悠氏が提示した資料の該当部分を以下に転載します。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

一番下に、「「分担」が「分断」に、「ハイブリッド」が「混乱・乱雑」にならないためにはマネジメント(連携・調整・管理)に関わる機能・人材・体制の強化・充実が必須である。」と書かれている点は重要です。「あるべき論」を脱して、実際に有効に作用する仕組みとするには、「機能・人材・体制の強化・充実」は間違いなく必須といえます。

「STEAM教育の推進」については、「(6)価値創造を高める総合知、分野横断的な学び・STEAM教育の必要性」という項目の中で、下図を示してその重要性を強調しています。STEAM教育については、第6期科学技術・イノベーション基本計画でも言及されており、政策パッケージでは半ば主役の位置に置かれていますが、「STEAM教育の推進」に向けてまっしぐらというトーンではありません。なお、STEAM教育については、〈政策2〉で補足します。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

次のスライドでは、教科等の学びを束ねる総合的な探究(学習)の時間の探究的な見方・考え方を図化して示すとともに、OECDが2019年に提示した「変革をもたらすコンピテンシー」の図を掲載して、これからの時代に求められる社会全体の再設計のための「総合知」を獲得する手段がSTEAM教育だけでないことを示しています。

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kyouikujinzai/chukan.pdf

特に、OECDのEducation 2030プロジェクトについては、2021年1月の中教審答申「令和の日本型学校教育の再構築を目指して」では、「(OECDのEducation 2030)の中で子供 たちがウェルビーイング(Well-being)を実現していくために自ら主体的に目標を設定し,振り返りながら,責任ある行動がとれる力を身に付けることの重要性が指摘されている」という言及にとどまっていました。しかし、政策パッケージでは、Education 2030プロジェクトが2019年に提示したラーニング・コンパス2030の核心ともいえる「変革をもたらすコンピテンシー」を大きく取り上げています。Education 2030プロジェクトは、従来からの知識、スキル、態度・価値観といったコンピテンシーも重要と捉えてるのですが、色使いとその下のこれまでとこれからの対比の効果で、知識、スキル、態度・価値観といったコンピテンシーが、あたかも過去のものであるかのような印象を与えています。この表現が意図的なものなのか、それともたまたま結果的にそういう印象をもたらすことになったのかは、スライド作成者に伺いたいところです。なお、このOECDのラーニング・コンパス2030については、『教育展望』2021年12月号の「提言」欄に「OECDのラーニング・コンパス2030とオーバーロード」という拙文を寄稿したので、参照していただければ幸いです。

以上の「1.社会構造と子供たちを取り巻く環境の変化」に続いて、〈中間まとめ〉では、「2.教育・人材育成システムの転換の方向性」というスライドが1枚だけ入っています。そこに書き込まれた内容は、それ以前のスライドで提示した事柄の要点抜粋と言ってもよい内容で、結論として「Society 5.0の実現のために、学校教育には、次代を切り拓くイノベーションの源泉である創造性と「多様性」「公正や個人の尊厳」「多様な幸せ(well-being)」の価値が両立する「持続可能な社会の創り手」を育むことが求められている」と書かれています。ここにもイノベーション≒理数強化一辺倒ではないですよ、という姿勢が示されています。(前半終了)

2021年12月3日

「SDGs・ラーニング・コンパス2030が描く教育の未来」の動画の収録

ラウンドテーブルの動画収録にいたる経緯

一般社団法人教育調査研究所が企画したラウンドテーブル・ディスカッション「SDGs・ラーニング・コンパス2030が描く教育の未来」の収録が11月25日にZOOM会議形式で行われました。以下のチラシは、2022年1月20日から始まる動画配信の広報用の初校です。配信は有償ですが、同研究所の定期刊行物『教育展望』の定期購読者は無料となっており、今回の企画は定期購読勧誘キャンペーンという側面もあります。しかし、学校教育の新たな展開を教育関係者に早く広く伝えたいという、教育調査研究所の未来志向が反映されているとも感じています。なお、『教育展望』2022年1・2月合併号でも、各参加者の発言をかなり詳しく紹介する予定にはなっていますが、表情から受け取れる無言の同意や、意図的な発言回避までは見抜きづらいと思いますので、動画の視聴をお勧めいたします。

その動画の予告編としての役割を意識しながら、今回のラウンドテーブル・ディスカッションの一端を、画面共有したPPTのごく一部を使って紹介したいと思います。

今回のディスカッションの参加メンバーは、文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課 教育制度改革室長の白井俊氏、学習院大学の栗原清特任教授、国士舘大学の森朋子専任講師、学習院大学教育学専攻の院生内田早紀氏、それに諏訪を加えた5人でした。

白井氏は、2015年から2017年までOECDの教育スキル局アナリストとしてEducation 2030プロジェクトに参画され、2020 年12月には『OECD Education 2030プロジェクトが描く教育の未来』(ミネルヴァ書房)を出版されています。そこで紹介されているEducation 2030プロジェクトが2019年に提示したラーニング・コンパス2030こそ、これからの学校教育を変革し、持続可能な社会の構築に導く重要なものと捉えた筆者は、所属する日本環境教育学会の編集委員会で、白井氏へのインタビュー記事を機関誌『環境教育』に掲載することを提案しました。その提案に全面的に賛同したのが国士舘大学の森朋子氏でした。編集委員会の同意を得、文科省から内閣府に移り、科学技術・イノベーション担当審議官となっている合田哲雄氏に白井氏を紹介していただくことで、森さんと諏訪によるインタビューが9月6日に実現しました。インタビュー記事は、12月中には電子媒体版の『環境教育』誌にアップされる予定です。(紙媒体は数か月後)

他方で、ラーニング・コンパス2030の重要性を『教育展望』の松原紀男編集長に熱く語ったことで、『教育展望』の2021年12月号の「提言」として、「ラーニング・コンパス2030 とオーバーロード 求められる変革に立ちはだかる課題」というタイトルで7ページにわたって書かせていただきました。こちらも間もなく刊行されます。以下は、「提言」の最終ゲラの1ページ目です。

このような経緯の中で、松原紀男編集長が、OECDのEducation 2030 プロジェクトはもっと多くの教育関係者に知ってもらうべきことと受け止められ、今回のラウンドテーブル・ディスカッションを企画され、諏訪もその相談役的な役割を担うことになりました。

参加メンバーとして白井氏抜きには成り立たない企画なので、白井氏には本務のお忙しい合間を縫って再登板をおねがいし、また、森朋子氏も本企画に関わりの深い研究をしているだけでなく、優れたファシリテーション能力をお持ちであることからファシリテーターの役割をお願いすることになりました。

栗原氏は学習院大学教育学科の特任教授ですが、40年以上にわたって小学校の教員をされ、学校現場の実態に即して発言してもらおうということで、また大学院生の内田氏は来春から私立学校の教員に着任が予定されており、未来の学校教育の在り方に対する深い関心と不安を抱いている立場から質疑をしてもらうということでメンバーに加わってもらいました。

SDGsとラーニング・コンパス2030の基本情報

動画の収録では、視聴者にSDGsとラーニング・コンパス2030の基本についての情報共有が必要と考え、冒頭で諏訪が簡単な説明を行いました。

SDGsについては、この1,2年で急速に認知度が向上したので、基礎基本は省略し、かつては個別に議論されていた環境、社会、経済の3者が統合されたことにSDGsの意義があることを、以下のスライドで説明しました。

(当日使用の諏訪のPPTより)

SDGsの前身であるMDGsを取りまとめる上でも、経済界がSDGsへの協力姿勢を示す背景にあるESG投資拡大のきっかけとなった「投資責任原則」を合意に導く際にも、コフィ―・アナン第7代国連事務総長が大きな役割を果たしたことをこのスライドで強調しました。

続くラーニング・コンパス2030の説明では、まず、Education 2030 プロジェクトの実施母体であるOECDが、過去20年以上にわたって世界の教育の潮流を変えてきた、という持論を紹介しました。

(当日使用の諏訪のPPTより)

OECDは、2000年以降国際的な学力比較調査PISAを実施してきただけでなく、キー・コンピテンシー概念を提示したDeSeCoプロジェクトの推進母体でした。キー・コンピテンシーは、主要国の教育課程の軸足をそれまでの「何を学ぶか」から「何ができるか」に移行させるという大きな役割を果たしています。実は、日本の新学習指導要領も、結局「何ができるようになるか」を到達目標とするコンピテンシー・ベースの教育課程となっています。

そのうえで、さらに2019年にOECDのEducation 2030プロジェクトが提示したラーニング・コンパス2030が新たな教育の展開を導く可能性があることを次のスライドで説明しました。

(当日使用の諏訪のPPTより)

この図で特に重要なのは、「新たな価値の創造」「対立やジレンマへの対処」「責任ある行動」の三つからなる「変革をもたらすコンピテンシー(transformative competencies)」で、社会の変革を目指すSDGsと呼応した動きと捉えることができます。ラーニング・コンパス2030とSDGs両者の相乗作用で、世界の教育の潮流は、今後これまでの「社会の変化に対応する教育」から「社会の変革をもたらす教育」へと転換していくと予測しています。

このSDGsとラーニング・コンパス2030の類似については、その後、白井氏より、国連とOECDが別々に議論を進めていった結果として「変革」という同じ方向性が示されたものであるとの補足がなされました。

新たな課題とオーバーロード問題、そして学外者との連携

SDGsとラーニング・コンパス2030をめぐる最初の話題としてオーバーロード問題について諏訪が口火を切り、栗原氏が様々な教育課題が押し寄せている教育現場の実態を以下のスライドで迫真の説明をしました。

(当日使用の栗原氏のPPTより)

栗原氏はこのオーバーロード問題に対しては、さらなる人手が必要で、「さまざまな人たちとともに指導にあたれるといいなあ」と語りました。

それに対して白井氏は、オーバーロードが学習内容だけでなく、教員の労働時間や児童生徒の様々な問題にも現れていると認識していることを述べ、さらに、・・・(このあとの部分は、動画配信または『教育展望』2021年1,2月合併号でご確認をお願いいたします。)

話題は、オーバーロード解消策であるとともに、「変革をもたらすコンピテンシー」育成に不可欠な地域や学外者との連携に移行し、まず森朋子氏が、多様なステークホルダーとの対話や協働の重要性について、ご自身のトランジション(より高次の安定段階への移行)研究を紹介しました。このスライドだけでは不十分かもしれません(ので、動画配信か合併号で補足してほしいのです)が、トランジションの実現に求められる他者と協働して社会に働きかける行動に求められるものが、ラーニング・コンパス2030の「変革をもたらすコンピテンシー」の3要素「他者と協働する力」「新たな価値を創造する力」「対立やジレンマに対処する力」にほかならないことを指摘しました。

(当日使用の森氏のPPTより)

そして、さらに20~69歳の日本人10,000人へのウェブ・アンケート結果に基づき、学校、地域、社会で人と協働し、社会に参画するような行動をより多く「経験」した人ほど、将来の他者協働・社会参画行動にも前向きに取り組もうとする傾向が明確であることを報告しました。

続いて栗原氏が、学校と学校外組織との連携の困難さについて、以下のスライドのような実際の地域事例に即してその要因を語りました。

(当日使用の栗原氏のPPTより)

結論として栗原氏は「学校と学校外組織との連携にはコーディネーターが必要で、大規模なコーディネーター養成システムの構築が急務である」と締めくくりました。このコーディネーターの配置については、内閣府の教育・人材育成ワーキンググループの10月末の会合でも特に高等学校への配置が話題に上がっており、徐々に配置が進むと見込まれています。そこで、諏訪の方から、小中学校でもコーディネーターが必要であること、コーディネーターの本格的な養成制度の確立が求められることを指摘したのに対し、白井氏は、基本的には同意しつつ、「予算の制約」という現実について話されました。

「変革をもたらすコンピテンシー」と青少年の低い社会参画意識とのギャップ

続いて、「変革をもたらすコンピテンシー」と、その対極にある今日の日本の青少年の実態の隔たりという、今回のラウンドテーブル・ディスカッションの核心ともいえる話題に移っていきました。そこで森氏が提示したのが以下のスライドです。2009年に実施された「中学生・高校生の生活と意識」調査における「「私個人の力では政府の決定に影響を与えられない」と思うか?」という問いに対する韓国・中国・米国・日本の比較結果です。日本の中高生の回答は「影響を与えられない」と思っている割合が全体の8割を超えており、4か国の中でも断トツに多いことが分かります。

(当日使用の森氏のPPTより)

同様の調査結果は、日本財団が2019年に実施した調査にも現れています。当日は時間もなかったので、画面共有に出しませんでしたが、筆者の最後の発言にも関係しますので、以下に転載します。

http://(日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査) | 日本財団 (nippon-foundation.or.jp)

どの項目も日本の青少年の数値が最も低く、社会の変革に対する主体性の低さ、社会参画意識の低さが突出しています。

ただし、問題は青少年だけではなく、中高齢者にも当てはまることを、森さんは再びご自身の調査データに基づく次のスライドで指摘しました。

(当日使用の森氏のPPTより)

森さんの実施した調査では、60歳台の年齢層でも60%以上が「住んでいる地域で起きている問題に私が取り組んでも、まちの決定に影響を及ぼすことはできない」と答えるという結果になっており、社会参画意識の低さは、青少年に限られたことではない、ほぼ全世代に共通する問題といえます。

このことに関連して、諏訪は、先ごろ90代半ばで亡くなった中根千枝氏の「タテ社会」論を取り上げました。時間がなく、社会の変革に対する主体性の低さ、社会参画意識の低さとタテ社会の関係についての持論を詳しく述べることはできませんでしたが、日本人の「タテ社会」を支えている単一性について、中根千枝氏があとがきで「近代における徹底した学校教育の普及」が大いに関与していると指摘していることを引き合いに出し、「変革をもたらすコンピテンシー」を育もうとするならば、日本の学校教育の体制や教員養成制度の抜本的な改革が必要ではないか質しました。

このような様々な指摘や問題提起を受けて、白井氏がどのように応答したのかが、今回のラウンドテーブル・ディスカッションの見どころ・聴きどころで、その点は、やはり、1月20日からの動画配信(あるいは『教育展望』2022年1・2月合併号)でご確認いただきたいと思います。また、最後に参加者全員が1分ほどの発言を求められ、諏訪は上記の社会参画意識の低さの克服がこれからの学校教育の最優先課題であることを述べました。他の4人の参加者が最後に何を語ったかも興味津々かと思いますが、これも、この「予告編」では伏せておきたいと思います。

90分という制限時間内にぴったりおさまり、しかも、「言いたいことの半分も言えなかった」という通常のシンポジウムにありがちな後悔やもやもや感もなく、相当満足感を味わえたラウンドテーブル・ディスカッションでした。当事者からの発言では説得力に欠けるかもしれませんが、未来の教育のあるべき姿を真剣に考えさせられる、教育関係者必見の動画になったと確信しています。

2021年11月13日

日本の学校教育 過去150年とこれからの50年

中韓への日本の学校教育の紹介

長年、日中韓の環境教育の交流に関わってきたことから、この秋には、韓国と中国から日本の学校教育がたどってきた道とこれからの展望を語ってほしいというリクエストがありました。今回は、この二つのリクエストに応えるために作成したPPTとその説明を付した2種類の配布資料を合体させて、「日本の学校教育 過去150年とこれからの50年」と題して、この数年、書いたり話したり、あるいは考えてきたことの概略をひとまとめにして掲載したいと思います。(したがって、これまでにこの欄で取り上げたことと大部分重複していますが、最後の方の内閣府や文科省の新しい動きの紹介は、本ブログとしては初出です。)

持ち時間はそれぞれ30分ほどで、両者に共通する部分が多いのですが、10月19日にZOOMで行われた韓国の「環境と生命を守る全国教師会」主催の講演では、将来構想としての「地域の学習共同体」とそこへ至る道筋についての話を、また11月9日に収録(放映は11月26日)された中国の「全国自然教育フォーラム」での講演では、日本の子どもたちの抱えている問題と自然学校の役割を付加しています。(したがって、両者を合わせた以下の内容は40分ほどの分量となっています。)

最初に、環境教育に関わってきた私が、停年退職後に八ヶ岳SDGsスクールというNPO法人を立ち上げ、SDGsについて発信している理由を、日本の環境教育の主流の変化という観点から前置きとして話しておきます。

日本の環境教育は、公害教育と自然保護教育が合流して成立したと言われています。しかし、都市化の影響で自然との触れ合いが減少するようになったことから、1990年代には自然体験学習が環境教育の主流となりました。日本全国に自然学校が誕生しました。現在では、日本全体で4000近い自然学校があるはずですが、この1年半のコロナウイルス感染拡大で活動が十分に行えていない状態です。2000年代に入ると、日本の環境教育はカバーする対象が広がり、現在、地球環境の持続可能性の危機から、ESD、あるいはSDGsこそ、環境教育の中心的な課題であるという考えが広がっています。

まず、今日の話の全体像をこのスライドでお話ししておきます。

日本の学校教育は、150年前に「国民国家型教育システム」(学校教育1.0)として成立し、1970年代半ば以降、「資質・能力重視教育システム」(学校教育2.0)に移行してきました。地球温暖化などに対する認識の広がりを受けて、今、日本の学校教育も、「持続可能社会型教育システム」(学校教育3.0)へ移行し始めています。

「持続可能社会型教育システム」への移行は、世界の学校教育の潮流とも一致しています。世界の教育は約30年前に「何を学ぶか」という内容中心の教育から「どのように学ぶか」という学習方法重視に転換し、アクティブ・ラーニングが基調になりました。約20年前からはOECD主導で「何ができるか」というコンピテンシーを重視する教育課程が各国に誕生しています。 そして、OECDが2019年に新たに提示した「ラーニング・コンパス2030」によって、世界の教育の潮流は、これまでの「社会の変化に対応できる資質・能力の育成」(変化に対応する教育)から、今後は「社会をより良いものに変える教育」(社会を変える教育)へと移行していくと予想しています。

国民国家型教育システム(学校教育1.0)は、国家に有意な人材を大量に育てることを目的として19世紀後半の国民国家成熟期に成立しました。近代国家が必要とする国家に奉仕する人材の大量生産装置として誕生し、学級、教科、教科書、時間割、黒板、試験、成績表、校則、師範学校など、「学校教育」の基本形とおもわれているものが取り入れられました。教育システムとしての完成度の高さから150年経過後の今もかなり健在です。

しかし、1975年以降、社会構造の大変動により 「資質・能力重視教育システム」(学校教育2.0)へ変質していきました。かつては大家族で子育てをしていたが、共働き夫婦だけでの子育て、場合によっては片方の親だけでの子育てが一般化してきています。それに伴い、母親が抱える子育てのストレスや、子どもの孤立も顕著になっています。

他方で、1960年代の高度成長で第二次世界大戦の敗戦からの復興が進み、1970年代半ばには、物質的な豊かさが成就され、日本は先進国の仲間入りを果たしていきました。

日本の復興と豊かさを象徴するのが、家庭電化製品の普及で、1975年には、冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビが90%の世帯に普及しました。生まれたときから物質的な豊かさに囲まれた子どもたちには、「しっかり勉強すれば豊かな生活ができるようになるぞ」という教育のインセンティブも失なわれるようになっていきました。

以上のような様々な社会の大きな変化に対応する形で登場してきたのが、 「資質・能力重視教育システム」(学校教育2.0)です。重要な点は、社会構造の転換に高度先端技術の開発も重なって、経済界が求める人材が量から質へ移行していったことです。

ちょうどその時期に、日本では「ゆとり教育」がはじまりました。「自己決定・自己責任」という自由度の高さは、学び続ける者と学びを放棄する者への二極分解をもたらしました。「競争の原理」=「市場の原理」を基本とする新自由主義的な思潮も教育界に導入され、学習塾や私立学校も増加していきました。

 「資質・能力重視教育システム」の下で、格差が拡大し、自己肯定感の低い児童生徒が増え、社会参画意識の低い青少年が増加しています。「資質・能力重視教育システム」は「国民国家型教育システム」からの離別の役割を果たしましたが、今求められている持続可能な社会を構築できるものではありません。

「国民国家型教育システム」に代わって「資質能力重視教育システム」が誕生したのは、日本の物質的な豊かさが達成され、高校進学率が90%を超えた時期ですが、同時に「ゆとり教育」が構想された時期でもあります。しかし、「ゆとり教育」は「学びを継続する者」と「学びを放棄する者」の二極化を生みました。

他方で、地球環境問題への関心も高まり、生態的・社会的な持続可能性の危機に対応する教育も求められるようになりました。そのような流れの中で、2017年改訂の日本の新教育課程の前文に 「これからの学校には,(中略)持続可能な社会の創り手となることができるようにすることが求められる。」という文言が入り、日本の学校教育は新たな段階に入りつつあります。

 「持続可能社会型教育システム」のキーワード、キーフレーズを列挙しましたが、「競争から共創」「プロジェクト学習」などが重要です。

日本の学校教育はずっと個人に焦点を当ててきていました。しかし、近年、社会に焦点を移してきています。そのことは中央教育審議会の答申のキーワードが1960年代は「期待される人間像」 、1990年代には「生きる力」であったが、2010年代には「持続可能な社会」となり、新教育課程のキャッチフレーズが「社会に開かれた教育課程」となっていることからも明らかです。

私が『学校教育3.0』を刊行した2か月後、文部科学省が「Society 5.0に向けた学校ver.3.0」という図を提示しています。そこに示された内容を整理すると、今後の「Society 5.0 時代の学校ver.3.0」では、グローバル市場経済モデルと決別し、持続可能な開発モデルとなり、それまでの能力重視カリキュラムから「個別最適化」を目指す学びへ移行するという構想です。

この「Society 5.0に向けた学校ver.3.0」という図で注目すべき点は、これからの学校教育は学校内で完結するものではなく、社会と密接にかかわりながら、社会の様々な人が関与する姿が構想されている点です。

近年と近未来の日本の教育改革の方向性の3つ、すなわち、新教育課程で急速に進み始めたアクティブ・ラーニングの普及、2021年1月の中教審答申が示した「ICTの活用による学びの個別最適化」、今後進めようとしている「学外の多様な人材の登用」をベクトルで示してみました。多様な学外者・学外組織の学校教育への関与を文科省も積極的に推進しようとしており、

学校教育の「ヨコ社会化」は自然学校にとってもチャンスといえます。

ここで、日本の学校教育の負の側面にも触れておきます。

日本の学校教育には様々な課題があります。

特に、学校の先生方の勤務時間が世界でも一番長いことが問題になっています。また、小学生の「いじめ」が深刻で、6年前から急増しています。いじめを受けた児童の自殺も増えています。スマホを用いた陰湿ないじめも問題視されています。

不登校の増加も深刻です。中学生の不登校は1990年代に急増した後、2000年代には「高止まり」でしたが、近年、再度増加し始めています。注目されているのは小学生の不登校です。6年前から増加傾向が現れ、2020年にはCOVID19の拡大で、自主的な不登校も急増しています。不登校は、長期化すると成人の「引きこもり」につながることもあり、大いに、気がかりなことです。陰湿ないじめの増加と不登校の背景には、情報化の負の側面が存在していると見ています。

発達障害と診断される児童生徒も、近年、急増しています。発達障害の児童生徒が通常のクラスで一緒に学ぶ統合教育が広がってきています。1クラスに1教員という体制に限界もあり、1クラスに複数の教員を配置する動きも拡大していますが、予算の制約があって、まだまだ、1クラス1教員が基本です。発達障害の急増の原因として、農薬や食品添加物を指摘する研究もありますが、国として規制しようという動きはありません。

高校生の1日のスマホ利用時間は、平均5~6時間となっています。小学生については、スマホ所有率の急増とともに、一日のスマホ使用時間の平均も、この3~4年間で一時間ほど増加しています。ゲーム中毒やスマホ中毒は、今後、深刻な影響を及ぼすとの指摘もありますが、ICT教育を積極的に進めようとする文科省からは、ゲーム機器やスマホを規制する動きは出ていません。

ゲーム機器の普及とともに、スマホの使用時間増が加わり、子どもたちの外遊びの時間は急速に減少してきています。今の子どもたちの外遊びの時間は、親の世代の半分ほどです。外遊びや自然との触れ合いの減少は、感性や認知機能の発達を低下させる可能性もあり、将来的に大きな問題を引き起こす恐れがあります。したがって、私たち環境教育の関係者は、子どもたちが屋外で活動にもっと多くの時間を使うよう、訴えていますが、文科省も各家庭も、子どもたちの学力向上にばかり関心を寄せ、野外活動や充実した外遊びにあまり関心を寄せていません。しかし、あとで述べるように、しっかりと遊ぶほど学力も向上することは、色々な研究で確かめられています。

これからの学校教育に不可欠と考えられる学校外との連携では、自然学校に期待される部分も大きくなります。地域と学校を繋ぎ、学校の過剰負担を軽減するうえで、自然学校は大きな役割を果たすことになるであろうと思っています。また、情報通信技術の発達によって、自然との触れ合いが減り、育つべき感性が十分に育たないといった、情報化の負の側面に抗したり、人間本来の姿に戻すという重要な役割もこれからの自然学校には期待されています。

では世界の学校教育の潮流はどのように変化してきたのでしょうか。過去30年ほどに限定して大きな変化を見ていきます。

世界の教育は約30年前、「何を学ぶか」という内容中心の教育から「どのように学ぶか」という学習方法重視に変化し、アクティブ・ラーニングが基調になりつつあります。その背景にあったのは情報通信技術の進展で、個人が知識を集積すること以上に、コミュニケーション能力や対話、協働が重要になったことを意味しています。そして、約20年前からはOECD主導で「何ができるか」というコンピテンシーを重視する教育課程に移行してきています。

OECDは自由主義経済の発展を目指す国際組織ですが、かねてより教育の在り方に注目し、2000年からはPISA調査を行っています。1999年にOECD が立ち上げたDeSeCoプロジェクトは、社会のどのような変化に対しても適応できる汎用性の高い鍵(キー)となる能力・キー・コンピテンシーを提示し、教科の知識修得中心であった学校教育を大きく揺るがしました。キー・コンピテンシーの柱となっているのは「異質な集団で交流する」という社会性、「自律的に活動する」という主体性、「相互作用的に道具を用いる」という情報技術の活用などのスキル獲得の三つですが、「21世紀社会を生き抜くうえでの必須要素」と見なされたことで、コンピテンシー・ベースの教育改革が世界中で進行しました。

例えば、シンガポールのカリキュラム改革では、従来の教科中心のカリキュラムから一変し、「市民的リテラシー」「国際感覚・異文化に対応するスキル」「批判的・創造的思考力」「コミュニケーション・協働性・情報に関するスキル」といったコンピテンシーの獲得が、学校教育の中心に位置づけられています。

実は、日本の新しい教育課程でも、「何ができるようになるか」というコンピテンシーの獲得を最終的な到達目標に位置づけています。ただし、既存の教科集団への配慮なども働き、「何を学ぶか」という教育内容も三本柱の一つに位置づけており、しかも「学習内容の削減は行わない」と宣言してしまった結果、のちに述べる「カリキュラムオーバーロード」に直面することになります。

キー・コンピテンシーを提示したOECDが2019年に提示した「ラーニング・コンパス2030」 は、今後の世界各国のカリキュラム改革を促し、これまでの学校教育の姿を「すっかり変える(transform)」に違いないと考えています。世界が今、何よりも必要としているのが「変化に対応する教育」から「変化を起こす教育」への転換で、OECDがそれを大胆に打ち出した判断しているからです。

図の中央に大きく描かれているのがまさにコンパス(羅針盤)です。左下の学習者が手に持ったコンパスを活用しながら、右上のWell-being 2030 という到着目標に向けて、多様な道筋の中から適切な道を選択して歩んでいこうとする姿が描かれています。Well-beingの意味は、個人の場合は「健康で充足した生」というニュアンスですが、OECDの刊行物を読むと、持続可能で正常に機能する「社会的Well-being」がより重要な到達点と認識されています。

コンパスに注目すると、磁針の部分には「知識」「態度」「スキル」「価値観」という従来から重視されてきたコンピテンシーが書かれています。しかし、より注目すべきは、コンパスの盤面に記されている「新たな価値の創造」「対立やジレンマへの対処」「責任ある行動」の三つからなる「変革をもたらすコンピテンシー(Transformative competencies)」です。冒頭に述べた「変化を起こす教育」への転換がこの言葉にはっきりと表出されています。SDGsとも共通するのはこのtransform(すっかり変える)という点です。

Education 2030 プロジェクトが提示したラーニング・コンパス2030は、SDGsの達成に対して、教育という側面からしっかりとサポートするものと言えます。しかし、過剰負担が教育現場に押し寄せることは必然で、OECDでも、2020年11月に“Curriculum Overload A Way Forward”を刊行して、カリキュラムの拡大と過剰負荷を最小限に抑える対応例を提示しています。しかし、日本の教育現場を想定した場合、学校内での対応には限界があります。「新たな価値の創造」「対立やジレンマへの対処」「責任ある行動」などの変革を起こすコンピテンシーは、地域社会での活動を通してこそ身についていくものであろうと思われます。そういった意味でも、学校と地域の連携は今後いよいよ重要になってきます。

このオーバーロード問題には、文科省も正面から取り組む姿勢を示しています。このスライドの上半分は内閣府の教育人材育成ワーキンググループの会議の資料として提示されたものです。どれだけ今日の日本の学校教育が対応しなければならないかを示したものです、ピンク色の「授業」に関わる部分はあまりに多岐にわたっており、読み取りにくいので、下半分に打ち直して拡大してみました。

過剰負担対策として参考になるのが、Pasi SahlbergのFinnish Lessons『フィンランドの教訓』に書かれている4つのパラドックスです。教えることやテストを減らし、遊ぶ時間をしっかり確保したことが、フィンランドのPISA調査などでの好成績につながっているとSahlberg氏は強調しています。

SDGsやOECDの「ラーニング・コンパス2030」は、2030年という近未来のあるべき姿を描いていますが、もう少し先を見越した50年後の地域社会における教育像を考えてみます。

現代の社会の変動はどんどんスピードアップしていますが、50年後に持続可能な社会の構築が実現できていたとしたら、おそらく今日の激変を乗り越え、ある程度安定した「安定社会(定常社会)」となっているはずです。また、意識的に「安定社会」を目指さねば、持続可能な社会の構築には至らないと思われます。

50年後には、少子高齢化がさらに進み、地域が抱える課題はますます大きくなっているでしょうが、それとともに、いよいよ生涯学習が重要とされる時代となっているはずです。本格的な高齢化社会が到来し、「人生百年」を謳歌する元気なリタイア層が、健康で充実した生(Well-being)を求めているはずです。また、「AIとIoTが多くの職業を駆逐する」といわれる第四次産業革命後の社会で生き残るには、青少年期に集中的に行う今日の学校教育での学びでは耐用年数が短すぎて通用しなくなり、社会人となった後も継続的に学び続けざるを得なくなっているはずです。

このような社会の変動の趨勢から導かれる生涯学習社会における学びの場の全体が、「地域の学習共同体」で、教育機関と地域社会との様々な協力・支援関係が有機的に結びつき、その境界もあいまいなものになっているはずです。また、「地域の学習共同体」の中核部分である学校も、乳児段階から幼稚園・保育園段階、そして初等中等教育段階から高等教育段階あるいは生涯学習段階という、従来の学校段階の間の壁が希薄になっている姿を描くことができます。

50年後の「安定社会」となっている地域の教育像である「地域の学習共同体」は、日常的に地域の人々が子育てを手伝い、幼児を見守り、児童生徒の学びを支援し、高等教育機関や生涯学習機関の運営に協力する姿が展開されているというものです。

「地域の学習共同体」を意図的に誘導する過程を描くと、例えば以下のようになります。

1.地域の学齢人口の減少に伴う学校統廃合に当たって、隣の町村の小学校同士、あるいは中学校同士が水平的に統合されるのではなく垂直的な統合で小中一貫校が作られる。

2.それぞれの小中一貫校に、高校普通科改革で設置が可能になった地域探究科の分校を設置する。分校の在籍者は1学年20人規模が適当であろう。高校の分校の生徒は地域での探究的な学習をおこなうとともに、週に2日ほどは本校で教養科目やSTEAMの基礎的な学習を行う。 3.そのようにして誕生した地域の小中校一貫校に、(大学設置基準の大幅緩和で開設が可能になる)地方分散型低学費大学の地域キャンパスが設けられ、小中高大一貫校が作られる。その大学部分は地域の生涯学習センター的な機能も果たす。そして、地域と小中高大一貫校との協力・連携が進み、両者を隔てる境界が意識されなくなることで、「地域の学習共同体」が誕生していく。

このスライドは、高校普通科改革で開設が可能になった「地域探究科」についての新聞記事や文科省の審議のまとめを切り貼りしたものです。その議論を牽引したのが「新しい時代の高等学校教育ワーキンググループ」です。その中心メンバーには、これからの日本の教育を新しい方向に牽引すると目される40歳そこそこの若手が登用されています。

日本の大学は大都市圏に集中しており、大学進学時に若者が地方から流出し、半分以上は地方に戻ってきません。一方、首都圏直下地震は30年以内に70%発生と予測されており、首都圏集住は危険です。また、大都市圏ほど出生率が低く、若者の首都圏集住は、人口減少を加速させている要因の一つです。

日本の大学は、もっと地方に分散させるべきですし、50年後には、大学生の多くが「地域の学習共同体」に包含された地方の分断型キャンパスで学んでいる姿が望ましいと思います。

このスライドは、「地域の学習共同体」の一角となる地域分散型の大学を私が住む山梨県の北杜市に開設するとして描いたものです。

地域の大学に多くの若者を呼び込むためには、低学費化は絶対に必要な条件です。低学費大学実現には人件費の圧縮も必然で、そのためには地域のインテリ・リタイア層や半農半X層に、ボランティア同然で授業運営に協力してもらったり、MOOCs(大規模無償オンライン講座)などを厳選して活用する、これまでの大学の枠組みと違ったものとなります。

日本の場合、明治以降、高等教育研究機関はもっぱら首都圏や大都市に作られ、様々なイノベーションの大部分は、首都圏や大都市で生み出されてきました。しかし、インターネットによって中央と地方の情報格差が解消されるようになったので、今後、高等教育研究機関が地域(地方)に作られていけば、当然様々なイノベーションも地域(地方)で誕生し、地域(地方)から発信されていくことになります。そのことは、同時に地域(地方)の経済的・文化的な活性化につながるはずです。

学齢人口が減少し、地方の大学の人気が低迷している中で、地方分散型の大学を新たにつくっていこうという構想は論外と思われるかもしれませんが、実はこのスライドに見られるように、この数か月、地域の中核となる大学を支援し、地域社会の成長の駆動力にしようという議論が活発化しています。

また、このスライドは今年の4月から5年間を見据えた「第6期科学技術・イノベーション基本計画」の教育・人材育成の方向性を内閣府が取りまとめたものです。小さな文字で書かれていますが、「Society5.0 型のあるべき姿」として地方分散とかシニア活躍といった、北杜共創大学の構想の根底にある考え方と一致するものが書かれています。

また、下半分には、初等中等教育段階から高等教育段階を経て社会人段階へと貫く姿が描かれています。直接的にはイノベーション人材を生み出すことが念頭に置かれているのかもしれませんが、各学校段階の壁を取り払っていこうという姿勢には、先に述べた「地域の学習共同体」に通じるものも感じています。

いずれにせよ、日本の学校教育もこれから急速に変わっていくと見ています。

2021年10月12日

『フィンランドの教訓』の抜粋翻訳

このブログでも断片的に紹介してきた『フィンランドの教訓(Finnish Lessons 3.0(by Pasi Sahlberg)』の全体像が分かるよう、以下に抜粋して紹介します。なお、〈 〉内は、諏訪が補筆した部分です。

Finnish Lessons 3.0の表紙
Pasi Sahlberg氏http://Education Disrupted, Education Reimagined Part III – WISE (wise-qatar.org)

イントロダクション:意思があるところに道がある

現在の学校では、生徒が将来必要なことを学ぶ機会を提供できないことが明らかになっている。質の高い教育と学習、そして公平で効率的な教育への要求は普遍的なものである。教育システムは2つの課題に直面している。それは、予測できない変化を遂げる知識の世界で必要とされる新しい知識とスキルを学習できるように学校を変える方法と、社会経済的状況に関係なく、すべての若者が新しい学習を可能にする方法である。(p.1)

北の暴露

私の最初の教職はヘルシンキの中学校だった。そこで数学と物理学を7年間教えた。その後、私は教育行政と大学の教師教育に長く関わり、学校内と学校外の教育の違いを理解した。経済協力開発機構(OECD)の政策アナリスト、世界銀行の教育スペシャリスト、欧州委員会の教育専門家を歴任し、教育におけるフィンランドの独自の位置をより深く認識するグローバルな視点を獲得した。(p.5)

刺激としてのフィンランド

この本は、競争の激化、データの増加、教員組合の廃止、チャーター・スクールの開設、教育システムにおける企業管理モデルの採用が、(公教育システム)の危機の解決策になることはなく、まったく逆であることを述べている。(p.7)

近年の国際的な教育ランキングでは低下傾向にあるが、フィンランドは、全体としての学習の成果、特に生徒の学校での取り組み、充足度、満足度では良好な状態が続いている。(中略)世界の教育ウォッチャーは、PISAの結果だけでなく、教育当局、政治家、教員が国際的な学校評価の低下に対していかに対応してきたかを問うべきである。(p.8-9)

フィンランドの物語に耳を傾ける必要がある。それは、公教育への信頼を失っている人々に希望を与え、それを改善できるかどうかを示している。この本は、教育システムの変革は可能であるが、時間、忍耐、そして決意が必要であることを明らかにしている。(中略)この本は、多くの教育システムにおける慢性的な問題を解決する最善の方法が、教育委員会から支配権を奪い、チャーター・スクールやその他の民営化手段によって、効果的に学校を運営する可能性のあると信じている人々に反対することであることを主張している。(p.9)

第1章 フィンランドの夢:全員のためのよい学校

新しい学校が誕生した

この章では、フィンランドが貧しく、農耕中心で、ほどほどの教育水準の国から、高性能の教育システムと世界クラスのイノベーション環境を備えた現代の知識基盤社会へとどのように進歩したかについて述べる。(p.21-22)

戦後のフィンランド

フィンランドの教育システムの発展と第二次世界大戦後の経済発展〈には、以下のような一致が見られる。〉

・北方の農業国から工業化社会への移行と教育の機会均等の強化(1945〜1970)

・サービス部門の成長と技術水準の向上・技術的イノベーションを伴う北欧の福祉社会への移行と、公立の総合学校システムの構築(1965–1990)

・ハイテクの知識基盤経済としてのフィンランドの新しいアイデンティティに対応した、基礎教育の質の向上と高等教育の拡大(1985-2010)

・幼児教育とケアを教育システムに統合し、全教育段階のカリキュラムの焦点を内容からコンピテンシーにシフトすることで、合理的な生涯学習システムを構築(2010-現在)(p.22)

 1950年、フィンランドの教育の機会は、町や大きな自治体に住む人々だけがグラマースクールや中学校にアクセスできるという意味で不平等だった。ほとんどの若者は、6—7年間の基礎教育を終えると学校を離れた。国営の基礎学校の4年、5年、または6年を終えると、私立のグラマースクールへの入学を申請できたが、その機会は限られていた。(p.23)

普遍的な基礎教育


図1.1 1970年以前の学校制度

図1.1は、1970年代初頭までの並行型教育システムの特徴を示している。このシステムでは、11歳または12歳の生徒が2つの別々の流れのいずれかに分かれていた。どちらの経路をたどるかを決めた後は、2つの流れの間を移動する可能性はほとんどなかった。(p.27-28)

新しい学校の誕生

1960年代後半に、新しい法律(1966年)と国家カリキュラム(1970年)が作成された。(中略)新しい総合学校制度は1972年に実施準備が整い、計画によれば、改革の波はフィンランドの北部地域で始まり、1978年までに南部の都市部に到達することになっていた。(中略)〈新しい総合学校である〉ペルスコウルの基本的な考え方は、既存のグラマースクール、市民学校、小学校を総合的な9年制の市町村立学校に統合することだった。これは、4年間の初等教育の後に、〈高等教育への進学を前提とする〉グラマースクールと〈卒業後の就業を前提とする〉市民学校へ分かれる流れの終了を意味した。すべての生徒は、居住地、社会経済的背景、または興味関心に関係なく、地方教育当局が管理する同じ9年制の基礎学校に入学することとなった。(p.29-30)


図1.2 1970年代後半以降の学校制度

新しいペルスコウルでは、教師はこれまでとは違う指導方法を採用し、多様な生徒に対応できる異なった学習を可能にする学習環境を設計し、教育を高度な職業として認識させることが求められた。これらの期待は1979年に広範な教師教育改革につながった。新しい教師教育に関する法律は、専門能力開発を強調し、研究に基づく教師教育に焦点を当てるものであった。(p.33)

高校教育の拡大

〈1985年の新高等教育法によって、普通高校は固定されたクラスや学年のないモジュール式のカリキュラム構造を導入し、〉コースの内容と順序の両方の観点から、学習を進めるうえでの利用可能な選択肢が増えた。新しいカリキュラムの枠組みは、生徒の認知的発達の理解に重点を置くとともに、学校自身とコミュニティの強みを最大限に活用することを学校に促すものであった。(p.34)

教育の成果の向上

総合学校改革は確かな結果を生んだ。総合学校の卒業生の数が増えるにつれて、高校教育の需要も増えた。毎年、ペルスコウルを卒業した学生の約94%は、2種類の高校のいずれかですぐに学びを継続するか、ペルスコウルの上に設けられた10学年に入学した。(p.37)

大学入試

 高校で必要なコースに合格した学生は、全国大学入試を受ける資格を得る。この試験は、入学試験委員会が主催し、全国のすべての学校で同時に実施される。(中略)今日の試験の目的は、学生が国のコア・カリキュラムが求める知識とスキルを修得したかどうか、そして彼らが高校の目標に沿った成熟度に達したかどうかを見ることである。(中略)高校でのみ実施される大学入試に合格すると、候補者は高等教育機関で勉強を続けることができる。大学入試は、文部科学省が任命した外部委員会によって運営されている。(p.41-42)

教育の変化の4フェーズ

1970年代の総合学校改革の後のフィンランドの教育の変化は、4つのフェーズで説明できる。

・教育と学習の理論的・方法論的基礎の再考(1980年代)

・ネットワーキングと教師のリーダーシップと自主規制による改善(1990年代)

・構造と管理の効率向上(2000年代)

・教育の国際化とデジタル化(2010年代)

フェーズ1 教育と学習の理論的・方法論的基礎の再考(1980年代)

 1970年代後半から1980年代初頭にかけて、新しい総合学校システム内で開始されたいくつかの研究開発プロジェクトは、それまでの教育実践、特にフィンランドの学校における教師中心の教授法に対する批判につながった。新しい学校制度は、公教育の役割は、批判的かつ自律的に考えるように市民を教育すべき、という哲学的・教育学的な仮定の下で開始された。(p.46-47)

国際的な観点からみると、フィンランドのこの最初の段階の教育変革は例外的なものだった。フィンランドの教師たちは知識と学習の理論的基礎を探求し、学校のカリキュラムを再設計してそれらと適合するようにした。同じ時期に、英国、ドイツ、フランス、米国の教師たちは学校査察の増加や外部から課された物議を醸す学習スタンダード、あるいは一部の教師が職を辞すほど混乱させた競争と格闘していた。(中略)フィンランドが1990年代に他の多くのOECD諸国で発生した市場主導の教育政策改編の嵐から免れたのは、おそらく教育改編に対するこのような哲学的側面によるものだった。(p.47-48)

フェーズ2 ネットワークと教師のリーダーシップと自主規制による改善(1990年代)

1994年のナショナルカリキュラム改革は、1970年代の総合学校(への一本化という)学校改革とともに、しばしばフィンランドの主要な教育改革と見なされる。変化の主な手段は、カリキュラム・デザインと関連する変更実施における自治体と学校の能動的な関与だった。学校は、他の学校と協力し、保護者、企業、非政府組織とネットワークを築くことが奨励された。(中略)〈このような流れは、〉全国的な学校改善イニシアチブである水族館プロジェクトで最高潮に達した。水族館プロジェクトの目的は、学校をアクティブラーニング・コミュニティに変えることだった。(p.49-50)

この〈水族館〉プロジェクトは、1990年代の地方分権化、学校の自律性の向上、学校のアイデンティティの強化という新しいアイデアと一致していた。(中略)アイデアを共有し、問題を一緒に解決することを重視していたため、各学校がお互いを競争相手と見なすことはなかった。(p.50)

フェーズ3 構造と行政の効率向上(2000年代) 

 2001年12月4日に公開された最初のPISAの結果には誰もが驚いた。読解力、数学、科学の3分野すべての標準化されたテストにおいて、フィンランドは、OECD諸国の中で最もパフォーマンスの高い国だった。(中略)フィンランド人は、東アジアで特に普及している個人指導や放課後の授業、あるいは大量の宿題なしで、PISAで出題されたすべての知識とスキルを学んだようである。さらに、フィンランドでは学校間の教育パフォーマンスの相対的なばらつきも、非常に小さかった。(p.51)

PISA調査で明らかになったのは、教師を教育変革の中心に導いた教育政策が、教育における平等な教育機会と公平性の原則に基づいており、教育システムの質にプラスの影響を与えていることであった。(中略)フィンランドの教育システムは国際基準で非常に良好な状態にあると結論づけることができた。これは明らかにフィンランドの教育政策立案者と学校改善コミュニティにとっての課題もある。すでにうまく機能しているシステムを更新することは困難で、おそらく、フィンランドの小中学校改革についての最近の保守的なモードはこのことで説明できる。構造改革は、義務教育の長さ、高等教育の管理、および教育システム全体の効率に関連する規制の変更に焦点を合わせるようになった。(中略)基礎教育と高校教育のための全国コア・カリキュラムは2000年代初頭に改訂されたが、以後、重要な変更は導入されなかった。(p.51)

 2014年にフィンランドの当局は、基礎教育の全国コア・カリキュラムを改訂し、2016‐2017年に発効した。(中略)〈新たな全国コア・カリキュラムは〉地方当局の監督下にあったが、実際には学校がカリキュラムの計画立案を主導している。また、学校が何を教えるべきか、どのようにアレンジするか、期待される成果はどのようなものか、という点ではかなり緩やかな規定となっている。したがって、各学校はカリキュラムのデザインにおいて柔軟性と自律性をもっており、場所によって学校のカリキュラムは相当な違いがある。(p.53)

フェーズ4教育の国際化とデジタル化(2010年代)

 この時期、資金が欠乏しても教育機関の質を高めるための新たな教育テーマが登場した。学校や大学の国際化への積極的な取り組みと、行政や教授法の効率を高めるデジタル・テクノロジーの早期導入である。(p.54)

2020年のフィンランドの教育システム

 リスクもリターンも大きいテスト政策の最終的な成功は、特定のテストで生徒のスコアを上げるかどうかではなく、学習にプラスの影響を与えるかどうかである。生徒の学習が影響を受けないままである場合、または世界の多くの地域で今日増加しているようなテストに偏った教育につながる場合、そのようなリスクもリターンも大きいテスト政策の有効性は疑問視されるべきである。(p.56)

 2013年の初めから、幼児教育はフィンランドの教育システムの一部となった。それまでは、社会保健行政の傘下に入っていた。フィンランドでは、幼児教育とは、7歳で小学校に入学する前に子供たちが受ける教育とケアを指す。学校に行く前に、すべての子供たちは家族ベースまたは幼稚園でデイケアを受ける権利を持っている。 (p.57) 

挑戦を受けたフィンランドの夢

フィンランドのペルスコウルを生み出した1970年代の教育改革が、すべてのビジネスリーダー、政治家、教育者によって支持されていたわけではない。ペルスコウルに反対するキャンペーンは、ビジネス界の一部から特に厳しいものがあった。〈しかし、結局〉フィンランドのビジネスリーダーは、ペルスコウルの実施方法に厳密に従った。私立のグラマースクールのほとんどは、市町村立の学校ネットワークに統合され、すべての学費が廃止された。(p.63)

政策とマーケット志向のシンクタンクである「フィンランドのビジネスと政策フォーラム(EVA)」は、この学校改革に反対し、私立学校をこれらの新しい学校に代わるものと捉えている財団に資金を提供した。議会の保守的な右派は、ペルスコウルが社会主義者であると主張し、モデルがフィンランド社会の着実な経済発展と繁栄を危うくするだろうと警告した。通路の反対側〈左派〉は、フィンランドのすべての子供たちに良い教育を確保し、それによってフィンランド社会の幸福と繁栄を高めると言って、改革を擁護した。(p.63)

〈その後、社会的平等が強調されたため、有能で才能のある生徒が潜在能力を最大限に発揮することができないなどの批判が90年代末まで続いたが、〉2001年12月初旬、最初のPISA調査のニュースが世界のメディアで発表されたとき、批判的な声は突然沈黙した。フィンランドは、ペルスコウルの最終学年で測定された読解力、数学、科学において他のすべてのOECD諸国を上回った。(p.65)  フィンランドの教育哲学は、今日、知識、スキル、価値、態度のセットをベースにしており、それらは横断的コンピテンシーと称されている。幼児教育とそれに続く学校教育は、学校で学んだ知識やスキルが実生活で活用できるよう、これらのコンピテンシーの発達を目標としている。(p.61)

第2章 フィンランドのパラドックス:少ないほど多い

フィンランドは、教える時間と学習する時間を増やし、生徒をより頻繁にテストし、生徒が宿題にもっと一生懸命取り組むことを求めるのではなく、反対のことをした。(p.66-67)

周辺から脚光を浴びるまで

 OECDの教育・スキル部門のディレクターで、PISA調査に関わったアンドレア・シュライヒャーは、「例えば、最初のPISA調査で全体として最高の結果を示したフィンランドでは、両親は子どもが入学する学校はどこであろうと常に高い実績の基準にあると信頼できていた」と述べている。

フィンランドはその高性能な教育システムによって世界的な注目を集めているので、1970年代以降、生徒の成績に本当に進歩があったかどうかを尋問する価値がある。(中略)教育制度を国際的に比較する場合、生徒の成績だけでなく、より広い視野を持つことが重要である。この分析から読み取れる意義深い点は、フィンランドが過去30年間に4つの主要な領域で着実に進歩してきたことである。

1.成人の学歴レベルの向上

2.学習成果と学校の実績における広範な公平性

3.PISA評価によって測定された生徒の学習の改善

4.ほとんどが公的資金源である人財および財源の使用効率(p.70-71)

学歴

フィンランドの人々は、1960年代まで教育が不十分なままでだった。(中略)1970年代初頭にペルスコウルが発足したとき、フィンランド人の成人の4分の3にとって、小学校は彼らが修了した唯一の教育形態だった。(中略)現在は、人口の約30%が高等教育の学歴を持ち、約40%が高校卒業資格を保持している状況となっており、先進社会における学歴ピラミッドの典型的な外形と一致している。(P.71)

EUやヨーロッパ経済圏と同様に、フィンランドの大学やポリテクニックの授業料は無料であるため、高等教育を受ける機会は、すべての高校修了者にとって平等である。(p.73)

成果の公平性

 フィンランドでは、公平とは、教育を通じてすべての人が自分の意図と夢を実現する機会を提供する、社会的に公正で包括的な教育システムを持つことを意味する。1970年代の総合学校改革の結果、質の高い学習のための教育機会はフィンランド全体にかなり均等に広がった。1970年代初頭、総合学校改革が開始されたとき、古い並行型システムでは〈2種類の学校の〉教育の方向性が大きく異なったため、若年成人の間で学業成績に大きなギャップがあった。この知識のギャップは、当時のフィンランド社会における社会経済的格差と強く一致していた。生徒の学習成果は1980年代半ばまでに均等になり始めたが、数学と外国語の能力に応じた生徒の能力別グループ編成により、ギャップは比較的広いまま保たれていた。1980年代半ばに総合学校での能力別グループ編成を廃止した後、成績の高低差は縮小し始めた。(p.75)

 2018年PISA調査における読解力のフィンランドの学校間の差は6.7%であったが、それに対し、カナダ、合衆国、英国の学校間の差はそれぞれ12.8%、18.4%、19.7%だった。(p.76)

 フィンランドの教育改革は、比較的短期間で公平な教育システムを構築することに成功したことを示唆している。(中略)学校間の成績のばらつきが比較的小さいことは、保護者が近所の学校の質について心配することはめったにないことを意味する。フィンランドの大都市圏では、近隣の学校以外の学校を選ぶことが増えているが、〈その場合も〉親はたいてい、子供のための普通の安全な学校を探している。OECD自身の分析でも、成功している教育システムは、しばしばどんな子どもにとっても最高の学校は近所の公立校であるという理想を意図的に目指していることを確認している。

 フィンランドには標準化されたテストがないため、それぞれの学校は独自に生徒の成績を評価する責任がある。フィンランドの高成績の学校は、すべての生徒が期待以上の成績を上げている。言い換えれば、公平性が高いほど、フィンランドの基準ではよりよい学校ということになる。(p.77)

生徒の学習

 結論として、フィンランドの教育には二つの顕著な潮流が存在している。一つは、フィンランドの公教育の質と公平性は、国際的な学生評価研究では1970年代から2010年頃まで確実に向上している。(中略)第2に、2012年以降2018年の最新のPISA調査まで、フィンランドの生徒の国際的な位置は低下してきている。(中略)それでも、フィンランドの生徒の全体としての成績は、他のOECD諸国の中では高い水準にとどまっている。しかし、最新のPISA調査のデータで注目すべきことは、フィンランドの若者(特に男子)の楽しみのための読書が10年前に比べて減少していることである。(中略)フィンランドの教育成果の下降は、少年たちと彼らの学校での学びの把握のゆるみが関わっているように見える。(p.98-99)

教育のコスト

 フィンランドのGDPに占める教育機関の総公的支出の割合は 2011年に6.5%であったが、2016年には5.5%に低下した。この年のOECD平均は5.01%で、米国(GDPの6.0%)とカナダ(GDPの5.9%)よりも少ない支出だった。(p.99)

教育におけるフィンランドのパラドックス

 フィンランドへのほとんどの訪問者は、穏やかな子供たちと高度な教育を受けた教師でいっぱいのエレガントな学校の建物を発見する。彼らはまた、学校が享受している大きな自律性を認識する。学校の日常生活における中央教育行政による干渉がほとんどなく、学生の生活の問題に対処するための体系的な方法、そして困っている人々に的を絞った専門家の助けがある。これらの多くは、フィンランドなどの主要な教育国に関連する他の国の慣行のベンチマークに役立つ可能性がある。しかし、フィンランドの教育の成功の秘訣の多くは未だ発見されていない。(中略)多くの点で、フィンランドは奇妙なパラドックスの国である。(p.104-105)

パラドックス1:より少なく教えるとより多く学ぶ

フィンランドの経験は、教育の長さ、教える期間、生徒の宿題の負荷を増やすことによって、成績の低い生徒の成績を改善できるという典型的な論理に挑戦するものである。(中略)PISAによって評価されたように、公教育で意図された指導時間と結果として生じる生徒の成績との間にはほとんど相関関係がない。(p.106)

 原則として、学校で何かが提供されない限り、生徒は午後に自由に家に帰ることができる。小学校は、最年少児のために放課後の活動を手配する必要があり、年長児のために教育またはレクリエーションクラブを提供することが奨励されている。(p.108)

 平均すると、フィンランドの中学校と小学校の教師は年間平均でそれぞれ614時間と677時間を教えている。〈この数値は多くのOECD諸国の平均値より少ない。〉(中略)授業時間が短いほど、教師は勤務時間中に学校の改善、カリキュラムの計画、個人的な専門能力開発に取り組む機会を増やすことができる。(p.108)

パラドックス2:テストが少ないほどより多く学ぶ

グローバルな教育改革の考え方には、競争、テストに基づく説明責任、読み書き算盤への焦点化が教育の質を向上させるための前提条件であるという仮定がある。(p.111)

重要な問いは、教師がより多く教え、生徒が長時間勉強する教育システムは、国際比較でよりよい結果を出しているか、ということである。(p.112)

フィンランドは、高校以前の段階では悉皆の標準化されたテストが存在しないという、ごく普通のテスト文化で知られている。(中略)〈しかし、〉これは、フィンランドに生徒に対する評価(assessment)や生徒の学習に関するデータがないことを意味するものではない。まったく逆で、教師は、すべての時間を通して生徒の能力を見極めている(evaluate)。(p.114)

教育制度の実績の評価や生徒の学習の評価の鍵となる役割は、比較や競争よりも〈学習の質の〉向上や前向きの変化である。(p.115)

パラドックス3:たくさん遊ぶと、より多く学ぶ

〈フィンランドの〉大抵の教師は、小学校での教育と学習は、伝統的なやり方での教科学習よりも、遊びの要素の多い活動に子どもたちが没頭するように組み立てられるべきと考えている。(p.117)

2019年の子どもの早期教育とケアのための全国コア・カリキュラムは、遊びに焦点を当てている。そこでは、「遊びが子どもの幸福と学びを促進させることの重要性と教育学的蓋然性を理解することは、子どもの早期教育とケアに不可欠」と述べられている。(中略)フィンランドの子どもたちが他の国の子どもたちよりも学校の内外でより多く遊んでいるのは明らかである。(p.118)

パラドックス4:公平性を強めると質が高まる

学校や地域社会の急速な多様化を経験しているフィンランドの社会的文化的状況は、興味深い研究事例を提供している。(中略)PISAデータに基づくと、フィンランドの学校の移民生徒は、2009年以前のPISAでは他の多くの国の移民学生よりも大幅に成績が良く、他の国の同級生よりも平均50ポイント高いスコアを獲得している。

第3章 フィンランドの優位性:教師

この章では、フィンランドの教師が果たす中心的な役割を検証した結果として、教師教育と教師の専門性に体系的に焦点をあてたことが、フィンランドの教育システムを世界的な関心の対象と研究対象に変えることに大きく貢献したことを述べる。(中略)フィンランドの経験は、教師の学校での仕事が職業上の尊厳、社会的尊敬、および同僚制に基づいており、そのために志を同じくする同僚とともに生涯の職業として教師を選んだことに満足できていることを確認できることが重要である。(p.129)

教育の文化

〈フィンランドでは〉1922年までに6年間の基礎教育へのアクセスが、すべての人にとっての法的な義務と権利となったが、フィンランド人は、識字能力を身に付け、幅広い一般知識を持たなければ、生涯の願望を実現することは難しいことを理解している。1860年代に正式な公立学校が普及し始める前、早くも17世紀には民衆の識字能力の育成は、フィンランドの司祭やその他の信者仲間の責任であった。(中略)伝統的に、教会による両性の合法的な結婚には、読み書きの能力が必要だった。したがって、読み書き能力は、関連する義務と権利とともに、個人の成人期への参入を意味した。(p.130)

1952年にフィンランドが夏季オリンピックを主催したとき、成人のフィンランド人の10人に9人は、7年から9年の基礎教育を修了しただけのレベルであった。(中略)〈当時の〉フィンランドの教育レベルはマレーシアやペルーの教育レベルに近く、スカンジナビアの隣国であるデンマーク、ノルウェー、スウェーデンに大きく遅れをとっていた。(p.130)

何世紀にもわたって、フィンランドは、その国民的アイデンティティ、母国語、および独自の価値観のために奮闘してきた。最初はスウェーデン王国の下で600年、次はロシア帝国の下で1世紀以上、そして次の1世紀の間、かつての支配国とグローバリゼーションの力の間で新たな独立国として歩んできた。この歴史がフィンランド人と、教育、読書、自己改善を通じた自己啓発への願望に深い痕跡を残したことは間違いない。識字能力はフィンランド文化のバックボーンであり、楽しむための読書はすべてのフィンランド人の文化的DNAの不可欠な部分になっている。(p.132)

フィンランドで教師と教育が高く評価されているのも不思議ではない。フィンランドのメディアは、普通高校卒業生の好きな職業についての世論調査の結果を定期的に報告している。驚くべきことに、教師は、典型的な夢のような職業と見なされている医師、建築家、弁護士より上位の、最も称賛される職業の1つとして評価されている。(中略)特に若い女性に人気があり、初等教育プログラムの受講者の80%以上が女性で、基礎教育の全教師と校長の77%は女性である。(p.132)

教師になる

毎年春に、才能があり創造的でやる気のある数千人の普通高校卒業生が、フィンランドの8つの大学の教師教育部門に申請書を提出する。フィンランドでは小学校の教師になる競争が非常に激しく、(中略)例えば、2020年のヘルシンキ大学の初等教員養成プログラムには1600人が応募し、合格者はわずか121人であった。(p.134)

フィンランドの小学校の教師教育候補者は2段階で選抜される。まず、5月上旬に筆記試験が行われる。これは、教師教育プログラムを提供している8つの大学すべて同じで、3月下旬に発表される一連の科学的および専門的な文献に基づく筆記試験である。2014年の試験のために読むべき文献としては、「子供の記憶の発達と評価」、「基礎教育の配置と選択における平等と正義」、「ヨーロッパにおける教育政策と学校の立場の変化」など、幅広い6つの文献が取り上げられた。(中略)第2段階は、候補者の性格、知識、および教師になるための全体的な適合性のテストで、候補者がアイデアを作成し、計画を立て、他の人と協力する方法を示すことをほとんどの大学が求めている。個別の面接では、とりわけ、教師になることを選択した理由を求めることが多い。大学は、合格者の最終選考において、試験の第1段階の結果や入学試験、卒業試験の成績、卒業証書のほか、芸術、スポーツ、その他の活動におけるメリットを考慮に入れる場合がある。(中略)これらの2つの選択段階が示唆するように、フィンランドの教師教育への競争は非常に厳しい。(p.134-135)

何が教育を最高の仕事にするのか?

私は、フィンランドの小学校の教師がキャリアの初期段階で辞める理由を理解するために彼らの話を聞いたことがある。興味深いことに、教師を辞める理由として給与を挙げている人はほとんどいなかった。代わりに、学校や教室で専門的な自律性を失うと、キャリアの選択が疑問視されると多くの人が指摘している。たとえば、外部の検査官が仕事の質を判断したり、外部の評価に基づく報酬方針が課されたりすると、多くの人が転職している。(中略)多くのフィンランドの教師は、標準化されたテストとハイステークスの説明責任に関する外部からの圧力に遭遇した場合、英国や米国の同級生が直面しているのと同様に、他の仕事を探すだろうと私に語った。要するに、フィンランドの教師は、自分たちの仕事に対する専門的な自主性、名声、尊敬、信頼を得ることを期待している。(p.138)

教師教育プログラムに参加するフィンランドの学生の質が高いため、カリキュラムと要件は、フィンランドの大学が提供する他の学位プログラムに匹敵するほど非常に厳しいものになっている。(中略)〈教師教育プログラムの〉修士号学位は、個人が政府や地方自治体で働いたり大学で教えたり、または民間部門の雇用で他の修士号保有者と競争する資格でもある。フィンランドでは、いまでもなお小学校の教師が必然的に修士レベルの学問的で研究ベースの資格を必要とするかどうかが疑問視されている。しかし、フィンランドの経験によれば、小学校の教育学位の要件が引き下げられた場合、多くの有能な教師は、より高い学歴を与えてくれるような領域、のちのちキャリアでより多くの雇用機会を開く専門領域での研究を求めて去っていくことになるかもしれない。(p.138-139)

研究ベースの教師教育

1970年代の終わりまで、小学校の教師の養成のために、教員養成大学または特別な教員養成セミナーが用意されていた。中学校および高校の教科の教師はフィンランドの大学内の特定の教科に特化した学部で学んだものがなった。1970年代の終わりまでに、すべての教師教育プログラムは高等教育の一部となり、(中略)修士号は、フィンランドの学校で教えるための基本的な資格になった。同時に、科学的内容と教育研究の進歩により、教師の教育カリキュラムが充実し始めた。(p.140)

フィンランドのアカデミックな教師教育は、将来の教師の個人的能力と専門的能力のバランスの取れた開発に焦点を当てている。特に現代の教育知識と実践に従って教育プロセスを管理できるように、教育学的思考スキルの構築に注意が向けられている。フィンランドの初等教師教育では、このことは主要教科の研究が、以下の3つのテーマ分野で構成されることに特徴がある。

1.教育の理論

2.教育内容の知識

3.主題の講義(didactics)と実践

フィンランドの研究ベースの教師教育プログラムは、必須となっている修士論文で完結する。将来の小学校の教師は通常、教育の分野で論文を完成させる。通常、修士論文のトピックは、数学の教育や学習など、教師自身の学校や教室での実践に焦点を当てているか、それに近いものである。(p.142-143)

研究者としての教師

研究ベースの教師教育は、教育理論と研究方法と実践のすべての統合が、フィンランドの教師教育プログラムにおいて重要な役割を果たすことを意味している。教師教育カリキュラムは、教育的思考の基礎から教育研究方法論、そして教育科学のより高度な分野に至るまで、体系的な連続体を構成するように設計されている。これにより、各学生は、教育実践の体系的で学際的な性質についての理解を深める。フィンランドの学生はまた、教育の実践的または理論的側面に関する独自の研究を設計、実施、および提示するスキルを習得する。フィンランドの研究に基づく教師教育の不可欠な要素は、(中略)カリキュラムの重要な要素である学校での実践的なトレーニングである。(p.150)

フィンランドの教師教育プログラムには、原則として2種類の実習体験がある。実地研修のごく一部は、教師教育学科(教育学部の一部)内のセミナーや小グループクラスで行われ、学生は仲間と基本的な教育スキルを練習する。(中略)小学校の教師教育では、予定されている学習時間の約15%(たとえば、ユヴァスキュラ大学では40 ECTSクレジット)を学校での実習に費やしている。教科教員養成では、学校での教育実習の割合がカリキュラムの約3分の1を占めている。(中略)教育実習は通常5年間のプログラムで、基本(オリエンテーション)実習、上級(副専攻)実習、最終(マスター)実習の3つのフェーズに分けられる。(p.150)

専門性開発

フィンランドの教師の受け入れ(induction)に関する慣行は多様である。一部の学校は、その使命の一つとして、新しいスタッフのために高度な手順とサポートシステムを採用しているが、他の学校は、単に教室を見せて新しい教師を歓迎している。一部の学校では、受け入れは学校の校長または副校長の明確な責任であるが、他の学校では、受け入れの責任を経験豊富な教師に委ねる場合もある。(p.153)

修士号を持つフィンランドの教師は、通常の専門性開発の機会を補うために博士課程に進む権利がある。小学校の教師は、教育学部でさらなる勉強を簡単に始めることができる。彼らの博士論文は、教育科学の選択されたトピックに焦点を当てている。多くの小学校教師はこの機会を利用しつつ、同時に学校で教えている。(p.154-155)

教師はリーダーである

フィンランドの教育改革の過程で、教師はカリキュラムの計画と生徒の評価に対して、より多くの自律性と責任を要求してきた。(中略)カリキュラムの計画は、州ではなく、教師、学校、自治体の責任である。今日のほとんどのフィンランドの学校には、地元の教育当局と調整され承認された独自のカスタマイズされたカリキュラムがある。これは、教師と校長がカリキュラム開発と学校運営計画の作成において中心的な役割を果たしていることをまさしく意味する。総合学校と高校の全国フレームワーク・カリキュラムは、各学校がカリキュラム開発活動で留意すべきガイダンスと必要な規制を提供している。ただし、(中略)フィンランドの学校がカリキュラムに含める必要があるのは、生徒の学習成果に関する厳格な国内基準や説明ではない。そのため、フィンランドのカリキュラム計画とその結果として生じるカリキュラムは、学校ごとに異なる可能性がある。(p.155-156)

もう1つの重要な教師の責任として生徒の評価がある。先に述べたように、フィンランドの学校は、生徒の進捗状況や成功を悉皆調査に基づく標準化されたテストで判断していない。これには4つの主な理由がある〈が、ここでは3番目と4番目のみを訳出する〉。

3.生徒の個人的および認知的進歩を判断することは、外部の評価や評価者ではなく、学校の責任と見なされている。ほとんどのフィンランドの学校は、教師がすべての生徒の評価を行うときに、比較可能性や一貫性などの欠点があることは認識している。しかし同時に、外部の標準化されたテストに関わるカリキュラムの狭小化、テストへの教育、学校と教師間の不健康な競争などの多くの問題は、さらに厄介になる可能性があると広く認識されている。したがって、教室での評価と学校ベースの評価は、フィンランドの教師教育カリキュラムと専門能力開発の重要かつ価値のある要素である。

4.生徒の評価に関するフィンランドの国家戦略は、テストベースの成績データは全体の一部にすぎないという多様な証拠に基づいている。さまざまな科目の成績に関するデータは、サンプルベースの標準化されたテストとテーマ別レビューを使用して収集される。自治体は、ニーズと願望に応じて、品質保証の実践を自律的に設計している。(p.156-157)

学校のリーダーは教師

一部の国では、ビジネススタイルの管理によって効率が向上し、パフォーマンスが向上することを期待して、学校を非教育者が主導することを許可している。同様に、地方の教育当局や管理者が、学校で教えたり指導した経験のない人である場合がある。フィンランドでは、地方自治体の教育事務所における教育リーダーは、例外なく、教育分野で働いた経験のある教育の専門家の手に委ねられている。これは、学校と教育行政の間のコミュニケーションを強化し、信頼を築く上で重要な要素である。

フィンランドでは、校長は自分が率いる学校で教える資格がなければならず、教師としての確かな実績がなければならない。彼らはまた、フィンランドの大学が提供する教育行政とリーダーシップに関する学術研究を完了している必要がある。これは、そのような資格のない企業のCEOや退役軍人のトップが、フィンランドの学校を率いる資格がないことを意味する。校長は、例外なく実績のあるリーダーシップ能力と適切な性格を備えた経験豊富な教師である。多くの学校では、校長も毎週自分で教える少数のクラスを持っている。(p.160-161)

1994年のカリキュラム改革などの主要な教育の改変は、主に学校長の専門的な態度と教育的リーダーシップにより、成功裏に実施された。それ以来、フィンランドのこのリーダー集団は、教師、学生、社会のニーズに基づいて教育政策を策定し、学校の改善を推進する上で重要な舵取りをしてきた。これらの経験に基づくと、教育的リーダーシップの中心的役割をしばしば弱体化させる市場ベースの教育改革がフィンランドで実施されうるとは想像しがたい。(p.161-162)

1970年代後半に小学​​校の教師教育を大学に移し、教員に必要な資格を修士号にアップグレードして以来、フィンランドは最も才能があり意欲的な若者を教育に惹きつけてきた。(中略)〈その理由として〉2つの顕著な要因が特定される可能性がある。まず、教育科学の分野で求められる修士号は、小学校の教師として雇用されるのに必要なだけでなく、教育行政や民間部門での仕事を含む他の多くのキャリアのために、競争力のある専門的な基盤を提供する。すべての修士課程卒の教師は、フィンランドでは授業料がかからない博士課程に入学する資格がある。第二に、多くの若いフィンランド人は、学校での仕事が、たとえば医師、弁護士、建築家としての仕事に匹敵する、自律的で独立した、高い評価の職業として認識されていることで、教育を主なキャリアとして選択している。テストベースの説明責任または中央で義務付けられた規制を通じて、学校での教師の仕事に対する外部管理が強化されると、聡明な若者が、自分の創造性とイニシアチブを自由に利用できる他の専門職に転向する可能性がある。(p.163)

良い教師、素晴らしい学校

フィンランドの教師の5人に3人は、自分の職業が社会で高く評価されていると感じている。これは、2018年のTALISに参加した45か国の平均32%をはるかに上回っている。(中略)学校がスタッフに学校の意思決定に参加する機会を提供すると、教師は教育が大切な職業であると感じる可能性が高くなる。

もしフィンランドの優れた教師があなたの学校で教えたら?

学校に優れた教師がいるだけでは、自動的に優れた学習成果につながるわけではない。フィンランドを含む高性能の学校制度からの教訓は、私たちが職業としての教育についての考え方と、私たちの社会における学校の役割を再考しなければならないことを示唆している。国の政策立案者は、フィンランド、カナダ、シンガポールのような教師がいることを夢見るのではなく、教職に影響を与える次の3つの側面を考慮する必要がある。第一に、教師の教育はより標準化されるべきであり、同時に教育と学習は標準化されるべきではない。(中略)第二に、学校に対する説明責任の有毒な使用は再考されるべきである。第三に、(中略)教師が自分の仕事を計画する際の自律性、最良の結果につながる教授法を使用する自由、そして自分の仕事の結果の評価に影響を与える権限を持つべきであることを示唆している。(p.172)

第4章 フィンランドのやり方:競争的福祉国家

グローバリゼーションの力

グローバリゼーションは文化的なパラドックスである。それは、人々と文化を統合させると同時に多様化させる。それは、より広い世界的な潮流に教育政策を統合させることによって、各国の教育政策を一元化していく。問題と課題は教育システムごとに類似しているため、解決策と教育改革のアジェンダも類似したものとなる。(p.174)

グローバルな教育改革運動

 グローバル教育改革運動(global educational reform movement、すなわちGERM)のアイデアは、政策と慣行の国際的な交換の増加から発展した。(中略)GERMは、多国籍民間企業、超国家開発機関、国際的資金提供者、民間財団、およびコンサルティング会社の戦略と利益を通じて、世界中の国家教育改革と政策立案プロセスへ介入・推進されている。(p177)

 GERMは3つの主要な源に刺激されて出現した。 1つ目は、1980年代に支配的になった学習の新しいパラダイムで(中略)教育改革の焦点を教育から学習へと徐々にシフトさせた。このパラダイムによって、学校教育に期待される成果は、事実の記憶や無関係なスキルの習得よりも、より大きな概念理解、問題解決、情動的多重知能、対人スキルが強調されるようになった。(p177-178)

 2番目の刺激は、保証された効果的な学習をすべての生徒に求める国民の要求であった。「万人のための教育」と呼ばれる世界的なキャンペーンは、(中略)教育政策の焦点を一部の人への教育からすべての人の学習に移行させた。(p178)

 3番目の刺激は、公共サービスの分権化の世界的な波に伴う教育における競争と説明責任の動きである。学校と教師が生徒と資金をめぐって競争し、その結果(例えば、生徒のテストの成績)に責任を持たせることで、この動きは、教育スタンダード、教育と学習の指標と基準、序列化された評価とテスト、規定されたカリキュラムの導入につながった。(中略)さまざまな形式のテストベースの説明責任が出現し、学校の成績、教育の質の向上が適格性認定、昇進、制裁、資金調達のプロセスと密接に関連するようになった。言い換えれば、教育は、サービス提供の効率が最終的にパフォーマンスを決定する商品になった。(p178)

 1980年代以降、教育の政策と改革原則の少なくとも5つの世界共通の特徴が、特に学生の成績向上の観点から、教育の質を向上させる試みに採用されてきた。(以下、項目のみ)

1.学校間の競争の激化

2.教育の標準化

3.カリキュラムの中核科目(識字や計算など)の焦点化

4.外部の標準化されたテストベースの説明責任

5.保護者の学校選択(p178-181)

表4-1 グローバル教育改革運動とフィンランドの教育改革モデル

(Pasi SahlbergのFinnish Lessons 3.0、p.183-184に掲載された対照表を訳出して並べ替え、小見出しを諏訪が付加)

(1)学校間の競争と協力

GERM:学校間の競争

根底にある仮説は、競争が市場メカニズムとして機能し、最終的には質と生産性とサービスの向上をもたらすということ。公立学校についてもチャーター・スクール、フリースクール、インデペンデント・スクール、私立学校と入学者獲得で競い合うことで、最終的に教育と学習も改善すると想定。

フィンランド:学校間のコラボレーション

根底にある仮説は、人々を教育するということは協働的なプロセスであり、学校間での協力、ネットワーク、アイデアの共有は、最終的には教育の質を高めるということ。したがって学校が協力し合うことで、互いに助け合い、教師が教室で協力の文化を創造するのを助けることになると想定。

(2)学習の標準化と個別化

GERM:スタンダード化された学習

すべての学校、教師、および生徒の質と公平性の向上のために、明確かつ高度で、一元的に規定されたパフォーマンス目標を設定する。 このことが、外部で設計されたカリキュラムを通して、測定とデータの一貫した共通の基準を確保しうる、スタンダード化された教育に導くことになる。

フィンランド:個人に対応した学び

学校をベースとするカリキュラム策定のために、明確ではあるが柔軟な全国的枠組みを設定する。すべての人に対応した学習機会を創出する最良の方法を見つけるために、国の目標に対する学校をベースとした個別の解決策を奨励する。特別な教育ニーズのある人には個別の学習計画を使用する。 

(3)学びの焦点

GERM:リテラシーと計算能力に焦点を当てる

読み書き、数学、自然科学の基本的な知識とスキルが、教育改革の主要なターゲットとなる。 通常、これらの科目の指導時間は、(芸術や音楽などの)他の科目の時間を削って増加させる。

フィンランド:全体としての子どもの学びと幸福に焦点を当てる

教育と学習は、個人の人格、道徳的特性、創造性、知識、倫理、スキルの成長のすべての側面に平等な価値を与えるような、深く幅広い学びに焦点を当てる。遊びは、それぞれの、そしてすべての子どもの権利である。

(4)学校と教師の責任

GERM:テストベースの説明責任

学校の成績と生徒の成績の向上は、昇進、検査、そして最終的には学校や教師に対する報酬のプロセスと密接に関係する。 教師の給与と学校の予算は、生徒のテストの点数によって決まる。 制裁措置には、多くの場合、解雇や学校の閉鎖が含まれる。 国勢調査に基づく児童生徒の評価とデータは、政策立案に情報を提供するために使用される。

フィンランド:信頼に基づく責任

生徒にとって何が最善かを判断する際に、教師と校長の専門性を尊重するという、責任と信頼の文化を教育システム内に徐々に構築している。 失敗したり取り残されたりするリスクのある学校や生徒に、資源と支援が提供される。政策策定に情報を提供するために、標本調査に基づいた学生評価とテーマ別の調査が使用される。

(5)競争的選択と公平

GERM:選択による優位性

基本的な前提は、家族のニーズにより良く応えるために学校間の健全な競争を奨励しつつも、子どもの教育を選択する自由が保護者に与えられなければならないということ。理想的には、学びの質を向上させるために、公立であろうと私立であろうと、保護者は子供の教育のために確保された公的資金を使用して、自分に最適な学校を選択できるべきである。

フィンランド:結果の公平性

基本的な前提は、すべての子どもが学校での教育の成功について平等な見通しを持つべきであるということ。学校での学習は子どもの家庭の背景と、関連する要因に強く影響されるので、不平等に対処するための実際のニーズに応じた資金が学校に提供されることが、結果の公平には必要である。公平な教育は制度の優位性へのカギと見なされる。

GERMは、変化の主要な推進役である学校における教師の仕事と生徒の学びにとって、重要な帰結をもたらした。もっとも顕著なインパクトは教育と教育課程におけるスタンダード化である。教育当局とコンサルタントによる成果のスタンダード化は、子どもたちが学ばねばならないことの大部分は明確なスタンダードでは定式化できないこと理解せず、教師や生徒の生活に持ち込むものである。(p.185)

 GERMは、変化の主な推進力となっている学校での教師の仕事と生徒の学習に深刻な影響を及ぼしてきた。最も顕著な影響は、教育および教育プロセスのスタンダード化である。(中略)これらのスタンダードに沿った新しい形式の評価とテストは、しばしば失望させられるもので、学校に新しい問題をもたらすことさえある。しかし、スタンダード化された行動計画は教育の効率と質の大幅な向上を約束するため、政治的にも専門的にも変化の基本的なイデオロギーとして広く受け入れられている。(p185)

 GERMは、学習と教育の管理に対するいくつかの基本的な新しい方向性を強調しているため、政策立案者やコンサルタントの間で世界的に人気がある。学習を優先すること、すべての生徒に高い成果を求めること、評価を教育と学習のプロセスの不可欠な部分にすることなど、教育の質、公平性、効果を向上させる強力なガイドラインを提案するからである。しかし、それは公立学校の民営化にもつながるものである。(中略)基本に集中し、生徒と教師のための明確な学習目標を定義することにより、そのようなスタンダードは、読み書きと数学的および科学的リテラシーのコアスキルを習得することに重点を置いている。(p186)

イノベーション経済

 PISAデータは、GERMの背後にある概念が正しいことを示唆しているであろうか? PISA 2012以降GERMの要素が世界中で成功した改革とどのように関連しているかを確認するために、注目に値する3つの明確な調査結果がある。最初の発見は、独自のカリキュラムと生徒の評価に対して学校に自律性を与える教育システムは、そうでない学校よりも優れていることが多いということである。(中略)2番目の発見は、高い平均を示す学習成果とシステム全体の公平性はしばしば相互に関連しているということである。(中略)成功しているすべての学校制度において、公平性は最重要課題となっている。3番目の発見は、学校の選択と競争は教育システムのパフォーマンスを改善しないということである。OECD諸国では、学校の選択と学校間の競争は、教育システムにおけるより高いレベルの人種差別に関連している。(中略)成功しているすべての学校システムには、公立学校と地元の学校の管理を維持するという強い決意がある。PISAのデータは、チャーター・スクールとフリースクールの普及、およびそれと関係する学生獲得をめぐる競争は、学生の学習が改善しているという識別できる関係がないことを示している。(p187-188)

 国際化とフィンランドの欧州連合への統合は、公的機関とその基本的な機能の統合と発展を調和させ、強化してきた。この観点から、フィンランドの教育の成功を経済的および政治的観点からどのように理解できるかについて、3つの結論を導き出すことができる。

1.フィンランドの教育改革の成功は、1990年代から実施された変更や改善ではなく、主に1970年代と1980年代に確立された制度と制度構造に基づいている。政府の規制によって作成され、すべての人に幸福の基本的な条件を提供する責任によって動機付けられた国が生み出した社会関係資本は、教育の達成に好ましい社会的背景を提供してきた。

2. 1990年以降のフィンランドの初等中等教育の変化は、新しい制度構造よりも、関心、アイデア、イノベーションに関するものであった。新しいポリテクニックシステムが導入された高等教育を除いて、1990年代の制度の変化は小さかった。

3.欧州連合のほとんどの公共部門の政策において主要な推進力であった国家競争力の強調は、1990年代から2000年代にかけて、フィンランドにおいては、公共政策部門における明確な目標や活動に転換されていない。同時に、1970年代初頭に公布された平等と平等の原則は、徐々に影響力を失っている。(p195)

福祉、平等、競争力

1970年代以降の教育改革を導いた政策は、フィンランド社会の特徴を際立たせてきたこれらの文化的価値観とコンセンサス構築の原則に依拠していた。フィンランドは、他の北欧諸国の主要な戦後の社会政策に追随した。これは、教育を含む基本的な社会サービスがすべての市民のための、特に最も支援と援助を必要とする人々のための公共サービスになるタイプの福祉国家の創設を導いた。(p.198)

 所得の不平等、子どもの貧困、学校における適切な生徒の福祉の欠如はすべて、教育システムの質を向上させる上で重要な問題である。(中略)このことは、過去半世紀の間にフィンランドでよく理解されてきた。無料の学校給食、包括的な福祉サービス、そして困っている人々への早期支援が、フィンランドのすべての学校のすべての子供たちに無料で提供されている。すべての子供は、法律により、学校でこれらの福祉サービスを受ける権利を持っている。(p.199-200)

 1990年代のフィンランドの経験は、教育とその結果としての知識が経済成長と変革の原動力になり得る数少ない実証例の1つを表している。その10年の間に、フィンランドは通信技術において世界で最も卓越した経済国家となり、情報源主導の国から知識主導および革新主導の経済および教育システムへの移行を完了した。 2000年代、フィンランドは、国家の経済競争力、透明性と優れた統治、技術の進歩・革新、持続可能な開発政策の実施、そして驚くべきことに人々の幸福の国際比較で、一貫して高い評価を獲得した。フィンランドの経済は、世界経済フォーラムの世界競争力指数で、21世紀の最初の10年間に数回最も競争力があるとランク付けされた。(p.200)

 ジェンダー平等はフィンランドの社会にとって重要な価値である。2019年12月、政権を握った新政府は、総理大臣、財務大臣、教育大臣、35歳に満たない内務大臣など、5人の女性閣僚に率いられている。(p.201)

海外の革新、フィンランドの実施

 フィンランドの現在の教育モデル、学校改善の実践、教育革新の起源を詳しく見ると、フィンランドの学校のもう1つの興味深い特徴が明らかになる。フィンランドの学校を開花させた革新の多くは、他の国、しばしばアメリカ合衆国にさかのぼることができる。(p.204)

 次の5つのアメリカの教育アイデアは、フィンランドの教育の成功を加速させるのに役立った。

1.ジョンデューイの教育哲学

(前略)デューイの教育哲学は、フィンランドにおける学術的で研究に基づく教師教育の基盤を形成し、(中略)すべての小学校の教師は、修士号を取得するためのコースの一環として、デューイとコスケニエミのアイデアを読んで探求している。多くのフィンランドの学校は、生徒が自分の生活や学校での学習に関する意思決定への参与を高める民主主義のために、デューイの教育に関する見解を採用している。(p.207)

2.協同学習

 他のほとんどの国と異なり、協同学習はフィンランドの教育システム全体で広く実践されている教育学的アプローチである。1970年代初頭に発足したフィンランドの9年間の総合学校は、さまざまなバックグラウンドを持つ生徒を定期的に小グループで学習させるという考えに基づいて構築された。しかし、現在ではフィンランドのすべての学校で知られている協同学習を取り入れたのは1994年の全国カリキュラム改革であった。(p.207)

3.多重知能

 1980年代半ばに生徒の能力別教育と追跡をすべて廃止した後、〈フィンランドは〉教育政策と学校慣行の両方で、すべての子供が学ぶことができ、子供にはさまざまな種類の知性があり、学校はバランスの取れた方法でこれら個々の側面の育成方法を見つけねばならないという原則を採用した。ハワードガードナーの多重知能理論は、これらの原則を学校の実践に移す際の主要なアイデアになった。(p.208)

4.クラスごとの代替評価

 フィンランドのカリキュラムにおける子供中心の、相互関与が豊富な、すべての子供を大切にするアプローチでは、学校でさまざまな評価モデルを使用する必要がある。(中略)〈それに適した〉方法の多くが米国の大学で開発されたにもかかわらず、フィンランドでは米国よりもはるかに人気があるのは皮肉なことである。それらの方法としては、ポートフォリオ評価、パフォーマンス評価、自己評価と内省、および学習方法の評価などがある。(p.208)

5.ピア・コーチング

 米国で設計されて〈フィンランドに導入された〉イノベーションの良例は、ブルース・ジョイスと彼の同僚の研究開発作業の結果として1980年代、1990年代に進展したピア・コーチングである。(中略)ピア・コーチング、つまり、教師が協力して進行中の実践を振り返る密かな過程は、新しいスキルを拡大・改善・学習し、アイデアを交換し、クラス・リサーチを実施するものである。1990年代半ば以降、フィンランドの学校改善プログラムや専門能力開発では、学校で一緒に問題を解決することが一般的になっている。(p.209)

 世界で成功しているすべての教育システムに改善をもたらしたイノベーションが、米国の学校システムで大規模に実践されていないのはなぜかと疑問に思うことがよくある。米国の学校の仕事は官僚機構、テストベースの説明責任、および競争によって強くに操られているため、この厄介な状況の中で学校は強制されていることを単に行っているだけ、という可能性があることをフィンランドからの教訓は示唆している。(p.209)

フィンランドの学校についての神話 

 例えばイギリス、オーストラリア、米国、スウェーデンのように、過去20年間、政治家が公約し、大規模な改革を行い、学校を変える無計画な奮闘に大量の金をつぎ込みながら、なぜ学校制度を改善できなかったかを、今になってより理解できるようになった。その重要な教訓は、次のようなものである。

・教育制度と学校は、激しい競争と数値に基づく説明責任、そして実績によって決まる報酬が一般原則となっている企業ビジネスのように管理されるべきではない。そうではなく、成功する教育システムは、協力と信頼、学校内と学校間での同僚としての平等な責任に依存しているのである。

・教育の専門性は、わずかな助言で誰もができるような小手先の一時しのぎの技ではない。成功する教育システムは、教職の一連の専門性と学校のリーダーシップと継続的な現場でのトレーニングに依拠しており、学校のリーダーシップは最先端の学問的な教育学と確かな科学的かつ実践的な知識を必要とするものである。

・教育の質は、読み書きや計算のテストの成績で判断されるべきものではない。成功する教育システムは、すべての子どもの発達や教育成果の公平性、well-being、主要教科と同様に芸術、音楽、演劇、体育も重視してデザインされるものである。(p.209-210)

教育システムがどうして、なぜうまく機能するかについての有益な教訓とは別に、誤った理解、正確でない解釈、神話、そして、どうすれば教育システムを最高に改善できるかという意図的な嘘がまかり通っている。(中略)フィンランドの学校についての事実ではない物語が多数ある。(p.210)

 フィンランドの学校がなぜ他の多くの国の学校より良いのか、なぜ以前より悪くなったのかを説明しようとする多くの努力は、エコシステムとしての教育を理解することが不可欠という、フィンランドの社会の相互依存性を見落としている。ほとんど例外なく、フィンランド・モデルについての物語は、幼児期の教育とケア、子どもに対するスポーツサービスへのNPOの積極的な関与、あるいは公立図書館の密なネットワークが基礎教育における生徒の成績に及ぼしている役割について、ほとんど語っていない。(P.211)

 フィンランドのやり方がいいの悪いのを判断する以前に、フィンランドの教育システムの根本を理解しておくことが重要である。(中略)全国コア・カリキュラムは、それぞれの学校が何を教えるべきか、どのようにそれをアレンジするか、そして期待する成果という点で、地方当局にとってかなり緩やかな規制の枠組みでしかない。したがって、学校は非常に柔軟に、自律的にカリキュラムをデザインすることができることになり、場所が変われば学校のカリキュラムはかなりの違いが存在しうる。(p.202)。

 全国コア・カリキュラムは、伝統的な教科領域よりも教科横断的な教育原理に基づいたもので、そのねらいは、子どもとはこういう姿であるべきであろうということを述べている。

1.異なる学習内容間の関係と相互関係を理解する。

2.異なる教科で学んだ知識とスキルを結び付けて意味のある全体を形作ることができる。 3.知識を応用して協同学習の場でつかうことができる。

第5章 将来はフィンランド流となる?

異なることによる成功

この本で、グローバル教育改革運動に従うことを主張することは、持続可能な未来に貢献する良い生活を送るように子供たちに教える学校の努力を危うくするかもしれないという私の懸念を伝えた。地区と全体のシステムレベルの教育改革介入は、より高い期待を設定し、説明責任を強化し、自律性を高め、学習時間を拡大し、データ使用を強化し、学校の人的資本により多く投資するための戦略的優先順位に依存するのが一般的である。(中略)フィンランドは、(このような)GERMの教義を無視して、1970年代初頭以来、持続的な教育の改善と強力な全体的な成果を示してきた。(p217)

多くの国では誰でも教職に就くことができるが、フィンランドの学校では教師に高度な専門性が求められている。他の国が高価な教育データシステムを持つことに投資したとき、フィンランド人は教育と学習に焦点を合わせてきた。公共部門の行政の多くが徹底的な地方分権化を経た1990年代初頭以来のフィンランドの教育改革の原則は、官僚的なトップダウンの説明責任政策を適用するのではなく、教育者による専門的責任の開発と教師と学校間の学習の奨励に依存してきた。(p.217-218)

ある批評家は、フィンランドには他の多くの国を特徴づける非常に多様な民族がいないため、学校の成績が良いと主張している。他の批評家は、子どもの貧困のレベルが低く、社会的にまとまりのある社会であることがフィンランドの生徒の優れた教育成果を説明すると指摘している。しかし、フィンランドはすべての子供たちに普遍的な幼児教育ケアを確立し、学校を学習とケアのセンターとしているため、教師は最も重要なことと最も得意なこと、つまり子供たちの学びの支援に集中できると私は主張する。教師は、学校に適用される頻繁なテスト、他の学校との競争、または管理者によって課される成績目標に邪魔されることはない。1990年代の初め以来、フィンランドの学校は、独自の学習概念を探求し、実際の学習理論に一致する教授法を開発し、すべての生徒のニーズを満たす教育環境を構築するよう体系的に教育当局から奨励されてきた。これが、多くのフィンランド人学生がすべての学校でよく学ぶ理由である。(p218-219)

フィンランドはNPOの国である。フィンランドには13.5万の登録されたNPOがあり、そのうちの7万のNPOが1,500万人のメンバーとともに活発に活動している。平均して、各市民は3つの協会または社会に属している。若いフィンランド人はまた、通常は明確な教育的な目的と原則を持っているスポーツや青年の組織に積極的に関わっている。彼らはこれらの協会に参加するとき、社会的スキル、問題解決、およびリーダーシップを学んでいる。フィンランドでは、これらの組織が、学校が提供する正式な教育にプラスの付加価値を与えると一般的に認められている。(p.219)

すべての生徒の学習を改善するためのフィンランドの(以下の)レシピは、他の多くの国で見られるものとは異なる:

1.すべての人に良質の公教育の機会均等を保証する

2.教師の専門性と信頼を強める

3.カリキュラム、アセスメント、ポリシーを含む、教育の計画、実施、評価のすべての中心的な側面に教師と校長を関与させる

4.学校とNPOおよび地域コミュニティの間のネットワークによる学校改善コラボレーションを促進する(p219)

この本の重要なメッセージは、競争の激しい環境にある学校は、厳しい教育のジレンマに陥っているということである。前進するためには、学校教育のプロセスについて勇敢で新しい考え方が必要である。英国、北米、および世界の他の多くの地域で採用されている公共部門における有毒な説明責任の文化は、学校や地域社会の社会関係資本をしばしば脅かしている。信頼をサポートするのではなく、損害を与えている。結果として、教師と学校の指導者はもはや信頼されなくなるのである。(p219)

フィンランドの教訓の理解

今日の教育政策は、フィンランド社会全般、特に教育システム内で多様性、信頼、尊重の文化を生み出した30年間の体系的で、ほとんどが意図的な開発の結果である。

OECDの教育責任者(Andreas Schleicher)は、フィンランドの成功の1つの要素は、「既存の構造、政策、慣行の最適化を超えた方法で改革を追求し、1960年代までの教育政策と実践を基礎とするパラダイムと信念を根本的に変革した政策立案者の高い能力」と指摘している。フィンランドの教育政策の論調は、新しい公共部門の管理やその他の新自由主義政策の結果として1990年代に劇的に変化したが、フィンランドは市場ベースの教育改革の影響を受けなかった。代わりに、教育セクターの発展は、競争や選択ではなく、公平性と資源の公平な分配に基づく価値観に基づいて構築されてきた。(p220-221)

見過ごされがちなフィンランドの教育システムの成果の1つは、フィンランドの子供たちが幼い頃からすでに持っている特に高いレベルの読書リテラシーである。これには教育的理由と社会的文化的理由の両方がある。学校での読書指導は、標準化された指導ではなく、個人の発達とペースに基づいている。フィンランドの親はたくさん本を読んでおり、本や新聞は密な図書館ネットワークを通じて簡単に入手でき、子供たちは幼い頃から字幕付きのテレビや映画に触れている。(p221)

フィンランドの子供たちの学校教育は、7歳になる年の8月に正式に始まる。(中略)学校は通常小規模で、クラスの人数は15人から25人である。(p222)

2020 年時点で、フィンランドの総合学校の15 %は生徒数は50人未満で、500人以上の生徒がいたのは13%。(中略)フィンランドの地方自治体の財政状態が厳しくなった結果、2010年以降に約700の総合学校が閉鎖された。それらの多くは小さな田舎の学校である。(p222)

教職は、毎年最高の高校卒業生を引き付ける独立した尊敬される職業と見なされている。キャリアとして教職の強い魅力の主な理由は、修士号がフィンランドの学校の教師としての正規雇用の基本要件であり、修士号の所持が将来の他の雇用機会への扉を開くという事実である。したがって、最初のキャリアとして教職を選択する個人は、自分の人生が学校で働くことに限定されているとは感じていない。(中略)過去10年間で、フィンランドの学校は、教育の博士号を取得している校長と教師の急増に注目している。(p223)

変化に関する知識の移転(略)

フィンランドの学校にとってのストレステスト(略)

フィンランドの教育の将来

フィンランドは、学校や教師の成績に対する説明責任を高めることが生徒の成績を上げるための鍵であると想定する教育的説明責任運動に従わなかった。伝統的に、生徒の成績の評価は、フィンランドの各教師と学校の責任であった。国の標準化されたテストがないため、生徒の評価は、学校レベルで教師が作成したテストとサンプルベースの全国評価に基づいている。通常、フィンランドでは、小学4年以前に児童同士を直接比較できるような数値による成績評価はなされない。学校のカリキュラムまたは地方自治体の教育計画に記された評価法に従って、説明的な評価とフィードバックのみが採用されている。小学校は、大部分が「標準化されたテストのフリーゾーン」であり、児童は知り、創造し、自然な好奇心を維持するための学びに集中できる。(p224)

(フィンランドの教育専門家の)多くは、学校における教育と学習にともにマイナスの影響をおよぼしている二つの広範な問題を指摘している。第一は、2010年以来の継続的な予算削減によって学校とクラスが大規模化したり、特別な対応が必要な多くの子どもが学校で十分な支援を受けられぬまま取り残されたり、教育計画において教育的配慮よりも効率性が優先されたりしていること。二番目に、若者がデジタルなメディアやテクノロジーに過剰な時間を費やすという、若者の行動様式の変化が、心理的、情動的、社会的、認知的な問題を抱えた学生が増加させていることである。また、学校内に官僚的傾向が増大して、教員や校長が管理運営に多くの時間を費やしており、子どもと過ごす時間が減少していると考える専門家もいる。政策立案者と多くの教師によると、この二つの課題につながるフィンランドの教育システムのもっとも憂慮すべき側面は、公平な学校システムの基盤であった教育的な公平性が、急速に侵食されていることである。(p243)

過去の教育ビジョンが達成された今は、フィンランドではこれから20~30年にわたって教育的な変化をもたらしうる新たなビジョンを作るべき時である。結論として、私はフィンランドの教育の未来のためのこの新しいビジョンを作成するためのいくつかの種を提供する。(中略)学校教育の既存の形態は根本的な変更を必要としている。何よりもまず、フィンランドの学校は、学校でよりパーソナライズされた学習が行われるように、かつては特徴であった生徒の関与を回復する必要がある。パーソナライズとは、教師をテクノロジーや個別の学習に置き換えることを意味するものではない。新しいフィンランドの学校は、すべての生徒が自分たちの生活に必要な社会的スキルを学ぶことができる、社会的に刺激的で安全な環境でなければならない。パーソナライズされた学習と社会教育は、より専門化されたものとなるが、知識とスキルのより強力な共通基盤の上に構築されるものである。この学校の新しいビジョンでは、次のような新たな考え方がありうる。(p244)(以下、p244~248の項目のみ列記)

1.クラス全体を一つのサイズに合わせる教育から柔軟な自己主導の学びへ

  さらに個別化された、アクティビティ主体の学習が開発されると、最終的に、デジタルデバイスを介して学校で現在教わっていることの大部分をいつでもどこでも学ぶことができる状況になる。手持ちの携帯デバイスが、知識や他の学習者へのオンラインアクセスを提供するようになり、現代の専門知識と専門的な仕事に必須な知識と能力も、学校や伝統的な教室で共有されることになる。フィンランドと他のいくつかの国は、最も重要なのは学年や学校の時間の長さではないことを示している。環境が適切で解決策が賢明であれば、教えることを少なくすることで、生徒の学習は実際に増えるようになる。(p244-245)

 教科に時間を割り当てる観点から将来の学校教育を考える〈これまでの方法〉を続けるのではなく、今、大胆に動き、学校での時間の編成を再考する必要がある。これは、母国語、数学、科学などの従来の教科に費やす時間を減らし、統合されたテーマ、プロジェクト、および活動により多くの時間を費やすことを意味する。(p245)

2.個人差を無視した教育から個別化した学びへ

好奇心が探求、調査、学習に関連しているならば、それはすべての年齢の子供たちの学校での学習の中心的な要素でなければならない。好奇心は知識への渇望を表しており、学習と達成の背後にある主要な力である。スタンダード化されたカリキュラムから引き出された教育ではなく、カスタマイズされた個別の学習計画に依存するように、学校を再考する必要がある。(p246)

3.知識資本から社会資本へ

将来、ほとんどの人が必要とするのは、学校以外の場で学ぶことは可能性の低い、他の人と協力して真の問題解決を行うことである。これは、将来の学校の基本的な機能の1つになる。それは、多様な個人の小グループで共感、協力、創造的な問題解決を学ぶことである。(p247)

4.序列を作ることから熱中できるものを見つけることへ

 学校が複雑で予測不可能な世界で誰もが必要とする教育スキルを強調するように動くにつれて、成功する学校であるための基準も変更する必要がある。人々はデジタルツールやメディアを通じて必要なものをより多く学ぶようになるため、生徒の学習において学校がどのような役割を果たしてきたかを正確に知ることはますます困難になる。(p247)

私が提案した4つの変化のテーマをフィンランドで実現するために必要なのは、単なる教育改革ではなく、新しい大きな夢に向かって一歩一歩進んでいく、教育と学習の継続的かつ体系的な変革でである。フィンランドには、それを実現するために必要なものがある。それには、教育の変化における新しいグローバルなパートナーシップとリーダーシップが必要である。フィンランドからの重要な教訓は、卓越した教育へのさまざまな道筋があるが、これらの道は、前の章で論じた世界的な教育改革運動とは異なる。生産性の改善と効率の向上という手段は、財政上の節約とおそらく一時的に優れたサービスにつながる可能性もあるが、(中略)予算の縮小は、新しいものへの同時投資がない限り、持続可能な改善を生み出すことはない。フィンランドの経済と社会一般の予測は、教育と経済発展の両方で新しいアイデアと革新をもたらし、伝統的にフィンランドの強力な教育パフォーマンスの推進力であった高水準の社会資本を維持するために、より多くの投資が必要であることを示唆している。(p249)

デューイは、教師から伝えられた情報ではなく、生徒自身の経験を理解へのクリティカルパスと見なしていた。デューイはまた、他の自由社会と同じように、民主主義が各学校の主要な価値でなければならないと主張した。フィンランドの教育システムは、(中略)デューイのこれらのアイデアによって形作られ、実用性、創造性、常識のフィンランドの原則で味付けされている。(p.250)

フィンランド人にとって、パーソナライズとは、学生がコンピューター端末で独立して作業することではない。フィンランドの方法は、柔軟な取り決めとさまざまな学習パスで各子供のニーズに対応することである。フィンランドの教育の知恵は単純で、教師の仕事は、生徒が最善を尽くすのを助けることである。(中略)フィンランドの方法は、対立ではなく、教師とのコラボレーションがより良い結果へ導く道であることを明確にしている。証拠は明らかで、そして今後の道もそうあるべきである。(p.250-251)

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